ミヒャエル・エンデ(1929-1995)「モモ」をいまさら読みました。
この歳になってしまったけど、出会えてよかった本でした。
子供向けの読み物なので読みやすいし、なにしろ読んでいて楽しい。
そして、時間に追われる大人こそ、一度立ち止まって読むべき内容でした。
子供時代に読んだ人も、今、改めて読むと違う読み物として考えさせられると思います。
素敵な時間(人生)をありがとう!!と言わずにいられない気持ちになります。
そういえばウルグアイのムヒカ元大統領(1935-)も同じような事を言っていたなー。
本にはかなわないけど、朗読で楽しむのもあり。↓山崎努や森繁久彌出演って!!
エンデが言いたかったこと、を丁寧にまとめた番組。
いびつな通貨経済への対抗策として、地域通貨の事例などとても興味深い番組です。
ハナキンですね~。良い週末を~
金曜日, 2月 17, 2017
月曜日, 2月 06, 2017
好きなCMと好きな映画
昔から大好きなCMがあります。これです。
で、ずーっと、この元となったと思っている映画のシーンはこれです。
大好きな映画。僕の生涯ベスト3に入る映画。1979年公開のアメリカ映画。
で、思い立って、タケモトピアノのCMがいつから放映されているか調べてみたら、1997年とのこと。(wikipedia)
制作会社はCandy Film inc.という大阪の会社が手がけたCMらしい。どんな人が作ったのか、All That Jazzをどんな思いで観たのか、聞いてみたいけど誰が作ったのかまではわからなかった。
ネットでは「パロディ」とも「インスパイア」とも言われているけど、僕には似ていることでネガティブな印象はない。だって、どっちも好きなのだから。
今夜は久しぶりにAll That Jazzでも観ようかな。
で、ずーっと、この元となったと思っている映画のシーンはこれです。
大好きな映画。僕の生涯ベスト3に入る映画。1979年公開のアメリカ映画。
で、思い立って、タケモトピアノのCMがいつから放映されているか調べてみたら、1997年とのこと。(wikipedia)
制作会社はCandy Film inc.という大阪の会社が手がけたCMらしい。どんな人が作ったのか、All That Jazzをどんな思いで観たのか、聞いてみたいけど誰が作ったのかまではわからなかった。
ネットでは「パロディ」とも「インスパイア」とも言われているけど、僕には似ていることでネガティブな印象はない。だって、どっちも好きなのだから。
今夜は久しぶりにAll That Jazzでも観ようかな。
木曜日, 1月 19, 2017
日曜日, 11月 15, 2015
火曜日, 10月 13, 2015
木曜日, 5月 10, 2012
1Q84の表紙
1Q84
だいぶ前、1年以上も前に古本屋で手に入れた「1Q84」のハードカバー。
結局、一度も開かないまま、部屋の隅に置いてあった。
ハードカバーは、なかなか持ち歩いて読もう、という気にならないのだ。
以外なものが、そんなハードカバーを読むきっかけを作ってくれた。
今ハマっているTEDだ。
ハードカバーの表紙を作っている人(Chip Kidd)のプレゼン。
そもそも、本の表紙を作っている仕事、という仕事を意識したことがない。
でも、世の中の本全ては、誰かが表紙を作っているのだ。
残念なのは彼は米国英語版の表紙を担当しているということ。
私が持っていた日本語(原語なのに)のハードカバーは、彼のデザインした表紙ではない。
もちろん、日本語版の表紙も、誰かがよくよく考えてのデザインだとは思うし、デキが悪いわけではない。
まぁ、米国英語版の出来が良すぎた感はあるが。
私とは別の観点で電子ブックに批判的なのも好印象だ。
で、1Q84。
うーん、面白かった。アニメ化(実写化ではない)されたら良いかもしれない。
引きこまれただけに、ストーリーの最後は釈然としないものの、読み終えてからもいろいろ考えさせられたり、ちょっと景色が違って見えたりする、という僕自身の変化を考えれば、やはり凄い本だ。
ハードカバーの重さを忘れさせられる本であるのは間違いない。
(最近、単行本化されたみたい。単行本だと4冊にもなる!)
だいぶ前、1年以上も前に古本屋で手に入れた「1Q84」のハードカバー。
結局、一度も開かないまま、部屋の隅に置いてあった。
ハードカバーは、なかなか持ち歩いて読もう、という気にならないのだ。
以外なものが、そんなハードカバーを読むきっかけを作ってくれた。
今ハマっているTEDだ。
ハードカバーの表紙を作っている人(Chip Kidd)のプレゼン。
そもそも、本の表紙を作っている仕事、という仕事を意識したことがない。
でも、世の中の本全ては、誰かが表紙を作っているのだ。
残念なのは彼は米国英語版の表紙を担当しているということ。
私が持っていた日本語(原語なのに)のハードカバーは、彼のデザインした表紙ではない。
もちろん、日本語版の表紙も、誰かがよくよく考えてのデザインだとは思うし、デキが悪いわけではない。
まぁ、米国英語版の出来が良すぎた感はあるが。
私とは別の観点で電子ブックに批判的なのも好印象だ。
で、1Q84。
うーん、面白かった。アニメ化(実写化ではない)されたら良いかもしれない。
引きこまれただけに、ストーリーの最後は釈然としないものの、読み終えてからもいろいろ考えさせられたり、ちょっと景色が違って見えたりする、という僕自身の変化を考えれば、やはり凄い本だ。
ハードカバーの重さを忘れさせられる本であるのは間違いない。
(最近、単行本化されたみたい。単行本だと4冊にもなる!)
木曜日, 4月 19, 2012
とりあえず今年一番の映画(プレゼン含む)
ここのところハマっているTED。
TEDのサイトには日本語翻訳されたものも多数紹介されいていて、ここを見ているだけで何日も過ごせそうなほどだ。
二時間もかけてハリウッド映画を観てガッカリするぐらいなら、10分足らずのTEDを見たほうがよほど面白い。
面白いだけにとどまらず感動するプレゼンも多いのだ。
そんな中で先日テレビで紹介された感動するなプレゼンがこれ。
なぜ、このプレゼンはこれほど感動を呼ぶのだろう。
その理由を考えてみた。
・ムーブメントが実際に起きているところを見せられていること
・説明が平易で判りやすいこと
まず、この2つはプレゼンの出来としても欠かせない理由だろう。
さらに、
・僕の興味範囲にマッチしていること
は当然重要だろう。
まだ見逃せない理由がある。
・ムーブメントのきっかけを起こした一人目を「変わった人」と紹介し、最初に踊りに加わった「二人目こそキー」だと紹介していること。
これは、僕にはリーダーシップの本質は「サポートする側」にこそ存在することを表しているように思えてならない。
一人目の"変人"が必ずしもリーダーシップがあるとは限らない。目立ちたいだけで踊り始めたかもしれない。
そして、「リーダーになっちゃうと変質する」人かもしれない。
一方、キーとなった二人目。
二人目は一人目の賛同者であることは間違いない。
二人目は周囲に楽しさをアピールしている。
二人目は「自分が一人目ではない」事を意に介していない。(だから二人目として踊り始めたのだ)
二人目は一人目がいなければ大人しく座り続けていたとおもわれる。
と、よくもまあ、勝手に解釈できるもんだと我ながら感心したのだけど、まぁ、そんなところだろう。
ピュアな一人目が周囲から冷ややかに見られる中で、「これは実は面白いじゃん」と、後押しする二人目こそが、ムーブメントをリードするのだろう。
二人目は、「人をサポートするリーダーシップ」からスタートしているわけだ。
振り返って日本的な社会(会社)。
ムーブメントは非常に起きにくい文化なのは否めない。
・まず、一人目(変人)が許容されない(されにくい)
・変人を支持する二人目も同様に許容されない(されにくい)
だから変人起点のムーブメントは起きにくい気がする。
結果、ジワジワと湧きでてくるような、自然発生的なムーブメントが多いのではないか?
都市伝説・口裂け女とか、そんなのしか思いつかない。←単に僕の知識がないだけだろうが。。。
少なくとも日本ではWindowsもGoogleもiPodもFacebookも産まれてはいない。
二人目をだいぶ持ち上げたが、もちろん、一人目の存在は重要だ。
一人目は言わば、アイデアマンだ。
他の人にない、時に変人呼ばわりされるほどのユニークな発想と行動。
こーゆー一人目の存在と、その発想を支持し、具現化に惜しみないサポートをする二人目(リーダー)。
こうやってムーブメントは起きていくのだろう。
アイデアマンを拒絶しない、包容力のある社会は素敵だ。
TEDのサイトには日本語翻訳されたものも多数紹介されいていて、ここを見ているだけで何日も過ごせそうなほどだ。
二時間もかけてハリウッド映画を観てガッカリするぐらいなら、10分足らずのTEDを見たほうがよほど面白い。
面白いだけにとどまらず感動するプレゼンも多いのだ。
そんな中で先日テレビで紹介された感動するなプレゼンがこれ。
なぜ、このプレゼンはこれほど感動を呼ぶのだろう。
その理由を考えてみた。
・ムーブメントが実際に起きているところを見せられていること
・説明が平易で判りやすいこと
まず、この2つはプレゼンの出来としても欠かせない理由だろう。
さらに、
・僕の興味範囲にマッチしていること
は当然重要だろう。
まだ見逃せない理由がある。
・ムーブメントのきっかけを起こした一人目を「変わった人」と紹介し、最初に踊りに加わった「二人目こそキー」だと紹介していること。
これは、僕にはリーダーシップの本質は「サポートする側」にこそ存在することを表しているように思えてならない。
一人目の"変人"が必ずしもリーダーシップがあるとは限らない。目立ちたいだけで踊り始めたかもしれない。
そして、「リーダーになっちゃうと変質する」人かもしれない。
一方、キーとなった二人目。
二人目は一人目の賛同者であることは間違いない。
二人目は周囲に楽しさをアピールしている。
二人目は「自分が一人目ではない」事を意に介していない。(だから二人目として踊り始めたのだ)
二人目は一人目がいなければ大人しく座り続けていたとおもわれる。
と、よくもまあ、勝手に解釈できるもんだと我ながら感心したのだけど、まぁ、そんなところだろう。
ピュアな一人目が周囲から冷ややかに見られる中で、「これは実は面白いじゃん」と、後押しする二人目こそが、ムーブメントをリードするのだろう。
二人目は、「人をサポートするリーダーシップ」からスタートしているわけだ。
振り返って日本的な社会(会社)。
ムーブメントは非常に起きにくい文化なのは否めない。
・まず、一人目(変人)が許容されない(されにくい)
・変人を支持する二人目も同様に許容されない(されにくい)
だから変人起点のムーブメントは起きにくい気がする。
結果、ジワジワと湧きでてくるような、自然発生的なムーブメントが多いのではないか?
都市伝説・口裂け女とか、そんなのしか思いつかない。←単に僕の知識がないだけだろうが。。。
少なくとも日本ではWindowsもGoogleもiPodもFacebookも産まれてはいない。
二人目をだいぶ持ち上げたが、もちろん、一人目の存在は重要だ。
一人目は言わば、アイデアマンだ。
他の人にない、時に変人呼ばわりされるほどのユニークな発想と行動。
こーゆー一人目の存在と、その発想を支持し、具現化に惜しみないサポートをする二人目(リーダー)。
こうやってムーブメントは起きていくのだろう。
アイデアマンを拒絶しない、包容力のある社会は素敵だ。
火曜日, 4月 10, 2012
内向的な人、外交的な人
随分前にTED(Technology, Entertainment, Design)サイトで見たプレゼン。
最近、たまたまもう一度見る機会があって、これは「一生もんだな」と思えるようになったプレゼン。
多分、前に見たときは、翻訳テロップが無かったのかいい加減に聞いていたんだろう。字幕って素晴らしい。
このプレゼン、外交的な性質を指して「あの人はリーダーシップがある」という世間一般の評価によって失われるものが多いという話。
そもそも外交的か内向的かという話と、リーダーに相応しいかどうか、は、関係ないのだ。世間(僕も含めて)は誤解しているのだ。
ところが人は、昔ながらのリーダーっぽいリーダーに、押し付けがましいと思いながらも安心感を感じることもある。
また、そんなリーダーは「概ね失敗」という経験も、もう、嫌というほど味わっている。
特に近年は惨憺たる状況だ。
なのに、未だにリーダーっぽいリーダーに安心感を感じているのは、単に、「リーダーっぽくない優秀なリーダー」を見聞きする機会が失われているからだろう。
平和な時代が続き、国や地方組織や企業が安定的拡大を続けた結果、「リーダーっぽくないリーダー」が台頭できる余地は殆どなくなっているように見える。
特に日本では顕著だ。
"国"という単位で考えた場合、政治家や官僚機構は国のリーダーシップの象徴だ。
そして、リーダーに相応しい学歴はもちろん、華々しい経歴や家柄は申し分ない。
しかし、尊敬できない。
子供にオススメの現存する政治家はいないのが現実だ。
※立派な、とか、影響力がある、とか、心の尊敬とは別の次元ではあるだろうが。
そんな事を考えさせるプレゼンなのだ。
と、同時に、自分の生き方や、自分が外交的なのか、外交的に見えるように振舞っているのか、を考えさせるプレゼンなのだ。
そんな世の中の傾向や、それによって失われている社会全体の損失を、とっても優しい言葉で、丁寧に、心に響く言葉で語るプレゼンがこれ。↓
うーん、TEDで、こんな普通っぽい人がプレゼンするのがイイ!
奇跡のチームワークやイノベーションは、そこに関与するすべてのメンバー一人一人がリーダーシップを担って実現する、ということには異論がない。
が、旧来からのリーダーっぽいリーダー達が、旧来のリーダーっぽさでリーダーを担っている限り、奇跡の瞬間は訪れない。
改めてサーバントリーダーシップ、しか答えはないと確信。
外交的な人がリーダーに向かない、という話ではない。
外交的であれ、内向的であれ、リーダーは「どう振る舞えば良いのか」という話だ。
世の中が、この価値観の共有に向かっていると信じたい。
最近、たまたまもう一度見る機会があって、これは「一生もんだな」と思えるようになったプレゼン。
多分、前に見たときは、翻訳テロップが無かったのかいい加減に聞いていたんだろう。字幕って素晴らしい。
このプレゼン、外交的な性質を指して「あの人はリーダーシップがある」という世間一般の評価によって失われるものが多いという話。
そもそも外交的か内向的かという話と、リーダーに相応しいかどうか、は、関係ないのだ。世間(僕も含めて)は誤解しているのだ。
ところが人は、昔ながらのリーダーっぽいリーダーに、押し付けがましいと思いながらも安心感を感じることもある。
また、そんなリーダーは「概ね失敗」という経験も、もう、嫌というほど味わっている。
特に近年は惨憺たる状況だ。
なのに、未だにリーダーっぽいリーダーに安心感を感じているのは、単に、「リーダーっぽくない優秀なリーダー」を見聞きする機会が失われているからだろう。
平和な時代が続き、国や地方組織や企業が安定的拡大を続けた結果、「リーダーっぽくないリーダー」が台頭できる余地は殆どなくなっているように見える。
特に日本では顕著だ。
"国"という単位で考えた場合、政治家や官僚機構は国のリーダーシップの象徴だ。
そして、リーダーに相応しい学歴はもちろん、華々しい経歴や家柄は申し分ない。
しかし、尊敬できない。
子供にオススメの現存する政治家はいないのが現実だ。
※立派な、とか、影響力がある、とか、心の尊敬とは別の次元ではあるだろうが。
そんな事を考えさせるプレゼンなのだ。
と、同時に、自分の生き方や、自分が外交的なのか、外交的に見えるように振舞っているのか、を考えさせるプレゼンなのだ。
そんな世の中の傾向や、それによって失われている社会全体の損失を、とっても優しい言葉で、丁寧に、心に響く言葉で語るプレゼンがこれ。↓
うーん、TEDで、こんな普通っぽい人がプレゼンするのがイイ!
奇跡のチームワークやイノベーションは、そこに関与するすべてのメンバー一人一人がリーダーシップを担って実現する、ということには異論がない。
が、旧来からのリーダーっぽいリーダー達が、旧来のリーダーっぽさでリーダーを担っている限り、奇跡の瞬間は訪れない。
改めてサーバントリーダーシップ、しか答えはないと確信。
外交的な人がリーダーに向かない、という話ではない。
外交的であれ、内向的であれ、リーダーは「どう振る舞えば良いのか」という話だ。
世の中が、この価値観の共有に向かっていると信じたい。
土曜日, 3月 10, 2012
定番の面白さ「Goal!」、定番のつまらなさ「Goal2」「Goal3」?
定番の面白さ「Goal!」、定番のつまらなさ「Goal2」「Goal3」
映画(主にDVDだけど)の中に「定番」というジャンルがある。
TSUTAYAにそんなコーナーはないけど、普遍的なストーリーっていうやつ。
一昨年だったか、マイNo.1だった「オーケストラ」なんかも定番だろう。
先の読めないストーリー展開や奇をてらった映像があるわけではなく、悪く言えば「予想通りのストーリー展開と地味な映像」なのだけど、心を動かされた。良かった。
多分、演技、シナリオ、映像、音楽、映画の要素すべてが地味でも高い完成度なら、総合的に感動をもたらして、「良い映画」という評価を得られるのだと思う。
と同じように、「定番でも良作」だったのが「Goal!」だ。
これ、あるのは知ってたけど、手に取ることはなかった。なんとなく内容は想像できるし、そこまでサッカーに入れ込んでいるわけじゃないし、(観て知ったのだが)ベッカムやジダンが出演したからと言って観る気にはならないし、要するに、興味なかったわけだ。
それが、久しぶりに非TSUTAYAの近所のビデオ屋さんに行って、なんとなく、本当になんとなーく借りた。
恐ろしく暇な雨の日曜日の午後、そんなこともある。
そして、観ました。
特に、この映画を観たいっていうモチベーションは無かったから、ワクワクも何もなく、淡々と見始めました。
そして、2時間。
映画の後半では、おもいがけず没頭し、涙し、歓喜している自分がいるのでした。
単に歳で定番に弱くなったのかも知れません。
が、良かったところを忘れないように書いておこう。
・イギリス映画らしい"良い暗さ"があること。
きっと偏見だと思うけど、ハリウッド映画のようなベターッとした感じの色合いがなくて見やすい。
・良い違和感。ちょっと古臭い価値観を大切にしていること
ほっとするシナリオです
・迫力あるサッカーシーン
僕のような素人には充分。「おぉっ」「ヒュー」とか思わず声が出ます。
・自然なヒロイン
ここに有名女優や友情出演の大女優なんかが当てられてないのが良い。可愛らしいヒロインでした。
・面倒くさくないゲスト出演
ベッカム他有名選手が登場するんだけど「チラッ」という感じで、まぁ、じゃまにならなかった。
・そして音楽もよい。やっぱりブリティッシュロックだよ。誰の曲かは知らないけど。
音楽のコダワリは音響にも現れていた。
音声オプションを見ると、英語/日本語に並んで「英語DTS」というオプションがあります。
(これ、通常のドルビーデジタルより音声の品質が高い。)
この定番映画が、多分、いい感じでヒットしたのだろう。続編がある。「Goal2」と「Goal3」だ。
これがイケてナイ。2は観たが3はまだ観ていない。2のイケてなさで3を見る気にならないのだ。
2のイケてなさも書いておこう。
・イギリス映画の"良い暗さ"が無くなったこと。
詳しくはわからないが、予算があると何か変わるのか、とにかく普通の映像になりました。
・良い違和感が無くなった。全く想定通りのシナリオ展開。
全く違和感がないとつまらないんだなー。
・迫力出し過ぎのサッカーシーン
ボールがミサイルのように飛んでいく戦隊レンジャーものでも見てるようなシーン。笑うしかありません。
・可愛らしいヒロインは変わらず良かった。
・面倒くさいゲスト出演
ジダンだのベッカムだの多数出演。
それほど必要のないシーンで素人の演技バリバリ。
・音楽までイマイチ
音響のオプションも無くなってますね。ここは予算を削るんだねー。
多分、"2"は緻密なマーケティングの結果を反映させたと思われるので成功したのでしょう。
ということは、"3"では、更にイケてなさ爆裂の映画となっていると思われます。
(と予想しましたが、世間はそこまでマーケティングに踊らされては居なかった模様。
実際は"2"は制作が遅れに遅れどうも興行的にはうまくいかなかったようです。
そして、"3"は日本では劇場公開すら見送られたようです。)
そのうちイケてなさ爆裂映画"3"も見てみるか。
金曜日, 3月 09, 2012
3/11特番はネットで
↑の動画。
3/11に、このドキュメンタリー「僕らはみんな放射能」の"第一話"が配信される。
3/11は、大手メディアがこぞって(テレビ東京を除く)特集番組を組んでいるが、正直、既存メディア、中でも民放のドキュメンタリーで、どこまで真に迫れるのか疑問だ。
画面に映る食卓のジュースにモザイク入れる暇があったら、もっと、真摯に丁寧に、伝えて欲しい。
そんな中、このネット番組は期待できそうだ。
きっと、ジュースにもモザイクが入らないだろうから観てみようかな。
【制作スタッフ】
企画は米国在住の日本人ジャーナリスト
監督はネットビデオ制作の名手と名高い米国人(多分)
編集は映画製作に携わる日本人
同じく編集に英国アカデミー賞受賞経験をもちBBCドキュメンタリー制作なども手がけてきた製作者
撮影クルーとは別に被災地のサーファー兼アクティヴィスト(復興活動家)が地元で長期に撮影
第一話はこちらに公開される。(3/11より)
http://weareallradioactive.com/
多分、というか当然、この番組は3/11以降も見ることが出来るだろう。
で、評価が高ければ続編の公開も期待できそうだ。
ジュースの消し込みなんかしている場合ではない。
※はみ出し
最近の「テロップだらけ」「スポンサーに気兼ねして飲料はボカす」「とにかくCMを挟み込む」という視聴者完全無視のテレビ番組はいらない。そのテの番組のスポンサーも気がしれない。
月曜日, 3月 05, 2012
対話の力(かなり強力)
以前、"対話を体験する"研修を体験したことがある。
一見すると利益相反する課題を抱える二者が、お互いの置かれた立場を理解し話し合うことで、相反する課題とされた事が見事にお互いの協力で解決できる、という研修。
この研修でも「対話」の持つ力を体験できたのだけど、そんなヤワな話ではなく、血で血を洗うような戦いのさなかに対話を始め、数年かけて一致団結できる所までを描いた映画を観た。
「Endgame」という映画。
南アフリカのアパルトヘイト廃止の道筋をつけた「対話」がテーマ。
マンデラが30年にも渡って収監されていた当時、秘密警察まで動員して圧政を続けるボタ政権と黒人の解放を訴えるANC(アフリカ民族会議)との対立は血で血を洗うような状況に陥っていた。
ここまでは、今も世界中あちこちで渦巻く対立の図と何ら変わらない。
出口の見えない、としか思えない中、イギリスの一人の民間人(南アに進出している英国企業の若手社員)マイケル・ヤングが、対立する二者の「対話」を取り持っていく。
誤解を恐れずに言ってみれば※、彼は、南アの安定を望むイギリスの会社のサラリーマンで、やったことは、それぞれの利益代表者間の対話の場をセットしただけだ。
※実際は、利益代表者の選出から自分を含めた関係者の身の安全、会議そのもののコーディネートと、縦横無尽の活躍をする。
そして、その対話は、敵対する二者が、お互いの置かれた状況を理解し、最後にはお互いを尊敬し合う関係へと発展していく。
そして、政権交代と共に訪れるアパルトヘイト廃止。
もちろん、マンデラとデクラークいう稀有なリーダーの存在に負うところも小さくない。
が、ある日突然トップが「相手を信じる」と言っても周りは付いていけない。
場合によっては数年にも渡る「対話」があってこその理解と信頼、そして、対話を通じて得た確信が必要不可欠だ。
その対話があったからこそ、大きな混乱なくアパルトヘイト廃止が実現されたのだろう。
ということで振り返って自分。
家庭を崩壊させないような「対話」を実践しなければならない、のだが、肝心の家庭が無い。
仕方ない。まずは自分との対話を心がけてみよう。か。
※以前観たアパルトヘイトを皮肉ったSF映画「第9地区」。これもエンドゲームと同じ2009年の作品。
金曜日, 2月 17, 2012
1800年奴隷貿易廃止、2001年エンロン崩壊
『アメイジング・グレイス』(原題: Amazing Grace)を観た。
その翌日、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』 (Enron: The Smartest Guys in the Room)を観た。
二つの映画の舞台は国も違えば200年もかけ離れた時代なのだけど、どちらも、今この時点でも学ぶべき点が多い映画だ。
例によってあらすじは→
アメイジング・グレイス
エンロン
僅か数年前のドキュメンタリー、エンロン。
ありとあらゆる、会計、経営指標、マスコミ対策、などなどのテクニックを駆使、そのテクニック自体がイノベーションとも言えるほど独創的なのだけど、肝心の実業部門は全くの大赤字。
全てのテクニックは、大赤字を隠すために創りだされたのだ。
要するに「詐欺」だ。
自社や関係会社の社員数万人を失業させ、詐欺と知っていながら関わった"同じ穴のムジナ"「証券会社」「監査法人」「法律事務所」なども事件が解明されるとともに多くがその事業を潰すこととなった。
そして、破綻発覚と時を同じくして経営陣の一人「経理責任者」が自殺(とされている)している。
一番ショックなのが、エンロンがM&Aを繰り返す中、堅実な電力工事事業を手がける会社を買収する話だ。
何十年もその会社で電力工事をする年配の作業員。日々トラックで現場を回って修理に追われている。
その電力工事会社がエンロンに吸収され、ほどなくして、エンロンは破綻する。
数十年、日々マジメにリアルに働いていた作業員。
彼の数十年の年金も積み立てていた退職金も吸収先の見知らぬ会社の不正で消えてしまう。
一方、エンロンの中枢にいた人の多くが破綻の匂いを嗅ぎつけると同時に、高額な退職金と共に会社を去ったり、自社株を売り抜けたり、とにかくケタ違い(数十億円、百億円を超す人も)の資産を築いているのだ。
その高額の収入・資産は、前述の現場の人達が数十年もかけて積み立てたものが含まれている。
一般的には、これは例外的な企業の話、とされている。
しかし、具体的に法を犯していないだけで、数年間の赤字を続けて高額の退職金を得て退任する社長の話なんてゴロゴロ転がっている。
今月退任を発表した名士ハワード・ストリンガーさんは、この7年間の年俸は8億円だったそうだ。
7年で数十億円の収入を得たわけだ。
そんな彼がこの7年間社長を務めたソニーの直近の4年間は赤字だ。昨年は2200億円の赤字だそうだ。
去年話題になったアメリカの自動車業界もそんな感じだった。
倒産寸前なのにプライベートジェットで税金投入をお願いに来ていた。
これはさすがにメディアに叩かれたけど、高額の報酬を返還したというニュースは聞かない。
プロジェクトマネジメントであれば、「与えられたリソース(人・モノ・金)」の制約の中で目的を達せなければならない。
が、社長業には、「前提を覆す(与えられたリソースを削る/増やす、目的を変更する)」権限が与えられ、その上、成果が出なくてクビになっても一生どころか何世代も安泰の報酬が支払われる。
先ほどのエンロンのM&Aに応じた電力工事会社の経営陣は、買収の結果一財産を築いたかもしれない。
悪意はなかったとは思うが、結果、社員の個人的資産をマネーロンダリングして自分の資産にしてしまったわけだ。
暴力で他人に金を出させる。
錯覚を利用して振り込ませる
投資と称して払わせる。
預貯金の管理団体(退職金積立や年金基金とか)ごと吸収して払わせる。
目に見える暴力がないだけ、迂回しているだけで何ら変わらない。
日本の"消えた年金"も構造は同じなんだろう。
。。。
200年前のドキュメンタリー、アメイジング・グレイス
エンロンを観る前日に、たまたま「アメイジング・グレイス」を観ていた。
これは、数百年続いた奴隷貿易廃止に貢献したウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いたものだ。
200年前のイギリス。
当時は正当な経済活動とされていた奴隷貿易を「人道に反する」として、その歴史を転換させた話。
ちなみに、有名な歌「アメイジング・グレイス」は賛美歌のメロディーに奴隷船の船長が自らの罪を悔いて歌詞を付けたものだそうだ。
当時の奴隷船は、長い航海中に拘束された奴隷たちの半分以上が航海中に死んで捨てられる事も少なくなかったという。
女性の奴隷は拘束したまま船員に暴行され、海が荒れると船を軽くする為に弱っている奴隷を捨てる、それが奴隷貿易の現場だったのだ。
。。。
現場を見れば、本質がわかる。
億万長者、の懐に入ったお金が何処からきたのか、がとてもとても重要だ。
今の時代、ましてや先進国で人道に反する社会なんてあり得ないと「無視」するのは簡単だ。
今の常識では、経済弱者と奴隷は違う、と感じるだろう。
でも、お金に魅入られた人達は、経済弱者から更にお金を吸い上げても全く気にしない。
その結果、現場で何が起きているかなど気にしてられない。
これは、奴隷貿易が当たり前だった時代に、奴隷とされた同じ人間を、家畜のように扱ったていた社会と大した差はない。
みんな何が起きているか、知らないふりをしているだけ。
100年か200年後、いや、数百年後かもしれないが、今常識とされるM&Aなど企業活動のあり方そのものが、
「人道に反する活動」
とされるかもしれない。
※人間は自分の置かれた環境次第で、どこまでも残虐になれるという心理テストがある。
が、一方で、どんな環境にも屈しない人達がいたおかげで、ほんの少しだけ進歩した現代社会があるんだなぁ。
↓この動画はとっても良い
その翌日、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』 (Enron: The Smartest Guys in the Room)を観た。
二つの映画の舞台は国も違えば200年もかけ離れた時代なのだけど、どちらも、今この時点でも学ぶべき点が多い映画だ。
例によってあらすじは→
アメイジング・グレイス
エンロン
僅か数年前のドキュメンタリー、エンロン。
ありとあらゆる、会計、経営指標、マスコミ対策、などなどのテクニックを駆使、そのテクニック自体がイノベーションとも言えるほど独創的なのだけど、肝心の実業部門は全くの大赤字。
全てのテクニックは、大赤字を隠すために創りだされたのだ。
要するに「詐欺」だ。
自社や関係会社の社員数万人を失業させ、詐欺と知っていながら関わった"同じ穴のムジナ"「証券会社」「監査法人」「法律事務所」なども事件が解明されるとともに多くがその事業を潰すこととなった。
そして、破綻発覚と時を同じくして経営陣の一人「経理責任者」が自殺(とされている)している。
一番ショックなのが、エンロンがM&Aを繰り返す中、堅実な電力工事事業を手がける会社を買収する話だ。
何十年もその会社で電力工事をする年配の作業員。日々トラックで現場を回って修理に追われている。
その電力工事会社がエンロンに吸収され、ほどなくして、エンロンは破綻する。
数十年、日々マジメにリアルに働いていた作業員。
彼の数十年の年金も積み立てていた退職金も吸収先の見知らぬ会社の不正で消えてしまう。
一方、エンロンの中枢にいた人の多くが破綻の匂いを嗅ぎつけると同時に、高額な退職金と共に会社を去ったり、自社株を売り抜けたり、とにかくケタ違い(数十億円、百億円を超す人も)の資産を築いているのだ。
その高額の収入・資産は、前述の現場の人達が数十年もかけて積み立てたものが含まれている。
一般的には、これは例外的な企業の話、とされている。
しかし、具体的に法を犯していないだけで、数年間の赤字を続けて高額の退職金を得て退任する社長の話なんてゴロゴロ転がっている。
今月退任を発表した名士ハワード・ストリンガーさんは、この7年間の年俸は8億円だったそうだ。
7年で数十億円の収入を得たわけだ。
そんな彼がこの7年間社長を務めたソニーの直近の4年間は赤字だ。昨年は2200億円の赤字だそうだ。
去年話題になったアメリカの自動車業界もそんな感じだった。
倒産寸前なのにプライベートジェットで税金投入をお願いに来ていた。
これはさすがにメディアに叩かれたけど、高額の報酬を返還したというニュースは聞かない。
プロジェクトマネジメントであれば、「与えられたリソース(人・モノ・金)」の制約の中で目的を達せなければならない。
が、社長業には、「前提を覆す(与えられたリソースを削る/増やす、目的を変更する)」権限が与えられ、その上、成果が出なくてクビになっても一生どころか何世代も安泰の報酬が支払われる。
先ほどのエンロンのM&Aに応じた電力工事会社の経営陣は、買収の結果一財産を築いたかもしれない。
悪意はなかったとは思うが、結果、社員の個人的資産をマネーロンダリングして自分の資産にしてしまったわけだ。
暴力で他人に金を出させる。
錯覚を利用して振り込ませる
投資と称して払わせる。
預貯金の管理団体(退職金積立や年金基金とか)ごと吸収して払わせる。
目に見える暴力がないだけ、迂回しているだけで何ら変わらない。
日本の"消えた年金"も構造は同じなんだろう。
。。。
200年前のドキュメンタリー、アメイジング・グレイス
エンロンを観る前日に、たまたま「アメイジング・グレイス」を観ていた。
これは、数百年続いた奴隷貿易廃止に貢献したウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いたものだ。
200年前のイギリス。
当時は正当な経済活動とされていた奴隷貿易を「人道に反する」として、その歴史を転換させた話。
ちなみに、有名な歌「アメイジング・グレイス」は賛美歌のメロディーに奴隷船の船長が自らの罪を悔いて歌詞を付けたものだそうだ。
当時の奴隷船は、長い航海中に拘束された奴隷たちの半分以上が航海中に死んで捨てられる事も少なくなかったという。
女性の奴隷は拘束したまま船員に暴行され、海が荒れると船を軽くする為に弱っている奴隷を捨てる、それが奴隷貿易の現場だったのだ。
。。。
現場を見れば、本質がわかる。
億万長者、の懐に入ったお金が何処からきたのか、がとてもとても重要だ。
今の時代、ましてや先進国で人道に反する社会なんてあり得ないと「無視」するのは簡単だ。
今の常識では、経済弱者と奴隷は違う、と感じるだろう。
でも、お金に魅入られた人達は、経済弱者から更にお金を吸い上げても全く気にしない。
その結果、現場で何が起きているかなど気にしてられない。
これは、奴隷貿易が当たり前だった時代に、奴隷とされた同じ人間を、家畜のように扱ったていた社会と大した差はない。
みんな何が起きているか、知らないふりをしているだけ。
100年か200年後、いや、数百年後かもしれないが、今常識とされるM&Aなど企業活動のあり方そのものが、
「人道に反する活動」
とされるかもしれない。
※人間は自分の置かれた環境次第で、どこまでも残虐になれるという心理テストがある。
が、一方で、どんな環境にも屈しない人達がいたおかげで、ほんの少しだけ進歩した現代社会があるんだなぁ。
↓この動画はとっても良い
水曜日, 2月 01, 2012
"暗号解読"トピックス 「コンピューターの父と暗号」
20数年前、この業界に入った頃に耳に残っている「コンピューターの歴史上の人物」がいる。
その二人が「暗号解読」でも登場し、スーパースター的な活躍をしていた。
・チャールズ・バベッジ(1791-1871)
"階差機関"という言葉をかろうじて覚えていた、それを作った人。「コンピューターの父」と呼ばれる。
この人が当時「解読不可能」とされ、ヨーロッパ中で使われていたヴィジュネル暗号を解読し、イギリス政府はそれを秘匿する事で数年間ヨーロッパ中の軍事・外交文書他を解読していた、とされている。
・アラン・チューリング(1912-1954)
「計算機科学の父」と呼ばれる。バベッジの概念をより具体化した形式化手法を考えた人とされる。
っていうか、チューリングがコンピューターの父、バベッジがコンピューターの祖父、で良いではないか!?
その人が第二次世界大戦でドイツが使用していた暗号"エニグマ"を解読していた!とは知らなかった。
ついでに、彼は同性愛者だったのだそうだ。これまた驚きだ。
彼がエニグマの解読のために作った「Bombe」という機械は計算を行える機械、コンピューターの原型だったようだが、終戦と共に廃棄されたという。
暗号周辺では、こうやって、闇に葬り去られる技術やヒーローが多い。
第二次世界大戦時の暗号解読組織(英国政府暗号学校:ブレッチレイ・パーク)の活動が1974年に公開されるまでチューリングの功績は一般に知られていなかったのだそうだ。
僕が20数年前に習った「世界最初のコンピューターはENIAC(エニアック)」は、最近では「世界最初の汎用コンピュータ」と言い換えられている。ENIAC以前に同様のマシンがあったからだ。
・チューリングのBombeを作ったイギリス政府の暗号解読組織が1939年にコロッサスという電子機械を開発していたこと。(秘密裏に戦後廃棄されたらしい)
・あるいは、同年、アイオワ州立大学でアタナソフ・ベリー・コンピューター(ABCマシン)が公開されていたのだ。
ということで、今、「未来を変える本当の技術」は、僕らの目に触れない所で粛々と開発され使われているのかもしれない。
現在ネットで使われている暗号技術が全て無になる、と言われる量子コンピューターなんて、既にあるのかもねー。
※軍事/政治的に、暗号解読は、解読できたことを悟られないようにして解読し続けるらしい。
火曜日, 1月 31, 2012
シネコンでの映画の見方
いつからか映画館はシネコンに変わっていった。
もちろん、今でも昔ながらの映画館もあるにはあるが、そっちはミニシアターと呼ばれるようになり、ミニじゃない方はシネコンとなったようだ。
ちなみに、シネコンとはシネマ・コンプレックスらしい。
映画にコンプレックスを抱く症候群のようにも読めるが、このコンプレックスは、"複合の"とかそんな意味らしい。
マザコン的な症候群系のコンプレックスは"感情複合"が元らしいが、ややこしいったらありゃしない。
シネプレックスという呼び名もあるようなのだけど、シネプレだとマクドナルドをマクドと呼ぶ関西地域限定的な感じもしたりしなかったりするので、とりあえず、シネコンに落ち着いたのだろう。
そんなわけで、僕の映画を観る場所は、「部屋」「ミニシアター」「シネコン」のどれかということになる。
●部屋
部屋に関しては、「観たいものを借りてきて(もしくは購入して)観る」となる。
プラスして、飲食しながら、とか、喫煙しながら、とか、自由気ままである。
観る格好も、限りなくだらしない。たいてい、見終わった後立ち上がると、ポロポロと煎餅のカスやピーナッツなんかが床に散らばるのだ。
犬でも飼っていたら、この瞬間はハッピーアワーになること間違いなしだ。
部屋観("へやかん"ではない、"へやみ")に関しては、観たくないものを借りてしまうはずは無さそうだが、ジャケ借りで失敗することも少なくない。
セクシー系と思ったらホラーだったとか、戦争モノだと思ったらホラーだったとか、恋愛モノだと思ったらホラーだったとか、しかも、そのホラーがたいして怖くない上に笑うこともできないとか、そんなケース。
そんな経験から、最近は、"借りる候補"を携帯メールの下書きに書き留めておいて借りる、というパターンが増えた。
50絡みのオジサンともなると反省を活かすことができるのだ。
●ミニシアター
ミニシアターに関しては、「行ってみて面白そうなのを観る」パターンが多い。
そもそも好みが「非ハリウッド」で、ヨーロッパもの、アジアものだったりするので、意外にも外れは少ない。
打率で言えばシネコン(ハリウッドもの)を圧倒し、イチローをも超えている印象がある。
加えて、ミニシアターの場合は、思いがけず監督の舞台挨拶があったり、10数分上映した所で「映写サイズを間違えたのでもう一度最初から映写します」なんて放映事故?があったり、数人しか居ない客の一人の携帯がピピピーと鳴って、「上映中は切っとけよー」なんて思ってたら「もしもし・・」なんて電話に出ちゃう客(ご老人)がいたり、ハプニングも楽しいものだ。
●シネコン
以前は「観たいのをやってるからシネコンに行って観る」というパターンが多かった。
ところが、満を持してのシネコンにもかかわらず、結果、「それほどでも(CMを見て期待したほどでも)無かった」という、残念な結果が続いた。
映画館で見た映画の人生ワーストも去年記録した。→これ
そんなわけで、仕方ないので新たなシネコン活用方法を考え、実践してみたので報告したい。
●(新)シネコンでの映画の見方
最近は、ハリウッドもの中心の大手の映画はどれを見ても大した差はない気がする。
むしろ、事前の宣伝の効果で、その映画に間違った期待をいだいてしまうことが多い。
だから、事前に何を見ようなどと決めてはいけない。
決めないまま、できることなら、今、何が上映されているのか知らないまま、とりあえずチケット売り場に並ぶ。
並んでも気を抜いてはいけない。「何を見ようか」「どれが面白いか」などと邪念に囚われてはいけない。
できるだけ目を閉じて、行列から聞こえてくる囁きにも耳を貸さず、心を無にしよう。
さて、チケット売り場に並んでいたことすら忘れた頃に自分の番になる。
チケット売り場の係員は、こう言うだろう。「何になさいますか?」
そうしたらおもむろに、「次の上映は?」と尋ねる。
質問に質問を返すのだから怪訝な顔をされることもある。
が、気にすることはない。こちらはチケット売り場の係員のバイトを成立させている立場なのだ。
「いや、今から最初に上映開始になるのは何ですか?」と毅然とした態度で問い返すのだ。
「はぁ、次はAKBナンタラで5分後です」とか言われたら、フィーリングで「その次の上映は?」と尋ねる。
「その次はMr.ビーンナンタラで15分後です」とか言われたら、またまたフィーリングで「更にその次の上映は?」と尋ねる。
係員がややイラっとした表情を見せつつ「その次は○△□×で25分後です」とか言われた辺りで、「じゃ、それ」と応えそのチケットを購入する。
それ以上やると、スケジュールを見て決めてから並んでください、と言われかねないし、社会人としてのモラルも問われてしまうので、まぁ、3つが限界だろう。
理想は、一番最初に上映開始になる映画にする、なんだけど、残念ながら小心者の僕はまだ試していない。
(まんが祭りだったら困るし、そもそも、AKBナンタラは映画なのか未だ謎だ。)
結果、やはり、「ま、面白かった」となる。
期待値0からの「ま、面白かった」なので、同じ物を厳選して見て「がっかり」するよりは良いのではないか。
●まとめ
映画のチケット料金は「従量課金制」にならないのだろうか。
10分150円で良いと思う。200円でも良い。
期待に胸を膨らまして、いざ上映開始、、、その10分後に後悔してもJAROに訴えられないのは悔しい。
もちろん、今でも昔ながらの映画館もあるにはあるが、そっちはミニシアターと呼ばれるようになり、ミニじゃない方はシネコンとなったようだ。
ちなみに、シネコンとはシネマ・コンプレックスらしい。
映画にコンプレックスを抱く症候群のようにも読めるが、このコンプレックスは、"複合の"とかそんな意味らしい。
マザコン的な症候群系のコンプレックスは"感情複合"が元らしいが、ややこしいったらありゃしない。
シネプレックスという呼び名もあるようなのだけど、シネプレだとマクドナルドをマクドと呼ぶ関西地域限定的な感じもしたりしなかったりするので、とりあえず、シネコンに落ち着いたのだろう。
そんなわけで、僕の映画を観る場所は、「部屋」「ミニシアター」「シネコン」のどれかということになる。
●部屋
部屋に関しては、「観たいものを借りてきて(もしくは購入して)観る」となる。
プラスして、飲食しながら、とか、喫煙しながら、とか、自由気ままである。
観る格好も、限りなくだらしない。たいてい、見終わった後立ち上がると、ポロポロと煎餅のカスやピーナッツなんかが床に散らばるのだ。
犬でも飼っていたら、この瞬間はハッピーアワーになること間違いなしだ。
部屋観("へやかん"ではない、"へやみ")に関しては、観たくないものを借りてしまうはずは無さそうだが、ジャケ借りで失敗することも少なくない。
セクシー系と思ったらホラーだったとか、戦争モノだと思ったらホラーだったとか、恋愛モノだと思ったらホラーだったとか、しかも、そのホラーがたいして怖くない上に笑うこともできないとか、そんなケース。
そんな経験から、最近は、"借りる候補"を携帯メールの下書きに書き留めておいて借りる、というパターンが増えた。
50絡みのオジサンともなると反省を活かすことができるのだ。
●ミニシアター
ミニシアターに関しては、「行ってみて面白そうなのを観る」パターンが多い。
そもそも好みが「非ハリウッド」で、ヨーロッパもの、アジアものだったりするので、意外にも外れは少ない。
打率で言えばシネコン(ハリウッドもの)を圧倒し、イチローをも超えている印象がある。
加えて、ミニシアターの場合は、思いがけず監督の舞台挨拶があったり、10数分上映した所で「映写サイズを間違えたのでもう一度最初から映写します」なんて放映事故?があったり、数人しか居ない客の一人の携帯がピピピーと鳴って、「上映中は切っとけよー」なんて思ってたら「もしもし・・」なんて電話に出ちゃう客(ご老人)がいたり、ハプニングも楽しいものだ。
●シネコン
以前は「観たいのをやってるからシネコンに行って観る」というパターンが多かった。
ところが、満を持してのシネコンにもかかわらず、結果、「それほどでも(CMを見て期待したほどでも)無かった」という、残念な結果が続いた。
映画館で見た映画の人生ワーストも去年記録した。→これ
そんなわけで、仕方ないので新たなシネコン活用方法を考え、実践してみたので報告したい。
●(新)シネコンでの映画の見方
最近は、ハリウッドもの中心の大手の映画はどれを見ても大した差はない気がする。
むしろ、事前の宣伝の効果で、その映画に間違った期待をいだいてしまうことが多い。
だから、事前に何を見ようなどと決めてはいけない。
決めないまま、できることなら、今、何が上映されているのか知らないまま、とりあえずチケット売り場に並ぶ。
並んでも気を抜いてはいけない。「何を見ようか」「どれが面白いか」などと邪念に囚われてはいけない。
できるだけ目を閉じて、行列から聞こえてくる囁きにも耳を貸さず、心を無にしよう。
さて、チケット売り場に並んでいたことすら忘れた頃に自分の番になる。
チケット売り場の係員は、こう言うだろう。「何になさいますか?」
そうしたらおもむろに、「次の上映は?」と尋ねる。
質問に質問を返すのだから怪訝な顔をされることもある。
が、気にすることはない。こちらはチケット売り場の係員のバイトを成立させている立場なのだ。
「いや、今から最初に上映開始になるのは何ですか?」と毅然とした態度で問い返すのだ。
「はぁ、次はAKBナンタラで5分後です」とか言われたら、フィーリングで「その次の上映は?」と尋ねる。
「その次はMr.ビーンナンタラで15分後です」とか言われたら、またまたフィーリングで「更にその次の上映は?」と尋ねる。
係員がややイラっとした表情を見せつつ「その次は○△□×で25分後です」とか言われた辺りで、「じゃ、それ」と応えそのチケットを購入する。
それ以上やると、スケジュールを見て決めてから並んでください、と言われかねないし、社会人としてのモラルも問われてしまうので、まぁ、3つが限界だろう。
理想は、一番最初に上映開始になる映画にする、なんだけど、残念ながら小心者の僕はまだ試していない。
(まんが祭りだったら困るし、そもそも、AKBナンタラは映画なのか未だ謎だ。)
結果、やはり、「ま、面白かった」となる。
期待値0からの「ま、面白かった」なので、同じ物を厳選して見て「がっかり」するよりは良いのではないか。
●まとめ
映画のチケット料金は「従量課金制」にならないのだろうか。
10分150円で良いと思う。200円でも良い。
期待に胸を膨らまして、いざ上映開始、、、その10分後に後悔してもJAROに訴えられないのは悔しい。
木曜日, 1月 26, 2012
"暗号解読"トピックス「ヒエログリフ」
↑ヒエログリフ解読に欠かせなかったロゼッタストーン
「暗号解読」を読み終えました。
いやー。面白かった。少し時間を空けて、もう一度読みたい。
それにしても、著者のサイモン・シンは凄い。
ネットの暗号解説サイトの説明を何回読んでもチンプンカンプンだった。
そんな僕でも、とってもわかりやすい解説に感謝。
著者のシンちゃん、Wikipediaによると彼は僕と同い年。学年は一個上。
イギリスの作家/テレビプロデューサーだという。
※サイモン・シン(Wikipedia)
ベストセラー「フェルマーの最終定理」も、これなら面白いに違いない。
タイトルで拒否らずにこちらも読んでみたい。
解説の巧さにも増して、ストーリーもどんどん引き込まれる展開だった。
史実を追いながら、まるで自分がその時代時代の社会に暮らしているかのような臨場感を与えてくれる。
結果が難解で複雑なモノも、そこに至る人間模様や、取り組んだその人の背景なんかを知ると、面白いように頭に入るというか腹に落ちるんだなぁ。
そんな名作「暗号解読」の中から印象深かったことをメモっておこう。
●エジプトのヒエログリフ
まず、ヒエログリフ。一番印象に残ったのはコレだ。
そもそもこの象形文字は暗号でもなんでもない、当時は普通に使われていた言語・文字だ。
しかし、当時の言語が廃れてしまった結果、誰にも読めなくなってしまったのだ。
言語が廃れる、ということは、その言語で記されたものは「暗号」になるという、考えてみれば当たり前のことに驚いた。
で、さらに興味深かったのは、エジプトのヒエログリフが何百年もの間誰にも解読できていなかったということだ。
長い間「絵文字(表意文字)」として取り扱われ、中には自己流に絵の並びから内容を推測する専門家までいたらしい。
※そんな専門家がいたから正攻法で解読しようとする人もなかなか現れなかったようだ。
話はそれるが、自己流に絵の並びから解読する専門家、という職業が今もあるなら是非応募したい。
「おぉ、これは、"蛇と女"と"壺の中のライオン"を組み合わせた絵文字ですな。この意味するところは、粘着質の女が自分の夫の自由を奪う、という意味じゃ。今も昔も変わらぬよのぅ。」
などと想像力を膨らませ解読して、いや、解読したかのようにみせる仕事も面白そうだ。
そんなこんなで、言語が廃れて数百年後、19世紀になってようやく、天才フランソワ・シャンポリオン(古代エジプト学の父と言われる人)が、アルファベットや平仮名のように「表音文字」だと突き止めた、以降は、正しく翻訳されるようになっていった。
詳しくはこちら(Wikipedia)
ヒエログリフの読み書きを指南するサイト!
↓はシャンポリオンさん。音楽室に貼ってあるポスターとは違います。
ということで、ヒエログリフの下りを思い返してるだけでも、テンションが上がるなぁ。
これからは、やっぱり、何百年、何千年も先まで記録を残したいなら岩に壁画かなぁ。
未来へに託す記録といえば、映画「10万年後の安全」(核廃棄物をフィンランドの山の中地下数百メートルに埋める話。既に穴を掘り始めていて2100年には完成する予定。らしい。)でも、10万年後の社会に「ここは危険物が埋められている」ことを伝える手段が無いと言っていたなぁ。10万年後の人間がいたとして、10万年後に文字や言葉でコミュニケーションしていたら、そのことの方が驚きになるもんなぁ。
月曜日, 1月 16, 2012
女性の下着
最初に断っておくが、タイトルはこの後で、"今年の一本"候補レベルの映画の話をしたいからなのだ。
僕個人の趣味嗜好の話ではない。
とはいえ、男性は女性の下着が好きだ。
僕は、、、僕もやっぱり好きだ。
認めよう。
収集したりこそしていないが、なんだかんだ女性下着というのはドキドキしてしまうものだ。
あまり心臓にいいものではない。
少なくとも僕にとっては癒し系のグッズにはなりえない。
僕の名誉のために書き記しておくが、これは、僕自身が悪いのではなく、ホモサピエンスのオスのDNAの何らかの作用なのだから、社会的に問題ある行動を伴わない分には致し方ないのだ。
許して欲しい。誰に?かはわからんが、とにかく、そういうことだ。
ここからは一般論。
どんなふうに好きかは人それぞれだ。
それ専門の泥棒や、それ専門のオークションや、好みの下着を女性に着せたがる人も少なくないと聞くし、中にはそれ専門の自らが着用するマニアまでいる。
※こんな話を書いていると誤解されそうだが、あくまで一般論で僕の趣味嗜好ではない。
男性はそれほど女性の下着が好きなくせに、自分の好みの下着は妻や娘には着用させたくないとか、もう、支離滅裂な生き物だ。
男性はかようにDNAレベルで期待を裏切るレベルで低俗なのは致し方ないとして、一方の女性は、オシャレの一貫としての下着もありなんだろう。でなければ、この映画は成立しない。
そもそも、レースの下着というのは、いや、下着にかぎらず、レース編みというのは一般に女性の好みである。
男性向けにレースのブリーフは無いし、万万が一あったとしても、キモイ。
キモい上に、万万が一、いや億億が一、朝、目が覚めてトイレに行った時に、自分の股間を覆うものがレースだったとしたら、恥ずかしい事この上ない。
誰に知られるとか、そんなことは関係なく、人生の中で3本の指に入るレベルの恥ずかしさなのは間違いない。
※他に2つも恥ずかしい事があったのか、という詮索は遠慮願いたい。50年近く生きていればいろいろあるのだ。
っていうか、レースの下着にかぎらず、レースの帽子もレースのTシャツもレースのYシャツも普通は男性用は無い。
なーんて書いているうちに、レースのハンカチにまで邪なドキドキ感に陥りそうだ。
そもそも、ショッピングモールなどでズンズン女性の下着売り場に入っていく妻を、追いかけていいものか、入り口で待っているのが良いのか、その場から立ち去るべきなのか、そんな風に逡巡している事自体が恥ずかしいことなのだから普通にしていればいいのか、下着売り場の入り口に立つ男性の普通ってなんだ、とかとかとかとか、もう、今思い出しても恥ずかしいシチュエーションだ。
幸いなことかどうかは別に、今は、独り者なので、何らそのような困るシチュエーションは無いので安心だ。
むしろ、一年ほど前に休日のショッピングモールに独りで出かけたことがあったが、もはや、オヤジ独りでショッピングモールに行くこと自体が申し訳ないような気分がしたので、それっきり一人で行っていない。
話が脱線しすぎだ。
話を戻して、下着の話。いや、映画の話を書いておきたい。
かように男性は大好きな女性の下着を、一方でとても恥ずかしく、自分のことのように恥ずかしい自意識過剰なワケワカメな生き物なのだ。
という男性心理をも考えさせられた、"今年の一本"候補の映画の話。
それは、「マルタのやさしい刺繍」だ。
スイスの田舎に暮らす老女のお話。
ここのところ老人が主人公の映画を観る機会が多いのは、多分、映画関係のマーケティング戦略が、団塊の世代をターゲットにしているからなのだろう。
これはそんな老人主人公映画の中でも秀でた映画だ。
丸田さんちのおばあちゃんの話だ。
そして沖縄の県庁所在地は那覇市だ。←ハナシだ と ナハシだ を掛けてみました。
ストーリーはこんな感じ。
スイスの片田舎、隣近所みーんな知り合いのこの村で、雑貨屋を営む丸田さんのおばあちゃん(面倒だから漢字で良いだろう)。
近所に世帯を構える外面は堅物の息子は、村で唯一の協会の牧師をしている。
そんな丸田さんちのおばあちゃんが夫を亡くしてからのお話。
最愛の夫を失って、一年もたとうというのに喪服を着続ける丸田おばあちゃん。
ずいぶん長いこと打ちひしがれていた丸田おばあちゃんだが、荷物を整理している最中に、若かりし頃に自分が作ったレースの下着を見つける。
そう、おばあちゃんは若い時分、レース職人だったのだ。
若い時にはパリでランジェリーショップを持ちたい、そんな夢も、結婚という幸せと交換で諦め、代わりに思い出として大切に仕舞っておいたレースのランジェリー。
そのランジェリーを見て、当時の夢、情熱が再び沸き上がってくる。
交換条件の結婚も、夫が一方的に先立ってしまったわけだし。
そんなこんなで、友達の後押しにも助けられながら、雑貨屋を畳み、村で唯一のランジェリーショップを開店する。
スーパーすら無いような小さな村で、それはそれは大変な騒ぎになった。
過激でも何でもない、ごく上品な手作りレースのランジェリーショップにもかかわらず村は大変な騒ぎになる。
女たちは遠巻きに眺め、男たちは露骨に下衆な視線を浴びせる。
気が狂ったと息子は嘆き、土地の有力者は露骨に排斥しようとする。
まるで風俗店でもできたような騒ぎ。
そんな騒ぎで、訪れる客も無く、店は立ちいかなくなり、諦めようとするのだが、、、
そこから老人たちのチームワーク、なにより丸田おばあちゃんの夢に対する強い意思で、ついに村にイノベーションが・・・
っていうような話。
このお婆ちゃん、その友達のお婆ちゃんたちが可愛い。ほんとうに可愛い。
脇役のおじいちゃんたちも、カナリ可愛い。
見ているうちに、まるで中学生が親の反対を押し切って、大人顔負けの仕事を成し遂げる、そんな感じすら覚える。
一方、変化に対して強硬に抵抗するのが、「大人たち」だ。
ちょうど僕と同じ年代、50絡みのオジサンたちだ。
そうなると、その妻達も、表立ってはオジサン達に従う。
オジサン相手に抵抗するのは面倒臭いのだ。その上、息も臭かったりするのだ。
もう本当にオジサン、オヤジ達というのは、どうしようもない。
オヤジ達はオヤジ同士では破廉恥な事も大好きだと認め合っているくせに、おばあちゃんが堂々とランジェリーショップを始めることには強硬に反対する。
酒飲みで、スケベで、低俗で、そのくせ偉ぶりたがって、、、もう見ていて嫌になる。
「おばあちゃんの為に」と言っては子供じみた手段も辞さないオヤジたち。
老年に差し掛かった中年男というのは、外見も中身も酷いものだ。
見ていて自己嫌悪に陥るほどだ。
しかし、僕の周りを見ても、、、まぁ、否定できない。
(ここでは僕自身に関しては否定も肯定もしないでおこう。)
でも、おばあちゃんは凄い。
そんな抵抗にも屈せず、明るく、時に凛として、夢を実現していく。
ストーリーにも書いたけど、そんな年寄りたちのチームワークが、村にいくつかのイノベーションをもたらす。
コンサルタント垂涎の事例になりそうな、新たなビジネスモデルも誕生する。
ドラッカー的にも「アリ」なストーリーなんだよなぁ。
家で一人で見ているのに、「がんばれー」「いいぞー」「オヤジ引っ込めー」「やっほー」などと声が出てしまう、とても温かい気持ちになれる映画でした。
※ハミ出し
残念ながら今年の一本は逃したけど、「木洩れ日の家」も可愛いおばあちゃんが主役の映画。モノクロ映画。
おばあちゃんも可愛いけど、同居する犬も可愛い。そしてやっぱり、オヤジは醜い。
今年はおばあちゃん・おじいちゃん映画から目が離せません。
僕個人の趣味嗜好の話ではない。
とはいえ、男性は女性の下着が好きだ。
僕は、、、僕もやっぱり好きだ。
認めよう。
収集したりこそしていないが、なんだかんだ女性下着というのはドキドキしてしまうものだ。
あまり心臓にいいものではない。
少なくとも僕にとっては癒し系のグッズにはなりえない。
僕の名誉のために書き記しておくが、これは、僕自身が悪いのではなく、ホモサピエンスのオスのDNAの何らかの作用なのだから、社会的に問題ある行動を伴わない分には致し方ないのだ。
許して欲しい。誰に?かはわからんが、とにかく、そういうことだ。
ここからは一般論。
どんなふうに好きかは人それぞれだ。
それ専門の泥棒や、それ専門のオークションや、好みの下着を女性に着せたがる人も少なくないと聞くし、中にはそれ専門の自らが着用するマニアまでいる。
※こんな話を書いていると誤解されそうだが、あくまで一般論で僕の趣味嗜好ではない。
男性はそれほど女性の下着が好きなくせに、自分の好みの下着は妻や娘には着用させたくないとか、もう、支離滅裂な生き物だ。
男性はかようにDNAレベルで期待を裏切るレベルで低俗なのは致し方ないとして、一方の女性は、オシャレの一貫としての下着もありなんだろう。でなければ、この映画は成立しない。
そもそも、レースの下着というのは、いや、下着にかぎらず、レース編みというのは一般に女性の好みである。
男性向けにレースのブリーフは無いし、万万が一あったとしても、キモイ。
キモい上に、万万が一、いや億億が一、朝、目が覚めてトイレに行った時に、自分の股間を覆うものがレースだったとしたら、恥ずかしい事この上ない。
誰に知られるとか、そんなことは関係なく、人生の中で3本の指に入るレベルの恥ずかしさなのは間違いない。
※他に2つも恥ずかしい事があったのか、という詮索は遠慮願いたい。50年近く生きていればいろいろあるのだ。
っていうか、レースの下着にかぎらず、レースの帽子もレースのTシャツもレースのYシャツも普通は男性用は無い。
なーんて書いているうちに、レースのハンカチにまで邪なドキドキ感に陥りそうだ。
そもそも、ショッピングモールなどでズンズン女性の下着売り場に入っていく妻を、追いかけていいものか、入り口で待っているのが良いのか、その場から立ち去るべきなのか、そんな風に逡巡している事自体が恥ずかしいことなのだから普通にしていればいいのか、下着売り場の入り口に立つ男性の普通ってなんだ、とかとかとかとか、もう、今思い出しても恥ずかしいシチュエーションだ。
幸いなことかどうかは別に、今は、独り者なので、何らそのような困るシチュエーションは無いので安心だ。
むしろ、一年ほど前に休日のショッピングモールに独りで出かけたことがあったが、もはや、オヤジ独りでショッピングモールに行くこと自体が申し訳ないような気分がしたので、それっきり一人で行っていない。
話が脱線しすぎだ。
話を戻して、下着の話。いや、映画の話を書いておきたい。
かように男性は大好きな女性の下着を、一方でとても恥ずかしく、自分のことのように恥ずかしい自意識過剰なワケワカメな生き物なのだ。
という男性心理をも考えさせられた、"今年の一本"候補の映画の話。
それは、「マルタのやさしい刺繍」だ。
スイスの田舎に暮らす老女のお話。
ここのところ老人が主人公の映画を観る機会が多いのは、多分、映画関係のマーケティング戦略が、団塊の世代をターゲットにしているからなのだろう。
これはそんな老人主人公映画の中でも秀でた映画だ。
丸田さんちのおばあちゃんの話だ。
そして沖縄の県庁所在地は那覇市だ。←ハナシだ と ナハシだ を掛けてみました。
ストーリーはこんな感じ。
スイスの片田舎、隣近所みーんな知り合いのこの村で、雑貨屋を営む丸田さんのおばあちゃん(面倒だから漢字で良いだろう)。
近所に世帯を構える外面は堅物の息子は、村で唯一の協会の牧師をしている。
そんな丸田さんちのおばあちゃんが夫を亡くしてからのお話。
最愛の夫を失って、一年もたとうというのに喪服を着続ける丸田おばあちゃん。
ずいぶん長いこと打ちひしがれていた丸田おばあちゃんだが、荷物を整理している最中に、若かりし頃に自分が作ったレースの下着を見つける。
そう、おばあちゃんは若い時分、レース職人だったのだ。
若い時にはパリでランジェリーショップを持ちたい、そんな夢も、結婚という幸せと交換で諦め、代わりに思い出として大切に仕舞っておいたレースのランジェリー。
そのランジェリーを見て、当時の夢、情熱が再び沸き上がってくる。
交換条件の結婚も、夫が一方的に先立ってしまったわけだし。
そんなこんなで、友達の後押しにも助けられながら、雑貨屋を畳み、村で唯一のランジェリーショップを開店する。
スーパーすら無いような小さな村で、それはそれは大変な騒ぎになった。
過激でも何でもない、ごく上品な手作りレースのランジェリーショップにもかかわらず村は大変な騒ぎになる。
女たちは遠巻きに眺め、男たちは露骨に下衆な視線を浴びせる。
気が狂ったと息子は嘆き、土地の有力者は露骨に排斥しようとする。
まるで風俗店でもできたような騒ぎ。
そんな騒ぎで、訪れる客も無く、店は立ちいかなくなり、諦めようとするのだが、、、
そこから老人たちのチームワーク、なにより丸田おばあちゃんの夢に対する強い意思で、ついに村にイノベーションが・・・
っていうような話。
このお婆ちゃん、その友達のお婆ちゃんたちが可愛い。ほんとうに可愛い。
脇役のおじいちゃんたちも、カナリ可愛い。
見ているうちに、まるで中学生が親の反対を押し切って、大人顔負けの仕事を成し遂げる、そんな感じすら覚える。
一方、変化に対して強硬に抵抗するのが、「大人たち」だ。
ちょうど僕と同じ年代、50絡みのオジサンたちだ。
そうなると、その妻達も、表立ってはオジサン達に従う。
オジサン相手に抵抗するのは面倒臭いのだ。その上、息も臭かったりするのだ。
もう本当にオジサン、オヤジ達というのは、どうしようもない。
オヤジ達はオヤジ同士では破廉恥な事も大好きだと認め合っているくせに、おばあちゃんが堂々とランジェリーショップを始めることには強硬に反対する。
酒飲みで、スケベで、低俗で、そのくせ偉ぶりたがって、、、もう見ていて嫌になる。
「おばあちゃんの為に」と言っては子供じみた手段も辞さないオヤジたち。
老年に差し掛かった中年男というのは、外見も中身も酷いものだ。
見ていて自己嫌悪に陥るほどだ。
しかし、僕の周りを見ても、、、まぁ、否定できない。
(ここでは僕自身に関しては否定も肯定もしないでおこう。)
でも、おばあちゃんは凄い。
そんな抵抗にも屈せず、明るく、時に凛として、夢を実現していく。
ストーリーにも書いたけど、そんな年寄りたちのチームワークが、村にいくつかのイノベーションをもたらす。
コンサルタント垂涎の事例になりそうな、新たなビジネスモデルも誕生する。
ドラッカー的にも「アリ」なストーリーなんだよなぁ。
家で一人で見ているのに、「がんばれー」「いいぞー」「オヤジ引っ込めー」「やっほー」などと声が出てしまう、とても温かい気持ちになれる映画でした。
※ハミ出し
残念ながら今年の一本は逃したけど、「木洩れ日の家」も可愛いおばあちゃんが主役の映画。モノクロ映画。
おばあちゃんも可愛いけど、同居する犬も可愛い。そしてやっぱり、オヤジは醜い。
今年はおばあちゃん・おじいちゃん映画から目が離せません。
木曜日, 12月 29, 2011
映画「瞳の奥の秘密」
アルゼンチン映画。
ジャンル的にはサスペンス映画。
、、なのだが、サスペンスというより、人生ドラマの方が近いかもしれない。
見終わった後、時間をかけて味わいが広がるのが感じられるような良作でした。
様々な愛情の形を通して、生きているこの時間、を考えさせられる大人の映画。
・25年に渡るストーリー
同じ俳優たちが、25年のギャップをとても自然に違和感なく演じています。
役者って凄い。メイキャップが凄い?のかも。
・容赦無い「罪」に対する容赦無い罰と失われるもの
見終わった後、大きなショックと共に深く深く考えさせられます。
・"大人の"愛情
これまた深く深く考えさせられます。
妻に対する愛情、屈折した愛情、自己犠牲の愛情、、、
正解のないような問いなんだけど、主人公の最後の決断でホッとさせられました。
・映像の美しさ
映画冒頭の映像。心の奥底で互いの愛情を感じ取っている男女の駅での別れのシーン。
映画に引き込まれるだけでなく、主人公同様に僕まで繰り返し思いだしてしまう心に残るシーンです。
そもそも、アルゼンチン映画って他に何か見たことがない。
だからなのかはわからないけど、とても独特の雰囲気、味がある映像が心に残ります。
ピアノの音色を中心に、音楽も華美にならず、旋律と言うより澄んだ"音"が記憶に残ります。
"たまたま"なのかどうかは分からないけど、また、アルゼンチン映画を観たい、と思わせるに充分な良作でした。
水曜日, 12月 07, 2011
タンゴは格好いい(映画「ヒトラーの贋札」)
タンゴのハーモニカが心に沁みた。
ウーゴ・ディアスを知った。
それは、"ヒトラーの贋札"を観たからだ。
例によってストーリーはこちら→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%B4%8B%E6%9C%AD
陽と陰、善と悪、希望と絶望、、、
映画のストーリーも、表裏一体の人間の弱さと強さが見事に描かれているんだけど、そのストーリーを何倍にも引き立てたのがタンゴ(ミュージック)だ。
黒猫のタンゴとだんご3兄弟ぐらいしか知らないのにタンゴの魅力を語りようもないのだけど、何故、タンゴはあんなふうに、どちらかといえば脳天気な明るいリズムに、あの物悲しい旋律を被せることになったのだろう。
っていうか、多分、黒猫と団子のせいでタンゴに対する偏見があったのかもしれない。
この映画で使われているようなタンゴを、子供の頃から聞いて育ったら、とても奥深い人間になるような気がする。
劇的ビフォーアフターで比べてみてもらいたいものだ。
〜〜加藤みどり(劇ビアのナレーション)の声で〜〜
40をとうに過ぎたのに相変わらず落ち着きのないオジサン。
ついに、タンゴの匠がハーモニカを聞かせてあげます。
するとどうでしょう、それまでの単細胞無自覚オジサンが、まぁ、素敵な50絡みのクールなジェントルマンに生まれ変わったではありませんかぁ。
〜〜ちなみに加藤みどりさんはサザエさんの声優〜〜
そんなふうに、タンゴには、常に物事を二面から見られるような、一時の感情だけに支配されないような、クールな大人になれるような力があるような気がする。
実際は、そんな事はないのだろうけど、でも、そんな気にさせられたのが、この映画だ。
しばらくの間、タンゴにハマりそうだ。
日曜日, 12月 04, 2011
白いリボン
ドイツ/オーストリア/フランス/イタリア合作映画。
世界大戦直前の一年、ドイツ北部の田舎町の空気が見事に描かれている。
当時の日本に合い通ずるような、厳格な生活、何であれ結果的に女性と子供が虐げられる社会、権威主義、、、
地主は己を守る権威にすがり、小作人の長(家令/執事)は己を守る地主にすがり、小作人は家令にすがり、幼年の子供は年長の子供にすがり、夫のいない乳母は雇い主の病院の医者の愛人となり、大人に従うしか無い子供たちは大人の暴力に狡猾に生きる術を学ぶ、、、
風景こそ宮崎駿の描くような美しい田園風景なのに、村に広がるのは、「不信」「怖れ」「嫉妬」と、愛情を失った人間社会の弱さが痛いほど描かれていました。
戦争が決まった日、礼拝のため村人全員が教会に集まる。
集まった村人達にあるのは、戦争に突入することで不安になっているわけではない。
「(村に縛られずに)新しい旅に発てる」と、村でしか生きる場所がなかった状態からのヤケクソに近い開放感があるのだ。
そんなエンディングを見ながら、観客側としては、なんとも暗い気分にさせられたのでした。
あの時代の空気を共感させられる、この映画、この監督ミヒャエル・ハネケはすごい。
ちなみに、2009年の作品でモノクロ作品。
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