月曜日, 1月 02, 2012
金曜日, 12月 30, 2011
土曜日, 12月 24, 2011
ポン酢の美味しい食べ方(後編)
どうしてもメインになれないポン酢。
そんなポン酢の窮状を救う「ポン酢メインの料理」を紹介しよう。
これは、ここ、北九州で、まさに今、旬を迎えているフグ、それも"てっさ"だ。
(武田鉄矢風に)
はーい、みんなー、(手を叩きながら)、ざわざわしなーい。
いいですかぁ、ここからが重要ですぅ。
ここからがキモ(フグだけに)ですぅ。
ちなみに、今の今まで知らなかったが、「てっさ」はフグの刺身、「てっちり」はフグの鍋なのだそうだ。
で、それぞれ「鉄刺身」「鉄ちり鍋」が縮んだものらしい。
その名付け親である大阪は、国内フグ消費量の6割を消費するのだという。
大阪人はふぐが好きなのだ。
ちなみにのちなみに、縮むといえば、人生最高体重を謳歌している僕は、セーターに限らず、下着からコートまで全ての衣類が縮んでいるのだけど、それは別の話だ。
話を戻す。
この「てっさ」。
世の中的には「高級料理」「聞いた時、ちょっとハイな気分になる料理」「聞いた時、財布の中身が気になる料理」、、
とされているのかもしれないが、これが、実は、「ポン酢を美味しく食べるための料理」なのだ。
(あくまで「てっさ」(刺身)の話です。)
そもそも、フグの人気というのは、希少とか旨さではない。ここ、勝手ながらキッパリ言い切らせて貰う。
フグの人気は「毒」に起因する珍味的価値なのだ。これも勝手ながら断定させて頂く。
免許を持つ料理人でなければさばけない、うえに、イワシのようには採れた事がないから適度な希少性が維持され、魚全般に言える鮮度の問題から、下関界隈で食べると美味い、とか、そんな事から人気なのだろう。
(実際には、"フグに特化した加工工場"が下関に集中しているのだそうだ。)
で、この「てっさ」の旨さを、この辺りの出身の同僚(約3名)に聞いてみた。
このあたり、北九州市内のスーパーでも、この時期は普通にふぐ刺しが売られている。
さほど高い値段ではない。
そして、その地元のおっさん達の回答は、驚愕のものだった。
A.「よくわからん」
B.「さほど食べたいと思わん」
C.「結局、ポン酢と紅葉おろしで決まる」
そうだ。その、どれも共感できた。
頑張って頑張ってポジティブに表現した所で、結局、フグの刺身は「歯ざわり」以外にフグの味というものは限りなく無に近いのだ。
臭みがないとも言える。
フグの身になって考えて欲しい。
食われないための戦略はそんなにたくさんあるわけではない。
1.食べにくい形の身体になる。
2.食べても不味い体になる
3.ちょっとぐらい食べられても気が付かないぐらい、名前を覚えられないぐらいたくさんの子供を擁し大家族を構成する
4.誰にも出会わないような場所で暮らす
5.祈る
そう、フグは2をメインに選択した。しかも、不味いどころか、「毒」を体内に用意した。
2の完成形だ。
食えるものなら食ってみろ精神旺盛なのだ。
不味い上に毒まで用意したのが彼らの選択なのだ。
しかし、毒生成に進化の力の全てを集中してしまった。
毒の生成は、それはそれは大変な進化なのだ。その毒に自分がやられないように進化しなければならないのだ。
そんなこんなで、フグは、自身の身を不味くする方は中途半端な結果となった。
不味いと言うより、単に味が無いという結果に至ったのだ。
毒+不味い身、なら、スーパーフグだったんだけどなー。
これでわかっていただけただろうか。
「てっさ」は、フグの身の味を味わうものではない。
味わうというのは、「味があって」ナンボだ。
あくまで「てっさ」はフグの身の歯ごたえを、とか、風味をとか、いろいろ世間では言われてきたがどれも、支払った額に対する言い訳なのだ。
「あんなに支払ったのだから、美味かったに違いない」
そう思いたい。人間はそういう可愛い愚かさを持ってるのだ。
プチ情報だが、自分が食べたいかどうか、値段に惑わされずに考えたいなら、
「最後の晩餐に食べたいのか?」
と、自問自答すれば良い事が多い。
ということで、「てっさ」は、実は、ポン酢そのものを味わうための食べ物、なのだ。
試しに、てっさに何も付けずに一口食べる。味わってみるがよくわからない。
次にてっさにポン酢と薬味を付けて食べる。
。。。美味い。
だから、「ポン酢を味わうならてっさ」が真実なのだ。
正確にメニューにすれば、本日のメインディッシュは、「ポン酢のテッサ和え」なわけだ。
ということで、この時期、東京からエライ人が出張でやってくると、「せっかくだから本場のてっさを」などとヌカスのだけど、本当に迷惑だし無意味だからやめていただきたい。
迎え入れる我々は、ポン酢を味わうために度重なる出費を強いられるのだ。
せいぜい、ポン酢に紅葉おろしを味わうぐらいだ。あと、アサツキか。
「ポン酢のてっさ和え」なのだから、適正料金はポン酢代金+αであるべきだ。
それなら、エライ人の要望にも、「どうぞどうぞ、どんぶり一杯好きなだけお食べ下さい」と応えられる。
が、あの値段だ。
いっそ、ロッテ(LOTTE)に「新感覚ガムてっさ」(無味超薄)とかを作っていただきたい。
あるいは、マンナンライフに「新感覚コリコリこんにゃく、てっさ風」(無味超薄)が良いかもしれない。
これなら、飽きるまでポン酢や薬味の味を楽しめそうだ。
しかし歯牙無い(←"しがない"ってこういう字だったのか。。。)平サラリーマンは、エライ人の要望を満たすべく、ふぐ屋の予約に奔走するのでありました。
※ふぐを河豚と書くのは、「ブウ」と鳴くかららしい。
※何度も食べたことがあるわけではないが、白子に関しては美味い。と思う。
が、最後の晩餐に選ぶ気はない。
金曜日, 12月 23, 2011
ポン酢の美味しい食べ方(前編)
世間は冬である。
冬は暖かくなりたい。
ホカホカしたい。
ということで、鍋が脚光を浴びる季節だ。
鍋物、実は「手間が掛かっているところを自慢したい料理人およびカリスマ主婦協会」的には、ファーストフード扱いなのだけど、そんな事はおいといて、ポン酢の消費量もグググーンと伸びているはずだ。
そのポン酢に注目した料理があることに気がついた。
是非、ミツカンの次のCMに西田敏行でやってもらいたいものだ。
そもそも、ポン酢というのは、基本は脇役だ。
メインの食材を引き立てるのが彼らのミッションだ。
Wikipediaにも「和食の調味料」と書いてある。あくまで調味料なのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E9%85%A2
湯豆腐に、鍋に、しゃぶしゃぶサラダに、なんだったら炒め物や和え物などにも使えるのだ。
だが、所詮ポン酢だ。
調味料の域を超えられないのだ。
「本日の日替わり定食はポン酢定食です」
「メインディッシュはポン酢の鉄板焼きです」
「ポン酢丸焼き」
「ポン酢サンド」
というわけにはいかない。
ポン酢の限界なのか、と勝手に某ミツカンの社員になったような気持ちで、限界を感じていた。
「ごめんなさい。一生、脇役で居させてください」と謝ろうとしていた、まさにその瞬間に閃いた。
実は隠れた「ポン酢メインの料理」が世の中にはあったのだ。
あの有名料理、実は「ポン酢が主役」だったのだ。
目からウロコ、豚に真珠、タンスにゴン、なのだ。
それにしても、前置きが長い。その前置きに恥じない発表をこれからしたい。
と思ったが、今日はここまで。次回に続く。
火曜日, 9月 27, 2011
尻に憑かれた男(ブラジル映画)
ブラジル映画である。他に何かブラジル映画を思い返せるか!っと考えてみたら、古い映画で見たのがあった。
リオのカーニバルが舞台の、「黒いオルフェ」がそれだ。
「黒いオルフェ」以来の、遂に我が家にやってきたブラジル映画が「尻に憑かれた男」だ。
と、そんな感動があったわけではない。
パッケージ写真の尻に惹かれただけで、ブラジル映画だと知ったのは、そのだいぶ後だ。
ただただ、「尻に憑かれた男」というタイトルに惹かれただけで借りてしまった。
(正直に言えば、4本借りる時に1本、この手のセクシー系を併せて借りる確率は高い。)
物語は、行きつけのカフェの店員のお尻に惹かれ、婚約を破棄し、仕事もそぞろになり、結果、自ら招いた事件に巻き込まれて死んでしまう男の話だ。
こういうのを演歌だったら哀歌とかいうのかもしれない。
哀歌を知らないから正しいかどうかもわからないが、そんな感じだ。
映画を見終えた時の満足度もたいしたことはない。
エンドロールを終えるまでも無く、さっさとプレーヤーの停止ボタンを押した。
ここのところの連休なんかで何本かDVDを借りて見たが、まぁ、これは中の下ぐらいの満足度だ。
でも、死に際に「中の中のDVDと尻男のどちらか一本を見せてあげる」と誰かに言われたら、迷わずこの映画を見せてくれ、とお願いする気がする。
いや、中の上を提示されてもこちらを選んでしまうかもしれない。
いやいや、上の映画を提示されても、結局、これを選んでしまうかもしれない。
だから、私の死に際に、この映画を差し出さないでおいてほしい。思い出させないでほしい。
痛切にそう感じる映画なのだ。
とにかく、惹かれる映画なのだ。
で、何に惹かれるのか、もう、丸二日ばかり考えているのだけど、何かに感動したわけでも、もう一度見てみたいわけでもなく、結局は、主人公の中年男が憑かれた尻が、いい尻だった、ということだけだ。
自分がそういう人だという自覚が無かったが、間違いない。尻好きだったのだ。
彼は、「この尻を見れば一週間何もせずに過ごせる」とカフェでカウンターの中の彼女の尻を見ながら呟く。
ついには、自分の目で見るに飽き足らず、目玉のオブジェを入手して、一緒に眺めるようになる。
自らの目で見ているのだが、気持ちは、オブジェの目を通して見ているのだ。
だからなんなのだ、いまいちピンとこないままストーリーはどんどん進んでいく。
目玉の親父を手に、カウンターの中で働く女性の尻を見つめる中年男。
うーむ。面白いシチュエーションではあるが、そんなシーンは、よーくよーく思い出さないと思い出せないぐらいだから、この映画の真骨頂ではない。
なのに、この、どうでも良い映画に惹かれている、この気持ちは、一週間ぐらい続くと確信できるのだから不思議だ。
もう一度言うが、感動も、もう一度見たい気も無いのに、この映画に惹かれている実感は続いているのだ。
気がつくと、あの主人公と同じように、「あの尻を思い出せば一週間何もせずに過ごせる」と呟いているのだ。
そういう意味で、このブラジル映画、なかなか恐るべしである。
「尻に憑かれた男」を観て、「「尻に憑かれた男」の映画中の尻に憑かれた男」になってしまっているではないか。
そういうわけで、一週間後にもう一度この映画を観てしまいそうな、いや、もう一度あの尻を見てしまいそうな、そんな自分に気がつかされる不思議な映画なのでした。
きっとこれは、たまにある、グルメ番組で紹介された何かしらを食べたくなる、そんな現象か。だとしたら、この映画は素晴らしい出来であることは間違いない。なぜなら、グルメ番組で紹介された何かしらを食べたくなるような事は、意外に少ないのだから。
※はみ出し
ネットの映画評を見ると、割と、芸術的な視点で評価が高いようです。
うーむ、だとすると、僕は、しょうもないスケベニンゲンではなく芸術がわかる男、ということになる!?
日曜日, 8月 14, 2011
新しい伝承の形
盛岡に古くからある「修道院ガレット」。
修道女達の高齢化に、存続を危ぶむ声もあった。
意外にこのお菓子づくりは力仕事なのだ。
彼女たちは、少なからず地元に愛されるこのお菓子の存続を、その辺りのお菓子やさんには託さなかった。
ビジネス以前に、このお菓子作りに心を込められる人に託そうとした。
何年も何十年も守りぬいた味も品質も持続できる人達に託そうとしたのだ。
そしてそれは、ハンディキャップの人達のための作業所に託された。
彼らは、もとよりそんな経験はない。
同じように作れるようになるまで、気の遠くなるような日々が続いた。
何度も何度もチャレンジが続いた。
そして、ある日、ようやく今までと同じガレットが作れるようになった。
昔ながらの製法は、受け継がれ、昔から変わらぬ素朴な味を今も楽しめる。
洒落たパッケージにもならず、値段も変わらず、置いてある店も変わらない。
ややこしい権利や法律で守るより、作るものの気持ちを伝承する、こんな方法は、意外に、企業化よりも持続可能性は高いかもしれない。
盛岡の昔からのデパートで売ってます
日曜日, 8月 07, 2011
火曜日, 4月 05, 2011
○子にキス そして大火傷 まだ痛む
そうなんです。大人のヤケドです。
かれこれ、一週間ほど前でしょうか。
出張で横浜に滞在していた時のことです。
都会の夜で、一瞬の心の隙に、、、今も、痛む心と体。
もう二度と同じ思いはしたくないから、今、ここに書き残します。
その日の宿は、横浜でした。
いつもであれば、通い慣れた店で夕飯を頂くのですが、言うまでもない最近の関東地域の抜き差しならない状況は横浜でも顕著で、なぜだか私の行きつけの店に限って臨時休業なのです。
それは横浜だからこその本格的な中華料理店。
行きつけメインの店は休業。ならばサブの店も、と、この、なんの関係もない両店が揃って臨時休業。
理由は不明ですが、恐らく、彼らの母国から避難勧告が出ているからだと思います。
そんなわけで、その日は、気にはなっていたけど機会がなかった店、に入ってみました。
そんなアクシデントから新たな出会いがあるものです。
それが都会の夜、大人の都会の夜というものなのでしょう。
そのお店は、「刀削麺」「四川」の、僕的ツボのキーワードが網羅された店です。
そして、店に入ると、カタコトの日本語。これもツボです。
よしよし。
そして、出張中のオヤジとしてはやらなければならない行動の一つ、「普段は一人で酒なんか飲まないけど、出張中なら一人でビールのんだりしちゃうんだぞー」を実践しました。
生ビールを頼みます。お、お得なセットメニューがあります。
よくある、晩酌セット的なやつです。これを頼みます。
まずはビールが登場。
ビールジョッキをガッと口に運び、いつも自分に課している1ゴク2ゴク・・・10ゴクを完遂。
素晴らしい達成感。
今のこの10ゴクの勇姿は、技術点・芸術点共に世界最高レベルだったに違いありません。
そんな自分の姿にうっとりしながらビールを飲み進めます。
待ち人はなかなか来ないものです。
ビールが終わりかけた頃、ようやく登場です。
とてもグラマーでリッチで水々しく若々しい一品。
そうかそうか、小麦色の君は僕のような日本人向けの子なんだね。
(大陸のかの国では肌を大切にしてなのか、焼かずに茹でるのがスタンダード)
小皿に醤油とこの店自家製のラー油をたっぷり注ぎます。
箸の先で、小麦色の子を摘みます。
平らな部分の小麦っぷりと対照的に、プニプニ膨らんだ部分の白さは際立っています。
もう、堪りません。
いい大人、優しい大人、わきまえた大人、紳士的な大人、焦らない大人、そんな大人が一気に我を忘れてしまいます。
もう、鼻の下は限界まで伸びきっています。
プルンプルン震える子は箸の先から逃れようとするも、40数年間の箸さばきに、赤子同然の子は逃れるべくもなく、、、、
ついに、僕は大人であることを忘れ、ンーっと突き出した自分の唇の先でその子を捉えます。
半分ほど口に入れ、パクッと二分割にするのが僕の流儀。
二分割にすることで、後半分は、もう一度、ラー油たっぷりの醤油を付け、楽しめるからです。
今まさに開ききった僕の餃子二分割マシン、まるでホオジロザメが獲物を噛み切るかのごとく無情にも閉じられていきます。
前歯というのは、よく出来ていて、そこそこ熱いものでも難なく噛み切ることが出来ます。
そして、その後の「口」の構造もよく出来ていて、万万が一、とても熱いものだったとしても、今度は、口の中に急速に外気を吸入することで、熱さを緩和するという技術が備えられています。
そして僕は、その技術に関しては、もし外気吸入式口中熱回避技術国家資格なるものがあれば第一級間違いなしなのです。
おごれる人も久しからず
謙虚であれ
教育に飽和点無し
棚から牡丹餅
馬の耳に念仏
尊敬するのはフランシスコ・ザビエル
口周辺に無音のサイレンが鳴り響きます。
超熱い感じ。確かに熱い。間違いなく熱い。。。が、いつもと違う。何かが違う。
その0.42秒後、僕は、その二分割されつつある餃子の前半部分を咥えながら、少なくとも外気吸入式ナンタラの技術が適用できないという事実を受け入れざるをえないと考え始めました。
何故なら、二分割にすべく咥えた餃子の中から、□★●※(自主規制)に匹敵にする高温に熱せられた汁が、あろうことか、口の中にではなく、口の外側上下、そう、僕のグラマラスでキュートだと評判の唇の上下先端部分に溢れ出たのです。
僕の脳は一気にフル回転を始め対処方法を瞬時にリストアップします。
a.残り後半分も含め口の中に放り込む
b.全て一旦口から離す
c.いつも通りに分割のまま食す
d.その状態で冷たいものを口に含む
e.特に何もせず被害状況を判断した上で適切な処置を施す
aは少なくとも唇外側の被害には何ら改善の点が見当たらない
b、cも同様
d、、、、さっきゴクゴクし過ぎたため既にビールが空。。。その上、お冷が出でない。
ということで、昭和生まれの大人らしく、ここは、額を流れ落ちる冷や汗、いや熱い汗を感じながらも何事もなかったかのような表情で後半分を口から離し、前半分を咀嚼する。
悔しいのは、超熱かったはずなのに、その汁達は、既に僕の唇に熱を伝達し、テーブルに染みを残し、何滴かズボンに香りと共に吸収され、もう口に入った分は外気吸入式ナンタラ技術を駆使するまでもない温かいだけの肉の塊となっていたのでした。
次の日、雛人形の口紅の如く上下唇の中心だけが真っ赤な部分に視線が集まるのを気にしつつ、視線が四川料理の火傷に集まる、なんて事を考えながら、何事もなかったかのように出張先での仕事を終えたのでした。
あれから数日、何度か唇の表皮が生まれ変わり、かさぶた状になり、今も、かさぶたの切れ目から血が滲み風が沁みる度に、避難勧告に従い遠く四川へ非難しているであろう行きつけの店の人達の顔を思い出すのでありました。
お願いだから、早く、帰ってきてね。
土曜日, 12月 25, 2010
オープンソース+コーラ=オープンコーラ
人類の知の共有で最も進んでいるのが料理のレシピ。だと思う。
今や、世界中のどこに行っても日本食が食べられたり、インドのカレーが日本で独自の変化を遂げ日本のカレーとして逆輸出されたり、アメリカ西海岸で発見された寿司ネタとしてのアボガドが日本に逆輸入されたり。
未だ紛争を止められない人類だけど、料理に関しては、理想的な歴史を刻み続けている気がします。素晴らしい。
以前、まだ自炊を始めたばかりの頃、東京で毎日電車通勤をしていた頃は、その日の夜に食べたいもののレシピを携帯で検索していた。
レシピの素晴らしいのは、たとえ調理に時間がかかるとしても、主要な手間の部分だけ抜き出して書いてあるので、超短時間で概要がわかるということだ。
一方で、概要はわかるものの、自炊を始めたばかりの中年男にとっては、そもそも基本が分かっていないので困ることも少なくなかった。
粗みじんって、何?とか、(みじんと粗みじんの違いがわからない)
三杯酢でって、何?とか、(お酢を三杯、ではない)
湯通しって、何?とか、(蛇口のお湯の下を通すわけではない)
素揚げって、何?とか、(空に揚げるわけではない)
、、、
初めこそ用語を調べてみたりしたのだけど、直ぐに、もっと良い方法に辿り着いた。
それは、今夜は肉じゃがを食べたい、だったら、「肉じゃが レシピ」で検索して、トップ3、三種類のレシピを読むのだ。
そうすると、ちょうど勤務先の最寄りの駅に近づく辺りで三つないしは四つのレシピを読み終え、レシピ毎に微妙に異なる、粗みじんとみじんの違いや、三杯酢の作り方まで書いてある(肉じゃがでは使わないが)レシピなどのお陰で、すんなり頭の中に公約数的レシピが収まるのだ。
著作権に煩くない(出版されているレシピは知らないが)レシピ共有文化に感動すら覚えていた。
で、本題。
「オープン・コーラ」の話。
コカ・コーラ社がレシピを超企業秘密として取り扱っているのは有名な話だが、フリー・ソフトウェアの考え方を用いて、コーラのレシピをオープンソースとして公開し、改訂を続けた結果、商品として成立している、というのが「オープン・コーラ」だ。
ちょうど、Microsoft社がWindowsのソース・コードを公開せずに、バグを放置したまま販売している一方で、同じ機能・目的を果たせるLinuxが製品として使えるものになっている、という話と、まぁ、同じようなことだ。
「オープン・コーラ」はカナダで販売されているそうだ。
是非、飲んでみたいものだ。誰か、奇特な人が私に送ってくれないものか。
(オープンでなかったために幻となってしまったtabclearの缶に似ているところもお気に入りだ)
月曜日, 12月 20, 2010
朝の「本当の」一服
※以下の話題は、あなたにとって健康上の害を高める可能性がある内容を含みます、が、一生死なずに済む度合いは変わりません※
朝、起きる。とりあえず、お湯を沸かす。そして、朝食の支度(支度というほどの支度ではない)を始める。
その辺りでタバコを一服する。
本来であれば、これが、目覚めの一服となる。
が、どうも、朝起きてから会社に行くまでの短時間の間の一服は、一服のようでどこか嘘っぽい一服だということに気がついた。
なぜなら、実際にはこうだ。
バタバタと出社。席に着く。
始業のベルが鳴る。
先生は入ってこないし、教室のドアに黒板消しが挟まれてもいないし、そもそも教室じゃないけど、起立する。←今はそーゆー環境で仕事している。
起立したら、他の事を考えながら決められた文章に合わせて口をモゴモゴ動かすラジオ体操的な事をする。昭和的唱和。
着席する。
バタバタとなにかしら仕事のようなことをする。
そうして、ようやく一息く時間、平均9時45分頃となる。
そこでの一服が、間違いなくその日初めてニコチン物質が血液に到達し体中を循環することを実感できる時だ。
要するに、朝起きた後の一服はクラクラする感覚がないが、平均9時45分頃の一服はタバコ特有のクラクラ感がある、ということだ。
その後は、終日、クラクラ感なしの一服にしかならない。
ということは、朝起きた後家を出るまでの何本か(多分、朝食前後で二本ぐらい吸っていると思う)は、なんか、無駄な一服になっている気がしてならない。
あの、その日最初の一本にのみに許されるべきクラクラ感が、実際には、その日三本目辺りに許されているのは、どこか、許されない事態だ。
多分、血流の問題なのかな。朝、運動をしてから一本吸えばクラクラ感が味わえるのだろうか。
でも、朝、目を覚ますために吸っているのに、その前に運動するとなると、目を覚ますために何をしたらいいのか、で困ってしまう。
そんなことに気がついたのでした。
ちなみにこのクラクラ感、何時間か長い時間タバコを吸わずに吸ったときに顕著に感じることができる。
以前、願掛けで10日間ほどタバコを吸わなかったことがあった。
その願掛けが実らず、失意の中で吸った10日振りのタバコは凄かった。
外で立ってる状態で吸ったんだけど、クラクラ感MAX、地面に接触している自分の足の裏を中心に地球が回っているような感覚だった。
さすがにその時は、これは天然モノの薬物だ!こんなものを吸っていて、普段は何ともならないなんて、どんだけ僕の身体は凄いんだ、普段の僕の身体は無敵モードか、などと感動していたのだけど、次に吸った二本目では、クラクラMAX感は消えていた。残念だった。
それが忘れられなくて、しばらく、感覚を空けて吸うようにしてみたんだけど、24時間以上空けてもそこまでの感覚には至らない。
せいぜい、前述のプチクラクラ感、プチクラ感どまりだ。
そんなんで満足する今日このごろなのでした。
※はみ出し
その天然モノ薬物に関する注意書きをまとめたサイト。四種類あるらしい。
http://popdragon.seesaa.net/article/5039747.html
※※はみ出しパート2
世界中のその手の注意書きをまとめたサイト。
http://muen.cool.ne.jp/q_and_a/q10_2.htm
朝、起きる。とりあえず、お湯を沸かす。そして、朝食の支度(支度というほどの支度ではない)を始める。
その辺りでタバコを一服する。
本来であれば、これが、目覚めの一服となる。
が、どうも、朝起きてから会社に行くまでの短時間の間の一服は、一服のようでどこか嘘っぽい一服だということに気がついた。
なぜなら、実際にはこうだ。
バタバタと出社。席に着く。
始業のベルが鳴る。
先生は入ってこないし、教室のドアに黒板消しが挟まれてもいないし、そもそも教室じゃないけど、起立する。←今はそーゆー環境で仕事している。
起立したら、他の事を考えながら決められた文章に合わせて口をモゴモゴ動かすラジオ体操的な事をする。昭和的唱和。
着席する。
バタバタとなにかしら仕事のようなことをする。
そうして、ようやく一息く時間、平均9時45分頃となる。
そこでの一服が、間違いなくその日初めてニコチン物質が血液に到達し体中を循環することを実感できる時だ。
要するに、朝起きた後の一服はクラクラする感覚がないが、平均9時45分頃の一服はタバコ特有のクラクラ感がある、ということだ。
その後は、終日、クラクラ感なしの一服にしかならない。
ということは、朝起きた後家を出るまでの何本か(多分、朝食前後で二本ぐらい吸っていると思う)は、なんか、無駄な一服になっている気がしてならない。
あの、その日最初の一本にのみに許されるべきクラクラ感が、実際には、その日三本目辺りに許されているのは、どこか、許されない事態だ。
多分、血流の問題なのかな。朝、運動をしてから一本吸えばクラクラ感が味わえるのだろうか。
でも、朝、目を覚ますために吸っているのに、その前に運動するとなると、目を覚ますために何をしたらいいのか、で困ってしまう。
そんなことに気がついたのでした。
ちなみにこのクラクラ感、何時間か長い時間タバコを吸わずに吸ったときに顕著に感じることができる。
以前、願掛けで10日間ほどタバコを吸わなかったことがあった。
その願掛けが実らず、失意の中で吸った10日振りのタバコは凄かった。
外で立ってる状態で吸ったんだけど、クラクラ感MAX、地面に接触している自分の足の裏を中心に地球が回っているような感覚だった。
さすがにその時は、これは天然モノの薬物だ!こんなものを吸っていて、普段は何ともならないなんて、どんだけ僕の身体は凄いんだ、普段の僕の身体は無敵モードか、などと感動していたのだけど、次に吸った二本目では、クラクラMAX感は消えていた。残念だった。
それが忘れられなくて、しばらく、感覚を空けて吸うようにしてみたんだけど、24時間以上空けてもそこまでの感覚には至らない。
せいぜい、前述のプチクラクラ感、プチクラ感どまりだ。
そんなんで満足する今日このごろなのでした。
※はみ出し
その天然モノ薬物に関する注意書きをまとめたサイト。四種類あるらしい。
http://popdragon.seesaa.net/article/5039747.html
※※はみ出しパート2
世界中のその手の注意書きをまとめたサイト。
http://muen.cool.ne.jp/q_and_a/q10_2.htm
水曜日, 12月 15, 2010
ティーバッグの紅茶の作り方
オノ・ヨーコが亡きジョン・レノンとの思い出でジョンが「ティーバッグを入れてからお湯を注ぐと思っていた」という話を語ったことがニュースになっていた。
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120901000308.html
ほー。僕もずっとそうだと思っていたが、正しくはお湯を注いでから、そのお湯にトポッとティーバッグを落とすのが正しいのだそうだ。
インスタントコーヒーやカップスープ、チキンラーメンだってなんだって先に具や粉を入れ、だから、レアな後乗せ系のモノは、「後乗せだよー」をやたら強調しているわけで、だったら、ティーバッグにも「後入れマーク」を書いていて欲しいものだ。
で、書いておきたいのは「後入れマーク」の話でも「あ、トイレ!まぁ君」の話でもない。こんな話題がニュースになったこと、そのものの話。
今年はジョン・レノン没後30年なのだそうだ。
最近では、昨日のことも直ぐに忘れるというのに、30年前の、あの日の事はよく覚えている。
盛岡ではチラホラ雪が舞っていた。
朝7:00のNHKニュースで知った。
ジョン・レノンの訃報のニュースなのに、何故か映像はLetItBeを唄うポールの姿だった。
あの頃、所謂、スターのおふざけジョークの一つとして、「嘘の訃報を流す」事は"あり得る"事だった。オールナイトニッポンなんて、何度、その手の訃報を流すジョークをやったことか。
僕はその朝、ちょっとマヌケなNHKのニュースを見て、嘘だと思っていた。
スターの気まぐれに付き合わされる国営放送のアナウンサーを気の毒にすら思った。
ちょうど、ジョンの何年か振りのニューアルバムがリリースされたばかりだった。
お葬式の合図にも思えなくもないトライアングル?で始まる曲「Starting Over」がリリースされた後でもあり、ラジオや街のレコード店で耳にすることも多かった。まさしくプロモーションのように思えたのだ。
学校でも、友人とそんな話をして、夜に帰宅して続報を目にしてようやく死んだのだと納得した。
知ってる人でもなければ、1枚か2枚レコードを持ってるぐらいでBeatlesが一番というわけでもない、多分、単なる洋楽(しかもハードロック)好きな高校生でしか無かった僕だったのだけど、まるで、仲良くしてもらっていた親戚の叔父さんが亡くなったような気分になった。
10代のあの頃、人の死を、今以上に理解できていなかったけど、少なくとも、もう、悪いジョークも新曲も生まれないのだけは、とても個人的な損失に感じられたのでした。
その後、お小遣いを叩いてアルバムを手に入れ、イントロの鐘の音を何度も聞くことになったわけだけど、同じアルバムに収録されていたオノ・ヨーコの曲「キス・キス・キス」の悩ましい声「抱いてぇ」にしばらく別の意味で悩まされたのでした。
水曜日, 10月 06, 2010
火曜日, 10月 05, 2010
登録:
投稿 (Atom)










