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火曜日, 10月 13, 2015
金曜日, 5月 04, 2012
ムラ社会
国内総崩れの製造業電気関連メーカーにあって、唯一と言っても良い成績の日立。
僕にとって、とてもわかりやすい、「そうそう、そういうこと!」っていう記事があった。
ソースはこちら http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/10914/
「日本人男性の均質的な考え方でガバナンスをやっていたのではだめだ」by日立の会長さん
一流企業の会長さんなので、紳士的に「均質的な考え方」と言っているが、ここは僕が非紳士的に言い換えてみよう。
・仕事ができても個性的な奴は認めない、という考え方
だって、努めて均質的に振る舞ってきて大○○の重役になった私がアホみたいじゃないか。
・仕事ができてもバカな奴は認めない、という考え方
上には良い話だけアピールすればいいんだよ。
会議でマトモな意見なんかしやがって。みんな困ってただろう。会議は意見なんかをする場じゃないんだよ。
ま、そんな感じだろう。
もうひとつ、日立の会長さんは良い事を言っている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」by日立の会長さん
これも下品に言い替えさせてもらう。
・記録的大赤字の年も記録的好業績の年も残業時間は変わらない
ちなみに、ソース元の記事はこのように結ばれている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」と指摘。「外国の人を連れてきて働かせようとするときに困る」
均質的な考え方は、そうやって、個性的な人はもちろん、ハンディキャップを持ってる人、女性や外国の人も排除しやいすわけだ。
そういえば原子力村、というムラもどこまでも学習できずにいるようだ。
でも、普通の会社は、青天井で税金をつぎ込めないので、どこかでムラから脱却しなければならない。
それとも、脱却しないまま中国とかの会社に吸収されるか、なんだろう。
均質的な考え方は、「考えなくていい」という一種の楽チンを産み出す。
でもそれは、考えなくていい、ではなく、考えない人間になるということ。
いい加減に先の大戦での日本を繰り返して欲しくないなぁ。
ソースはこちら http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/10914/
「日本人男性の均質的な考え方でガバナンスをやっていたのではだめだ」by日立の会長さん
一流企業の会長さんなので、紳士的に「均質的な考え方」と言っているが、ここは僕が非紳士的に言い換えてみよう。
・仕事ができても個性的な奴は認めない、という考え方
だって、努めて均質的に振る舞ってきて大○○の重役になった私がアホみたいじゃないか。
・仕事ができてもバカな奴は認めない、という考え方
上には良い話だけアピールすればいいんだよ。
会議でマトモな意見なんかしやがって。みんな困ってただろう。会議は意見なんかをする場じゃないんだよ。
ま、そんな感じだろう。
もうひとつ、日立の会長さんは良い事を言っている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」by日立の会長さん
これも下品に言い替えさせてもらう。
・記録的大赤字の年も記録的好業績の年も残業時間は変わらない
ちなみに、ソース元の記事はこのように結ばれている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」と指摘。「外国の人を連れてきて働かせようとするときに困る」
均質的な考え方は、そうやって、個性的な人はもちろん、ハンディキャップを持ってる人、女性や外国の人も排除しやいすわけだ。
そういえば原子力村、というムラもどこまでも学習できずにいるようだ。
でも、普通の会社は、青天井で税金をつぎ込めないので、どこかでムラから脱却しなければならない。
それとも、脱却しないまま中国とかの会社に吸収されるか、なんだろう。
均質的な考え方は、「考えなくていい」という一種の楽チンを産み出す。
でもそれは、考えなくていい、ではなく、考えない人間になるということ。
いい加減に先の大戦での日本を繰り返して欲しくないなぁ。
木曜日, 4月 19, 2012
とりあえず今年一番の映画(プレゼン含む)
ここのところハマっているTED。
TEDのサイトには日本語翻訳されたものも多数紹介されいていて、ここを見ているだけで何日も過ごせそうなほどだ。
二時間もかけてハリウッド映画を観てガッカリするぐらいなら、10分足らずのTEDを見たほうがよほど面白い。
面白いだけにとどまらず感動するプレゼンも多いのだ。
そんな中で先日テレビで紹介された感動するなプレゼンがこれ。
なぜ、このプレゼンはこれほど感動を呼ぶのだろう。
その理由を考えてみた。
・ムーブメントが実際に起きているところを見せられていること
・説明が平易で判りやすいこと
まず、この2つはプレゼンの出来としても欠かせない理由だろう。
さらに、
・僕の興味範囲にマッチしていること
は当然重要だろう。
まだ見逃せない理由がある。
・ムーブメントのきっかけを起こした一人目を「変わった人」と紹介し、最初に踊りに加わった「二人目こそキー」だと紹介していること。
これは、僕にはリーダーシップの本質は「サポートする側」にこそ存在することを表しているように思えてならない。
一人目の"変人"が必ずしもリーダーシップがあるとは限らない。目立ちたいだけで踊り始めたかもしれない。
そして、「リーダーになっちゃうと変質する」人かもしれない。
一方、キーとなった二人目。
二人目は一人目の賛同者であることは間違いない。
二人目は周囲に楽しさをアピールしている。
二人目は「自分が一人目ではない」事を意に介していない。(だから二人目として踊り始めたのだ)
二人目は一人目がいなければ大人しく座り続けていたとおもわれる。
と、よくもまあ、勝手に解釈できるもんだと我ながら感心したのだけど、まぁ、そんなところだろう。
ピュアな一人目が周囲から冷ややかに見られる中で、「これは実は面白いじゃん」と、後押しする二人目こそが、ムーブメントをリードするのだろう。
二人目は、「人をサポートするリーダーシップ」からスタートしているわけだ。
振り返って日本的な社会(会社)。
ムーブメントは非常に起きにくい文化なのは否めない。
・まず、一人目(変人)が許容されない(されにくい)
・変人を支持する二人目も同様に許容されない(されにくい)
だから変人起点のムーブメントは起きにくい気がする。
結果、ジワジワと湧きでてくるような、自然発生的なムーブメントが多いのではないか?
都市伝説・口裂け女とか、そんなのしか思いつかない。←単に僕の知識がないだけだろうが。。。
少なくとも日本ではWindowsもGoogleもiPodもFacebookも産まれてはいない。
二人目をだいぶ持ち上げたが、もちろん、一人目の存在は重要だ。
一人目は言わば、アイデアマンだ。
他の人にない、時に変人呼ばわりされるほどのユニークな発想と行動。
こーゆー一人目の存在と、その発想を支持し、具現化に惜しみないサポートをする二人目(リーダー)。
こうやってムーブメントは起きていくのだろう。
アイデアマンを拒絶しない、包容力のある社会は素敵だ。
TEDのサイトには日本語翻訳されたものも多数紹介されいていて、ここを見ているだけで何日も過ごせそうなほどだ。
二時間もかけてハリウッド映画を観てガッカリするぐらいなら、10分足らずのTEDを見たほうがよほど面白い。
面白いだけにとどまらず感動するプレゼンも多いのだ。
そんな中で先日テレビで紹介された感動するなプレゼンがこれ。
なぜ、このプレゼンはこれほど感動を呼ぶのだろう。
その理由を考えてみた。
・ムーブメントが実際に起きているところを見せられていること
・説明が平易で判りやすいこと
まず、この2つはプレゼンの出来としても欠かせない理由だろう。
さらに、
・僕の興味範囲にマッチしていること
は当然重要だろう。
まだ見逃せない理由がある。
・ムーブメントのきっかけを起こした一人目を「変わった人」と紹介し、最初に踊りに加わった「二人目こそキー」だと紹介していること。
これは、僕にはリーダーシップの本質は「サポートする側」にこそ存在することを表しているように思えてならない。
一人目の"変人"が必ずしもリーダーシップがあるとは限らない。目立ちたいだけで踊り始めたかもしれない。
そして、「リーダーになっちゃうと変質する」人かもしれない。
一方、キーとなった二人目。
二人目は一人目の賛同者であることは間違いない。
二人目は周囲に楽しさをアピールしている。
二人目は「自分が一人目ではない」事を意に介していない。(だから二人目として踊り始めたのだ)
二人目は一人目がいなければ大人しく座り続けていたとおもわれる。
と、よくもまあ、勝手に解釈できるもんだと我ながら感心したのだけど、まぁ、そんなところだろう。
ピュアな一人目が周囲から冷ややかに見られる中で、「これは実は面白いじゃん」と、後押しする二人目こそが、ムーブメントをリードするのだろう。
二人目は、「人をサポートするリーダーシップ」からスタートしているわけだ。
振り返って日本的な社会(会社)。
ムーブメントは非常に起きにくい文化なのは否めない。
・まず、一人目(変人)が許容されない(されにくい)
・変人を支持する二人目も同様に許容されない(されにくい)
だから変人起点のムーブメントは起きにくい気がする。
結果、ジワジワと湧きでてくるような、自然発生的なムーブメントが多いのではないか?
都市伝説・口裂け女とか、そんなのしか思いつかない。←単に僕の知識がないだけだろうが。。。
少なくとも日本ではWindowsもGoogleもiPodもFacebookも産まれてはいない。
二人目をだいぶ持ち上げたが、もちろん、一人目の存在は重要だ。
一人目は言わば、アイデアマンだ。
他の人にない、時に変人呼ばわりされるほどのユニークな発想と行動。
こーゆー一人目の存在と、その発想を支持し、具現化に惜しみないサポートをする二人目(リーダー)。
こうやってムーブメントは起きていくのだろう。
アイデアマンを拒絶しない、包容力のある社会は素敵だ。
火曜日, 4月 10, 2012
内向的な人、外交的な人
随分前にTED(Technology, Entertainment, Design)サイトで見たプレゼン。
最近、たまたまもう一度見る機会があって、これは「一生もんだな」と思えるようになったプレゼン。
多分、前に見たときは、翻訳テロップが無かったのかいい加減に聞いていたんだろう。字幕って素晴らしい。
このプレゼン、外交的な性質を指して「あの人はリーダーシップがある」という世間一般の評価によって失われるものが多いという話。
そもそも外交的か内向的かという話と、リーダーに相応しいかどうか、は、関係ないのだ。世間(僕も含めて)は誤解しているのだ。
ところが人は、昔ながらのリーダーっぽいリーダーに、押し付けがましいと思いながらも安心感を感じることもある。
また、そんなリーダーは「概ね失敗」という経験も、もう、嫌というほど味わっている。
特に近年は惨憺たる状況だ。
なのに、未だにリーダーっぽいリーダーに安心感を感じているのは、単に、「リーダーっぽくない優秀なリーダー」を見聞きする機会が失われているからだろう。
平和な時代が続き、国や地方組織や企業が安定的拡大を続けた結果、「リーダーっぽくないリーダー」が台頭できる余地は殆どなくなっているように見える。
特に日本では顕著だ。
"国"という単位で考えた場合、政治家や官僚機構は国のリーダーシップの象徴だ。
そして、リーダーに相応しい学歴はもちろん、華々しい経歴や家柄は申し分ない。
しかし、尊敬できない。
子供にオススメの現存する政治家はいないのが現実だ。
※立派な、とか、影響力がある、とか、心の尊敬とは別の次元ではあるだろうが。
そんな事を考えさせるプレゼンなのだ。
と、同時に、自分の生き方や、自分が外交的なのか、外交的に見えるように振舞っているのか、を考えさせるプレゼンなのだ。
そんな世の中の傾向や、それによって失われている社会全体の損失を、とっても優しい言葉で、丁寧に、心に響く言葉で語るプレゼンがこれ。↓
うーん、TEDで、こんな普通っぽい人がプレゼンするのがイイ!
奇跡のチームワークやイノベーションは、そこに関与するすべてのメンバー一人一人がリーダーシップを担って実現する、ということには異論がない。
が、旧来からのリーダーっぽいリーダー達が、旧来のリーダーっぽさでリーダーを担っている限り、奇跡の瞬間は訪れない。
改めてサーバントリーダーシップ、しか答えはないと確信。
外交的な人がリーダーに向かない、という話ではない。
外交的であれ、内向的であれ、リーダーは「どう振る舞えば良いのか」という話だ。
世の中が、この価値観の共有に向かっていると信じたい。
最近、たまたまもう一度見る機会があって、これは「一生もんだな」と思えるようになったプレゼン。
多分、前に見たときは、翻訳テロップが無かったのかいい加減に聞いていたんだろう。字幕って素晴らしい。
このプレゼン、外交的な性質を指して「あの人はリーダーシップがある」という世間一般の評価によって失われるものが多いという話。
そもそも外交的か内向的かという話と、リーダーに相応しいかどうか、は、関係ないのだ。世間(僕も含めて)は誤解しているのだ。
ところが人は、昔ながらのリーダーっぽいリーダーに、押し付けがましいと思いながらも安心感を感じることもある。
また、そんなリーダーは「概ね失敗」という経験も、もう、嫌というほど味わっている。
特に近年は惨憺たる状況だ。
なのに、未だにリーダーっぽいリーダーに安心感を感じているのは、単に、「リーダーっぽくない優秀なリーダー」を見聞きする機会が失われているからだろう。
平和な時代が続き、国や地方組織や企業が安定的拡大を続けた結果、「リーダーっぽくないリーダー」が台頭できる余地は殆どなくなっているように見える。
特に日本では顕著だ。
"国"という単位で考えた場合、政治家や官僚機構は国のリーダーシップの象徴だ。
そして、リーダーに相応しい学歴はもちろん、華々しい経歴や家柄は申し分ない。
しかし、尊敬できない。
子供にオススメの現存する政治家はいないのが現実だ。
※立派な、とか、影響力がある、とか、心の尊敬とは別の次元ではあるだろうが。
そんな事を考えさせるプレゼンなのだ。
と、同時に、自分の生き方や、自分が外交的なのか、外交的に見えるように振舞っているのか、を考えさせるプレゼンなのだ。
そんな世の中の傾向や、それによって失われている社会全体の損失を、とっても優しい言葉で、丁寧に、心に響く言葉で語るプレゼンがこれ。↓
うーん、TEDで、こんな普通っぽい人がプレゼンするのがイイ!
奇跡のチームワークやイノベーションは、そこに関与するすべてのメンバー一人一人がリーダーシップを担って実現する、ということには異論がない。
が、旧来からのリーダーっぽいリーダー達が、旧来のリーダーっぽさでリーダーを担っている限り、奇跡の瞬間は訪れない。
改めてサーバントリーダーシップ、しか答えはないと確信。
外交的な人がリーダーに向かない、という話ではない。
外交的であれ、内向的であれ、リーダーは「どう振る舞えば良いのか」という話だ。
世の中が、この価値観の共有に向かっていると信じたい。
木曜日, 3月 08, 2012
パスカルのリーダーシップマネジメント論
【パスカルの名言】
カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
力なき正義は反抗を受ける。
なぜならは、つねに悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。
それゆえ正義と力を結合せねばならない。
↓
正義をリーダーシップに置き換える。
↓
【パスカルの名言・リーダーシップマネジメント版】
マネージャーが評価しない個々人のリーダーシップは何の成果ももたらさない。
リーダーシップのないマネージャーは地位の力のみで行動しパワハラをも厭わない。
むしろ、マネージャーが評価しない個々人のリーダーシップは潰される。
なぜならば、常に人は保身を考えるから個々人のリーダーシップは弾劾される。
それゆえ、個々人のリーダーシップをマネージャーは評価しなければならない。
なんかの本、多分ドラッカーだったと思う、に書いてあった、たくさんの事例を検証した結果「トップにその気がないとイノベーションは起きない」っていう話とも一致する。
なあんて、こういう言葉にすがりながら、自分の力量のなさの言い訳を考えてるわけだ。
そんな言い訳を与えてくれるパスカルっていうオジサンをWikipediaで調べて驚いた。
禁欲主義を貫き、食欲にかかわらず食事は決まった量しか食べない、性欲なんてトンデモナイ事で生涯独身、絵画などを壁に飾るのも"目を楽しませる"のでダメ、、
そんなの出来っこないじゃんって事はなく、なんと、内側に釘の出たベルトを身につけて、気の緩みを感じたら肘でベルトを突いて、その激痛で我に返る、ようにして生活していたそうだ。
うーん。今で言うなら、それってヘビメタ系の自傷行為だよなぁ。
パスカルさん、なんかトラウマでも抱えていたのかなぁ。
内側から出た腹を抑えるためにベルトを締め、
食欲を解放するためにベルトを緩め*、
ベルトにはそんな意味しか見いだせない、そんな僕も同じ人間なんだよなー。参りました。
*こういうとこに書けない不適切なベルトを緩める行為も含まれます
月曜日, 3月 05, 2012
対話の力(かなり強力)
以前、"対話を体験する"研修を体験したことがある。
一見すると利益相反する課題を抱える二者が、お互いの置かれた立場を理解し話し合うことで、相反する課題とされた事が見事にお互いの協力で解決できる、という研修。
この研修でも「対話」の持つ力を体験できたのだけど、そんなヤワな話ではなく、血で血を洗うような戦いのさなかに対話を始め、数年かけて一致団結できる所までを描いた映画を観た。
「Endgame」という映画。
南アフリカのアパルトヘイト廃止の道筋をつけた「対話」がテーマ。
マンデラが30年にも渡って収監されていた当時、秘密警察まで動員して圧政を続けるボタ政権と黒人の解放を訴えるANC(アフリカ民族会議)との対立は血で血を洗うような状況に陥っていた。
ここまでは、今も世界中あちこちで渦巻く対立の図と何ら変わらない。
出口の見えない、としか思えない中、イギリスの一人の民間人(南アに進出している英国企業の若手社員)マイケル・ヤングが、対立する二者の「対話」を取り持っていく。
誤解を恐れずに言ってみれば※、彼は、南アの安定を望むイギリスの会社のサラリーマンで、やったことは、それぞれの利益代表者間の対話の場をセットしただけだ。
※実際は、利益代表者の選出から自分を含めた関係者の身の安全、会議そのもののコーディネートと、縦横無尽の活躍をする。
そして、その対話は、敵対する二者が、お互いの置かれた状況を理解し、最後にはお互いを尊敬し合う関係へと発展していく。
そして、政権交代と共に訪れるアパルトヘイト廃止。
もちろん、マンデラとデクラークいう稀有なリーダーの存在に負うところも小さくない。
が、ある日突然トップが「相手を信じる」と言っても周りは付いていけない。
場合によっては数年にも渡る「対話」があってこその理解と信頼、そして、対話を通じて得た確信が必要不可欠だ。
その対話があったからこそ、大きな混乱なくアパルトヘイト廃止が実現されたのだろう。
ということで振り返って自分。
家庭を崩壊させないような「対話」を実践しなければならない、のだが、肝心の家庭が無い。
仕方ない。まずは自分との対話を心がけてみよう。か。
※以前観たアパルトヘイトを皮肉ったSF映画「第9地区」。これもエンドゲームと同じ2009年の作品。
火曜日, 2月 21, 2012
北九州に来て2年
タイトルとは関係なく、JALの会社更生法適用から2年。
JALが日本を代表する"経営者"稲森さんの元で見事な再生を果たしている。
株式再上場の話題すら出てきている。
就任して7年かけて赤字体質を定着させて10億円近い年俸を稼いでいたCEOの話とは大違いだ。
わずか2年なので当初の論評と合わせて読むと大変興味深い。
"意識改革"周辺の話題は特に興味深い。
●スタート時点
・ネガティブな見方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/216
・ニュートラルな見方
就任会見
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1002/02/news021.html
※これは今読むと凄い
●2年後
・フィロソフィーについて
http://president.jp/articles/-/5241
・アプローチ(幹部再生)について
http://media.yucasee.jp/posts/index/5133
・まとめ
http://diamond.jp/search/word/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB
僅か2年でも相当なことを成し遂げられるんだなぁ。
凄いぞJAL。僕自身はANA派なんだけどねー。
ANAも頑張れ!
(飛行機には乗る機会がないけどねー。)
金曜日, 2月 17, 2012
1800年奴隷貿易廃止、2001年エンロン崩壊
『アメイジング・グレイス』(原題: Amazing Grace)を観た。
その翌日、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』 (Enron: The Smartest Guys in the Room)を観た。
二つの映画の舞台は国も違えば200年もかけ離れた時代なのだけど、どちらも、今この時点でも学ぶべき点が多い映画だ。
例によってあらすじは→
アメイジング・グレイス
エンロン
僅か数年前のドキュメンタリー、エンロン。
ありとあらゆる、会計、経営指標、マスコミ対策、などなどのテクニックを駆使、そのテクニック自体がイノベーションとも言えるほど独創的なのだけど、肝心の実業部門は全くの大赤字。
全てのテクニックは、大赤字を隠すために創りだされたのだ。
要するに「詐欺」だ。
自社や関係会社の社員数万人を失業させ、詐欺と知っていながら関わった"同じ穴のムジナ"「証券会社」「監査法人」「法律事務所」なども事件が解明されるとともに多くがその事業を潰すこととなった。
そして、破綻発覚と時を同じくして経営陣の一人「経理責任者」が自殺(とされている)している。
一番ショックなのが、エンロンがM&Aを繰り返す中、堅実な電力工事事業を手がける会社を買収する話だ。
何十年もその会社で電力工事をする年配の作業員。日々トラックで現場を回って修理に追われている。
その電力工事会社がエンロンに吸収され、ほどなくして、エンロンは破綻する。
数十年、日々マジメにリアルに働いていた作業員。
彼の数十年の年金も積み立てていた退職金も吸収先の見知らぬ会社の不正で消えてしまう。
一方、エンロンの中枢にいた人の多くが破綻の匂いを嗅ぎつけると同時に、高額な退職金と共に会社を去ったり、自社株を売り抜けたり、とにかくケタ違い(数十億円、百億円を超す人も)の資産を築いているのだ。
その高額の収入・資産は、前述の現場の人達が数十年もかけて積み立てたものが含まれている。
一般的には、これは例外的な企業の話、とされている。
しかし、具体的に法を犯していないだけで、数年間の赤字を続けて高額の退職金を得て退任する社長の話なんてゴロゴロ転がっている。
今月退任を発表した名士ハワード・ストリンガーさんは、この7年間の年俸は8億円だったそうだ。
7年で数十億円の収入を得たわけだ。
そんな彼がこの7年間社長を務めたソニーの直近の4年間は赤字だ。昨年は2200億円の赤字だそうだ。
去年話題になったアメリカの自動車業界もそんな感じだった。
倒産寸前なのにプライベートジェットで税金投入をお願いに来ていた。
これはさすがにメディアに叩かれたけど、高額の報酬を返還したというニュースは聞かない。
プロジェクトマネジメントであれば、「与えられたリソース(人・モノ・金)」の制約の中で目的を達せなければならない。
が、社長業には、「前提を覆す(与えられたリソースを削る/増やす、目的を変更する)」権限が与えられ、その上、成果が出なくてクビになっても一生どころか何世代も安泰の報酬が支払われる。
先ほどのエンロンのM&Aに応じた電力工事会社の経営陣は、買収の結果一財産を築いたかもしれない。
悪意はなかったとは思うが、結果、社員の個人的資産をマネーロンダリングして自分の資産にしてしまったわけだ。
暴力で他人に金を出させる。
錯覚を利用して振り込ませる
投資と称して払わせる。
預貯金の管理団体(退職金積立や年金基金とか)ごと吸収して払わせる。
目に見える暴力がないだけ、迂回しているだけで何ら変わらない。
日本の"消えた年金"も構造は同じなんだろう。
。。。
200年前のドキュメンタリー、アメイジング・グレイス
エンロンを観る前日に、たまたま「アメイジング・グレイス」を観ていた。
これは、数百年続いた奴隷貿易廃止に貢献したウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いたものだ。
200年前のイギリス。
当時は正当な経済活動とされていた奴隷貿易を「人道に反する」として、その歴史を転換させた話。
ちなみに、有名な歌「アメイジング・グレイス」は賛美歌のメロディーに奴隷船の船長が自らの罪を悔いて歌詞を付けたものだそうだ。
当時の奴隷船は、長い航海中に拘束された奴隷たちの半分以上が航海中に死んで捨てられる事も少なくなかったという。
女性の奴隷は拘束したまま船員に暴行され、海が荒れると船を軽くする為に弱っている奴隷を捨てる、それが奴隷貿易の現場だったのだ。
。。。
現場を見れば、本質がわかる。
億万長者、の懐に入ったお金が何処からきたのか、がとてもとても重要だ。
今の時代、ましてや先進国で人道に反する社会なんてあり得ないと「無視」するのは簡単だ。
今の常識では、経済弱者と奴隷は違う、と感じるだろう。
でも、お金に魅入られた人達は、経済弱者から更にお金を吸い上げても全く気にしない。
その結果、現場で何が起きているかなど気にしてられない。
これは、奴隷貿易が当たり前だった時代に、奴隷とされた同じ人間を、家畜のように扱ったていた社会と大した差はない。
みんな何が起きているか、知らないふりをしているだけ。
100年か200年後、いや、数百年後かもしれないが、今常識とされるM&Aなど企業活動のあり方そのものが、
「人道に反する活動」
とされるかもしれない。
※人間は自分の置かれた環境次第で、どこまでも残虐になれるという心理テストがある。
が、一方で、どんな環境にも屈しない人達がいたおかげで、ほんの少しだけ進歩した現代社会があるんだなぁ。
↓この動画はとっても良い
その翌日、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』 (Enron: The Smartest Guys in the Room)を観た。
二つの映画の舞台は国も違えば200年もかけ離れた時代なのだけど、どちらも、今この時点でも学ぶべき点が多い映画だ。
例によってあらすじは→
アメイジング・グレイス
エンロン
僅か数年前のドキュメンタリー、エンロン。
ありとあらゆる、会計、経営指標、マスコミ対策、などなどのテクニックを駆使、そのテクニック自体がイノベーションとも言えるほど独創的なのだけど、肝心の実業部門は全くの大赤字。
全てのテクニックは、大赤字を隠すために創りだされたのだ。
要するに「詐欺」だ。
自社や関係会社の社員数万人を失業させ、詐欺と知っていながら関わった"同じ穴のムジナ"「証券会社」「監査法人」「法律事務所」なども事件が解明されるとともに多くがその事業を潰すこととなった。
そして、破綻発覚と時を同じくして経営陣の一人「経理責任者」が自殺(とされている)している。
一番ショックなのが、エンロンがM&Aを繰り返す中、堅実な電力工事事業を手がける会社を買収する話だ。
何十年もその会社で電力工事をする年配の作業員。日々トラックで現場を回って修理に追われている。
その電力工事会社がエンロンに吸収され、ほどなくして、エンロンは破綻する。
数十年、日々マジメにリアルに働いていた作業員。
彼の数十年の年金も積み立てていた退職金も吸収先の見知らぬ会社の不正で消えてしまう。
一方、エンロンの中枢にいた人の多くが破綻の匂いを嗅ぎつけると同時に、高額な退職金と共に会社を去ったり、自社株を売り抜けたり、とにかくケタ違い(数十億円、百億円を超す人も)の資産を築いているのだ。
その高額の収入・資産は、前述の現場の人達が数十年もかけて積み立てたものが含まれている。
一般的には、これは例外的な企業の話、とされている。
しかし、具体的に法を犯していないだけで、数年間の赤字を続けて高額の退職金を得て退任する社長の話なんてゴロゴロ転がっている。
今月退任を発表した名士ハワード・ストリンガーさんは、この7年間の年俸は8億円だったそうだ。
7年で数十億円の収入を得たわけだ。
そんな彼がこの7年間社長を務めたソニーの直近の4年間は赤字だ。昨年は2200億円の赤字だそうだ。
去年話題になったアメリカの自動車業界もそんな感じだった。
倒産寸前なのにプライベートジェットで税金投入をお願いに来ていた。
これはさすがにメディアに叩かれたけど、高額の報酬を返還したというニュースは聞かない。
プロジェクトマネジメントであれば、「与えられたリソース(人・モノ・金)」の制約の中で目的を達せなければならない。
が、社長業には、「前提を覆す(与えられたリソースを削る/増やす、目的を変更する)」権限が与えられ、その上、成果が出なくてクビになっても一生どころか何世代も安泰の報酬が支払われる。
先ほどのエンロンのM&Aに応じた電力工事会社の経営陣は、買収の結果一財産を築いたかもしれない。
悪意はなかったとは思うが、結果、社員の個人的資産をマネーロンダリングして自分の資産にしてしまったわけだ。
暴力で他人に金を出させる。
錯覚を利用して振り込ませる
投資と称して払わせる。
預貯金の管理団体(退職金積立や年金基金とか)ごと吸収して払わせる。
目に見える暴力がないだけ、迂回しているだけで何ら変わらない。
日本の"消えた年金"も構造は同じなんだろう。
。。。
200年前のドキュメンタリー、アメイジング・グレイス
エンロンを観る前日に、たまたま「アメイジング・グレイス」を観ていた。
これは、数百年続いた奴隷貿易廃止に貢献したウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いたものだ。
200年前のイギリス。
当時は正当な経済活動とされていた奴隷貿易を「人道に反する」として、その歴史を転換させた話。
ちなみに、有名な歌「アメイジング・グレイス」は賛美歌のメロディーに奴隷船の船長が自らの罪を悔いて歌詞を付けたものだそうだ。
当時の奴隷船は、長い航海中に拘束された奴隷たちの半分以上が航海中に死んで捨てられる事も少なくなかったという。
女性の奴隷は拘束したまま船員に暴行され、海が荒れると船を軽くする為に弱っている奴隷を捨てる、それが奴隷貿易の現場だったのだ。
。。。
現場を見れば、本質がわかる。
億万長者、の懐に入ったお金が何処からきたのか、がとてもとても重要だ。
今の時代、ましてや先進国で人道に反する社会なんてあり得ないと「無視」するのは簡単だ。
今の常識では、経済弱者と奴隷は違う、と感じるだろう。
でも、お金に魅入られた人達は、経済弱者から更にお金を吸い上げても全く気にしない。
その結果、現場で何が起きているかなど気にしてられない。
これは、奴隷貿易が当たり前だった時代に、奴隷とされた同じ人間を、家畜のように扱ったていた社会と大した差はない。
みんな何が起きているか、知らないふりをしているだけ。
100年か200年後、いや、数百年後かもしれないが、今常識とされるM&Aなど企業活動のあり方そのものが、
「人道に反する活動」
とされるかもしれない。
※人間は自分の置かれた環境次第で、どこまでも残虐になれるという心理テストがある。
が、一方で、どんな環境にも屈しない人達がいたおかげで、ほんの少しだけ進歩した現代社会があるんだなぁ。
↓この動画はとっても良い
火曜日, 2月 14, 2012
構造的多忙症候群(わりと深刻)
↑は本文に関係ありません。
昔、いや、大昔、小学生ぐらいかな、の頃の話。
なんだかんだとまぁ、毎日、何かしらの宿題があったように思う。
で、当然ながら宿題自体を忘れていなければ、宿題だけはやっていた。
うん。意外にも宿題をやる子だったな。僕は。
で、夏休みや冬休み。
この時は、大量の宿題を抱える。
当時の小学生全てが大量の宿題を抱えていたのだから、日本が宿題一色になっても良い気もするが、そんなことはなく、毎日毎日、宿題のことは忘れて遊び呆けていた。
大量・長期間、というのは、今日一日サボるには好都合なのだ。
しかも、家の手伝いなんか(当時、うちの実家は自営業で慢性的に人手不足だった)を断る手段としても有効なのが「大量・長期間」の宿題の存在だ。
手伝い要求に対し、
「まだ今日の日記帳を書いてない」
「今日は自由研究の虫取りに行く」
「ドリルが終わっていない」
「図工の宿題で風景画を書きに行く」
「笛の練習」
とかなんとか、金銭を伴わない手伝い要求拒否の手段に宿題を持ち出していた。
結果、夏休み最終日は悲惨なものだった。
日記帳は一日目の途中までしか出来ていない、
自由研究は今にも壊れそうな菓子箱に虫の死体が刺さっているだけ、
ドリルは答えを丸写し、
風景画は絵の具調合に失敗した凄い色の抽象画、
笛の宿題は元々あったのか無かったのか記憶がない、(っていうか笛が見当たらない)
という事態に陥っていた。
最終日にどんなに品質を落としても納品しようという健気な少年だったのだ。
このことからも分かるように、「大量・長期」というのは、僕の手に余る。
夏休みの大量・長期タスク処理を、独りでしっかり出来る人の割合は、多分、10%もいないんじゃないかな。
大抵は、怖い先生、もしくは口やかましい親の協力なくしてやるハズがない。
たまたまうちは、「放任主義」だったので、手伝い要求さえ回避できれば最終日まで深刻な宿題要求は無かった。
で、最終日を迎え、自己責任のもと品質を最低に、生産量を最大に、処理していたわけだ。
今思い返して、夏休みの宿題は「期限」が明確で「持ち越し」ができないからマシなのだと気がついた。
この「持ち越しができない」というのは素晴らしいことなのだ。
通常、夏休み明けに宿題を提出する。
夏休み開ける前に宿題を提出するような子供は僕は知らない。
そんなわけで、夏休み明けに宿題を提出する。
それで、まぁ、出したものは、どれもこれも酷い品質だ。
忘れていたり、忘れたふりをしたりして出せないものも少なからずある。
笛の宿題は、宿題も忘れたなら笛そのものも無くなっていたりする。
そんな滅茶苦茶な状況で、更に、宿題の「持ち越し可」だったら最悪だ。
文部省だったらやりそうで怖い、と思ったが、今の僕は小学校の宿題に苦しめられることはないので、やってくれてもいいよ。
そんな「もちこ歯科」じゃなくて「持ち越し可」の時代がやってきたとする。
大量の夏休み宿題を持ち越す。やらなくても持ち越せるのだから最初の夏休みはハッピーだ。
次の冬休み、前回の夏休みの不合格品に冬休みの宿題が加わる。
雲行きが怪しくなる。
これを小学校一年からやっていたとする。
僕の場合だと、多分、小学六年生の冬休みには、ほぼほぼ過去六年12回分の夏冬休み宿題が残っていたことだろう。
これは、親に言い訳をするまでもなく、家の手伝いどころではない。
家中が過去の宿題の残骸で取っ散らかっているであろう。
12個の自由研究、12個の図画工作、12冊の絵日記、12冊の漢字ドリル、12冊の算数ドリル、、、、、
よかった。
あらためて僕の時代は「持ち越し不可」だったため、そんな事態には至らずに済んだ。
いや、いつの時代も「持ち越し不可」でよかった。文部省、ありがとう。
これからも、小学六年の冬休みは、その時の新しい宿題だけ溜めておけばよい事を祈る。
中学へ宿題を持ち越すことも不要なことを祈る。
いやー、よかった、よかった。
振り返って大人の世界。
ありとあらゆる「管理表」が職場には溢れている。
宿題の管理表は「残件リスト」的なものか。
僕の場合は、幸か不幸か、プロジェクトでの仕事になるので「持ち越し不可」「成績のみ持ち越し」なので、プロジェクトが変わる度に残件リストはリセットされる。
どんなに酷いプロジェクトだったとしても、次のプロジェクトに行く際にはリセットされるのだ。
(成績はリセットされない。あしからず。)
しかし、長く同じ職場で安定成長してきたようなケースだとそうはいかない。
宿題は永遠に「持ち越し可」となる。
しかも、小学生の宿題ではない。大人の話だ。
大人らしく、きちんとリスト化され、定期的に進捗をチェックされる。
数年も同じ職場にいれば、「管理表フォームの限界に合わせて最大件数」のリストが出来上がる。
リストの中で本気で対応するのは優先順位が高いもので、後は「着手済み、今月は進捗なし」となる。
優先順位が高いものに手が取られるので必然的にそうなるわけだ。
面白いのは、何年も「着手済み、進捗なし」の残件が、たまたま担当者が異動したりすると、そのほとんどが消えてなくなることだ。
引き継がれないそれらの残件は、その人がいなくなればなくなる運命なのだ。
だったら移動に関係なくリストを整理すればいい、とはならない。
リストに存在していることで「いつかはやらなければならない」事を忘れずに済むという安心がある。
また、「いつでもやれる」事がリストにあるので、忙しくない状態は未来永劫無いことになる。
これは、担当者にとっても管理者にとっても新たな仕事を断る格好の理由となる。
「この新しい取り組みできないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」
「君のチームでこの取組できないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」
個人、組織に関わらず変化を拒むツールになるわけだ。
かくして、構造的に多忙な状態が出来上がる。
本当に忙しいかどうか、に関係なく、「残件リストで手一杯」なことが証明済みなわけだ。
これを「構造的多忙症候群」と呼ぶ。
だれもそんな風に呼んでいないが僕がそう呼ぶことにした。
はぁ、忙しい忙しい。
金曜日, 1月 20, 2012
身近なバグ(でも直せない?)
よく見かけるけど実は誤り→「言われなくても勉強しなさい」と言われて勉強する。
正しい姿→「言われなくても勉強しなさい」と言われたから勉強しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「言われなくても勉強するようになれたらいいねー」
・類似ケース
よく見かけるけど実は誤り→「指示されなくても行動しなさい」と指示されて行動する。
正しい姿→「指示されなくても行動しなさい」と指示されたから行動しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「指示されなくても行動できるようになれたらいいねー」
単に言葉のアヤと思っていたけど、そうではない。
「言われなくても・・・」とは、言われない場合に・・・する、なのだから、言われたからやらなくても間違っていないわけだ。我慢して言わなかったら、やったかもしれないけどねぇ。
言われずにやって欲しいことを「言われなくても・・・」と伝えること自体がバグなのだ。
言われた時にこんな言い訳をしたら叱られるだろう。
僕もいい加減50歳も近づいてきて、会社の上司に、こんな口答えはしない。多分、していないと思う。
(汗)
が、でも、厳しく言わせて貰えば、「本気でないから間違った言葉のまま繰り返している」のではないか?
「言わなくても」の真意は「主体的に」なって欲しいのだろうとは思う。
でも、本当に「主体的に」なって欲しいなら、そんなバグのある言葉を発せずに、本人に気づかせなければならない。
本気ならそうするハズだ。
自分で考え気づかせることをせずに声高にバグっている言葉を叫び続けるのは滑稽だ。
なのに、同様にバグに気が付いていない人からの評価は得られてしまう。
口うるさく「言われなくても勉強しなさい」を唱える親御さんを教育委員会とかは教育熱心だと評価するだろう。
でも、肝心の、そうしてもらいたい人達からは支持されない。
「やろうと思ってたのに言うんだもんな」と、感じてしまうのだ。ま、"やろうと思ってた"も嘘なんだけど。
あろうことか、「あれだけ酸っぱく言ったのに、わからん奴らだ」とか、間違いに気づくどころか居直ることもしばしばだ。
だから、これは厄介なバグなのだ。
ということに気が付きました。←今さら何を言う
姉妹品「皆でリーダーシップを発揮しよう」もヨロシク。
※はみ出し
この週末で読み終える「暗号解読(上下巻) サイモン・シン著」が"超"面白い。
書いてあることを試したくなって、人生最高桁数手書き計算「十"兆"」の計算をしました。単なるわり算だけど。
↓記念写真
正しい姿→「言われなくても勉強しなさい」と言われたから勉強しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「言われなくても勉強するようになれたらいいねー」
・類似ケース
よく見かけるけど実は誤り→「指示されなくても行動しなさい」と指示されて行動する。
正しい姿→「指示されなくても行動しなさい」と指示されたから行動しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「指示されなくても行動できるようになれたらいいねー」
単に言葉のアヤと思っていたけど、そうではない。
「言われなくても・・・」とは、言われない場合に・・・する、なのだから、言われたからやらなくても間違っていないわけだ。我慢して言わなかったら、やったかもしれないけどねぇ。
言われずにやって欲しいことを「言われなくても・・・」と伝えること自体がバグなのだ。
言われた時にこんな言い訳をしたら叱られるだろう。
僕もいい加減50歳も近づいてきて、会社の上司に、こんな口答えはしない。多分、していないと思う。
(汗)
が、でも、厳しく言わせて貰えば、「本気でないから間違った言葉のまま繰り返している」のではないか?
「言わなくても」の真意は「主体的に」なって欲しいのだろうとは思う。
でも、本当に「主体的に」なって欲しいなら、そんなバグのある言葉を発せずに、本人に気づかせなければならない。
本気ならそうするハズだ。
自分で考え気づかせることをせずに声高にバグっている言葉を叫び続けるのは滑稽だ。
なのに、同様にバグに気が付いていない人からの評価は得られてしまう。
口うるさく「言われなくても勉強しなさい」を唱える親御さんを教育委員会とかは教育熱心だと評価するだろう。
でも、肝心の、そうしてもらいたい人達からは支持されない。
「やろうと思ってたのに言うんだもんな」と、感じてしまうのだ。ま、"やろうと思ってた"も嘘なんだけど。
あろうことか、「あれだけ酸っぱく言ったのに、わからん奴らだ」とか、間違いに気づくどころか居直ることもしばしばだ。
だから、これは厄介なバグなのだ。
ということに気が付きました。←今さら何を言う
姉妹品「皆でリーダーシップを発揮しよう」もヨロシク。
※はみ出し
この週末で読み終える「暗号解読(上下巻) サイモン・シン著」が"超"面白い。
書いてあることを試したくなって、人生最高桁数手書き計算「十"兆"」の計算をしました。単なるわり算だけど。
↓記念写真
月曜日, 1月 16, 2012
女性の下着
最初に断っておくが、タイトルはこの後で、"今年の一本"候補レベルの映画の話をしたいからなのだ。
僕個人の趣味嗜好の話ではない。
とはいえ、男性は女性の下着が好きだ。
僕は、、、僕もやっぱり好きだ。
認めよう。
収集したりこそしていないが、なんだかんだ女性下着というのはドキドキしてしまうものだ。
あまり心臓にいいものではない。
少なくとも僕にとっては癒し系のグッズにはなりえない。
僕の名誉のために書き記しておくが、これは、僕自身が悪いのではなく、ホモサピエンスのオスのDNAの何らかの作用なのだから、社会的に問題ある行動を伴わない分には致し方ないのだ。
許して欲しい。誰に?かはわからんが、とにかく、そういうことだ。
ここからは一般論。
どんなふうに好きかは人それぞれだ。
それ専門の泥棒や、それ専門のオークションや、好みの下着を女性に着せたがる人も少なくないと聞くし、中にはそれ専門の自らが着用するマニアまでいる。
※こんな話を書いていると誤解されそうだが、あくまで一般論で僕の趣味嗜好ではない。
男性はそれほど女性の下着が好きなくせに、自分の好みの下着は妻や娘には着用させたくないとか、もう、支離滅裂な生き物だ。
男性はかようにDNAレベルで期待を裏切るレベルで低俗なのは致し方ないとして、一方の女性は、オシャレの一貫としての下着もありなんだろう。でなければ、この映画は成立しない。
そもそも、レースの下着というのは、いや、下着にかぎらず、レース編みというのは一般に女性の好みである。
男性向けにレースのブリーフは無いし、万万が一あったとしても、キモイ。
キモい上に、万万が一、いや億億が一、朝、目が覚めてトイレに行った時に、自分の股間を覆うものがレースだったとしたら、恥ずかしい事この上ない。
誰に知られるとか、そんなことは関係なく、人生の中で3本の指に入るレベルの恥ずかしさなのは間違いない。
※他に2つも恥ずかしい事があったのか、という詮索は遠慮願いたい。50年近く生きていればいろいろあるのだ。
っていうか、レースの下着にかぎらず、レースの帽子もレースのTシャツもレースのYシャツも普通は男性用は無い。
なーんて書いているうちに、レースのハンカチにまで邪なドキドキ感に陥りそうだ。
そもそも、ショッピングモールなどでズンズン女性の下着売り場に入っていく妻を、追いかけていいものか、入り口で待っているのが良いのか、その場から立ち去るべきなのか、そんな風に逡巡している事自体が恥ずかしいことなのだから普通にしていればいいのか、下着売り場の入り口に立つ男性の普通ってなんだ、とかとかとかとか、もう、今思い出しても恥ずかしいシチュエーションだ。
幸いなことかどうかは別に、今は、独り者なので、何らそのような困るシチュエーションは無いので安心だ。
むしろ、一年ほど前に休日のショッピングモールに独りで出かけたことがあったが、もはや、オヤジ独りでショッピングモールに行くこと自体が申し訳ないような気分がしたので、それっきり一人で行っていない。
話が脱線しすぎだ。
話を戻して、下着の話。いや、映画の話を書いておきたい。
かように男性は大好きな女性の下着を、一方でとても恥ずかしく、自分のことのように恥ずかしい自意識過剰なワケワカメな生き物なのだ。
という男性心理をも考えさせられた、"今年の一本"候補の映画の話。
それは、「マルタのやさしい刺繍」だ。
スイスの田舎に暮らす老女のお話。
ここのところ老人が主人公の映画を観る機会が多いのは、多分、映画関係のマーケティング戦略が、団塊の世代をターゲットにしているからなのだろう。
これはそんな老人主人公映画の中でも秀でた映画だ。
丸田さんちのおばあちゃんの話だ。
そして沖縄の県庁所在地は那覇市だ。←ハナシだ と ナハシだ を掛けてみました。
ストーリーはこんな感じ。
スイスの片田舎、隣近所みーんな知り合いのこの村で、雑貨屋を営む丸田さんのおばあちゃん(面倒だから漢字で良いだろう)。
近所に世帯を構える外面は堅物の息子は、村で唯一の協会の牧師をしている。
そんな丸田さんちのおばあちゃんが夫を亡くしてからのお話。
最愛の夫を失って、一年もたとうというのに喪服を着続ける丸田おばあちゃん。
ずいぶん長いこと打ちひしがれていた丸田おばあちゃんだが、荷物を整理している最中に、若かりし頃に自分が作ったレースの下着を見つける。
そう、おばあちゃんは若い時分、レース職人だったのだ。
若い時にはパリでランジェリーショップを持ちたい、そんな夢も、結婚という幸せと交換で諦め、代わりに思い出として大切に仕舞っておいたレースのランジェリー。
そのランジェリーを見て、当時の夢、情熱が再び沸き上がってくる。
交換条件の結婚も、夫が一方的に先立ってしまったわけだし。
そんなこんなで、友達の後押しにも助けられながら、雑貨屋を畳み、村で唯一のランジェリーショップを開店する。
スーパーすら無いような小さな村で、それはそれは大変な騒ぎになった。
過激でも何でもない、ごく上品な手作りレースのランジェリーショップにもかかわらず村は大変な騒ぎになる。
女たちは遠巻きに眺め、男たちは露骨に下衆な視線を浴びせる。
気が狂ったと息子は嘆き、土地の有力者は露骨に排斥しようとする。
まるで風俗店でもできたような騒ぎ。
そんな騒ぎで、訪れる客も無く、店は立ちいかなくなり、諦めようとするのだが、、、
そこから老人たちのチームワーク、なにより丸田おばあちゃんの夢に対する強い意思で、ついに村にイノベーションが・・・
っていうような話。
このお婆ちゃん、その友達のお婆ちゃんたちが可愛い。ほんとうに可愛い。
脇役のおじいちゃんたちも、カナリ可愛い。
見ているうちに、まるで中学生が親の反対を押し切って、大人顔負けの仕事を成し遂げる、そんな感じすら覚える。
一方、変化に対して強硬に抵抗するのが、「大人たち」だ。
ちょうど僕と同じ年代、50絡みのオジサンたちだ。
そうなると、その妻達も、表立ってはオジサン達に従う。
オジサン相手に抵抗するのは面倒臭いのだ。その上、息も臭かったりするのだ。
もう本当にオジサン、オヤジ達というのは、どうしようもない。
オヤジ達はオヤジ同士では破廉恥な事も大好きだと認め合っているくせに、おばあちゃんが堂々とランジェリーショップを始めることには強硬に反対する。
酒飲みで、スケベで、低俗で、そのくせ偉ぶりたがって、、、もう見ていて嫌になる。
「おばあちゃんの為に」と言っては子供じみた手段も辞さないオヤジたち。
老年に差し掛かった中年男というのは、外見も中身も酷いものだ。
見ていて自己嫌悪に陥るほどだ。
しかし、僕の周りを見ても、、、まぁ、否定できない。
(ここでは僕自身に関しては否定も肯定もしないでおこう。)
でも、おばあちゃんは凄い。
そんな抵抗にも屈せず、明るく、時に凛として、夢を実現していく。
ストーリーにも書いたけど、そんな年寄りたちのチームワークが、村にいくつかのイノベーションをもたらす。
コンサルタント垂涎の事例になりそうな、新たなビジネスモデルも誕生する。
ドラッカー的にも「アリ」なストーリーなんだよなぁ。
家で一人で見ているのに、「がんばれー」「いいぞー」「オヤジ引っ込めー」「やっほー」などと声が出てしまう、とても温かい気持ちになれる映画でした。
※ハミ出し
残念ながら今年の一本は逃したけど、「木洩れ日の家」も可愛いおばあちゃんが主役の映画。モノクロ映画。
おばあちゃんも可愛いけど、同居する犬も可愛い。そしてやっぱり、オヤジは醜い。
今年はおばあちゃん・おじいちゃん映画から目が離せません。
僕個人の趣味嗜好の話ではない。
とはいえ、男性は女性の下着が好きだ。
僕は、、、僕もやっぱり好きだ。
認めよう。
収集したりこそしていないが、なんだかんだ女性下着というのはドキドキしてしまうものだ。
あまり心臓にいいものではない。
少なくとも僕にとっては癒し系のグッズにはなりえない。
僕の名誉のために書き記しておくが、これは、僕自身が悪いのではなく、ホモサピエンスのオスのDNAの何らかの作用なのだから、社会的に問題ある行動を伴わない分には致し方ないのだ。
許して欲しい。誰に?かはわからんが、とにかく、そういうことだ。
ここからは一般論。
どんなふうに好きかは人それぞれだ。
それ専門の泥棒や、それ専門のオークションや、好みの下着を女性に着せたがる人も少なくないと聞くし、中にはそれ専門の自らが着用するマニアまでいる。
※こんな話を書いていると誤解されそうだが、あくまで一般論で僕の趣味嗜好ではない。
男性はそれほど女性の下着が好きなくせに、自分の好みの下着は妻や娘には着用させたくないとか、もう、支離滅裂な生き物だ。
男性はかようにDNAレベルで期待を裏切るレベルで低俗なのは致し方ないとして、一方の女性は、オシャレの一貫としての下着もありなんだろう。でなければ、この映画は成立しない。
そもそも、レースの下着というのは、いや、下着にかぎらず、レース編みというのは一般に女性の好みである。
男性向けにレースのブリーフは無いし、万万が一あったとしても、キモイ。
キモい上に、万万が一、いや億億が一、朝、目が覚めてトイレに行った時に、自分の股間を覆うものがレースだったとしたら、恥ずかしい事この上ない。
誰に知られるとか、そんなことは関係なく、人生の中で3本の指に入るレベルの恥ずかしさなのは間違いない。
※他に2つも恥ずかしい事があったのか、という詮索は遠慮願いたい。50年近く生きていればいろいろあるのだ。
っていうか、レースの下着にかぎらず、レースの帽子もレースのTシャツもレースのYシャツも普通は男性用は無い。
なーんて書いているうちに、レースのハンカチにまで邪なドキドキ感に陥りそうだ。
そもそも、ショッピングモールなどでズンズン女性の下着売り場に入っていく妻を、追いかけていいものか、入り口で待っているのが良いのか、その場から立ち去るべきなのか、そんな風に逡巡している事自体が恥ずかしいことなのだから普通にしていればいいのか、下着売り場の入り口に立つ男性の普通ってなんだ、とかとかとかとか、もう、今思い出しても恥ずかしいシチュエーションだ。
幸いなことかどうかは別に、今は、独り者なので、何らそのような困るシチュエーションは無いので安心だ。
むしろ、一年ほど前に休日のショッピングモールに独りで出かけたことがあったが、もはや、オヤジ独りでショッピングモールに行くこと自体が申し訳ないような気分がしたので、それっきり一人で行っていない。
話が脱線しすぎだ。
話を戻して、下着の話。いや、映画の話を書いておきたい。
かように男性は大好きな女性の下着を、一方でとても恥ずかしく、自分のことのように恥ずかしい自意識過剰なワケワカメな生き物なのだ。
という男性心理をも考えさせられた、"今年の一本"候補の映画の話。
それは、「マルタのやさしい刺繍」だ。
スイスの田舎に暮らす老女のお話。
ここのところ老人が主人公の映画を観る機会が多いのは、多分、映画関係のマーケティング戦略が、団塊の世代をターゲットにしているからなのだろう。
これはそんな老人主人公映画の中でも秀でた映画だ。
丸田さんちのおばあちゃんの話だ。
そして沖縄の県庁所在地は那覇市だ。←ハナシだ と ナハシだ を掛けてみました。
ストーリーはこんな感じ。
スイスの片田舎、隣近所みーんな知り合いのこの村で、雑貨屋を営む丸田さんのおばあちゃん(面倒だから漢字で良いだろう)。
近所に世帯を構える外面は堅物の息子は、村で唯一の協会の牧師をしている。
そんな丸田さんちのおばあちゃんが夫を亡くしてからのお話。
最愛の夫を失って、一年もたとうというのに喪服を着続ける丸田おばあちゃん。
ずいぶん長いこと打ちひしがれていた丸田おばあちゃんだが、荷物を整理している最中に、若かりし頃に自分が作ったレースの下着を見つける。
そう、おばあちゃんは若い時分、レース職人だったのだ。
若い時にはパリでランジェリーショップを持ちたい、そんな夢も、結婚という幸せと交換で諦め、代わりに思い出として大切に仕舞っておいたレースのランジェリー。
そのランジェリーを見て、当時の夢、情熱が再び沸き上がってくる。
交換条件の結婚も、夫が一方的に先立ってしまったわけだし。
そんなこんなで、友達の後押しにも助けられながら、雑貨屋を畳み、村で唯一のランジェリーショップを開店する。
スーパーすら無いような小さな村で、それはそれは大変な騒ぎになった。
過激でも何でもない、ごく上品な手作りレースのランジェリーショップにもかかわらず村は大変な騒ぎになる。
女たちは遠巻きに眺め、男たちは露骨に下衆な視線を浴びせる。
気が狂ったと息子は嘆き、土地の有力者は露骨に排斥しようとする。
まるで風俗店でもできたような騒ぎ。
そんな騒ぎで、訪れる客も無く、店は立ちいかなくなり、諦めようとするのだが、、、
そこから老人たちのチームワーク、なにより丸田おばあちゃんの夢に対する強い意思で、ついに村にイノベーションが・・・
っていうような話。
このお婆ちゃん、その友達のお婆ちゃんたちが可愛い。ほんとうに可愛い。
脇役のおじいちゃんたちも、カナリ可愛い。
見ているうちに、まるで中学生が親の反対を押し切って、大人顔負けの仕事を成し遂げる、そんな感じすら覚える。
一方、変化に対して強硬に抵抗するのが、「大人たち」だ。
ちょうど僕と同じ年代、50絡みのオジサンたちだ。
そうなると、その妻達も、表立ってはオジサン達に従う。
オジサン相手に抵抗するのは面倒臭いのだ。その上、息も臭かったりするのだ。
もう本当にオジサン、オヤジ達というのは、どうしようもない。
オヤジ達はオヤジ同士では破廉恥な事も大好きだと認め合っているくせに、おばあちゃんが堂々とランジェリーショップを始めることには強硬に反対する。
酒飲みで、スケベで、低俗で、そのくせ偉ぶりたがって、、、もう見ていて嫌になる。
「おばあちゃんの為に」と言っては子供じみた手段も辞さないオヤジたち。
老年に差し掛かった中年男というのは、外見も中身も酷いものだ。
見ていて自己嫌悪に陥るほどだ。
しかし、僕の周りを見ても、、、まぁ、否定できない。
(ここでは僕自身に関しては否定も肯定もしないでおこう。)
でも、おばあちゃんは凄い。
そんな抵抗にも屈せず、明るく、時に凛として、夢を実現していく。
ストーリーにも書いたけど、そんな年寄りたちのチームワークが、村にいくつかのイノベーションをもたらす。
コンサルタント垂涎の事例になりそうな、新たなビジネスモデルも誕生する。
ドラッカー的にも「アリ」なストーリーなんだよなぁ。
家で一人で見ているのに、「がんばれー」「いいぞー」「オヤジ引っ込めー」「やっほー」などと声が出てしまう、とても温かい気持ちになれる映画でした。
※ハミ出し
残念ながら今年の一本は逃したけど、「木洩れ日の家」も可愛いおばあちゃんが主役の映画。モノクロ映画。
おばあちゃんも可愛いけど、同居する犬も可愛い。そしてやっぱり、オヤジは醜い。
今年はおばあちゃん・おじいちゃん映画から目が離せません。
木曜日, 12月 08, 2011
ちょっと興奮「ヨーロッパ最大のIT企業が社内電子メールを廃止」
するんだそうだ。電子メール廃止。18カ月後。
これは、来年のムーブメントになるかもしれない。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111201solving-email-overload-with-a-company-wide-ban/
リンク先記事はどうやって廃止するか報じていない懐疑的な論調だし、僕も最初は「それは無理でしょ」と感じた。
でもまてよ、その会社がどうなるかはわからないが、世の中的にはアリかもしれない。
電子メールを評価する/しない、好き嫌いから離れて考えてみよう。
電子メールでの仕事の進め方の特徴
・1対1もしくは1対Nのコミュニケーション
・リアルタイムではない(読むタイミングは読む側に任せられる)
・仕事内容別ではなく担当者別に、送り手の意向でメールは飛び交っている
・重要度の判定は読む側に任せられる(送る側が"重要"マークを付けられるが、受け取る側は、送信者と件名から独自に重要度を判定している)
・仕事以外のメールも飛び交う
・基本はローカルでデータ管理されてしまう
・メール単独で完結するわけではなく、成果物はDBに格納し、場合によっては掲示板などソーシャルネットワーク的なものも使う。
ソーシャルネットワーク(Facebook的なやつ)での仕事の進め方
・1対1もしくは1対NもしくはN対Nのコミュニケーション
・リアルタイムではない(読むタイミングは読む側に任せられる)
・自分の担当業務に応じて、必要なコミュニティー、必要なスレッドに参加する
・自分が必要な分の更新情報に絞って受け取ることが出来る(メールやログイン時のトップ画面で)
・重要度は参加者の意思と連動する(重要でないコミュニティーには参加しない)
・情報がオープンになるため仕事以外の会話は最小限に抑えられる
(個人的な会話をソーシャルネットワークではしない)
・基本はクラウド型のデータ管理
・オープンソフトの開発はソーシャルネットワーク型で進められている。実績は十二分にある。
なるほど、メールは、どうしても相手の仕事内容を考えながら、それぞれ別々に報告したり、依頼したり、確認したり、ということになる。宛先が重要なわけだ。
当然、同じ内容でも相手に合わせて表現を変えたり、言葉遣いを変えたりしている。
たまに見かける目上の人が部下に乱暴なメール指示(結果的に、部下が上司を訪ね、直接話を聞かなければならない)を出したり、なんてことが、今は当たり前だ。
一方、ソーシャルネットワーク。
情報にアクセスする人を想定するとは言っても、特定の個人とは限らない。誰が目にするのかわからないのが基本だ。だから、表現を相手毎に合わせて変える必要はないし、同じ情報を相手毎に表現を変えてメールするようなことも不要だ。
さらに、仕事内容毎の分類にそって、参加者自身が自分で情報を取捨選択していくスタイルになる。
悪く言えば相手任せになるわけだけど、ミッションが明確であれば、概ね担当すべき人が必要な役割を自ら担うだろう。
もちろん、残念ながら自ら取捨選択できないケースもあるだろう。そんな時は、1対1でメールを差し上げる。と。そんな感じになりそうだ。
これは、言ってみれば今も変わらない。
現実には、全廃という話ではなく、仕事をすすめるメインはソーシャルネットワーク、メールは補助的なものになっていくのでしょう。
最近は、企業でもソーシャルネットワークを活用しようと取り組み始めているのですが、従来の仕事の仕方「メール」に慣れ親しんだために、なかなか移行できないだけなのかもしれませんねぇ。
実際、今、自分がメールで処理している仕事を、ソーシャルネットワークに移して困ることがあるか?と考えると、「読んでもらいたい相手が、日常的にアクセスしているなら大丈夫」だな。
残念ながら今はそんな状況ではないので、日常的にアクセスしているメール主体で仕事を進め、自分の仕事の記録先としてソーシャルネットワークを使ったりしている状態。
一人ソーシャルはあまり意味が無いのだろうけど、バックアップの心配もないし、履歴管理もできるし、後で探しやすいし、まぁ、便利ではあります。
みんなが担当業務のコミュニティーに参加し、自分の仕事のスレッドやwikiをきちんと認識してアクセスして行動するなら、必要以上に余計な会話や、なにより、準ジャンクメールの相手をする時間は激減するでしょう。
1対1になりがちなメールだと、どうしても、余談も始まってしまうし、しかもクローズな話題(悪口や愚痴)もしやすかったりしがちです。ソーシャルネットワークなら、必要な範囲でオープンになるため、そーゆー非生産的(コミュニケーションの面でもさほど有意義でない)な活動はしなくなるでしょう。
あるいは、上司の乱暴な指示メールなんかも、SNS主体で仕事を進める場合は公開されてしまうので、乱暴な指示を改めるか、あるいは、そんな指示しかできない方には退場していただくしかなくなるわけだ。
SNSで仕事をする妄想を進めていく中で、その昔、電子メールを仕事で使い始めた時代を思い出しました。
最初の頃は、「飲み会の約束」ぐらいでしか使われなかった、あの時代の空気。
あの時代「報告書は無くなります」なーんて言ってたけど、必要に応じて残るものは残りつつも、確実に「主体はメール」になった。
社長(トップ)が電子メールを使うようになったら会社全体で電子メールを使うようになった、あの時代と同じように、社長がSNSを使うようになれば会社全体でSNSを使うようになるわけだ。
ということで、電子メール偏重からソーシャルネットワーク偏重へと舵を切る時代が始まった、んだねぇ。
※ハミ出し
ソーシャルネットワーク、流行りのつぶやきも顔本もプライベートでは使ってないなぁ。
あーゆーのは、プライベートだと気を使っちゃうから疲れそうなんだよねぇ。
※ハミ出し
"Atosの野望"は、本当らしい。ツール詳細はわからないけど、組織変革と何らかのSNSを活用して「ゼロメール(Zero email)」を達成するのだとAtosのホームページで謳われている。
http://atos.net/en-us/about_us/zero_email/default.htm
木曜日, 11月 24, 2011
殿堂入りのプロジェクトマネジメント
http://history.nasa.gov/ap11ann/adminbios.htm
↑のリンク先に、アポロ計画の主だったマネージャー達が紹介されている。
当時はまだ、プロジェクトマネージャー(以下PM)のバイブルPMBOKも無かった時代。
ケネディー大統領の発表時点では、一部の人々からは「荒唐無稽」とまで言われたプロジェクトがアポロ計画だ。
当初、A~Gまで7つ計画されたミッションを完了させたのは当然、最終的にはH~Jまで計10のミッションを完了させた。更に、当初計画ではアポロ20号まであったものが17号で終了(ミッションコンプリートで前倒し、残り3号分の予算はスペースシャトル計画に回された)できたのだ。
これは、明らかにスーパープロジェクトだ。
もし、プロジェクトXの世界大会があれば、殿堂入り間違いなしだ。
ケネディーの言葉を借りれば、「このプロジェクト以上により強い印象を人類に残すものは存在しない」壮大な成功プロジェクトだ。
(但し、地上でのシミュレーション中に三名の宇宙飛行士を失っている。合掌。)
プロジェクトキックオフのメッセージとも、プロジェクト憲章とも言えるのが有名なこれだ。(Wikipediaより)
1961年5月25日、ケネディは上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明した。
「まず私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう。」
素晴らしいメッセージだ。力づけられる。勇気が湧いてくる。
そして、なによりも判りやすい!
仮に、当時のNASAで掃除夫*をしていたとしても、誇りを感じただろう。そんな力を与えられる言葉だ。
とはいえ、言葉ならどうにでもなるかもしれない。ましてや政治家の言葉だ。
*掃除夫に他意はありません。あぁ、ネットって面倒くさい。
ここは疑い深く、本当に素晴らしいキックオフのメッセージだったのかどうか、検証してみよう。
どう検証しようか考えたのだけど、アポロ計画と同様に、10年以上の歳月をかけた国家的なプロジェクトとしての日本の「もんじゅ」を比べてみよう。←別にもんじゅでなくても良かったのだけど、国家プロジェクトと聞いて思い出したのがもんじゅなのだから仕方ない。
、、、と思ってググったが、当時の首相の言葉は見つけられなかった。
代わりに動燃30年史にこんな記述があった
「1.高速増殖原型炉「もんじゅ」の開発の目的と進め方
高速増殖原型炉「もんじゅ」は、原子力委員会が策定した~中略~昭和43年以来開発を進めてきた発電プラントである。」
ソース→http://www.jaea.go.jp/jnc/siryou/30nensi/index.html
あるいは、昭和31年の原子力白書に首相ではないが当時の大臣の言葉があった。
「世界の原子力の平和利用は,~中略~
さらに世界の原子力利用の~再中略~
昭和32年12月
原子力委員会委員長
国務大臣 正力 松太郎」
ソース→http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1956/index.htm
ケネディーの演説とは大違いだ。「○○に基づきやるのだ」「世界がやるからやるのだ」でしかない。
その上、「分かり難い」。伝わらない、というより、伝える気が無かったのだろう。
最初から他責の論理だった。自分の国ながら残念だ。
だって、ケネディーの演説は、「我々がやらねばならぬのだ」だ。
あくまで自責なのだ。
なるほど。プロジェクトの成功とはそういうことだ。
責任者が自分の責任において、「やるのだ」という意思を明確に発することが重要なのだ。
長らく日本の政治が何もできないのは、そういうことなんだろう。
イノベーションの本で読んだ、「成功への絶対条件は危機感の共有」という意味がよくわかる気がする。
もし、今なお、"もんじゅプロジェクト"を継続するのなら、「少なくとも今まで作り出してしまった核廃棄物を最終処理するために、やらねばならぬのだ」と言ってくれれば、原発への賛否はともかく、共感できるのに、と思った。
※はみ出し
もんじゅ計画を含め、核廃棄物を最終処理できる技術を人類は未だ持っていない。念のため。
じゃあ、どうするかといえば、事実上「放置」「海洋投棄」「数百メートル地下に格納」のどれかだ。
宇宙投機は「万が一失敗(空中で拡散)した時のリスク」から誰も踏み切れないのだそうだ。
唯一期待できそうなのは、「軌道エレベーター」だが、まだ先の話のようだ。
※はみ出し2
↓は"原子炉圧力容器内の放射能除去装置"という特許情報。ま、僕のような素人が考える言葉のイメージ通り使えるならフクシマは困らないわけだが。。。
http://www.patentjp.com/06/U/U100012/DA10016.html
※はみ出し3
ついでに、「宇宙エレベーター協会」という団体があり、前述の軌道エレベーターを語り合っている。
http://jsea.jp/
木曜日, 11月 17, 2011
地球調査員
↑に感動。(SUNTORY BOSS CM トミー・リー・ジョーンズによる宇宙人ジョーンズ シリーズ)
周囲の人たちに、このCMで感動するという話をしてみたが、いまいち、ピンと来ない。
どうも、自分だけが妙な思い入れがあるようなのでよくよく考えてみたら、他の人と同じ共感ポイントに加えて、ジョーンズの地に足が着いていない生き方みたいな部分があるのかも、と感じた。
仕事歴
●宇宙人ジョーンズ
運搬作業員、ディスカウントストア店員、宅配便の配達員、カラオケボックス店員、ホスト、牧場の従業員、ホットペッパー配り、空港警備員、旅館従業員、取材クルーの照明担当スタッフ、農家のお手伝い、時代劇俳優(エキストラ)、大工、工事作業員、ラーメン屋台店主、知事、刑事、ケーキショップ店員、道路工事、神社の従業員、鵜飼い、エレベーター案内役、タクシー運転手、鉄道の駅員、学校の教師、俳人
●宇宙人あざーす
新聞配達、皿洗い、新聞勧誘、犬の餌やり散歩、小学生相手の家庭教師、中学生相手の家庭教師、大学生の就活支援(企業説明会出席代行)、システムオペレーター、企業総務/庶務の下請け用務員、宅急便仕分け作業員、システム開発、ヘルプデスク運営、ショップ店員、PC組み立て作業員、トラック運転手、オリジナルTシャツ制作・販売、ホームページ運営、マウスパット販売、引越し作業員、コールセンター運営スタッフ、事業所運営スタッフ、自社でのプロジェクトマネージャーサポート、客先でのプロジェクトマネージャー
ということで、宇宙人ジョーンズの姿が心に染みる今日この頃なのだ。
しかし、だ。
宇宙人ジョーンズは、様々な仕事をこなしているようで、肩書きは「地球調査員」なのだ。
調査の必要上、様々な仕事をしているだけだ。
振り返って僕はどうかといえば、この10年ほどこそ、肩書きは「プロジェクトマネージャー(PM)」だけど、要するに、何でも屋だ。
「何をやっているんですか?」などと聞かれると、説明が面倒くさいのと、ちょっと格好良く聞こえるだろう、聞いている人が美人だし、なーんて感じで「PMやってます」なんて答えているのだけど、実態は、その時々で様々だ。
そもそも、PMとは、"お仕事管理人"というわけだから、指示待ちの仕事をしないだけで、何らかの作業を与えられた条件とチームもしくは一人で納期までに終わらせる、だけだ。
では、地球調査員として、宇宙人ジョーンズがPMだったら、彼はどんな独白をつぶやくのだろう。
地球では、火を吹かない仕事はプロジェクトとは呼ばれない。
興味深いのは、その炎は、PMだけには見えない炎だということだ。
どこの星にも偉い人はいる。
ここ地球のエライ人が興味深いのは、プロジェクトの開始の時には
「どんな支援でもするから遠慮なく言ってくれ」
という。
しかし、プロジェクトが佳境に入って火を吹き始めた時は、こちらからの連絡にはナシのつぶてだ。
地球では遠慮が大切なのだ。
プロジェクトメンバーとの飲み会は大切だ。楽しい。しかし、地球で一番喜ばれる飲み会は、会費だけ払ってPMは欠席する事だ。
地球のプロジェクトで興味深いのは、プロジェクトが崩壊してもPMは左遷されないことだ。
プロジェクトを崩壊させたPMは、より深刻な問題を抱えたプロジェクトを担当することで生き長らえるのだ。
ここ地球では、プロジェクトが計画通り終了してもPMは出世しない。
何故なら、プロジェクトを成功させたPMは、崩壊したプロジェクトを計画通りに戻すために出世させてはならないのだ。
地球調査プロジェクトに配置されて随分長い年月が経った。
毎月報告書は出しているが、、、
内容について聞かれたのは最初の一回目だけだ。
ここ地球では、報告書の提出は嫌がるのに、ブログで報告したり、つぶやいたりするのは好きらしい。
水曜日, 10月 12, 2011
リーダー
言うべき人が、言うべきことを、言うべき時に、言うべき相手に、言うべき場で、言うべき話し方で、話す。
最小の言葉で最大の成果:小説や映画でしか出会えない(と思えるほど滅多にいない)リーダー
言いたい私が、言いたいことを、言いたい時に、言いたい相手に、言いたい場で、言いたい話し方で、話す。
最大の音量と言葉数で、最悪の成果:いつでもどこでも出会えるリーダー。量産型リーダー。
なーんだ。ヒトラーは量産可能なのか。
一方で、マンデラ(のようなリーダー)は稀有な存在なわけだ。
今、↓を読んでいるんだけど、前半の「失敗事例」を読んでいくと、暗澹たる気持ちになる。
水曜日, 9月 28, 2011
マトリックス組織
マトリックス組織の事を考えていたら、なーんだ、学校で授業ごとに教科の先生が交代で来る、あの制度と同じだ、と、気がついた。
担任の先生はいるんだけど、ホームルームで会うぐらいで、一日中、他の先生の授業を受けているわけだ。
専攻の授業によってバラバラになったとしても、クラスとしては、ひとまとまりで、運動会のクラス対抗リレーなんかでは、十二分に盛り上がれる。卒業式には担任の先生と涙することだってあるだろう。
小学校の時は担任が全教科を担当していたのに、中学からは教科ごとに先生が代わる。
当たり前だけど、専門性が増すから、そういう組織運営に変わるわけだ。
長年ピラミッド組織で働いているサラリーマンの皆様。
マトリックス組織は、恐るるにたらぬ。
あなた自身が経験した通り、子供でも普通にやっていけます。
そんなマトリックス組織でリーダーとなるのも、恐れる必要はありません。
何かと問題視されがちな学校教員の方々が、やりこなしているのですから。
ということで、学校方式でやってみませんか、ね、社長!
※ハミ出し
マトリョーシカ組織というのも思いついた。
一人、詩吟漫才の「あると思います」が聞こえた気がしたのでググッてみたら、珍しくノーヒットワードでした。( " ダブルクォーテーションで括って検索ね。)
そりゃそうだ。単に語感で思いついたのだから。
同様にアズマックス組織とかクリスマス組織とかリトマス組織も無い。
担任の先生はいるんだけど、ホームルームで会うぐらいで、一日中、他の先生の授業を受けているわけだ。
専攻の授業によってバラバラになったとしても、クラスとしては、ひとまとまりで、運動会のクラス対抗リレーなんかでは、十二分に盛り上がれる。卒業式には担任の先生と涙することだってあるだろう。
小学校の時は担任が全教科を担当していたのに、中学からは教科ごとに先生が代わる。
当たり前だけど、専門性が増すから、そういう組織運営に変わるわけだ。
長年ピラミッド組織で働いているサラリーマンの皆様。
マトリックス組織は、恐るるにたらぬ。
あなた自身が経験した通り、子供でも普通にやっていけます。
そんなマトリックス組織でリーダーとなるのも、恐れる必要はありません。
何かと問題視されがちな学校教員の方々が、やりこなしているのですから。
ということで、学校方式でやってみませんか、ね、社長!
※ハミ出し
マトリョーシカ組織というのも思いついた。
一人、詩吟漫才の「あると思います」が聞こえた気がしたのでググッてみたら、珍しくノーヒットワードでした。( " ダブルクォーテーションで括って検索ね。)
そりゃそうだ。単に語感で思いついたのだから。
同様にアズマックス組織とかクリスマス組織とかリトマス組織も無い。
月曜日, 9月 26, 2011
サルでもわかる"文化"の説明
日本文化、地域文化、企業文化、組織文化。。。。
文化の融合、文化の違い、文化摩擦、、、
なあんて、カンタンに「文化」という言葉を使っているけど、じゃあ「文化って何?」と聞かれると答えに窮する人が多いのではないだろうか。
少なくとも私はそうだった。
Wikipediaでも、「人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のことである。」なあんて、読まなきゃ良かったと思うような解説っぷりだ。
そんな僕にもわかる、五匹のサルの実験、という話がある。
これを聞いて、僕の中の文化に対する何かが変わったので書き留めておく。
まず、この話、何処かの誰かの実験結果らしいのだけど、いつ/誰の実験なのか確認できなかったので、まずは、寓話かもしれないとお断りしておこう。
サル周辺には寓話も多いのだ。
100匹のサルという、実しやかに喧伝されている話は、どうも、話し手や聞き手の期待が込められた寓話みたいだ。
話戻って五匹のサル。
この話、それにしても、文化が何ぞや、を理解するには、良くできた話だ。
この話とは、
①文化の発端(学習フェーズ)
・五匹のサルの檻の真ん中に、天井からバナナを吊るす(飛び上がっても届かない)
・続いて檻の真ん中にテーブルを置いてあげる(テーブルに乗って飛び上がれば届く)
・しばらくすると五匹のうちの一匹がテーブルに乗って飛びつこうとする
・バナナに手が届きそうになるとテーブルのサル目掛けて冷水が浴びせられる
・サルは驚いてテーブルから飛び降り離れる。
・時間をおいて他のサルもチャレンジするが、やはり、水を浴びせられ断念する
②定着フェーズ
・なんどか代わる代わるチャレンジするが、やはり、水を浴びせられ断念する
・とうとうと、誰もチャレンジしなくなる
③事実の伝達フェーズ
・五匹のサルのうち一匹を他の檻のサルと交代させる(冷水事件を知らないサルが加わる)
・新たに加わったサルがバナナを取りにテーブルに近づこうとすると、他の四匹のサルが、激しく引き止め諦めさせる
・しばらくしたら、元々いた四匹のうちの一匹を他の檻のサルと交代させる(冷水事件を知らないサルが二匹になる)
・やはり、新たに加わったサルがバナナを取りにテーブルに近づこうとすると、他の四匹のサルが、激しく引き止め諦めさせる
・同じように元々いたサルを一匹ずつ交代させていく。
・とうとう、最初の冷水事件を知らないサルだけ五匹になる。
④文化としての継承フェーズ
・とうとう、最初の冷水事件を知らないサルだけ五匹になり、その一匹を、やはり他の檻の冷水事件を知らないサルと交代させる。
・やはり、新たに加わったサルがバナナを取りにテーブルに近づこうとすると、他の四匹のサルが、激しく引き止め諦めさせる
面白い。
最後は、誰も冷水のことは知らないのに、あのバナナにはチャレンジしないのがその群れの文化となっている。
事実はどうであれ守ろうとしてしまうのが文化なのだ。事実は変化しても、だ。
※あくまで、文化の一面を言っています。
サルとは違う人間の世界。
変革を望む組織のうち変革に成功する確率、という事を丹念に調査した結果がある。
成功の確率は10%程度なんだそうだ。
ま、概ね、「変革はできない」ということだ。
変革したくない行動を取り続けながら「変革したい」なんていう話はゴマンとある。
これが上位のマネジメントだと厄介だ。
変革したくない行動を取り続けながら「変革が進んでいない!」なんて、成果が見込まれない仕事が降ってきたりすることも少なくない。
興味深いのは、「変革のためにしてはいけないこと」も「変革へのステップ」も、充分に研究されているのに、90%の組織で変革は失敗する。
一方で、成功する10%の多くは、そんな研究など知らずに成功しているのだ。
要するに本気かどうか、なのだろう。
実績のある方法も、成果の出ている研究結果も、90%の組織では実践されない。
同様に10%の組織では、無意識的に、必然的に、同じような成功プロセスをたどるのだ。
事実や理屈ではない、それこそ文化が文化たる所以だ。
※ハミ出し
じゃあ、成功した10%の共通点は、何はなくとも最初に「危機感を共有」したのだそうだ。
VISIONなんか後回し、でいいらしい。まずは、危機感、なのだそうだ。
五匹のサルだって、餌が、吊るされたバナナだけになれば、万難を排してチャレンジしただろう。納得。
↓変革について詳しい本。
月曜日, 9月 05, 2011
世界大会あれこれ
まずは、ホームレスの人達のワールドカップ。
ワールドカップなんだから世界大会で、今年はパリで開催された模様。
50カ国もの国からホームレスのチームが集まったらしい。
日本チームのオフィシャルサイトはこちら。
野武士ジャパン!http://www.nobushijapan.org/
もう一つの世界大会は、リーダーシップ世界大会。
http://www.allleaders2011.com/
トップページには、
「一人のリーダーの声を聴き、それに従う時代は終わろうとしています」
とある。
そして、多様性(一人一人のユニークさ)を活かして全体が共鳴できるリーダーシップの形があるのだという。
「地球交響曲」の映画監督が、分科会ではpatagoniaの日本支社長が、と、なかなか興味深い人達の生の声を聞くことが出来る。
これは、勝ち負けのない世界大会なんだなぁ。
日曜日, 8月 14, 2011
新しい伝承の形
盛岡に古くからある「修道院ガレット」。
修道女達の高齢化に、存続を危ぶむ声もあった。
意外にこのお菓子づくりは力仕事なのだ。
彼女たちは、少なからず地元に愛されるこのお菓子の存続を、その辺りのお菓子やさんには託さなかった。
ビジネス以前に、このお菓子作りに心を込められる人に託そうとした。
何年も何十年も守りぬいた味も品質も持続できる人達に託そうとしたのだ。
そしてそれは、ハンディキャップの人達のための作業所に託された。
彼らは、もとよりそんな経験はない。
同じように作れるようになるまで、気の遠くなるような日々が続いた。
何度も何度もチャレンジが続いた。
そして、ある日、ようやく今までと同じガレットが作れるようになった。
昔ながらの製法は、受け継がれ、昔から変わらぬ素朴な味を今も楽しめる。
洒落たパッケージにもならず、値段も変わらず、置いてある店も変わらない。
ややこしい権利や法律で守るより、作るものの気持ちを伝承する、こんな方法は、意外に、企業化よりも持続可能性は高いかもしれない。
盛岡の昔からのデパートで売ってます
木曜日, 8月 11, 2011
からくり人形
先日、テレビで昔のからくり人形を紹介していた。
あの、日本人形が、スルスルと動き、お茶を運んで持ってくるやつとか、
同じく日本人形が矢を取り、弓を引きながら狙い定める微妙な頭の動きと共に矢を放つ、そんなやつ。
100年以上前のからくりが、今も、そうやって動くこと事態、相当丁寧にメンテナンスしてあるのだろう。
話変わって、最近急速に個人的に興味のある「チームビルディング」。
言葉にするのが大変難しいのだけど、僕のイメージはこうだ。
まず、チーム。
一人一人がいろんな素材の軸、軸受、歯車で構成され、チーム全体がギアボックスとなって、最終的な「チームの歯車」を回していく。
チーム全体のやや大きな歯車は、他のチームの歯車と連動し、それ全体が大きなギアボックスになって、「組織全体」の力として外に力を伝えていく。
個々人からチーム、組織、そして、社会へとその歯車やギアボックスはより大きな歯車やギアボックスに力を伝え合っている。
とても複雑で、実に美しい歯車のイメージだ。
企業のギアボックスから飛び出ている歯車は、なかなか強力だ。
硬い鉄、いや、企業によっては、強固なチタン製の歯車。
これが、ガシガシと強力に他の企業や社会へとつながる歯車達を回していく。
よく見ると、同じように他の企業や社会へと繋がっている大きなギアボックスが他にもたくさんある。
あるものは、立派なチタンの歯車なのに、回転はとてもゆっくりだ。
あるものは、ところどころ欠けている木の歯車だけど、なかなかスムーズに回っている。
その中から、一つのギアボックスを開けてみる。
事業部ギアボックスや○○部ギアボックスが複雑に接続している中に、小さめの「チーム」ギアボックスがある。
「チーム」ギアボックスを開けてみる。
ようやく、一人一人個々人の歯車が顔を見せる。
個々人の歯車となると、一気に、バラエティに富んだ様相を呈する。
軸も様々だ。
樹の枝がそのまま軸になっていたり、向こうの軸はストローみたいな筒になっている。
とりあえず、軸受には収まっているものの、歯車も様々だ。
大体が、歯車らしい形ではない。
どうにかこうにか、隣の歯車らしいモノに接触している。
柔らかいスポンジ様の歯車が見える。おっと、これは、隣の固い真四角の歯車を撫でてるだけだ。
軸受がすっかり斜めに傾いて、どの歯車にも接触せずに空回りしている歯車もある。
そんなイメージ。
歯車やギアボックスならイメージしやすい。
普段は油をさすぐらいで良いかもしれないが、定期的に、全体のメンテナンスが必要だ。
全ての歯車を外し、軸受の向きを直し、必要なら歯の補修をして、元の位置に丁寧にセットする。
チーム全体のスピードや力の向きを変えるなら尚更だ。
必要に応じて、歯車の大きさを変えたり、軸の向きを調整したり、調整の後は、慣らし運転だって必要になる。
そんな風にチームや組織の様子が歯車に見えたらいいのに。
先の古いからくり人形が今も動くのは丁寧なメンテナンスはもちろん、誰かが愛情を持って維持管理しているのだろう。
油もドライバーも持たずに、乱暴にボックスを叩くしか脳のない人を、エンジニアとは呼ばない。叩くだけならサルでもできる。
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