たくさん食べた。
おにぎり、
カップヌードル、
コーヒー、
お茶、
キリタンポ汁、
柿の種、
みかん、
コーヒー、
シュークリーム、
蕎麦せんべい、
栗ご飯、
きのこ汁、
切干大根の和え物、
タラの粕漬け、
おしんこ、
焼肉、
ビール、
お茶、
辛シソ、
ビール、
リンゴ、
黒糖ナッツ、
ミックスナッツ、
コーヒー、
そして、年越し蕎麦を待つ今。
たくさんありがとう。
そして、ちょっとごめんなさい。
日曜日, 12月 28, 2008
かーーーっつ(喝)
日曜日、朝、起きた時間からサンデーモーニング(TBS)を観る。
時に、起きた時間には終わっているんだけど、今朝観ていて面白いシーンに出会った。
それは「喝っ!」のコーナー。正確には「ご意見番スポーツ」のコーナー。
往年のプロ野球選手達の試合で、小松投手が足を攣って退場した。
小松投手は以前は右足を攣って退場、今度は左足を攣って退場になったという事だった。
そのシーンが終わり、いつもの「かーーーーっつ」が飛び出し、水戸黄門のように、お決まりのほのぼの感が漂ったスタジオと僕。
その直後に事件は起こった。
かーーーーっつお爺ちゃんの張本さんのコメントだ。
「喝だ。右足攣って、今度は左足。じゃあ、次はどこだっちゅー話ですよ。」
この後の言葉は聞き逃したが、スタジオではニヤニヤした周囲のコメンテーター達と照れ笑いの張本お爺ちゃん。関口さんの「まぁまぁ」という仕草のフォロー。
ここで、鈍い僕でも気がついた。あぁ、オヤジギャグね。真ん中の足っちゅー話ね。まったくもー。
そして機転の利くディレクター?の演出で、張本お爺ちゃんを映し出してひときわ大きい効果音で「かーーーっつ」!
これには笑った。
そもそも、いつも、失言が多くて、「お前が喝だーっ」とテレビの前で思っていた僕。
こんな瞬間に出会えるとは思わなかった。
暗いニュース、来年の今頃、どうしているんだろうと考えずにはいられないニュースばかりだった。
そんな時に、かなりホッとした出来事。
人は、実は相当シンプルになんだと実感した瞬間でした。同時に自分のオヤジ臭さに独り照れ笑い。
(いや、単に僕がアホなだけなのか。。。)
※はみ出し:そういえば、最近はテレビを見る時間の90%(そもそもテレビ見る時間は激減)は生放送だ。
※※はみ出し:サンデーモーニングの女性キャスター?アシスタント?は押しなべて好みである。→こんなとこにも自分の加齢臭が漂っている。。
時に、起きた時間には終わっているんだけど、今朝観ていて面白いシーンに出会った。
それは「喝っ!」のコーナー。正確には「ご意見番スポーツ」のコーナー。
往年のプロ野球選手達の試合で、小松投手が足を攣って退場した。
小松投手は以前は右足を攣って退場、今度は左足を攣って退場になったという事だった。
そのシーンが終わり、いつもの「かーーーーっつ」が飛び出し、水戸黄門のように、お決まりのほのぼの感が漂ったスタジオと僕。
その直後に事件は起こった。
かーーーーっつお爺ちゃんの張本さんのコメントだ。
「喝だ。右足攣って、今度は左足。じゃあ、次はどこだっちゅー話ですよ。」
この後の言葉は聞き逃したが、スタジオではニヤニヤした周囲のコメンテーター達と照れ笑いの張本お爺ちゃん。関口さんの「まぁまぁ」という仕草のフォロー。
ここで、鈍い僕でも気がついた。あぁ、オヤジギャグね。真ん中の足っちゅー話ね。まったくもー。
そして機転の利くディレクター?の演出で、張本お爺ちゃんを映し出してひときわ大きい効果音で「かーーーっつ」!
これには笑った。
そもそも、いつも、失言が多くて、「お前が喝だーっ」とテレビの前で思っていた僕。
こんな瞬間に出会えるとは思わなかった。
暗いニュース、来年の今頃、どうしているんだろうと考えずにはいられないニュースばかりだった。
そんな時に、かなりホッとした出来事。
人は、実は相当シンプルになんだと実感した瞬間でした。同時に自分のオヤジ臭さに独り照れ笑い。
(いや、単に僕がアホなだけなのか。。。)
※はみ出し:そういえば、最近はテレビを見る時間の90%(そもそもテレビ見る時間は激減)は生放送だ。
※※はみ出し:サンデーモーニングの女性キャスター?アシスタント?は押しなべて好みである。→こんなとこにも自分の加齢臭が漂っている。。
土曜日, 12月 27, 2008
初めてシリーズ 年賀状
念のために言っておくが、正確には初めてではない。
多分、15年ぶりぐらいだろう。
でも、初めてシリーズとしたのは、いずれ書いていた当時は「書かなくちゃ」で書いていた年賀状。
それが、「書きたいな」に変わって初めてだということで、そういう意味で初めてシリーズなのです。
(って誰に断る必要があるのかもわかんないけど。)
「書きたいな」の割に、ようやく、やっとのことで年賀状を書いた。
書いたとは言っても、地元の挿絵付き年賀状はがきに、先月、年賀状用にと近所のビーチを撮った写真を差し込んで、今年のトピックスを書いた内容を印刷。
あとは、宛先を一つ一つ書いて(以前だったら印刷したところ)、一言添えて、10数枚にそこそこ時間が掛かった。
(印刷した内容だって1時間かそこらは費やしているから、トータル、3時間程度ってことか)
以前は、宛先も何もかも「印刷」していた。
そして、年賀状を作る時、唯一その時だけがプリンターが活躍する時だった。
15年も年賀状を書いていないと、当たり前だが、年賀状をいただく事も少なくなる。
そもそも、住所まで知っている知人が本当に少ない。
また、不幸にして家庭崩壊なんて事をやってしまうと、そもそも住所録は、別れた妻が管理していたのもあって、だらしない僕には住所を調べることすら手に負えない作業。
いや、そんなのは大した問題じゃない。
メールなんかが普及して、野放図にギリを果たそうとすれば、もう、何百枚も出さなきゃならないアホナ状況に嫌気が差したのが15年前。
本当なら、そこで、自分なりに考えればよかったのに、考えずに、放棄したのだ。
出す相手をみんなどうやって選択するんだろう。
今年の僕の選択はこうだ。
●出す相手
・年賀状以外のコミュニケーションは皆無で、年賀状で音信を取り合わないと切れてしまいそうで、でも、切れちゃうのは嫌な相手。
←これは出しとくべきだな。
・何らかの犠牲(金銭、モノ、気持ち)を払ってまでのお世話になった人。
←これは必要。
・自分の大切な人(家族)がお世話になっていて、なかなか普段の生活ではコミュニケーションが無い人。
←年賀状っていう習慣を活用。
●無理して出さない相手
・日常的にやり取りや会ったりしている人で、お世話にはなっていても「犠牲」とかいうと恐縮してしまうレベルの人。
←ここ、微妙。でも、この周辺の人は住所を知らずに済んでいるっていう事も多い。
うーん、やはり、「お世話になった人」で「ガーっと増える」のを理由に出さないのが気がかり。
ま、この範疇は、普段の付き合いの深さを勘案して対応かな。
それ以外に、「出せない人」多数。住所わかんないとか、「どの面下げてめでたい日に連絡なんかよこしやがって」なーんてのも、あるにはあるわけで。。。。
そして、汚い字ながらも全ての宛先を書き終えたとき(たった10枚足らずにも関わらず)、なんかホッとしました。
それにしても、個人情報保護のお陰で、あまりに「お付き合い」的な年賀状が少なくなったのは良かったかな。(出さない人がそんな事を言えたもんじゃないが。。)
そんな中でも毎年送ってくれる旧友には、大変失礼なことをしたもんだと今更ながら反省。
面倒くさがりなので、「選択する」手間を考えた時に、「出さない」を選ぶという、本末転倒、フルーツは昆松な年末なのでした。
※はみ出し:
宛名を印刷していた頃はEXCELの住所録をWORDの差込印刷の機能を使ってやってました。
でも、10数枚の年賀状なら、一枚一枚手書きでも充分(字は汚いけど。。。)で、そこまでやる気にならなかったな。
※※はみはみ出し:
パソコン(ワープロ)やプリンタが無かった時代、そういえば、年末も押し迫てきた時期に母が夜遅くまで年賀状を書いていた事を思い出す。
あの頃は、簡単な挿絵と「賀正」なんかが印刷された年賀状に、二~三行のメッセージを書いていたような。
一行書くのも、結構、考え考え書いてて遅々として進まないのに、昔の人は偉かった!(or くれ正月
※※※はみはみはみ出し:
宛名で困った(単に非常識、、、)のが、宛先受取人の年代によって、ご主人の名前だけにしてみたり、ご夫婦連名にしてみたり、"ご家族様"と添えてみたり、と微妙な使い分けで考え込んだ。
多分、15年ぶりぐらいだろう。
でも、初めてシリーズとしたのは、いずれ書いていた当時は「書かなくちゃ」で書いていた年賀状。
それが、「書きたいな」に変わって初めてだということで、そういう意味で初めてシリーズなのです。
(って誰に断る必要があるのかもわかんないけど。)
「書きたいな」の割に、ようやく、やっとのことで年賀状を書いた。
書いたとは言っても、地元の挿絵付き年賀状はがきに、先月、年賀状用にと近所のビーチを撮った写真を差し込んで、今年のトピックスを書いた内容を印刷。
あとは、宛先を一つ一つ書いて(以前だったら印刷したところ)、一言添えて、10数枚にそこそこ時間が掛かった。
(印刷した内容だって1時間かそこらは費やしているから、トータル、3時間程度ってことか)
以前は、宛先も何もかも「印刷」していた。
そして、年賀状を作る時、唯一その時だけがプリンターが活躍する時だった。
15年も年賀状を書いていないと、当たり前だが、年賀状をいただく事も少なくなる。
そもそも、住所まで知っている知人が本当に少ない。
また、不幸にして家庭崩壊なんて事をやってしまうと、そもそも住所録は、別れた妻が管理していたのもあって、だらしない僕には住所を調べることすら手に負えない作業。
いや、そんなのは大した問題じゃない。
メールなんかが普及して、野放図にギリを果たそうとすれば、もう、何百枚も出さなきゃならないアホナ状況に嫌気が差したのが15年前。
本当なら、そこで、自分なりに考えればよかったのに、考えずに、放棄したのだ。
出す相手をみんなどうやって選択するんだろう。
今年の僕の選択はこうだ。
●出す相手
・年賀状以外のコミュニケーションは皆無で、年賀状で音信を取り合わないと切れてしまいそうで、でも、切れちゃうのは嫌な相手。
←これは出しとくべきだな。
・何らかの犠牲(金銭、モノ、気持ち)を払ってまでのお世話になった人。
←これは必要。
・自分の大切な人(家族)がお世話になっていて、なかなか普段の生活ではコミュニケーションが無い人。
←年賀状っていう習慣を活用。
●無理して出さない相手
・日常的にやり取りや会ったりしている人で、お世話にはなっていても「犠牲」とかいうと恐縮してしまうレベルの人。
←ここ、微妙。でも、この周辺の人は住所を知らずに済んでいるっていう事も多い。
うーん、やはり、「お世話になった人」で「ガーっと増える」のを理由に出さないのが気がかり。
ま、この範疇は、普段の付き合いの深さを勘案して対応かな。
それ以外に、「出せない人」多数。住所わかんないとか、「どの面下げてめでたい日に連絡なんかよこしやがって」なーんてのも、あるにはあるわけで。。。。
そして、汚い字ながらも全ての宛先を書き終えたとき(たった10枚足らずにも関わらず)、なんかホッとしました。
それにしても、個人情報保護のお陰で、あまりに「お付き合い」的な年賀状が少なくなったのは良かったかな。(出さない人がそんな事を言えたもんじゃないが。。)
そんな中でも毎年送ってくれる旧友には、大変失礼なことをしたもんだと今更ながら反省。
面倒くさがりなので、「選択する」手間を考えた時に、「出さない」を選ぶという、本末転倒、フルーツは昆松な年末なのでした。
※はみ出し:
宛名を印刷していた頃はEXCELの住所録をWORDの差込印刷の機能を使ってやってました。
でも、10数枚の年賀状なら、一枚一枚手書きでも充分(字は汚いけど。。。)で、そこまでやる気にならなかったな。
※※はみはみ出し:
パソコン(ワープロ)やプリンタが無かった時代、そういえば、年末も押し迫てきた時期に母が夜遅くまで年賀状を書いていた事を思い出す。
あの頃は、簡単な挿絵と「賀正」なんかが印刷された年賀状に、二~三行のメッセージを書いていたような。
一行書くのも、結構、考え考え書いてて遅々として進まないのに、昔の人は偉かった!(or くれ正月
※※※はみはみはみ出し:
宛名で困った(単に非常識、、、)のが、宛先受取人の年代によって、ご主人の名前だけにしてみたり、ご夫婦連名にしてみたり、"ご家族様"と添えてみたり、と微妙な使い分けで考え込んだ。
水曜日, 12月 24, 2008
火曜日, 12月 23, 2008
都会と地方
市役所だの免許証書き換えだのがあり、引越し前の街で手続きをした。
いつも、いや、いつの間にか「都会が忘れた人との触れ合いが沖縄には残っている」みたいな先入観があったんだけど、どうも、そういう事では無いという話。
免許証用のインスタント写真を撮ろうと、駅の構内にある写真スタンドに入ろうとすると、一人のお婆ちゃんが説明書きを読んで立っている。
「よろしいですか?」と聞くと、「下の方が安いんですよ」と。
よく聞くと、地下にもインスタント写真があって、お婆ちゃんが欲しいサイズピッタリのが無かったので1Fも確認したのだが、結局サイズは同じなので下で撮ろうと考えていた、との事。
駅の構内だと700円なんだけど、地下街だと500円なんだそうだ。
そんな話をしながら、なんとなく意気投合して一緒に安い下のインスタント写真へ。
地下までのほんの少しの間だけど、お婆ちゃんが市営バスのパス用の写真を撮りにきたこと、僕は免許証、バスで散歩するのが楽しみなこと、僕は車は持ってないけど身分証代わりに必要なんだとか、お婆ちゃんも身内からパスポートを取れと言われてること、そんな話をワイワイ話しながら、順番に写真を撮って別れた。
あちこち、きっと師走っぽい忙しい顔をして早足で歩いていたそんな日に、予想外に楽しいプチデートになった。
何がどうという話では無い。
ただ、都会でも、そんな風に人との触れ合いはあるし、以前の自分にそんな感覚が無かったのは「自分がバリアーを張っていた」だけだと気がついた。
以前は気取ってたのかな。カッコつけてたのかな。
今となってはわからないけど、そうやって人と触れ合った後、ほんのちょっぴり暖かな気持ちになれて、嬉しかった。
日曜日, 12月 21, 2008
自分の人生を映画で観るということ
遅まきながら?「ニューシネマパラダイス」を観た。
多分、僕以外の人は相当観ていると思われるので、ストーリーはおいとく。
とにかく、涙が溢れた。
悲しい話?感動する話?
どれでもない、見終わった直後には、ストーリーの何かに心を打たれたと思っていたんだけど、一晩経って、それは違うと思った。
この映画、観た人に対して観た人の「自分の人生」をまざまざと見せつけるのだ。
映画の登場人物の人生を具間観たはずなのに、「自分の人生」を観た気になるんだ。
観た人それぞれに、血の繋がった両親に限らず、自分を育ててくれたかけがいの無い人がいて、死ぬまで忘れることの無い愛した異性がいて、夢中になった仕事があって、過ちがあって、成功があって、後悔があって、喜びがあって、、、
見終わった後に、まるで自分の人生を映画で観たかのような思いにさせてくれる映画。
主人公の環境やストーリーと観た人の人生に共通点は無いように思える。
でも、人が生きていく根っこは実は同じ。その根っこを見せられ、理屈ではなく、自分の人生を感じさせてくれる映画でした。
それは、とても不思議な感覚。
美しいシチリア島の街を、とても自然に、まるでそこに観ている自分が存在しているかのような映像が続く。
美しい街だからこそ、目立ってしまう、むしろ、美しい街にはそぐわない景観。
犬がうろうろし、酔い潰れた酔っ払いの大声が聞こえ、自転車が通り過ぎ、変なオジサンがブツブツ言って、子供達が賑やかに走り去る。雑音に満ちた社会。
でも、それこそが生活。
余りに自然な「普通」の生活。よくある人生。
ともすると「つまらない」人生。
長い人生。惰性の様に続く日々。
そんな中にドラマチックな愛情なんて見えない。
人は、どこかでドラマチックな展開を望むけど、そんなドラマは起こらない。
その日々に埋もれて見えなくなっている愛情が見えた時、、、、ノックダウン。
何度観ても、いや、日々の生活の中で、たまに観ると元気になれるような映画。
久しぶりに、僕の映画ランキングが入れ替わったなぁ。そんな映画でした。
多分、僕以外の人は相当観ていると思われるので、ストーリーはおいとく。
とにかく、涙が溢れた。
悲しい話?感動する話?
どれでもない、見終わった直後には、ストーリーの何かに心を打たれたと思っていたんだけど、一晩経って、それは違うと思った。
この映画、観た人に対して観た人の「自分の人生」をまざまざと見せつけるのだ。
映画の登場人物の人生を具間観たはずなのに、「自分の人生」を観た気になるんだ。
観た人それぞれに、血の繋がった両親に限らず、自分を育ててくれたかけがいの無い人がいて、死ぬまで忘れることの無い愛した異性がいて、夢中になった仕事があって、過ちがあって、成功があって、後悔があって、喜びがあって、、、
見終わった後に、まるで自分の人生を映画で観たかのような思いにさせてくれる映画。
主人公の環境やストーリーと観た人の人生に共通点は無いように思える。
でも、人が生きていく根っこは実は同じ。その根っこを見せられ、理屈ではなく、自分の人生を感じさせてくれる映画でした。
それは、とても不思議な感覚。
美しいシチリア島の街を、とても自然に、まるでそこに観ている自分が存在しているかのような映像が続く。
美しい街だからこそ、目立ってしまう、むしろ、美しい街にはそぐわない景観。
犬がうろうろし、酔い潰れた酔っ払いの大声が聞こえ、自転車が通り過ぎ、変なオジサンがブツブツ言って、子供達が賑やかに走り去る。雑音に満ちた社会。
でも、それこそが生活。
余りに自然な「普通」の生活。よくある人生。
ともすると「つまらない」人生。
長い人生。惰性の様に続く日々。
そんな中にドラマチックな愛情なんて見えない。
人は、どこかでドラマチックな展開を望むけど、そんなドラマは起こらない。
その日々に埋もれて見えなくなっている愛情が見えた時、、、、ノックダウン。
何度観ても、いや、日々の生活の中で、たまに観ると元気になれるような映画。
久しぶりに、僕の映画ランキングが入れ替わったなぁ。そんな映画でした。
木曜日, 12月 18, 2008
水曜日, 12月 17, 2008
Hello world.
ITカルチャーの話。たまには(IT)業界人っぽい話題を。
コンピュータ言語を学ぶ時に、一番最初に試すプログラムは、「Hello world.」と画面に表示させる事です。
と言い切れるほど普通はそうします。
という事は、IT系のヒトは何処の国の人に関わらず「Hello world.」を知っている事になります。
(海外のコンピュータープログラミング事情を知っているわけではないが、多分、そうだと思う。)
もちろん、英語を母国語としない日本では、うっかり「halou wahrudo」とか「konnichiwa.sekai.」などとする事もあるでしょう。
でも、やっぱり基本は「Hello world.」です。
コンピューターがどうしてもアルファベット入力を基本にしている事もあり、日本でコンピューターに触れてきた僕も、プログラミングの学習で「おっす、やっほー」みたいに表示する事はしませんでした。
(日本でコンピューターに触れてきた、、、って書くと、なんだか外国人になったような気分。)
「abcdefghijklmnopqrstuvwxyz」と機械的に表示させてもいいはずなのに、何故か「Hello world.」です。
そして、画面に「Hello world.」と表示された時に、何故か、ちょっとホッとしたりします。
特に、独学でプログラミングをやる時って、開発環境自体をわかっていないので、この「Hello world.」を表示させるまでに、後で考えるとしょうもない勘違いでなかなか出来なかったりするのです。
そんな苦労の末、画面に、「Hello world.」と表示された時は、やっぱり嬉しいものです。
何故、Hello worldなんでしょうかねぇ。ここで一曲。(深夜放送風に)
ちょっと視点を変えてみましょう。
朝起きて誰かに会った時に言う言葉は「おはよう」です。
言い方は「おはようございます」だったり、「おはよっす」だったりはするかもしれませんが、まぁ、「おはよう」の変形です。
おはようと声をかけ、笑顔でおはようと返ってくる、誰しもそんなイメージを共有しています。
だから、朝は「おはよう」が当たり前になっています。
もはや、疑問も意味も目的も考えずに自然に挨拶できているはずです。
「おはよう」に相手の返事がなければ、何かあったかな、とか、聞こえなかったな、とか考えます。
親しい仲で返事がなければ気になります。
そんな時は追いかけて肩でも叩いて、「おはよ。どうした。元気か」とか青春ドラマ長髪中村雅俊風に声をかけます。
さて、この挨拶を、正確に表現しようとしてみると結構面白い。
(面白いのは私だけかも知れません。その上、話はどんどん逸れていきます。)
例えば、「おはよう」の挨拶を、「発声による朝の体調確認交信」と表現してみます。
「おはよう」に対して相手から返事が無いと言う事は、この新しい表現によれば、
「発声による朝の体調確認交信」に相手は不同意だったわけで、体調に変調をきたしているか、単に体調確認をしたくなかったかと言う事になるわけです。
で、親しい仲だったら不同意を放置するのは新たな課題の表出を見逃すわけだから、若年に許される反社会的ファッションに身を包んだ80年代民放青春ドラマの主人公のように、やや大きめの声で、相手の体調を気遣う言葉を添えて「発声による朝の体調確認交信」を再度実施するものであったりなかったり、むにゃむにゃ。
もう一つ、知り合いの誰かに「おはよう」と声を掛けられたときに、
「それは、発声による朝の体調確認交信ですね。あなたの体調は良好のようですね。私の体調は良好です。」
と答えたらどうでしょう。
次の日から声は掛けられないでしょう。朝から滅入ります。っていうか、失礼を承知で最後まで聞かないでしょう。
このアホらしい無意味っぽい妄想をやってみてわかったのは、
「発声による朝の体調確認交信」と「おはよう」は違うと言う事です。(それだけかよっ!)
正確に表現できていない、という事です。
確かに、一見、「おはよう」の挨拶を正しく表現しているように思えました。(誰に言ってんだよ!)
普段忘れかけている事を意識できるような気もします。
馴れ合いになってる面もあるかなぁ、なんて、一人反省する事もできそうです。
確かに、こういう正確な言葉への言い換えは、法律や契約の限られた場面では必要な話です。
「曖昧さ」を排除する目的があるんでしょうね。(結局、そんな程度の納得かよ!)
正確でないのは何故でしょう。
実際には、「おはよう」に対する反応は「笑顔で会釈」だったり、「敬礼」だったり、その状況や人に合わせて、実は様々な反応が許されます。例外とはいえ、世の中には、数え切れない「おはよう」への反応があります。
「おはよう」は人間のための言葉なのです。
外国のホテルなどで、「morning」に「おはよう」と応えてもコミュニケーションは成り立つのです。人間だから。
次の日も「おはよう」「もーにん」と違う言語であっても挨拶する気になる事でしょう。
もしかすると、「もーにん」「oha-yo」と使う言葉が入れ違ったりして、なんだか嬉しいような得した気分の朝になるかもしれません。
話は戻って、「Hello world.」
人間はコンピューターに触れる最初の段階で人間のための言葉をコンピューターに言わせています。
コンピューターは人間のためにあるのだという意味がそこに込められている気がします。
ちなみに、コンピューターが牛の為にあるのなら、その時の言葉は、「モーモー」ですね。
アホらしい話を最後まで読んでいただいてありがとうございます。
(なんだそりゃ。いい加減にしなさい。ドモ、失礼しましたぁ。)
※はみ出し
「業界人」って変な言葉。例えば、学生も学生業界の業界人だし年金貰ってるお年寄りも年金受給者業界業界人だし、芸能・マスコミ関係だけを業界人と言っているうちは良かったけど、なんか「派手な業界」「話題になる業界」は業界人なんだろうか!?
火曜日, 12月 16, 2008
「最新」ダイヤルアーップ接続
<<あまりにつまらない内容なので短波ラジオ風にしてみました>>
オタクねたぁです。
マイスウィートホームでは、 ぁ、田舎の宿命として、ADSLや"ひかり"とかは、なんとなく嫌いな●TTのサービスしかありません。
で、引越した頃にちょうど「定額サービス」が始まったK DIの通信カードを使ったサービスが唯一のネット接続環境となってまし
縄ではAUが一番サービス範 が広い、と言われていて、ま、普通は不便を感じることは無いらしいんだけ 、我が家、マイスウィートホーーームは別。電話もネット接続も、家の中で超限定エーリアでしか受信できない。
それでも携帯電話に関しては電波調査隊がやってきて「スーーパーーアンテーナ」を置いてったのでなんとかなったものの、PC接続は相変わらず。繋がっても遅い。繋がらないのはしょっちゅう。←この様子はこちら。
そんなんで、ブログーの更新も家からはスム ズーに出来ず、何度か、電波状態の良い会 で、休憩時間にupしたりする始末。
N●Tのサービスに入るしかないかな。。。。などと諦めかけていたのですが、期待せずに話題のイ モバイルを調べたら、「2008年11月サービス拡大予定エリア」に入っているだよ。マイスウィートホームが。
で、11月に入って「サービス拡大予定エリア」を確認したら、「サービスーエリア」に予定通りしっかり入っている。
それから、イーモ イルの検討をしたわけです。
スピードまぁよし、値段まぁよし、っていうより選択肢が無いんだから、これしかないって感じ。
問題は、AUと同じように、エリア内なのに使えないケース。
これは避けなければなりません。2年縛りとかで契約したら大変なこと※になってしまう。
そんなこんなで、一ヶ月ほど前、レンタカーを借りた時に巨大ジャスコに出かけ、イーモバイルを探した。
無い。ウィルコムあってもイーモバは無い。
そうなんです、沖縄県はイーモバイル取り扱いショップは那覇周辺に二軒あるだけ。。。。
(っていうか、ジャスコに出かけてしまってから、そこで調べているマヌケなおじさん。。。)
そもそも、マイスウィーーートホームで電波が入るかはショップでもわかるわけではない、、、と、その帰りに気がついた。
(ショップがあったら、そこまで考えが及ばなかったのかなぁ。。。)
このイーモバイル。
モバイル前提だから、電波確認のために貸し出しとかはやっていない。
AUのプチプチ切れるネットー接続をしながら調べていくと、東京の携帯電話屋さんが出張用にイーモバイルの通信カードレンタルサービスをやっているのを発見。
ちょっと、いや結構高いんだけど、2年縛りで使えなかったら笑えない。。。
最短の一週間コースで申し込みました。翌々日に送られてきたカードで電波確認。
ぴーーーーひょろひょろひょろ・・・がーーーーざーーーー・・・ツンツンツン・ジャーーーー、、
と心の中でモデムの音が鳴り響く。
そしてそして、繋がります。輝くブルーのLEDランプ。
ガッツポーズー。
それから、嬉しくて、Youtube(普通の)やYoutube(18禁)やYoutube(XX禁)などなどを見まくり、時も忘れて回線速度に満足。
あっという間にレンタル期間を終え返却。
さすがにここまで引っ張られると、料金プランなんかも熟読し、ようやく先日契約。
(イーモバイルのサイトで契約しました。スーパーライトデータとかいう契約。使わなきゃ1000円/月。使いすぎても4980円。)
そんなわけで、今、こうして自宅から未来のダイヤルアップ接続でネットを使っているのでした。(先週末に届いたばかり)
いやぁ、快適快適。
※はみ出し:2年縛りって今の時代に凄い。2年後に仕事をしているか(クビになっていないか)すらわからないのになぁ。
今回、話題のイーモバイルってことで100円パソコンとかも検討したけど、結局、2年の分割払いで、しっかり金利も取られているような価格だったので見送りました。
※※はみ出し:購入したイーモバイルカードは、USB接続なので汎用のUSB延長ケーブルを使ってより電波常態の良いところにカードを置いておけます。(要するに我が家ではイーモバもバリ3にはならないってこと)
※※※(あくまで我が家での体感)ホームページを表示させた時のイメージの違い。AUは「ずんっ、、、、、ずんっずんっ、、、、、再接続中・・・」、イーモバは「・・・パタパタパタパタ・パタパタ・・パタパタパタ」な感じです。
↓「スクリーンセーファー」って。。。
月曜日, 12月 15, 2008
ウサギとカメ
こんな記事を読んだ。この数年間の東芝と日立の戦略をウサギとカメに例えて比較した記事。
http://moneyzine.jp/article/detail/113887
経済知識や経営知識が無いから「感覚的」にしか考えられなかった事を、ちゃんとした論理で説明されていて、とてもわかりやすかった。
ウサギは転びやすかったり転んだ時に大怪我するリスクが高いという話。
(かといってカメも、好景気の時は「なにやってんだ、あの会社」となるわけだが、、、、)
そんな話を読んで、カメ、時々ウサギぐらいがいいかなぁ、、、などと考えていたら、こんなニュースも。
http://wiredvision.jp/news/200812/2008121523.html
脳の働きを活性化したり、集中力を維持したりする、本来は病気治療のための薬を、仕事に使う人たちの話。
Natureに「こーゆー薬は、人類にとって有益だから使った方がいいよー」な論文が掲載されたというニュース。
※論説「認識能力増強薬の、健康な人による責任ある使用に向けて」
「使いたい人が勝手に使っていればいいじゃん。こっちに迷惑かけないでよね~」なんて思ったら、そう簡単な話では無い。
ビジネスの現場で使う人が増えると、使いたい/使いたくないに関わらず、自分一人が効率の悪い社員でいるわけにもいかず、誰もが使わざるを得なくなるという話なのだ。
現に、サービス残業は、そうゆう中で蔓延している。
このリンク先の話では、(米国では)大学生の7%と科学者の20%が使っているともある。
なんだそりゃ。今年一番呆れた話だ。
もう、そんな事すら良識(というのもお恥かしい)が通らないアホな国がこの世にあるのだ。
みんながウサギ、そんな世界に生きたいだろうか?
まるでナチスの優生保護政策のような薄気味悪さを感じてしまった。
この手の薬の多くがアメリカで消費されているらしい。
アメリカ発の愚かな歴史にならない事を祈るばかり。
このテーマに適当な写真をamazonで探してみて驚いた。
脳に直接作用する「薬」を奨励する本があった。この本は、「完全自殺マニュアル」の著者が書いていた。
気分の悪い話だ。←そんな話は書くなよ~(涙)
日曜日, 12月 14, 2008
仏教でもクリスマス
HDDに溜めた曲をシャッフルして発見した Cyndilauper/Early Christmas
沖縄っぽいイントロに耳が反応した。
(どうも、このオムニバスアルバムのバージョンのみ、イントロで沖縄風の合いの手が入っているようだ。)
さすがに沖縄は、涼しくなったとはいえ相変わらず暖かくて、クリスマスな雰囲気は皆無。
街にいけば、多少はクリスマスな飾り付けぐらいはあるのだろうけど、いかんせん、寒くない。
よく、南半球の海水浴しながらのクリスマスのニュースを不思議な感覚で見ていた事があるけど、今、自分がそんな真っ只中にいるんだなと再認識。
先日、職場のクリスマスパーティがあって参加したけど、仮装ありの賑やかなパーティで、当然ながらサンタファッションも数人いた。
うーん、でも、今までのクリスマスという感覚とはなんか違うなぁ。
この時期、ここ沖縄でも、パーティに限らずお洒落に敏感な若い人たちは、ニットの帽子なんかも被っていたりするけど、やっぱり、それはちょっと暑いよ。
そして、パーティ会場での「メリークリスマス」は、なんだか他の国の言葉で聞く乾杯の音頭みたいで、ピンと来なかった。
寒い地域でのクリスマスは、毎日寒さが厳しくなっていくのを身体で感じながら、ともすると「嫌な季節」にすらなりかねない、この時期。
そんな時期を、華やいだ気分にさせてくれるクリスマスは、うん、なかなか、よいではないか。
子供の頃、岩手では、しっかり寒いから、放っておけば「冬は嫌い」だった。寒いばかりだから。
でも、そんな寒い時期に、「うちは仏教だからやらないよ」と笑う両親に食って掛かりながらも、なんだかんだ結局はケーキぐらいにはありつけるクリスマス。
ケーキなんて食べることは普段無かった
(単に生活習慣で、当時の我が家では、甘いものといえばお萩とかを差した。まだ、岩手にはケーキ屋さんは無かったに違いない。)
辛い時でも、ささやかな楽しみを見出す、そういう意味でクリスマスは、宗教に関係なく根付いた風習なのかもしれない。
(まぁ、お正月でいいじゃん!って気もするんだけどね。クリスマスとお正月ダブルで楽しんじゃう日本は、本当に豊か過ぎるんだろうなぁ。)
食欲の秋を過ぎ、紅葉を楽しみ、いよいよ暮らしとしては「不快」なレベルの寒さがやってくる。
でも、その寒さの象徴の雪や氷の美しさを殊更強調したクリスマスツリーや、寒い中で暖かな雰囲気のサンタクロース。
家族で温かな食事を囲んで、ささやかなプレゼントを交換する。
(収穫の終わったこの時期、日々、草木は枯れ、猟だって思うように行かない時代、保存食を大切に食べていく中で、質素な日々の暮らしのご褒美みたいな意味もあったのかもしれない。)
なのに、質素な日々が無くなった今、「更なる贅沢をする日」にクリスマスは生まれ変わったのかもしれない。
だとたら、クリスマスぐらいは、何も食べずに、灯りも灯さずに、静かに、日々の幸せに感謝の思いに浸るのもいいかもしれない。
クリスマスの夜は蝋燭の灯で過ごすのもエコだしいいかも。
(っていうか、やっぱ、「仏教だからやらないよ」でもいい気がしてきた。(笑))
相変わらずJamendoをうろうろしています。
最近のお気に入りは↓これ。どれもいいけど、三曲目の"Le plaisir des sens"(感覚の楽しみ?)なんかいいねぇ。
金曜日, 12月 12, 2008
初めてのライブ
初めてシリーズ。今回は初めてのライブ。
うーん、ライブ。コンサートや演劇やスポーツやいろいろ。
なんだろうと考えてみると、多分、幼稚園のお遊戯系ライブ、、、と、これは出演するほうだし、そもそも、幼稚園通ってないし。。。
(幼稚園は周りに溶け込めずに早々に辞めた。。。)
とすると、、、そう考えているうちに思い出した。
小学校、多分、一年生ぐらいの頃。
学校の体育館で演劇を観た。
内容も何も覚えちゃいないが、現実離れした衣装だったような気がするのと、やはり現実離れしたカツ舌の良い大きな声と、出演者の若者(男性)が長髪だったことを覚えている。
学校の授業で、そんなのを観る機会があったんだけど、今思えば、あれは、地方を巡業している旅芸人?の人たちだったのだろうか。そもそも、標準語を話しているだけで、カッコよく見えたし、西城秀樹(古っ)なんかを生で見る事は叶わない田舎の小学生にとって画期的な企画だったと思う。
多分、荒稼ぎしていったんだろうなぁ。
今もあるんだろうか。田舎の小学校を巡る旅劇団。
と、そういえば、地方ならではのライブ、もう一つ。
旅劇団がどちらかと言えば女の子が大騒ぎする企画だったとすれば、もう一つは男の子が大騒ぎするライブ。
それは、旅劇団から1年/2年ぐらいたってからだったと思う。
旅劇団を圧倒する企画。
今度やってくるのは、たった一人。しかも標準語なんて話さない。
でも、もう、村を挙げての歓迎をした(と、子供だけは信じていた)コカコーラ・ヨーヨー世界チャンピオンがこんな田舎にやってきてやるよ、企画。
当時の岩手辺りだと、もう、「外人」と「宇宙人」の差がほとんど無い感じだったので、やってくる噂は、瞬く間に学校中を駆け巡った。
(実際には一部の男の子だけだったのだろう。)
そもそも、コカコーラ・ヨーヨー世界チャンピオンが、どれだけ凄いのかはわかっちゃいないのに、コカコーラ・ヨーヨー世界大会なんてその瞬間まで一度も聞いたことも無いのに、子供としてはオリンピック金メダリストと何ら変わらない「凄い人」として、その日を首を長くして待っていたのだ。
そして、その噂が実現するまでの何ヶ月かの間、「世界チャンピオンが使っているヨーヨー」欲しさに、田舎の男の子達は左手を腰に、右手でビンを持ち、ゲップで涙目になりながらも、コカコーラを飲みまくっていたのだ。
ここでもやはり、見事にターゲット・マーケットの一員として、チャンスがあれば親にコカコーラをねだっていたのであった。
(キリンレモンならいいけどコーラはダメ、っていうのが我が家の炭酸飲料に対する姿勢だった)
待ちに待ったその日、確かに金髪の外人が来た。
片言の日本語、ちょっとは練習しなきゃできないヨーヨーの芸、コカコーラマークのトラック、、、、
滞在時間、多分、30分ほど、学校近くの空き地に止まったトラックの上で、金髪の大男が小さいヨーヨーを、そこそこ操る。
うーん、今思えば、これも完全に騙されていた。
ずーっと片言の日本語を話していた気がするし、金髪だけど目は黒かったし、さすがに納豆臭かったりはしなかったと思うが、うーん、なんてアコギなマーケティング活動なんだ。
大体、世界チャンピオンがトラックの助手席に乗ってきていたのはどうかしている。(あくまで僕の記憶です)
当然ながら、彼が去るのと時を同じくして、コーラへの異常な執着はどこかにいった。
※はみ出し
当時のコーラには「辛口」「甘口」があった。
ビンの底にある凹みの形が四角いと辛口、丸いと甘口、、、、だと信じていた。
ちなみに僕は「辛口」派だった。
うーん、ライブ。コンサートや演劇やスポーツやいろいろ。
なんだろうと考えてみると、多分、幼稚園のお遊戯系ライブ、、、と、これは出演するほうだし、そもそも、幼稚園通ってないし。。。
(幼稚園は周りに溶け込めずに早々に辞めた。。。)
とすると、、、そう考えているうちに思い出した。
小学校、多分、一年生ぐらいの頃。
学校の体育館で演劇を観た。
内容も何も覚えちゃいないが、現実離れした衣装だったような気がするのと、やはり現実離れしたカツ舌の良い大きな声と、出演者の若者(男性)が長髪だったことを覚えている。
学校の授業で、そんなのを観る機会があったんだけど、今思えば、あれは、地方を巡業している旅芸人?の人たちだったのだろうか。そもそも、標準語を話しているだけで、カッコよく見えたし、西城秀樹(古っ)なんかを生で見る事は叶わない田舎の小学生にとって画期的な企画だったと思う。
多分、荒稼ぎしていったんだろうなぁ。
今もあるんだろうか。田舎の小学校を巡る旅劇団。
と、そういえば、地方ならではのライブ、もう一つ。
旅劇団がどちらかと言えば女の子が大騒ぎする企画だったとすれば、もう一つは男の子が大騒ぎするライブ。
それは、旅劇団から1年/2年ぐらいたってからだったと思う。
旅劇団を圧倒する企画。
今度やってくるのは、たった一人。しかも標準語なんて話さない。
でも、もう、村を挙げての歓迎をした(と、子供だけは信じていた)コカコーラ・ヨーヨー世界チャンピオンがこんな田舎にやってきてやるよ、企画。
当時の岩手辺りだと、もう、「外人」と「宇宙人」の差がほとんど無い感じだったので、やってくる噂は、瞬く間に学校中を駆け巡った。
(実際には一部の男の子だけだったのだろう。)
そもそも、コカコーラ・ヨーヨー世界チャンピオンが、どれだけ凄いのかはわかっちゃいないのに、コカコーラ・ヨーヨー世界大会なんてその瞬間まで一度も聞いたことも無いのに、子供としてはオリンピック金メダリストと何ら変わらない「凄い人」として、その日を首を長くして待っていたのだ。
そして、その噂が実現するまでの何ヶ月かの間、「世界チャンピオンが使っているヨーヨー」欲しさに、田舎の男の子達は左手を腰に、右手でビンを持ち、ゲップで涙目になりながらも、コカコーラを飲みまくっていたのだ。
ここでもやはり、見事にターゲット・マーケットの一員として、チャンスがあれば親にコカコーラをねだっていたのであった。
(キリンレモンならいいけどコーラはダメ、っていうのが我が家の炭酸飲料に対する姿勢だった)
待ちに待ったその日、確かに金髪の外人が来た。
片言の日本語、ちょっとは練習しなきゃできないヨーヨーの芸、コカコーラマークのトラック、、、、
滞在時間、多分、30分ほど、学校近くの空き地に止まったトラックの上で、金髪の大男が小さいヨーヨーを、そこそこ操る。
うーん、今思えば、これも完全に騙されていた。
ずーっと片言の日本語を話していた気がするし、金髪だけど目は黒かったし、さすがに納豆臭かったりはしなかったと思うが、うーん、なんてアコギなマーケティング活動なんだ。
大体、世界チャンピオンがトラックの助手席に乗ってきていたのはどうかしている。(あくまで僕の記憶です)
当然ながら、彼が去るのと時を同じくして、コーラへの異常な執着はどこかにいった。
※はみ出し
当時のコーラには「辛口」「甘口」があった。
ビンの底にある凹みの形が四角いと辛口、丸いと甘口、、、、だと信じていた。
ちなみに僕は「辛口」派だった。
木曜日, 12月 11, 2008
水曜日, 12月 10, 2008
ビーグル

最近の動物の研究に関するニュースを読んだ。
「恐怖」といった生命に関わる根源的な感情は動物の多くに認められていた(そりゃそうだ)が、ニュースでは「ひがむ」のような微妙な感情の話題だった。
霊長類ならいざ知らず、哺乳類「犬」がその微妙な感情を持っているというニュース。
そんな研究は動物学者に任せておくとして、その検証の例がイケていた。
あ、そのニュースが読みたいならコチラ。
検証方法はこうだ。
●二匹の犬を並べ、二匹共に「お手」をさせる。
「お手」をしたら、ご褒美に餌をあげる。
当然、二匹とも、ご褒美欲しさに「お手」を何度でもする。
実験では30回ほどこれを繰り返すのだそうだ。
さて、その次。
●やはり二匹共に「お手」をさせる。
しかし、今度は、片方にだけご褒美にお菓子を上げる。
そうすると、ご褒美を貰えなかった方は、何度か「お手」はするのだが、「お手」をする回数が激減するのだそうだ。
この事をどう捉えるか、は、意見がいろいろあるようだけど、この研究を紹介している写真がいい。
それが↓

この写真を見た瞬間、「あり得ない!」って思った。
何があり得ないって、これはビーグル好きにしかわからないかもしれないが、片方がビーグルなのが「あり得ない」なのだ。
ビーグルと暮らした100人に聞いたら、100人共に「あり得ない」と思うはずだ。
(離婚するまで一緒に暮らしていた犬はビーグルでした。。)
そもそも、ビーグル好きはビーグル以上にバカなのだ。
飼い主は飼い犬に似る、いや、飼い犬は飼い主に似る、、どちらでもいい、とにかくバカハッピーなのだ。
普通の、そんじょそこらの犬と違う点。
まず、「お手」をしている時点で、ビーグル的には「かなり偉い」のである。
それも食べ物を目の前にして、我慢して、その上「お手」を何度もする。
こんなのは、僕にも出来ないかもしれない。
「犬のノーベル賞」があれば受賞しちゃうぐらいの偉さなのである。
ノルウェーでもなんでも行っちゃうのだ。
ちなみに、1991年に創設されたハーバード大学で執り行われるイグノーベル賞は、犬ノーベル賞が訛ったものだという説すらあるのだ。(んなことない。イグノーベル賞は実在します。)
何故なら、彼らは、犬のおバカランキングをやったら、多分、ビリかビリから二番目ぐらいのおバカ加減なのだ。
どの位バカなのかというと、バーベキューの肉の匂いに抗えず、よだれを垂らしながら鉄板に足をのっけてしまうぐらいおバカなのだ。
しばらくしてさすがの肉球も熱くなるらしい。
当たり前に、鉄板の熱さに「ヒー、キャンキャンッ」となる。
しかし、8秒ほどするとまたよだれを垂らしながら鉄板に足を乗っけてしまう。
そんなヤツなのです。
そのうち鉄板に足を乗っけるのも三回目ぐらいからは慣れてきて、鉄板相手に、トントン足踏みするんです。
(ここはリズム感良く読んでください。)♪右足熱けりゃ左足、こっちも熱けりゃまた右足♪
、、、そんな足踏みしながら目を潤ませながら肉をジッと見つめるのです。
もう、目に入れても痛くないほど可愛いヤツなのです。
でだ、そのウィーン大学での二匹の犬の実験は、片方がコリー、片方がビーグルなのです。
残念ながら、この実験は失敗です。
ビーグル相手に食べ物絡みの実験は酷です。
きっと、実験会場は、涎で床上浸水したことでしょう。
ここ沖縄も、何故かビーグルを良く見かけます。
米軍基地から逃げ出したのかどうかは知りませんが、世界共通、ビーグルの散歩姿は何処でも同じ。
常に地面に鼻を擦りつけそうになりながら、「食べられるもの」を口にするチャンスを狙っています。
100%、前を見て散歩などしないのです。
散歩ではなく、「食べられるもの探し」の旅なのです。
この旅に必要なチケットを旅犬と呼ぶのです。
ということで、ビーグル好きにしかわからない話でした。
※はみ出し
10年一緒に暮らした家族だったビーグル(チーちゃん)は、今も何とか生きているようです。
とはいえ、もう、寿命なので静かに暮らしているようです。
たくさんの楽しい思い出をありがとう。>チーちゃん
※※はみ出し2
以前、知り合いが飼っていたビーグルは、当然、いつもがっついていた。
余りにがっついているので、誕生日に、好きなだけ食べればいいと、タップリの肉とタップリの誕生ケーキを好きなだけ食べさせてみた。
そのビーグルは見事に全てを食べきり、その次の日から一週間、お腹を壊し続けた。
ちょっとゲッソリしながらも、何処か嬉しそうな顔つきで、相変わらず地べたを嗅ぎながら散歩に来たのは言うまでも無い。
※※実験動物におけるビーグル
人懐っこく、上記の様に食べ物に目が無いビーグル。
化粧品や薬剤など数々の実験に使われることも大変多いビーグル。
感染系?の実験などに使われた場合に大量廃棄される動画がセンセーショナルに報じられたことも過去にあります。
たまには人間の我侭に命を捧げている動物たちに思いを馳せるのもよいかも。ありがとう。合掌。
火曜日, 12月 09, 2008
水玉の湯呑み、いいなぁ。

先日紹介した行動科学の本。
「管理」ではなく「リーダーシップ」に長けているなぁといつも感心させられる友人から、
「なんでこの本を読もうと思ったのか?」
と聞かれました。
うーん、思い出そうとしてもなかなか思い出せないので、多分、amazonをフラフラ見ていて引っかかったのだと思います。
(まるで答えになっていない。。)
マネジメント関連で、以前に気になっていたのは「デザイン」で、今回は、「行動科学」。(っていうらしい)
指示されてではなく「自然にやりたくなってしまう」状態はどうやったらできるかっていう事。
自分が細かく指示できないお作法的にダメ出しされる人間だし、お作法的に細かく指示されるとダメだから、つい、そういう状態が望ましいって思ってしまう。
あぁ、無作法な人間だったんだ。>自分。。。
今更だけど、「自然にやりたくなってしまう」鍵は二つあると思っています。
それは、「デザイン」と「モチベーション」。
誰かに夕飯を食べてもらいたいなら、
①デザインは、
食卓に温かい夕食が並んでいる。
床に並べても、食卓に冷たい食品がのっかっているのもダメ。
灯りに照らされた食卓で、今なら湯気が立ち上っているような感じで、主食やおかずが何点か並んでるのが夕食のデザイン。
「これは食べないわけにいかないでしょう」って感じにデザインするのが○。
②モチベーションは、
うーん、これは割りとシンプル。 お腹が空いてるのが一番。
そんな感じかな。
「お腹空いた~」に、「美味しそう」で食べるご飯、これが結果的に一番美味しいのです。
フグもウナギもステーキもアワビもフォアグラもキャビアも、
お腹が空いて堪らない時のカレーライスには勝てないのです。
そして、空腹度合いや体調に合わせて食卓がデザインされているのが重要。
腹ペコなのに、ゆっくりコース料理なんて待っていられない時もある。
でも、何か特別な日なのにラーメンライスも、ちょと寂しいなんて時もある。
お正月ならおこたでしょ、とか、デザインもモチベーションも定型である必要は無いのだ。
美しい精緻な報告書に拘ってしまってリアリティが無い「シャンシャン報告会」は、経験的には、ほぼ、何も産み出さない会議だと言い切れるよね。
集まる必要の無い会議。「どうせ、うまくいってんだろー」と、とは言いながらも信用してるかは微妙な会議。
美しいモノと使えるモノが必ずしも一致しないように、美しさに拘ると、管理を(表面上は)キッチリやるようになって、成果は無意味なものになりがち。
あるいは、勤務時間の精緻な管理は、管理者自らが自分の能力が欠如している事を表明しているようで、イタい。
そこに、信頼は存在しない。当然、信頼もされない。
そう、管理とは、管理者の責任逃れのためでもあるのだ。
そんな事を考えていて、見つけた本だったと思います。
でも、新品は高いので、古本をゲットしたんだけどね。
(最近、本は定価で買うのは避けたいんだなぁ。セコいんだなぁ。)
紺色の水玉の湯呑みは、決して陶器の世界で評価されている?とは思えないけど、使いやすいよね。
古典的/普遍的なデザインと人の指がしっくり収まる水玉の凹み=機能性がしっくり融合している。
きっと、格好はよくないのかもしれないけど、使う人に優しい気がします。
これは「かなり完成」された一品。(趣味の問題はあろうよ。でもいいじゃん。水玉。)
パーティには似合わないけど日常の多くのシチュエーションに耐えられる。
(万が一、割れてしまっても、また買えばいいって思えちゃうのも、とっても優しい。)
土曜日, 12月 06, 2008
金曜日, 12月 05, 2008
木曜日, 12月 04, 2008
自分が初めて買ったレコード
初めてシリーズ、今日は、「初めて買ったレコード」。
これ、初めて聞いた、とか、初めて気に入った、とかではなく、あくまで初めて自分のお小遣いで買ったというレコード。
小学生の時は、親と一緒に買ったりしていたわけで、そんな時には、あっちの流行歌(古っ)のアイドルものなど買って貰えず、せいぜい、田中星児版の「ビューティフルサンデー」だったり、誕生日かなんかでゴネて買って貰った「夕焼け小焼けby松鶴家 千とせ」だったりしたわけだ。
今思えば、その何年か後、生涯聞き続けるだろう「Eddie Jeferson」というスキャットというか、もう、すげーVocalに出会うことを考えれば、和製のスキャット?を松鶴家 千とせとの出会いは必然だったようにも思えてくる。無理やりだけど。
(動揺とかクラシックとか、そーゆーのは、親の気持ちとは裏腹に「買って貰った」意識すらない。。。)
そんなこんなで、中学生。
当時は音楽ソースはラジオで、FMも聞いたけど、AMだってバリバリ聞いていた。
親は大人しめの因幡晃とか好青年"中村雅俊"なんかを、それとなく薦めてくるのだが、そんなんでは収まらないのが中学生。
とうとう出会っちゃいました。それは、「QUEEN」。折りしも習いたての英語、スペルを覚えにくい"bicycle"が連呼される「bicycle race」のヒットと共に虜に。
もう、来る日も来る日もラジオから録音した、唯一聞き取り可能なネイティブ英語「あいおんちゅーらいまいばいせーこー」を自転車通学の坊主頭の少年は連呼しながら田んぼの道をひた走っていたのでした。
そうして、アルバムが日本で発売になる!
ここで重要なのが、「初回販売分限定特性ポスター付」。これです。
そのポスターは当時のQUEENのライブ会場のステージに登場する「自転車に乗った何人ものオールヌードの女性」!
今思えば、ピンポイントで田舎の自転車通学男子を対象にしたかのようなマーケティング。
これは買わないわけにはいきません。
しかし、当時のLPレコードは一ヶ月の小遣いでも買えない様な値段。
何をどうしたのか覚えていないけど、とにかく、多分、テストの点数を担保にしたりして、ゲット。
ポスターが目的だか、音楽が目的だか、、そんなこんなの初めて買ったレコードなのでした。
(いや、音楽が目的です。フレディは亡くなったけど、未だによく聞いています。)
↓日本では非発売だったシングル版のジャケット

火曜日, 12月 02, 2008
リーダーとマネージャー
今読んでる本で、リーダーシップの基本能力についてこう書いてある。
・診断能力:状況を把握し理解する能力
・適応能力:状況にあわせて自分やチームが力を発揮できるようにする能力
・コミュニケーション能力:相手に容易に理解できるように伝える能力
そして、もう一つ心に残った言葉、
「マネージャーは管理しリーダーは革新する。」
だ。
マネージャーに関する下りは、もう少し、過激だ。
マネージャーは「写し(コピー)」<==>リーダーは「原版(オリジナル)」
マネージャーは維持する<==>リーダーは開発する
マネージャーは体制や構造に着眼<==>リーダーは人々や人間に着目
マネージャーは他人を統率<==>リーダーは他人から信服
マネージャーの視点は短期的<==>リーダーの視点は長期的
マネージャーは「いかに」と「いつ」を問題にする<==>リーダーは「何」「何故」を問題にする
マネージャーは結果を考える<==>リーダーは未来を展望する
マネージャーは模倣する<==>リーダーは創造する
マネージャーは現状を受け入れる<==>リーダーは現状に挑戦する
マネージャーは事を正しく行う<==>リーダーは正しいことを行う
そして、リーダーは、一人でもなり得るような気がした。
だから、リーダーシップ(役職や立場には関係しない)なのか、、、と一人納得。
リーダーになりたい。そう思った。
ちなみにこの本は↓です。
・診断能力:状況を把握し理解する能力
・適応能力:状況にあわせて自分やチームが力を発揮できるようにする能力
・コミュニケーション能力:相手に容易に理解できるように伝える能力
そして、もう一つ心に残った言葉、
「マネージャーは管理しリーダーは革新する。」
だ。
マネージャーに関する下りは、もう少し、過激だ。
マネージャーは「写し(コピー)」<==>リーダーは「原版(オリジナル)」
マネージャーは維持する<==>リーダーは開発する
マネージャーは体制や構造に着眼<==>リーダーは人々や人間に着目
マネージャーは他人を統率<==>リーダーは他人から信服
マネージャーの視点は短期的<==>リーダーの視点は長期的
マネージャーは「いかに」と「いつ」を問題にする<==>リーダーは「何」「何故」を問題にする
マネージャーは結果を考える<==>リーダーは未来を展望する
マネージャーは模倣する<==>リーダーは創造する
マネージャーは現状を受け入れる<==>リーダーは現状に挑戦する
マネージャーは事を正しく行う<==>リーダーは正しいことを行う
そして、リーダーは、一人でもなり得るような気がした。
だから、リーダーシップ(役職や立場には関係しない)なのか、、、と一人納得。
リーダーになりたい。そう思った。
ちなみにこの本は↓です。
月曜日, 12月 01, 2008
歪み(Stress)
社会人になって味わったストレスを思い返してみた。
初めて自分の仕事に新人をアサインされた時。
まだ、20代。あの頃僕は若かった。
この時、僕は初めて仕事でストレスを感じた。
まぁ、思うようにいかないだけの、今思えば大した話ではなかったが、この時のストレスは今思い返すと面白い。
まず、「僕自身がストレスを感じていなかった」事。
多分、"自分の仕事が認められたから増員して新人が来た"ぐらいの感覚だったのだろう。
嬉しい気持ちがあるから、(結構、これが大変な新人だったんだけど)ストレスだと感じてはいなかった。
しかし、感じていないはずのストレスが身体に現れた。
円形脱毛症。。。
もう、一個見つかったら、あれよあれよと次々に発症。
ま、新人との付き合いに慣れてきたら自然に消えたけど、驚きました。
その後、基本的にストレスを感じることは余り無く、まぁ、その時々の環境に、プカリプカリ浮きながら、ハードな局面もソフトな局面も
楽しんでやってきたんだと思う。
最近、ちょっとしたストレスを感じる時があって、自分でも自分がどう反応するのか興味があって記録してみた。
精神的変化、肉体的変化、それぞれ分けて書いてみようと思う。
・第一段階(ストレス醸成期)
何がなんだかわからないけど、一日の終わりに脱力する感じ。
この段階ではストレスだという自覚が無いし、寝て起きれば忘れている。
翌日、同じストレスにさらされても特に気がつかない。
・第二段階(抵抗期)
ストレスを認識して一日の終わりに「反省」したり「対策」したりもがく様な感じ。
ストレスだという自覚はあるけど、寝酒を軽く飲んで寝れば忘れている。
翌日、同じストレスにさらされそうになると身構える。
・第三段階(受容を試みる期)
ストレスに抵抗しても無駄だと考えてストレスを受け入れようと試してみる時期。
一種の抜け殻の様な自分を、もう一人の自分が客観的に見ているような感じ。
翌日、同じストレスにさらされるても、何も感じない。
・第四段階(根本解決を試みる期)
ストレスの根源/人に対して排除、もしくは、告知する事で根本解決を試してみる時期。
抜け殻と一転して頑固者のようになる。あるいは、愚痴っぽくなる。あるいは、怒りっぽくなる。
同じストレスにさらされると、「緊張」「動悸」の状態になり、その後、「酷い脱力感」に襲われる。
ざっと、一ヶ月ぐらいでこんな風に推移するようです。
寝て忘れられるかどうか、が重要な気がします。
ただ、いずれの段階であっても、目に見えない変化が進行しているわけで、他の人に当たったりしていないか、、、までは自覚が無い
。それだけは、怖いなぁ。
ちなみに、「酷い脱力感」は肉体の反応としてとても面白い。
腕に力が入らず、なんていうか、腕が重く感じる。長距離を走った後の腕みたいな感覚。
ま、面白がってないで脱力じゃなくて脱出するのだ。
初めて自分の仕事に新人をアサインされた時。
まだ、20代。あの頃僕は若かった。
この時、僕は初めて仕事でストレスを感じた。
まぁ、思うようにいかないだけの、今思えば大した話ではなかったが、この時のストレスは今思い返すと面白い。
まず、「僕自身がストレスを感じていなかった」事。
多分、"自分の仕事が認められたから増員して新人が来た"ぐらいの感覚だったのだろう。
嬉しい気持ちがあるから、(結構、これが大変な新人だったんだけど)ストレスだと感じてはいなかった。
しかし、感じていないはずのストレスが身体に現れた。
円形脱毛症。。。
もう、一個見つかったら、あれよあれよと次々に発症。
ま、新人との付き合いに慣れてきたら自然に消えたけど、驚きました。
その後、基本的にストレスを感じることは余り無く、まぁ、その時々の環境に、プカリプカリ浮きながら、ハードな局面もソフトな局面も
楽しんでやってきたんだと思う。
最近、ちょっとしたストレスを感じる時があって、自分でも自分がどう反応するのか興味があって記録してみた。
精神的変化、肉体的変化、それぞれ分けて書いてみようと思う。
・第一段階(ストレス醸成期)
何がなんだかわからないけど、一日の終わりに脱力する感じ。
この段階ではストレスだという自覚が無いし、寝て起きれば忘れている。
翌日、同じストレスにさらされても特に気がつかない。
・第二段階(抵抗期)
ストレスを認識して一日の終わりに「反省」したり「対策」したりもがく様な感じ。
ストレスだという自覚はあるけど、寝酒を軽く飲んで寝れば忘れている。
翌日、同じストレスにさらされそうになると身構える。
・第三段階(受容を試みる期)
ストレスに抵抗しても無駄だと考えてストレスを受け入れようと試してみる時期。
一種の抜け殻の様な自分を、もう一人の自分が客観的に見ているような感じ。
翌日、同じストレスにさらされるても、何も感じない。
・第四段階(根本解決を試みる期)
ストレスの根源/人に対して排除、もしくは、告知する事で根本解決を試してみる時期。
抜け殻と一転して頑固者のようになる。あるいは、愚痴っぽくなる。あるいは、怒りっぽくなる。
同じストレスにさらされると、「緊張」「動悸」の状態になり、その後、「酷い脱力感」に襲われる。
ざっと、一ヶ月ぐらいでこんな風に推移するようです。
寝て忘れられるかどうか、が重要な気がします。
ただ、いずれの段階であっても、目に見えない変化が進行しているわけで、他の人に当たったりしていないか、、、までは自覚が無い
。それだけは、怖いなぁ。
ちなみに、「酷い脱力感」は肉体の反応としてとても面白い。
腕に力が入らず、なんていうか、腕が重く感じる。長距離を走った後の腕みたいな感覚。
ま、面白がってないで脱力じゃなくて脱出するのだ。
土曜日, 11月 29, 2008
旧型インフルエンザ
今日、いや、もう昨日か、勤務先でインフルエンザの予防接種を受けた。
勤務先は、シフト休の人も多く、子供連れの参加も目立った。
なかなか盛況。
世間では、「新型インフルエンザ蔓延のXデー」が話題になっているみたいだけど、
旧型インフルエンザを予防しなければ新型インフルエンザは流行らないんじゃないか?と思った。※
旧型インフルエンザで、毎年、そこそこ被害は出るけど、戒厳令のような状態にはならないで済む。
そっちの方が健全なんじゃないか?
そんな事を考えながら、注射した左腕を押さえる右手に「揉んじゃいけない」と言い聞かせるのでした。
※実際は混合感染もあり得るようで、旧型の予防も大切な意味があるようです。
予防
・通勤は公共交通機関はリスクが高くなる
・会議は電話/テレビ会議のように対面しない方が良い
・執務環境もできれば個室に近い方が良い
・食堂なども時差利用などで人との接触距離に余裕を持つほうが良い
・マスク
ちなみに、気をつける距離の目安は、マスクしていない相手の場合2m以上、マスクしていれば1mぐらいだとか。
勤務先は、シフト休の人も多く、子供連れの参加も目立った。
なかなか盛況。
世間では、「新型インフルエンザ蔓延のXデー」が話題になっているみたいだけど、
旧型インフルエンザを予防しなければ新型インフルエンザは流行らないんじゃないか?と思った。※
旧型インフルエンザで、毎年、そこそこ被害は出るけど、戒厳令のような状態にはならないで済む。
そっちの方が健全なんじゃないか?
そんな事を考えながら、注射した左腕を押さえる右手に「揉んじゃいけない」と言い聞かせるのでした。
※実際は混合感染もあり得るようで、旧型の予防も大切な意味があるようです。
予防
・通勤は公共交通機関はリスクが高くなる
・会議は電話/テレビ会議のように対面しない方が良い
・執務環境もできれば個室に近い方が良い
・食堂なども時差利用などで人との接触距離に余裕を持つほうが良い
・マスク
ちなみに、気をつける距離の目安は、マスクしていない相手の場合2m以上、マスクしていれば1mぐらいだとか。
木曜日, 11月 27, 2008
沖縄産野菜の買い方
↑これみたいに、特産品は別だけど、普通の野菜で地元でも生産されるものは地元のスーパーでは手に入らない。
地元でもニンジンやほうれん草やナスやたくさんの野菜が収穫されているのに。。。
スーパーの照明に照らされている野菜は、どれも、内地から送られてくる色鮮やかで姿かたちも美しい野菜。
おまけに、きれいにパッケージされている。
半分観光気分の僕は、できることなら地元の野菜を、、、と思うのだが、本当にスーパーでは特産品のゴーヤぐらいしか売っていないのだ。
そんなわけで、週に二・三回、近所の八百屋さんに顔を出す。
申し訳ないが、とっても小さい八百屋さん。
駐車場の奥の、店、というより、小屋で営業している八百屋さん。
あまり儲かってはいないようなんだけど、ここでは、地元、それも本当に暮らしている街で取れる野菜が売られている。
旬の地元の野菜、その食べ方、八百屋さんがどう調理したか、そんな会話をしながら顔の見える安心を楽しむ。
先日、会社の飲み会で「四角豆」っていうのを食べた翌日、その八百屋さんでその話をすると、「ちょうど、ちょっと傷んで売れ残っているのがあるからもって行きな!」と、本当に端っこがちょっと茶色くなっただけの、素人の僕が見ても何の問題も無い四角豆を頂いた。
「賞味期限」に縛られずに、本来なら当たり前の生活。
顔が見える社会、都会では確かに難しい部分もある。
でも、以前は都会でさえも、暮らしている地域では顔が見えていたはず。
経済成長と引き換えに徐々に見えにくくなった顔は、今、一日のほとんどを過ごす会社での「顔」すら見えにくくなってきている。
多くは望んで"非"の立場でいるわけでは無い非正社員、派遣された人達との仕事。あるいは派遣される自分。
どんな巨大メーカーでも巨大スーパーでも、売っている食品に安全が担保されなくなってきている。
サービス業でも単純な「情報漏洩」が止まらない。
官僚たちは税金を自分たちの天下り先に小学生も納得できないようなロジックで垂れ流す。
顔が見えていたら出来ないこと、ありえない事が、顔が見えていなければいとも簡単にできるのかもしれない。
顔が見えない人のために大量生産されるお弁当。
顔が見えない人のために賞味期限付きで売るコンビニ。
お互い顔が見えないから、時間管理され、まだ食べられるのに廃棄されるお弁当。
その八百屋さんには、よくお客さんが座り込んで八百屋さんと世間話をしながらお茶を飲んでいたりする。
そのお客さんとも顔見知りになる。
そうやって、顔が見える社会は繋がっていく。
※はみ出し
そんな八百屋さんも頑張っているっていうホームページ
↓そういえば、コールセンターでは、顔の見えない顧客とうまく会話するために、こんな鏡をデスクにおいていたりするのでした。
火曜日, 11月 25, 2008
ひるまのままくておもしぇはなしこきだ。「てぃあんだー」
※唐突ですがお休み終了。再開します。
ランチタイム、食後のコーヒー&一服中の席に、通りがかった同僚(女性)がゴマ団子を差し入れしてくれた。
一緒にタバコを吸っていた同僚がお礼の声をかけると、差し入れてくれた同僚は、「てぃあんだーだから美味しいよ」のような事を言った。(僕には何と言ったのか聞き取れなかったのだが)
それから、「てぃあんだー」ってなに?
っていう話になり、「手の油」なんだと聞きました。
典型的な使い方は、
孫:「おばあのおにぎりは美味しいな。なんでだろ?」
おばあ:「それは、てぃあんだーだからだよ。」
みたいな使い方らしい。
素手で心を込めて作った「おにぎり」。
その素手で作った美味しさを「てぃあんだー」という言葉で表す。
直接的には「手の油」の意味なのだそうだが、「手塩にかけて」「一手間をかけた」のような意味が込められているのだそうだ。
ビニール袋に手を包み、消毒を繰り返し、瞬間冷凍や保存料やありとあらゆる科学をつぎ込んで「合理的に」作られたはずの食品。
回転寿司の茶髪バイト君には手袋してもらいたいし、住み慣れた街の小さなカウンターのお寿司屋さんには素手で握ってもらいたい。
素手で触れるという事は、「気持ち」が大切なのだ。「気持ち」が無いなら素手で触って欲しくない。
「てぃあんだー」を忘れた食品に食の安全など求められない。
なーんて事を考えたランチタイムなのでした。
てぃあんだーの意味はこちら
※ハミダシ※
沖縄の食文化、「皆で食べる」のもその一つなのだそうだ。っていうか、それは本来、人間そのものの文化。
会社の残業代は、皆で食べることを会社の都合で諦めてもらうから残業代ではなく「皆で食べる事をさせなかった手当て」にすれば、少しは良い世の中になるのかもしれない。
※ハミハミダシ※
母の故郷の秋田弁もかなり面白い。
タイトル、=昼食を食べて面白い話を聞いた、という意味です。(のはずです。)
ランチタイム、食後のコーヒー&一服中の席に、通りがかった同僚(女性)がゴマ団子を差し入れしてくれた。
一緒にタバコを吸っていた同僚がお礼の声をかけると、差し入れてくれた同僚は、「てぃあんだーだから美味しいよ」のような事を言った。(僕には何と言ったのか聞き取れなかったのだが)
それから、「てぃあんだー」ってなに?
っていう話になり、「手の油」なんだと聞きました。
典型的な使い方は、
孫:「おばあのおにぎりは美味しいな。なんでだろ?」
おばあ:「それは、てぃあんだーだからだよ。」
みたいな使い方らしい。
素手で心を込めて作った「おにぎり」。
その素手で作った美味しさを「てぃあんだー」という言葉で表す。
直接的には「手の油」の意味なのだそうだが、「手塩にかけて」「一手間をかけた」のような意味が込められているのだそうだ。
ビニール袋に手を包み、消毒を繰り返し、瞬間冷凍や保存料やありとあらゆる科学をつぎ込んで「合理的に」作られたはずの食品。
回転寿司の茶髪バイト君には手袋してもらいたいし、住み慣れた街の小さなカウンターのお寿司屋さんには素手で握ってもらいたい。
素手で触れるという事は、「気持ち」が大切なのだ。「気持ち」が無いなら素手で触って欲しくない。
「てぃあんだー」を忘れた食品に食の安全など求められない。
なーんて事を考えたランチタイムなのでした。
てぃあんだーの意味はこちら
※ハミダシ※
沖縄の食文化、「皆で食べる」のもその一つなのだそうだ。っていうか、それは本来、人間そのものの文化。
会社の残業代は、皆で食べることを会社の都合で諦めてもらうから残業代ではなく「皆で食べる事をさせなかった手当て」にすれば、少しは良い世の中になるのかもしれない。
※ハミハミダシ※
母の故郷の秋田弁もかなり面白い。
タイトル、=昼食を食べて面白い話を聞いた、という意味です。(のはずです。)
日曜日, 11月 16, 2008
しばらくおやすみしま~す!
半年。ちょうど沖縄への引越しが終わって半年。
半年の間に、たくさんの事があった。
たくさんの人と出会った、たくさんの事柄について考えた、たくさんの経験を重ねた、たくさんの新しい思いを磨くことが出来た。
この半年を忘れないようにしよう。
今、沖縄も、ようやく夏が終わり、まぁ、沖縄っぽくなくなる。
でも、ここは、たくさんの新しい思いを磨き始めた土地。
もう、後戻りはしない。
もし、誰かに、「そうは言っても酷いヤツじゃん」って思われても仕方ない。
そう、本当に今を迎えるまで、随分と酷いヤツだった。
離婚なんて必然の結末。
10代で家を飛び出し、18の誕生日と共に結婚。
子供を三人も授かったのに破局、そして、間髪をおかず二度目の結婚。
二度目の結婚は血の繋がりこそ無いけど実際に愛情を受け止めてくれた娘がいた。
なのに、その家族ともやはり僕の一方的な無責任な行動で別れた。
そんな時、渦中の僕は、全ての責任をパートナーが原因の様に巧妙に自分のプライドを保てる程度に周囲に話し、今の、周囲が相手をしてくれる程度の人に成りすましていたのだ。
酷いプロフィール。人としてどうなの?っていう事。
だとしても仕方ない。
今の自分しか自分じゃないんだから。
僕は、一つ一つ、傷つけた、子供達、パートナー、両親、弟、学校の先生、その間に付き合った人々、、、
一つ一つ思い返しながら、相手の気持ちを辿りながら、今の自分を、残りの人生を、噛み締めながら歩いていきたい。
そう、今年の夏、長女に女の子が誕生しました。ありがとう。
その瞬間、その日のブログに一番書きたかったのに書けなくてゴメンね。
こんなオジイでゴメンなぁ。でも、現時点で世界で一番可愛い女の子なのは間違いない。

最後に、こんな素直な気持ちにさせてくれた、今日まで傷つきながら、一緒に歩んでくれた君にも心から感謝。
ありがとう。
うーん。かっこ悪いなぁ。(笑)
過去のものも含めて、ブログを公開したのも同じ時期でした。
ずっと気になっていたこと、自分の「人でなしっぷり」を書かずにいたことをようやく書けました。
しばらく更新はお休みします。
(なんだか、照れ臭いのと、仕事も佳境を迎えそうなので。)
チョット早いけど、よいクリスマス&よい新年を!
半年の間に、たくさんの事があった。
たくさんの人と出会った、たくさんの事柄について考えた、たくさんの経験を重ねた、たくさんの新しい思いを磨くことが出来た。
この半年を忘れないようにしよう。
今、沖縄も、ようやく夏が終わり、まぁ、沖縄っぽくなくなる。
でも、ここは、たくさんの新しい思いを磨き始めた土地。
もう、後戻りはしない。
もし、誰かに、「そうは言っても酷いヤツじゃん」って思われても仕方ない。
そう、本当に今を迎えるまで、随分と酷いヤツだった。
離婚なんて必然の結末。
10代で家を飛び出し、18の誕生日と共に結婚。
子供を三人も授かったのに破局、そして、間髪をおかず二度目の結婚。
二度目の結婚は血の繋がりこそ無いけど実際に愛情を受け止めてくれた娘がいた。
なのに、その家族ともやはり僕の一方的な無責任な行動で別れた。
そんな時、渦中の僕は、全ての責任をパートナーが原因の様に巧妙に自分のプライドを保てる程度に周囲に話し、今の、周囲が相手をしてくれる程度の人に成りすましていたのだ。
酷いプロフィール。人としてどうなの?っていう事。
だとしても仕方ない。
今の自分しか自分じゃないんだから。
僕は、一つ一つ、傷つけた、子供達、パートナー、両親、弟、学校の先生、その間に付き合った人々、、、
一つ一つ思い返しながら、相手の気持ちを辿りながら、今の自分を、残りの人生を、噛み締めながら歩いていきたい。
そう、今年の夏、長女に女の子が誕生しました。ありがとう。
その瞬間、その日のブログに一番書きたかったのに書けなくてゴメンね。
こんなオジイでゴメンなぁ。でも、現時点で世界で一番可愛い女の子なのは間違いない。

最後に、こんな素直な気持ちにさせてくれた、今日まで傷つきながら、一緒に歩んでくれた君にも心から感謝。
ありがとう。
うーん。かっこ悪いなぁ。(笑)
過去のものも含めて、ブログを公開したのも同じ時期でした。
ずっと気になっていたこと、自分の「人でなしっぷり」を書かずにいたことをようやく書けました。
しばらく更新はお休みします。
(なんだか、照れ臭いのと、仕事も佳境を迎えそうなので。)
チョット早いけど、よいクリスマス&よい新年を!
金曜日, 11月 14, 2008
KY
KYと言う言葉がいつの頃から定着した。
いつの頃からか定着したと言うことは、それより以前はそれほどKYは目立たなかったと言うこと。(超大雑把だけど断定)
KYが目立たなかった時代。それは、共通の環境で生きていた時代。一億総中流とまで言われた時代。
そもそもKY空気を読むって事は何なのだろう。
ここのところ、そんな事を考えざるを得ない事が重なったので考えてみた。
「空気」を「読む」と分解して考えてみる。
・空気
この場合の空気は、本来は「周囲の空気」「相手の空気」で、自分以外の空気を指している。
翻って、「自分の空気」は、特に意識しなくても感じている。読まなくても感じられる。
自分の空気は感じているのだとしたら、相手の空気は、相手が感じていることだ。
・読む
もう書いちゃったけど、感じるのとは違う。
相手の空気を「想像」して、相手の感じていることを「想像」することだ。
絵や音楽を鑑賞することに近いかもしれない。
そう考えてみて、空気を読む、と言うことは相手の感じていることを想像する事。
いや、「相手の感じていることを正しく想像すること」だ。(回りくどーいけど、ようやくスッキリした。自己満足。)
ここで新しいキーワードKYにおける「正しく」って何だろう。
・正しく
自分が長年経験した事や経験した立場なら想像はたやすい。
一方、自分が経験したことの無い事、例えば、宇宙飛行士が便秘で困っているときの空気、はちょっと読み難い。
便秘の経験があっても、無重力でそうなった時の想像はなかなかし難い。
(想像は難しいけど、無重力の空中で匂いはどうなる!?とか、想像は尽きないが。)
オバマ新大統領のホワイトハウスでの暮らしを始めるに当たっての不安、こうなるとほぼ想像できない。
ブッシュ大統領の飼い犬がホワイトハウスから引っ越すに当たっての不安、これはもう、おとぎ話ぐらい想像できない。
「正しく」想像するために、まず、自分の経験で比較的近い経験を元に想像力を働かせる。
「正しく」想像するために、次は、自分の知識で比較的近い知識を元に想像力を働かせる。
「正しく」想像するために、後は、その相手と話す。話す。話す。
閑話休題、先日、筑紫哲也さんが亡くなった。
72才。去年亡くなった私の父と同い年だ。
有名人の死なんて、通常は、ニュース以上の感傷は無いのだが、10代の終わりから、多感な時期に朝日ジャーナルを読んでいたこともあって、その報せはショックだった。
その訃報にもショックを受け、そのニュースに関しては思考停止していたのだけれど、後日の追悼番組?では、なんだか父のお葬式の時と同じような気分だった。
一度も会った事が無い彼に、何度も何度も会っていた様な気がするほど、彼の伝えたかった事が伝わっていたんだなぁと思った。
「現場で直接話を聞く」事を大切にしていた彼は、超一流の「空気を読む」人だったんだろう。
話し戻って、自分。
「空気を読む」為には人と正面から向き合って話すことが必要。言葉を選んだりしていてはいけない場合だってある。
でも、僕は、人と対峙する時に、表向きの温さに流される事がほとんどだった。
時には、感情を露に傷つく覚悟で正面から傷つけて、その傷つけた責任を負うみたいな事が、人の痛みを、痛みを持つ人の気持を読む上で必要なのだなと感じた今日この頃なのでした。
いつの頃からか定着したと言うことは、それより以前はそれほどKYは目立たなかったと言うこと。(超大雑把だけど断定)
KYが目立たなかった時代。それは、共通の環境で生きていた時代。一億総中流とまで言われた時代。
そもそもKY空気を読むって事は何なのだろう。
ここのところ、そんな事を考えざるを得ない事が重なったので考えてみた。
「空気」を「読む」と分解して考えてみる。
・空気
この場合の空気は、本来は「周囲の空気」「相手の空気」で、自分以外の空気を指している。
翻って、「自分の空気」は、特に意識しなくても感じている。読まなくても感じられる。
自分の空気は感じているのだとしたら、相手の空気は、相手が感じていることだ。
・読む
もう書いちゃったけど、感じるのとは違う。
相手の空気を「想像」して、相手の感じていることを「想像」することだ。
絵や音楽を鑑賞することに近いかもしれない。
そう考えてみて、空気を読む、と言うことは相手の感じていることを想像する事。
いや、「相手の感じていることを正しく想像すること」だ。(回りくどーいけど、ようやくスッキリした。自己満足。)
ここで新しいキーワードKYにおける「正しく」って何だろう。
・正しく
自分が長年経験した事や経験した立場なら想像はたやすい。
一方、自分が経験したことの無い事、例えば、宇宙飛行士が便秘で困っているときの空気、はちょっと読み難い。
便秘の経験があっても、無重力でそうなった時の想像はなかなかし難い。
(想像は難しいけど、無重力の空中で匂いはどうなる!?とか、想像は尽きないが。)
オバマ新大統領のホワイトハウスでの暮らしを始めるに当たっての不安、こうなるとほぼ想像できない。
ブッシュ大統領の飼い犬がホワイトハウスから引っ越すに当たっての不安、これはもう、おとぎ話ぐらい想像できない。
「正しく」想像するために、まず、自分の経験で比較的近い経験を元に想像力を働かせる。
「正しく」想像するために、次は、自分の知識で比較的近い知識を元に想像力を働かせる。
「正しく」想像するために、後は、その相手と話す。話す。話す。
閑話休題、先日、筑紫哲也さんが亡くなった。
72才。去年亡くなった私の父と同い年だ。
有名人の死なんて、通常は、ニュース以上の感傷は無いのだが、10代の終わりから、多感な時期に朝日ジャーナルを読んでいたこともあって、その報せはショックだった。
その訃報にもショックを受け、そのニュースに関しては思考停止していたのだけれど、後日の追悼番組?では、なんだか父のお葬式の時と同じような気分だった。
一度も会った事が無い彼に、何度も何度も会っていた様な気がするほど、彼の伝えたかった事が伝わっていたんだなぁと思った。
「現場で直接話を聞く」事を大切にしていた彼は、超一流の「空気を読む」人だったんだろう。
話し戻って、自分。
「空気を読む」為には人と正面から向き合って話すことが必要。言葉を選んだりしていてはいけない場合だってある。
でも、僕は、人と対峙する時に、表向きの温さに流される事がほとんどだった。
時には、感情を露に傷つく覚悟で正面から傷つけて、その傷つけた責任を負うみたいな事が、人の痛みを、痛みを持つ人の気持を読む上で必要なのだなと感じた今日この頃なのでした。
沖縄で多い病気
沖縄で暮らしていると「メタボ」がこの土地で特徴的な病気(ではないが)だということは知っていたが、もう一つ、尿管結石とか胆石とか「石系疾患」が多いのだそうだ。
それは、沖縄の水がカルシウムが多いから?と言われているようです。
(逆に骨粗しょう症の予防に良いという話もあります)
たまたま、同僚で唾液腺に石が出来た人がいて、そんな話から知ったのだけれど、唾液腺に石ができると、もう、「食べることが楽しくない」のだそうだ。
唾液腺は舌の付け根辺り、左右にあるそうなんだけど、痛むと、横顎と首の付け根辺りが痛いのだそうだ。
唾を飲んだり、唾が出そうになるのが苦痛で、酸っぱい物を思い出したりも出来ないと言ってました。
結果、食事を楽しむなんて事はできないのだそうです。
その痛みは、健康な僕には想像しか出来ないが、「食べることが楽しくない」のはカナリキツイ。
何とかならないもなのかと思い、ググってみました。
分かったのは、西洋医学的には「手術」するしかない(彼もお医者さんにそういわれたが手術はしたくないのだそうです)のですが、東洋医学的には「漢方薬」で治る、というより症状が無くなるケースもあるのだそうです。
この同僚も「漢方薬」をこれから試すと言っていました。
ちなみに、その西洋医学のお医者様は、マッサージも効果がある場合があると伝えたそうです。
(残念ながら彼はマッサージでは良くなっていないそうです)
彼が「食べることが楽しくなる」といいな、と、食べることが生きがいの僕は思うのでした。
それは、沖縄の水がカルシウムが多いから?と言われているようです。
(逆に骨粗しょう症の予防に良いという話もあります)
たまたま、同僚で唾液腺に石が出来た人がいて、そんな話から知ったのだけれど、唾液腺に石ができると、もう、「食べることが楽しくない」のだそうだ。
唾液腺は舌の付け根辺り、左右にあるそうなんだけど、痛むと、横顎と首の付け根辺りが痛いのだそうだ。
唾を飲んだり、唾が出そうになるのが苦痛で、酸っぱい物を思い出したりも出来ないと言ってました。
結果、食事を楽しむなんて事はできないのだそうです。
その痛みは、健康な僕には想像しか出来ないが、「食べることが楽しくない」のはカナリキツイ。
何とかならないもなのかと思い、ググってみました。
分かったのは、西洋医学的には「手術」するしかない(彼もお医者さんにそういわれたが手術はしたくないのだそうです)のですが、東洋医学的には「漢方薬」で治る、というより症状が無くなるケースもあるのだそうです。
この同僚も「漢方薬」をこれから試すと言っていました。
ちなみに、その西洋医学のお医者様は、マッサージも効果がある場合があると伝えたそうです。
(残念ながら彼はマッサージでは良くなっていないそうです)
彼が「食べることが楽しくなる」といいな、と、食べることが生きがいの僕は思うのでした。
水曜日, 11月 12, 2008
火曜日, 11月 11, 2008
(ナベアツ風に)散文三話
①【体重支持型歩行アシストロボット】
アシスト付き自転車は、自転車で移動する僕の体力をアシストしてくれる。
僕は、お陰さまで自転車に乗ることに何ら不自由の無い体だから、このアシストは充分過ぎるほど役に立っている。
一方、何らかの障害で歩くことに障害を持っている人の中には、自転車に乗る事はできない人もいる。
↑の動画にある外骨格系ロボット?「歩行アシスト」があればアシスト付き自転車はいらないのかもしれないと思った。
歩行アシストを装着したまま自転車に乗ればいいのだ。そのままアシスト付き自転車になる。
あるいは、車の運転の際にも、極わずかだとは思うけど、特に長距離運転の際など、歩行アシストを装着して運転した方が楽になるかもしれない。
体力的な問題や、身体の障害で、自分の足で山に登れなかった人が山登りを楽しめるかもしれない。
と、いい感じに未来をイメージしたのも束の間、きっと軍隊は、歩兵の徒歩移動を長距離化するとか重い武器を持って移動出来るとか、夢の無い事を考えているかもしれない。っていうか考えるだろうなぁ。
はぁ。ヒトって。
②【沖縄も涼しくなりました】
沖縄は雨が四日も続いています。
既に梅雨時でも経験しなかったような長雨です。
昼にお日様が全く顔を出さないなんて、ホントに、滅多に無いのに、この二日間なんて、100%お日様は顔を覗かせませんでした。
日照時間が少ないので、家の水道水が冷たくて、とても久しぶりに「水道が冷たい」感覚を思い出したりしています。当然ながら、シャワーもお湯を沸かさないと無理。
と、日照時間を調べてみると、なんと意外。
沖縄は年にばらつきがあるものの、日照時間は東京や千葉より少ない。北海道よりも少なかったりもする。
(2000/2005/2006三年間の平均)
各都道府県で定められた調査地点の南側に山があるとか、雨が少なくないとか、いろんな要素はあるらしいのだが、納得いかないなぁ。
僕の体感では東京の3倍ぐらい日照時間があるように感じているんだなぁ。
きっと、東京ではビルの谷間で空が見えないからそんな風に感じるのかもしれないな。
【外耳炎】
今まで海に入っても何も問題なかっんだけど、少しは仕事らしく忙しくなって長電話があったせいか、雨のせいか、10日ほど前から続く原因不明の左耳の痛みで朝病院へ。
診察結果は外耳炎。単に耳掻きかなんかで引っかいたか何かで炎症を起こしているのでは無いかとの事。
一応、ばい菌の検査もしてもらいました。(結果は後日)
ということで、耳鼻科屋さんは、朝から繁盛していて、僕のアレルギー性鼻炎もしっかりチェックされて、鼻炎の薬も薦められたけどお断りしました。
で、目薬と同じように耳にも耳薬がある事にビックリ。
説明では「三滴たらして三分横になっていてください」って言われたけど、三滴がわからなーい!見えませーん!
、、、と、訴えると、「十滴ぐらいまで大丈夫だからさー」だって。
アシスト付き自転車は、自転車で移動する僕の体力をアシストしてくれる。
僕は、お陰さまで自転車に乗ることに何ら不自由の無い体だから、このアシストは充分過ぎるほど役に立っている。
一方、何らかの障害で歩くことに障害を持っている人の中には、自転車に乗る事はできない人もいる。
↑の動画にある外骨格系ロボット?「歩行アシスト」があればアシスト付き自転車はいらないのかもしれないと思った。
歩行アシストを装着したまま自転車に乗ればいいのだ。そのままアシスト付き自転車になる。
あるいは、車の運転の際にも、極わずかだとは思うけど、特に長距離運転の際など、歩行アシストを装着して運転した方が楽になるかもしれない。
体力的な問題や、身体の障害で、自分の足で山に登れなかった人が山登りを楽しめるかもしれない。
と、いい感じに未来をイメージしたのも束の間、きっと軍隊は、歩兵の徒歩移動を長距離化するとか重い武器を持って移動出来るとか、夢の無い事を考えているかもしれない。っていうか考えるだろうなぁ。
はぁ。ヒトって。
②【沖縄も涼しくなりました】
沖縄は雨が四日も続いています。
既に梅雨時でも経験しなかったような長雨です。
昼にお日様が全く顔を出さないなんて、ホントに、滅多に無いのに、この二日間なんて、100%お日様は顔を覗かせませんでした。
日照時間が少ないので、家の水道水が冷たくて、とても久しぶりに「水道が冷たい」感覚を思い出したりしています。当然ながら、シャワーもお湯を沸かさないと無理。
と、日照時間を調べてみると、なんと意外。
沖縄は年にばらつきがあるものの、日照時間は東京や千葉より少ない。北海道よりも少なかったりもする。
(2000/2005/2006三年間の平均)
各都道府県で定められた調査地点の南側に山があるとか、雨が少なくないとか、いろんな要素はあるらしいのだが、納得いかないなぁ。
僕の体感では東京の3倍ぐらい日照時間があるように感じているんだなぁ。
きっと、東京ではビルの谷間で空が見えないからそんな風に感じるのかもしれないな。
【外耳炎】
今まで海に入っても何も問題なかっんだけど、少しは仕事らしく忙しくなって長電話があったせいか、雨のせいか、10日ほど前から続く原因不明の左耳の痛みで朝病院へ。
診察結果は外耳炎。単に耳掻きかなんかで引っかいたか何かで炎症を起こしているのでは無いかとの事。
一応、ばい菌の検査もしてもらいました。(結果は後日)
ということで、耳鼻科屋さんは、朝から繁盛していて、僕のアレルギー性鼻炎もしっかりチェックされて、鼻炎の薬も薦められたけどお断りしました。
で、目薬と同じように耳にも耳薬がある事にビックリ。
説明では「三滴たらして三分横になっていてください」って言われたけど、三滴がわからなーい!見えませーん!
、、、と、訴えると、「十滴ぐらいまで大丈夫だからさー」だって。
月曜日, 11月 10, 2008
日曜日, 11月 09, 2008
週末DVD三本!半額!(by TSUTAYA)

↑ちょっと早いけど、このアルバムの二曲目Silent NightをBGMにどうぞ。Jamendoはクリエイティブコモンズというライセンス形態で楽曲をダウンロードできるサイト。今年、このサイトに登録されたアルバム(当然、CD屋さんでは売っていない)は1万枚を超えました。
1万枚もあると、もはやメジャーでもおかしくないレベルの音楽もたくさんたくさんあります。
レベル云々なんてナンセンスで、ここには「(儲けられなくても)表現したい」表現者がたくさんいます。
21世紀のマイケルやEW&FやBeatlesは、こういう世界から羽ばたくハズです。
=============================
DVDの話はここから
=============================
・ニライカナイからの手紙
・バベル
・それでも生きる子供たちへ
この週末に観た映画。
ちょうど雨の週末、土曜の夜なんて雷雨で嵐の夜だったし、近所には映画館は無い(映画館跡地はある)ので、先日失ったホウキを買うのもあって、久しぶりにレンタカーを借りて、ちょっと遠出してTSUTAYAに行って借りた。
「ニライカナイ」は母の深い愛情を描いた映画。
「バベル」は世界中がネットワークで繋がる一方で家族のコミュニケーションは失われつつある世界を描いた映画。
「それでも・・」は、格差の底辺で虐げられながらも笑いながら生きていく子供たちを7人の映画監督がそれぞれ7つの国を舞台に描いたオムニバス映画。
いずれも良かったんだけど、「ニライカナイ」>>>「それでも」>「バベル」かな。
バベルは、評判だったトリッキーなストーリー回しが評判ほどには感じられず、あの評判は、ネットとか使っていない人が書いたのかなぁ、、、って感じ。
人は、正解の無い未来を、正解があると信じて、あーしてみたりこーしてみたりしながら生きている。
でも、実は、みんな正解を知っているのかもしれない。
みんな、何年か前は子供だったのだから。
子供だけは、この世界が生きる価値がある世界だ、と何の疑いも無く信じている。
両親にいつもそばにいて欲しかった。
両親にいつも話を聞いて欲しかった。
両親と一緒に暮らしたかった。
お金が無くても笑顔でいられた。
偉くなくてもいろんなモノに興味を持てた。
グルメじゃなくてもご飯が美味しかった。食事は楽しかった。
全ての子供は3才位まではノーベル賞受賞の可能性があるという。
3才を過ぎると、あっという間にノーベル賞どころか何%かは犯罪すら犯すようになってしまう。
インターネットも携帯電話もお金すらも無くても生きる子供たち。
一方、僕も含めて何も出来ない大人たち。
いや、出来ないだけならまだいい。生きようとする子供達の邪魔をする大人たち。
そんな事を考えて、現代って何万年前も100年前も去年もずーっと現代だと生きるヒトは思い込んでいる。
実は、今は、ホモサピエンスの歴史の中でまだまだ原始時代なのだなぁと思ってしまうのでした。
ごめんなさい。僕は脊椎動物門哺乳綱サル目真猿亜目ヒト科の生物♂です。
そう。一泊二日でレンタカーを借りた週末。外は雨。
そんな天気だと、普段なら、家に篭りながら料理したり、音楽を聴いたり、静かに過ごしているのに、車があるとTSUTAYAもそうだけど、気軽に買い物に行くし、気軽にドライブするーしたりファミレスに行ってしまい、返す頃には「やっぱり車があったほうが便利」と考えそうになって「いやいや、そう簡単に流されなくていいから。車が無い生活楽しんでんじゃん」と、一人突っ込み。
それから、車でお出かけ、面倒だからその辺で外食。
沖縄の定食屋さんは安い上に一食の量が多い。
そうやって、メタボリックまっしぐらなんだなぁと反省。
車を返してきて、ちょっとホッとしているのでした。
>>>>>>:-P
木曜日, 11月 06, 2008
困ったチャンに感謝
アメリカ初の黒人大統領(っていうカテゴリが存在する程度のまだまだ原始人間社会。日本初の黒人首相はあるのか!?)に関係ない私的話題。
「真面目というか融通が効かない、柔軟性が無い人」
いるんですよ。こういう人。
そんな人と世間話をしていた時に、
「○○さん、動物は何が好き?」
こう質問した時に、
「動物は餌が好きです」
と、僕の日本語の使い方の間違い(僕は○○さんが好きな動物を聞いたつもりだった)に気がつかせられた人。
一事が万事こーゆー調子なので、仕事上の何気ないやり取りでの意思疎通はなかなか叶わず、周りに言わせれば苦労させられる困ったチャン。
一般的な企業活動は「株主というギャンブラー」や「儲けてナンボの経営者」や「上昇志向のサラリーマン」等の要請で困ったチャンの存在は本当に困ってしまうわけだけど、きっと、学校の先生や公務員だったらそこそこ「変わった人」で通るのかもしれない。
よく思う、、いや、たまに思うのは、こーゆー「変わった人」達のお陰で河豚を嗜む事ができ、ホヤという珍味を味わい、お酒を楽しみ、唄を歌い、踊ったりする楽しみを貰っているのだということ。
多様性に対し、なんだかんだと許容してきた人間社会の面白さは、正にそこにある。
「株主のために存在する」企業もあってもいい。
だけど、「変わった人」を受け入れられる社会であり続けて欲しい。
(と、あの素晴らしい大統領就任演説的なオチに辿り着くわけだ)
水曜日, 11月 05, 2008
火曜日, 11月 04, 2008
著作権が担保になるということ
なんか、あの時代80年代後半?90年代?辺り、CDの特性を意識した曲作りが話題になった("サビ"至上主義。曲のイントロがいきなりサビなど。CMとかで長短時間のオンエアでも曲のインパクトを伝えやすいと言われた。事実、当時はそんな曲ばかり流行った。
もう、いきなり「ズバッドンドコドゥルル♪こぉけぇの~むーすーうまーあぁでー♪イェイェィ♪」みたいな感じ。)、そんな、あの時点での「稀有の作曲家」が逮捕されるのだそうだ。
僕はあの手の音楽は、秋葉原店頭バイト時代に買い物ゲームBGMの様に流れている場面(ホントに一日中飽きずにかかってた)でしか聞かなかったので精神的被害はないけど、そもそも、今、彼を応援したくて当事の彼の曲をカラオケで唄っても既に彼にすんなり実入りがあるわけではなさそうな話に驚いた。
著作所有権?を、証券化というか担保にしていたというのだ。
ということは、今、彼に同情して、「頑張れ!てっちゃん!」と彼の歌をカラオケで歌っても、彼の夕飯のオカズにもならないのだ。
なんかなぁ。著作者をリスペクトしているから、例えコピーでしかなくても、その著作物(CDやカラオケ)に使用料金を支払っているのに、それを担保にしていた著作権者も著作権者だし、それ(使用権)を買い叩く企業もなぁ。
今回騙されちゃった人は気の毒だけど、既にそれをどっかの会社が買っていたわけだ。
その会社は、きっと、全曲の著作使用権を法律が定める期間で実入りを計算して、利回りに換算してみて、何億以下なら「買い!」とか考えていたわけだ。スバラシイ。
もし本当に作曲者なりクリエイターをリスペクトしていたら使用権を独占しようとは思わないのが倫理的というか「人の道」だと思うんだけどね。かといって、放って置いたら、誰かが権利を主張し始めちゃうわけだ。以前あった2chの"のまネコ"キャラのように。
※これまたAVEXって。。。
間違いなく、彼の著作物所有権や使用権を担保に金を貸した人たちは、彼をリスペクトしていない。
もしくはリスペクトしていない人がほとんどであろう。
∧_∧
( *゚w゚) ノマノマイェイ!!
( )
| | |
(_)_)
以前、ケンタッキーフライドチキン日本支社が、年に一回、鶏への感謝を表すために神社にお参りする、っていうニュースを見た事があるけど、そういう「普通の感覚」が働かない世界なんだなと思った。
きっと逮捕されそうな?彼は、普通の感覚では無いトコロに行っちゃったんだろうね。
合掌。
ここでWikipediaにて学習。
・著作権の目的(著作権法の抜粋:法律条文には著作権はないんだそうだ。当たり前だのクラッカーby藤田まこと。)
- ・・・文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること
・著作権の定義
- 知的財産権
- 無体財産権
・財産権
- 公共の福祉はこれに優先できる(皆の生活を脅かしたりする様な事態の場合は没収も可能)
・所有権
- 著作物の所有権は移転できるが著作権は著作者に残る。
(所有権を移転したからといって著作者の許可無しに改変はできない。=著作人格権)
・著作者人格権
- 公表権:公表するしないを決める権利
- 氏名表示権 :著作物への著作者氏名表記に関する権利
- 同一性保持権 :改変、変更、切除などを認めない権利
ほら、やっぱり、「文化の発展に寄与」するのが著作権の目的だと書いてある。
文化の発展に寄与しないなら「著作権は発生しない」ぐらいの解釈だってできそうだよ。
その著作権を担保に、当人の能力以上のお金を前払いで渡して、破綻したら回収する、限界点を超えようとして詐欺行為に手を染め
る、、、、そんな感じ。
そもそも、著作権であれなんであれ、気に入った音楽があったとする。表現してくれた音楽家に感謝とリスペクトの意を抱く。
一方、ミュージシャンがライブで「ありがとう!」というのは、価値を分かち合える一人一人が集まり、楽しんだことへの一人一人への感謝では無いのか?
(お金まで払って来てくれて、僕の唄を聞いてくれて、共感してくれて、ありがとう!)
僕らは、たまたま耳にした、その「音楽を作った人、唄っている人」を中心にリスペクトしているのだ。
増してや、著作権人格権?だかを保持する作曲者や作詞家が亡くなった後にも著作権で何らかのお金が遺族などに入り続け、その場面で、故人を偲ぶ風でもないレコード会社が利益を得続けるのは、「文化の発展に寄与」しているとは思えないな。
そんなことより、リスペクトする人たちが、例え亡くなっても、毎年命日にはお墓参りが絶えないとか、そういう事の方が心に響くなぁ。
さっきも書いたけど、リスペクトが心に響く例.
ケンタッキーフライドチキンが毎年「ブロイラー感謝祭」をやっている。これは心に響く。
僕が食べた分まで感謝しておいて欲しい。ホントに。
官僚や国会議員が当たり前の様に「法に触れていない」から倫理的には疑問があるお金を堂々と手にする時代。
多分、被告になり有罪となった某歴史的首相が最後まで反省の弁を語らなかった、いや、「やっちゃっいました」的態度を示さなかったこの国の迷走は、もうしばらくは止まらない。
(↑大きく出てみた。(汗))
。。。と、文章の迷走も止まらないので今日はここまで。
※追伸
よくよーく考えてみたら、僕は、パッケージ化そのものに感動して購入したLPレコード(not CD)が過去にありました。
それは松田聖子の「Windy Shadow」'84で、当時ハマっていた海外大物スタジオミュージシャン達がレコーディングに参加していて、彼女の唄はそっちのけで、バックバンドの演奏を聴いていたのでした。
ソニー大レーベルの組織力をまざまざと見せ付けられた一枚。
もう、いきなり「ズバッドンドコドゥルル♪こぉけぇの~むーすーうまーあぁでー♪イェイェィ♪」みたいな感じ。)、そんな、あの時点での「稀有の作曲家」が逮捕されるのだそうだ。
僕はあの手の音楽は、秋葉原店頭バイト時代に買い物ゲームBGMの様に流れている場面(ホントに一日中飽きずにかかってた)でしか聞かなかったので精神的被害はないけど、そもそも、今、彼を応援したくて当事の彼の曲をカラオケで唄っても既に彼にすんなり実入りがあるわけではなさそうな話に驚いた。
著作所有権?を、証券化というか担保にしていたというのだ。
ということは、今、彼に同情して、「頑張れ!てっちゃん!」と彼の歌をカラオケで歌っても、彼の夕飯のオカズにもならないのだ。
なんかなぁ。著作者をリスペクトしているから、例えコピーでしかなくても、その著作物(CDやカラオケ)に使用料金を支払っているのに、それを担保にしていた著作権者も著作権者だし、それ(使用権)を買い叩く企業もなぁ。
今回騙されちゃった人は気の毒だけど、既にそれをどっかの会社が買っていたわけだ。
その会社は、きっと、全曲の著作使用権を法律が定める期間で実入りを計算して、利回りに換算してみて、何億以下なら「買い!」とか考えていたわけだ。スバラシイ。
もし本当に作曲者なりクリエイターをリスペクトしていたら使用権を独占しようとは思わないのが倫理的というか「人の道」だと思うんだけどね。かといって、放って置いたら、誰かが権利を主張し始めちゃうわけだ。以前あった2chの"のまネコ"キャラのように。
※これまたAVEXって。。。
間違いなく、彼の著作物所有権や使用権を担保に金を貸した人たちは、彼をリスペクトしていない。
もしくはリスペクトしていない人がほとんどであろう。
∧_∧
( *゚w゚) ノマノマイェイ!!
( )
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(_)_)
以前、ケンタッキーフライドチキン日本支社が、年に一回、鶏への感謝を表すために神社にお参りする、っていうニュースを見た事があるけど、そういう「普通の感覚」が働かない世界なんだなと思った。
きっと逮捕されそうな?彼は、普通の感覚では無いトコロに行っちゃったんだろうね。
合掌。
ここでWikipediaにて学習。
・著作権の目的(著作権法の抜粋:法律条文には著作権はないんだそうだ。当たり前だのクラッカーby藤田まこと。)
- ・・・文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること
・著作権の定義
- 知的財産権
- 無体財産権
・財産権
- 公共の福祉はこれに優先できる(皆の生活を脅かしたりする様な事態の場合は没収も可能)
・所有権
- 著作物の所有権は移転できるが著作権は著作者に残る。
(所有権を移転したからといって著作者の許可無しに改変はできない。=著作人格権)
・著作者人格権
- 公表権:公表するしないを決める権利
- 氏名表示権 :著作物への著作者氏名表記に関する権利
- 同一性保持権 :改変、変更、切除などを認めない権利
ほら、やっぱり、「文化の発展に寄与」するのが著作権の目的だと書いてある。
文化の発展に寄与しないなら「著作権は発生しない」ぐらいの解釈だってできそうだよ。
その著作権を担保に、当人の能力以上のお金を前払いで渡して、破綻したら回収する、限界点を超えようとして詐欺行為に手を染め
る、、、、そんな感じ。
そもそも、著作権であれなんであれ、気に入った音楽があったとする。表現してくれた音楽家に感謝とリスペクトの意を抱く。
一方、ミュージシャンがライブで「ありがとう!」というのは、価値を分かち合える一人一人が集まり、楽しんだことへの一人一人への感謝では無いのか?
(お金まで払って来てくれて、僕の唄を聞いてくれて、共感してくれて、ありがとう!)
僕らは、たまたま耳にした、その「音楽を作った人、唄っている人」を中心にリスペクトしているのだ。
増してや、著作権人格権?だかを保持する作曲者や作詞家が亡くなった後にも著作権で何らかのお金が遺族などに入り続け、その場面で、故人を偲ぶ風でもないレコード会社が利益を得続けるのは、「文化の発展に寄与」しているとは思えないな。
そんなことより、リスペクトする人たちが、例え亡くなっても、毎年命日にはお墓参りが絶えないとか、そういう事の方が心に響くなぁ。
さっきも書いたけど、リスペクトが心に響く例.
ケンタッキーフライドチキンが毎年「ブロイラー感謝祭」をやっている。これは心に響く。
僕が食べた分まで感謝しておいて欲しい。ホントに。
官僚や国会議員が当たり前の様に「法に触れていない」から倫理的には疑問があるお金を堂々と手にする時代。
多分、被告になり有罪となった某歴史的首相が最後まで反省の弁を語らなかった、いや、「やっちゃっいました」的態度を示さなかったこの国の迷走は、もうしばらくは止まらない。
(↑大きく出てみた。(汗))
。。。と、文章の迷走も止まらないので今日はここまで。
※追伸
よくよーく考えてみたら、僕は、パッケージ化そのものに感動して購入したLPレコード(not CD)が過去にありました。
それは松田聖子の「Windy Shadow」'84で、当時ハマっていた海外大物スタジオミュージシャン達がレコーディングに参加していて、彼女の唄はそっちのけで、バックバンドの演奏を聴いていたのでした。
ソニー大レーベルの組織力をまざまざと見せ付けられた一枚。
土曜日, 11月 01, 2008
不幸
日常に不幸な出来事は潜んでいる。
昨日の朝、まさにそんな不幸な出来事があった。
以前、休日の朝、気持ちのよさそうな朝、外の空気を思い切り吸いたくなるそんな朝。
カーテンを開け、掃き出しのサッシをガラガラッと開ける。
と、バタバタっと目の前を何かが落ちていく。。。。そう、3匹、いや4匹のヤモリの家族。サッシの網戸に張り付いていたのだろう。
そのうちの1匹か2匹は家の中に入ってきて、もう、大騒ぎだった。
そんな、繰り返してはいけない不幸が以前にあったのだ。
そして、昨日の朝。
もう秋らしくなり、休日の朝、というより昼近くに目を覚ましても、外は気持ちのよさそうな日。
繰り返さないと誓った不幸を思い出しつつ、もう、無造作にサッシを開けるなんて事はしない。
まず、玄関から1.5mほどの柄の長いホーキを持ってくる。(万が一、ヤモ君に出会っても優しく掃き出せる。)
そうして、ドンドンドンっと、サッシのガラスを叩く。事前にヤモ君家族たちをどこか遠くの僕の知らないところに非難させるのだ。
うん。今日はヤモ君一家は、このサッシにはいないようだ。
そっとサッシを開ける。うん。やはりヤモ君はいない。よかった。
無事にサッシが全開され、爽やかな秋の風が部屋に入る。気持ちよい。
ふと、足元をみると、サッシの外の、庭というかコンクリート敷きに、既に干からびた多分ネズミ?の死骸がある。
うーー。一旦は見て見ない振りをしたものの、どうも、その死骸に小さい蟻が集まるようで、サッシの周囲から蟻が家の中に向かってくるではないか。
ここから蟻との戦いが始まる。
そもそも、家のサッシ周辺数箇所には「蟻の巣コロリ」が仕掛けてあるのだが、あの粒状の薬よりもその蟻達は小さい。
仕方なく、元凶のネズミの死骸を、庭の向こうの藪に放り投げることを決意する。土に返すのだ。
こんな時のための1.5mの長い柄のホウキだ。
サッシの先1m程に毛付きジャーキーと化した小動物だったモノを、人類3大発明品のホウキで藪に飛ばすのだ。
サッシから身を乗り出してホウキの先の平たく刈揃えられたホウキそのものを小動物の下に差し込む。
イメージはこうだ。
差し込んだホウキを斜め上前方45℃に、ちょうど砂場に落ちたゴルフボールを打ち出すような感じで振り上げれば、その小動物の死骸は、前方にある庭の塀を飛び越えて、その先のうっそうとしたジャングル地帯へ飛んでいくであろうと。
緊張の中、ホウキは10cmほど小動物を前に押し出した辺りで下に差し込まれた。
よし、これで、ホウキを振り上げれば、小動物は確実に土に帰る。心の中で冥福を祈る。
さぁ、いくぞ。えいっ!
その直後、コンマ3秒ほど後に僕の視界に映ったのは、縦方向に回転しながら新体操のバトンの様にジャングル地帯にきれいな奇跡を描いて飛んで消えていくホウキ。
そして、更に10cmほど前方に地面を移動しただけの小動物の死骸。
あぁ。ホウキ買わなくっちゃ。。。
(そのジャングル地帯は、どう考えても、ヤバそうなので覗くことすらできません。今だって、ジャングルから伸びた枝には手のひらほどのクモが一畳ほどの大きさのクモの巣を張っているぐらいなのですから。)

↑ちゃんと後でジャングルに葬りました。合掌。。
昨日の朝、まさにそんな不幸な出来事があった。
以前、休日の朝、気持ちのよさそうな朝、外の空気を思い切り吸いたくなるそんな朝。
カーテンを開け、掃き出しのサッシをガラガラッと開ける。
と、バタバタっと目の前を何かが落ちていく。。。。そう、3匹、いや4匹のヤモリの家族。サッシの網戸に張り付いていたのだろう。
そのうちの1匹か2匹は家の中に入ってきて、もう、大騒ぎだった。
そんな、繰り返してはいけない不幸が以前にあったのだ。
そして、昨日の朝。
もう秋らしくなり、休日の朝、というより昼近くに目を覚ましても、外は気持ちのよさそうな日。
繰り返さないと誓った不幸を思い出しつつ、もう、無造作にサッシを開けるなんて事はしない。
まず、玄関から1.5mほどの柄の長いホーキを持ってくる。(万が一、ヤモ君に出会っても優しく掃き出せる。)
そうして、ドンドンドンっと、サッシのガラスを叩く。事前にヤモ君家族たちをどこか遠くの僕の知らないところに非難させるのだ。
うん。今日はヤモ君一家は、このサッシにはいないようだ。
そっとサッシを開ける。うん。やはりヤモ君はいない。よかった。
無事にサッシが全開され、爽やかな秋の風が部屋に入る。気持ちよい。
ふと、足元をみると、サッシの外の、庭というかコンクリート敷きに、既に干からびた多分ネズミ?の死骸がある。
うーー。一旦は見て見ない振りをしたものの、どうも、その死骸に小さい蟻が集まるようで、サッシの周囲から蟻が家の中に向かってくるではないか。
ここから蟻との戦いが始まる。
そもそも、家のサッシ周辺数箇所には「蟻の巣コロリ」が仕掛けてあるのだが、あの粒状の薬よりもその蟻達は小さい。
仕方なく、元凶のネズミの死骸を、庭の向こうの藪に放り投げることを決意する。土に返すのだ。
こんな時のための1.5mの長い柄のホウキだ。
サッシの先1m程に毛付きジャーキーと化した小動物だったモノを、人類3大発明品のホウキで藪に飛ばすのだ。
サッシから身を乗り出してホウキの先の平たく刈揃えられたホウキそのものを小動物の下に差し込む。
イメージはこうだ。
差し込んだホウキを斜め上前方45℃に、ちょうど砂場に落ちたゴルフボールを打ち出すような感じで振り上げれば、その小動物の死骸は、前方にある庭の塀を飛び越えて、その先のうっそうとしたジャングル地帯へ飛んでいくであろうと。
緊張の中、ホウキは10cmほど小動物を前に押し出した辺りで下に差し込まれた。
よし、これで、ホウキを振り上げれば、小動物は確実に土に帰る。心の中で冥福を祈る。
さぁ、いくぞ。えいっ!
その直後、コンマ3秒ほど後に僕の視界に映ったのは、縦方向に回転しながら新体操のバトンの様にジャングル地帯にきれいな奇跡を描いて飛んで消えていくホウキ。
そして、更に10cmほど前方に地面を移動しただけの小動物の死骸。
あぁ。ホウキ買わなくっちゃ。。。
(そのジャングル地帯は、どう考えても、ヤバそうなので覗くことすらできません。今だって、ジャングルから伸びた枝には手のひらほどのクモが一畳ほどの大きさのクモの巣を張っているぐらいなのですから。)
↑ちゃんと後でジャングルに葬りました。合掌。。
ダイヤルアップ接続
今、僕の住まいで、どうやってネットに繋がっているかというと、KDDIのモバイル通信カードでのダイヤルアップ接続。そう、要はモデム接続。
ホームページを見るときは、クリックして、しばらく読み込み中のクルクル表示を見つめて、ジッと待っていると画像がズンっ、ズンズンっ、ズンズンズンっ、って感じで表示されます。
youtubeなんて長らく家では見てませんなぁ。っていうか、最近のホームページ、画像多過ぎ。容量考えていなさ過ぎ。もっと、Gifにするとか、色数減らすとか、ボタンまで画像にすること無いじゃん。
ダイヤルアップユーザーのことも考えてほしいなぁ。
引越し前は"KDDIひかり"で、ひかりTVまで引き込んでナショジオやらオンデマンドなビデオ配信まで利用可能だった。
(いま思えば、そんなにチャンネルを増やしても、見る時間は限られていて見てられなかった。当時は何を考えていたんだか。)
しか~し、ここに、KDDIひかりは引越しできなかった。サービスエリア外なのだ。
地デジすらNHKしか満足に映らないこの場所。(ちなみに民放は、なんかブロック崩しみたいな画面が暫く映り、その後、真っ青な画面になる。。。)
インターネット常時接続なんて未来の話は関係ないのだ。
ということで、モバイル通信カードbyKDDIで、かろうじてダイヤルアップしています。
このカード、普通に携帯電話と同じ電波を使うのだが、そもそも自宅がAU通話困難。
全く通話出来ないわけでは無いのだが、電波が弱い(携帯音声通話も同じ状態)、時々切れる、、、ようなわけで、引っ越して暫くしてからようやく家の中で弱めながらも安定している場所を発見。
1Fの奥の部屋の窓際で床から70cmほど離れたとこ。。。。
この場所(高さも場所も10cm動くと電波が切れたりする。。。)だけが、長時間安定してアンテナ2本立ち続けるところ。バリ2な場所。
そのアンテナ2本立ち続ける3Dピンポイントな場所に、バケツなどを積み上げ、その上に「固定電話」のように携帯は鎮座。
もちろん、PCも、そこでしか使えない。
いくらなんでも酷い。ということで、AU-SHOPに相談したところ、ようやく「KDDI 電波障害バスターズ」が、ヘルメットにツナギというユニフォームでウルトラ警備隊のような車に乗って我が家にやってきました。(妄想が入ってました。普通の格好でした。)
家の中で調査すること30分余り。予想以上に綿密に調査しました。
調査にはスパイ大作戦的な見慣れたようでよく見るとちょと違うような感じの機械を使います。
一番のスパイ大作戦は、某米国から中国に身売りされたPCにしか見えない真っ黒なPC。でも、きっと、とてもスペシャルなPCに違いありません。
そのPCに古そうな携帯電話を繋いで、パタパタとキーボードを操作すると、家の近所の地図が表示され、地図上で近くにあるアンテナをクリックすると数字やらグラフやらで電波状態が表示されます。
そのアンテナのアイコンをマウスでグリグリっと動かすと、アンテナがあっち向いたりこっち向いたりするに違いありません。(だから妄想です)
今度は、やはり取り出した、「いまどきそんな分厚い折りたたみ携帯あるの!?」的な携帯電話でどこかに電話します。そうすると、まるでラジオの様に音声や音楽が流れっぱなしのどこかに繋がります。スパイ大作戦の本部にはFMラジオのサテライトスタジオがあるようです。楽しそうなDJの声と音楽が聞こえてきます。
もしかすると、あれは携帯電話型のラジオなのかもしれません。もしくは、携帯電話の電波で実はラジオも放送しているのかもしれません。
あぁ、あのラジオの電話番号を聞けばよかった。。。
そのラジオかもれない携帯の向きを変えたり、持ったまま部屋をウロウロしたりして通話状態を調べます。
たまに、ラジオの音声が途切れたり、通話自体が切れてラジオに電話を掛けなおしたりしています。
時折、バスターズ(モンゴロイド:♂:使用言語 日本語)は、うなづいてみたり、首を傾げてみたり、目を閉じて考え事をしてみたり、そしてメモメモしてみたり。
結論は、我が家は、坂道をちょっと下ったところにあるために、坂の上にある直近のアンテナの電波は超不安定、次に近いアンテナは坂を下って登ってちょっと下ったところにあってやはり間の山が邪魔。
結果的に我が家の電波は、我が家から見える海(湾)の向こう岸の、すんごい遠くの隣の町のアンテナから海を越えて超弱い電波を拾っているということ。
たまーに、近所のアンテナの強い電波も拾うんだけど、これはアンテナから見ると、ここは窪地の様になっているために超不安定なんだとか。
「電波って上下左右に揺れながら広がっていくんです。近くの電波は下方向に揺れたときに拾っているようです」
なんだって。
この話を聞きながら、電波をマンガちっくに表現するときの波線は、正しい表現なんだなぁと感心しました。
ということで、携帯電話用のごついアンテナをお借りすることになりました。(冒頭の写真)
確かに、これを付けると、家の何処にいても電波が途切れることはありません。通話は切れない。
But,しかし、PCのカードには接続できないため相変わらずPCは不安定なネット接続環境のままなのでした。
ちなみに、ここの地域はNTTに加入しなければADSLは繋げられず、なんとなくNTT嫌いの僕としてはADSLという選択肢はない為に、この時代に「ダイヤルアップ接続」にてネットを使っているのでした。
お陰さまで、怪しいファイルをダウンロードをすることも無く、健康的なネット生活なのでした。
(泣)
金曜日, 10月 31, 2008
沖縄の秋
10日ほど前から「あれ?暑くない」っと感じる瞬間があったかと思ったら、あっという間に、「過ごしやすい」が「涼しい」になり、この2・3日は夜寝るときにはタオルケットが必要になりました。
(引っ越してから先日まで何も掛けずに寝ていました)
この何日かは、エアコンも使わず、夜、家に帰ると、恐る恐る窓を開け網戸から入るヤモ君ではなく涼しい風と過ごし、寝るにはちょっと涼しすぎるので窓を閉める、、、そんな気候。
相変わらず日中は南国風なんだけど、風は爽やかで、ムッとくるような熱気は無くなりました。
そして、秋っぽい虫の音と一緒に、まだまだ蝉は鳴いている。。。
八百屋さん(スーパーではない)のラインナップも、地元の果物は柿ぐらいになり、代わりに島で取れるカボチャや紅芋やサツマイモが並んでいます。
気にはなっているものの、見慣れない沖縄産の緑の野菜達にはなかなか手が出ません。
= それだけ会社の食堂などでも使われていない野菜達
今後は、緑の野菜達にもチャレンジしなければ。
そうそう。今日のお弁当でご飯の海を泳いでいるのはメダカです。
んなわけない。スクガラスという名産品です。
確か,6月頃にワンサと沖縄の湾に集結し、そこをごっそり漁師達にさらわれるとか。
名物では島豆腐にちょこんとのっけて食べるスクガラス豆腐。
その塩漬け瓶詰めをゲット(残念ながらフィリピン産のスクガラスらしい。。。)したので、泳がせてみました。
アンチョビみたいな感じです。
今週末は三連休。せっかくだから、微妙な沖縄の秋を探してみようか。
(引っ越してから先日まで何も掛けずに寝ていました)
この何日かは、エアコンも使わず、夜、家に帰ると、恐る恐る窓を開け網戸から入るヤモ君ではなく涼しい風と過ごし、寝るにはちょっと涼しすぎるので窓を閉める、、、そんな気候。
相変わらず日中は南国風なんだけど、風は爽やかで、ムッとくるような熱気は無くなりました。
そして、秋っぽい虫の音と一緒に、まだまだ蝉は鳴いている。。。
八百屋さん(スーパーではない)のラインナップも、地元の果物は柿ぐらいになり、代わりに島で取れるカボチャや紅芋やサツマイモが並んでいます。
気にはなっているものの、見慣れない沖縄産の緑の野菜達にはなかなか手が出ません。
= それだけ会社の食堂などでも使われていない野菜達
今後は、緑の野菜達にもチャレンジしなければ。
そうそう。今日のお弁当でご飯の海を泳いでいるのはメダカです。
んなわけない。スクガラスという名産品です。
確か,6月頃にワンサと沖縄の湾に集結し、そこをごっそり漁師達にさらわれるとか。
名物では島豆腐にちょこんとのっけて食べるスクガラス豆腐。
その塩漬け瓶詰めをゲット(残念ながらフィリピン産のスクガラスらしい。。。)したので、泳がせてみました。
アンチョビみたいな感じです。
今週末は三連休。せっかくだから、微妙な沖縄の秋を探してみようか。
水曜日, 10月 29, 2008
悩むということ
人が悩んでいるときに何と言ってあげられるだろう。
「人は悩んで悩んで、そして成長するんだ。がんばれ。」
だったり、その悩みに相談に乗ってあげたり、お金で解決する話だったら支援してあげたり、話を聞いてあげるだけでも悩みが溶解する場合だってある。
人は、大概、人それぞれ違いはあるものの、悩みを抱えているものだ。
悩みの大きさや悩みの深さ、場合によっては根深い悩みを抱えていながら日々暮らしている。
そして、その事が悩むような事かどうか、は、人それぞれで違う。
キムジョンイルになりたいと思わないのは、端から見ても彼の悩みは根深そうだ、自分には耐えられなさそうだと感じるからに他ならない。
根深い悩み、あるいは解決できない(後悔に近い)悩みは、普段忘れているようでいても確実にそこに居座り続ける。日常の悩みレベルを通り越して「業の深さ」に辿り着くような、もはや消えようのない悩みもある。
普段忘れているようでも、なんとなく居心地は悪く、何か考えた瞬間、何かのタイミングで、こうやってブログを書いたりしているときにも、時折、その塊はチクチクと存在をアピールする。
そして、今は忙しさや楽しさに紛れ込ませて蓋をしていたりすることも、ままある。
大家族や地域社会が個人の悩みを共有し、やや乱暴に、その悩みを無理やり解決させていた時代があった。
自分で蓋をしようとしても、周りが放っておかずに、余計なお世話をして蓋を外してあげていた時代。
20年以上前、田舎を出て都会で暮らす事を選んだのは、その煩さから逃れたい気持ちも大いにあった。
田舎=つまらない、都会=楽しいの構図がまことしやかに信じられていた時代。(少なくともアホな僕はそうだった)
代わって今は、カウンセラーやネットのコミュニティがその悩みを共有したり解決してあげようとしてくれる。
対話会みたいな形式だったり、掲示板での相談だったり、セラピーだったり。
電車のつり革やバナー広告や繰り返されるダイエット本、個人の悩みをビジネスモデルに取り込もうとさえしている。
なんだかなぁ。ビジネスの中では悩みを抱える人は「需要」と捉えられそうで感覚的に嫌な感じだなぁ。
厚生労働省統計調査結果「自殺死亡統計の概況」っていうのを見つけた。
日本の男性は60歳をピークに若年層から徐々に右肩上がりで自殺率が上がっていくようだ。
そして、ここで開示されている(若干古い)情報によると、悩み多き人の年代/職業のタイプは「50代無職男性」「50代農林水産業男性」「50代サービス業男性」ということが見えてくる。
サービス業に従事し、あと数年すれば50代の入り口が見えてくる僕としては、悩みの種に蓋をしてやり過ごす事は取り返しのつかないことになるという気がした。
悩みを解決するのは自分自身でしかないが、解決、もしくは悩みとうまく付き合えるようにするのは悩みが大きくなる前に仕掛けを用意しておいたほうがいいと感じるようになった。
それは、自分の中にある悩みの蓋を外し、そこに悩みが存在することを確認すること。
確認したら、その悩みを誰かに見てもらうこと。できれば、信頼するパートナーや親、あるいは(成人した)子供とか。もちろん、専門家だっていい。
そういえば、秋葉原の通り魔は、悩みの末の苦悩をネットにぶちまけていた。そこでも無視された結果、「誰かに止めて欲しかった」まま、凶行に及んだ。
生活の中で、普通に打ち明けられる相手がいなかったのかなと思う。
悩みをうちあけるのはカッコ悪い。(と、割と最近まで僕は感じていた。)
でも、会社の会議で結論の出ない話は嫌われがちだけど、悩みを抱えている日々の生活はビジネスではない。
生きることはビジネスではないんだ。
もっと気軽に悩みを認め、誰かに打ち明けて、たとえ解決しなくても、うまく悩みと付き合えるような「後期中年?」になろう、と思った。
中年を半ばも過ぎると悩み無いに越したことはないが、まぁ、そうも言っていられない。
幸か不幸か、日々、悩みぬきながら暮らすようなキャラでもない。
同じ悩みなら、悩ましい肢体に悩むのが嬉しい後期中年なんだなぁ。(やっぱアホだ。。)
まずは近しい隣人の悩みを聞いてあげる。
その隣人に悩みを打ち明ける。
そうやって隣人同士の輪が広がれば、(ちょっとかったるいかもしれないけど)家族・親戚関係や地域のコミュニティは息を吹き返すのかもしれない。
参考:相談する「誰か」の一覧(都道府県別)
参考:(なにかと評判の悪い厚生労働省の)自殺死亡統計の概況
参考:wikipediaデュルケーム「自殺論」
追伸
都道府県別の自殺率(男性)で、ここ沖縄が秋田・宮崎に次いで全国で三番目という事に驚いた。
これが要因の一つで長寿沖縄は過去の話となっている。
ちなみに出身地の岩手は、秋田>宮崎>沖縄>島根>岩手と、全国で五番目だった。
「人は悩んで悩んで、そして成長するんだ。がんばれ。」
だったり、その悩みに相談に乗ってあげたり、お金で解決する話だったら支援してあげたり、話を聞いてあげるだけでも悩みが溶解する場合だってある。
人は、大概、人それぞれ違いはあるものの、悩みを抱えているものだ。
悩みの大きさや悩みの深さ、場合によっては根深い悩みを抱えていながら日々暮らしている。
そして、その事が悩むような事かどうか、は、人それぞれで違う。
キムジョンイルになりたいと思わないのは、端から見ても彼の悩みは根深そうだ、自分には耐えられなさそうだと感じるからに他ならない。
根深い悩み、あるいは解決できない(後悔に近い)悩みは、普段忘れているようでいても確実にそこに居座り続ける。日常の悩みレベルを通り越して「業の深さ」に辿り着くような、もはや消えようのない悩みもある。
普段忘れているようでも、なんとなく居心地は悪く、何か考えた瞬間、何かのタイミングで、こうやってブログを書いたりしているときにも、時折、その塊はチクチクと存在をアピールする。
そして、今は忙しさや楽しさに紛れ込ませて蓋をしていたりすることも、ままある。
大家族や地域社会が個人の悩みを共有し、やや乱暴に、その悩みを無理やり解決させていた時代があった。
自分で蓋をしようとしても、周りが放っておかずに、余計なお世話をして蓋を外してあげていた時代。
20年以上前、田舎を出て都会で暮らす事を選んだのは、その煩さから逃れたい気持ちも大いにあった。
田舎=つまらない、都会=楽しいの構図がまことしやかに信じられていた時代。(少なくともアホな僕はそうだった)
代わって今は、カウンセラーやネットのコミュニティがその悩みを共有したり解決してあげようとしてくれる。
対話会みたいな形式だったり、掲示板での相談だったり、セラピーだったり。
電車のつり革やバナー広告や繰り返されるダイエット本、個人の悩みをビジネスモデルに取り込もうとさえしている。
なんだかなぁ。ビジネスの中では悩みを抱える人は「需要」と捉えられそうで感覚的に嫌な感じだなぁ。
厚生労働省統計調査結果「自殺死亡統計の概況」っていうのを見つけた。
日本の男性は60歳をピークに若年層から徐々に右肩上がりで自殺率が上がっていくようだ。
そして、ここで開示されている(若干古い)情報によると、悩み多き人の年代/職業のタイプは「50代無職男性」「50代農林水産業男性」「50代サービス業男性」ということが見えてくる。
サービス業に従事し、あと数年すれば50代の入り口が見えてくる僕としては、悩みの種に蓋をしてやり過ごす事は取り返しのつかないことになるという気がした。
悩みを解決するのは自分自身でしかないが、解決、もしくは悩みとうまく付き合えるようにするのは悩みが大きくなる前に仕掛けを用意しておいたほうがいいと感じるようになった。
それは、自分の中にある悩みの蓋を外し、そこに悩みが存在することを確認すること。
確認したら、その悩みを誰かに見てもらうこと。できれば、信頼するパートナーや親、あるいは(成人した)子供とか。もちろん、専門家だっていい。
そういえば、秋葉原の通り魔は、悩みの末の苦悩をネットにぶちまけていた。そこでも無視された結果、「誰かに止めて欲しかった」まま、凶行に及んだ。
生活の中で、普通に打ち明けられる相手がいなかったのかなと思う。
悩みをうちあけるのはカッコ悪い。(と、割と最近まで僕は感じていた。)
でも、会社の会議で結論の出ない話は嫌われがちだけど、悩みを抱えている日々の生活はビジネスではない。
生きることはビジネスではないんだ。
もっと気軽に悩みを認め、誰かに打ち明けて、たとえ解決しなくても、うまく悩みと付き合えるような「後期中年?」になろう、と思った。
中年を半ばも過ぎると悩み無いに越したことはないが、まぁ、そうも言っていられない。
幸か不幸か、日々、悩みぬきながら暮らすようなキャラでもない。
同じ悩みなら、悩ましい肢体に悩むのが嬉しい後期中年なんだなぁ。(やっぱアホだ。。)
まずは近しい隣人の悩みを聞いてあげる。
その隣人に悩みを打ち明ける。
そうやって隣人同士の輪が広がれば、(ちょっとかったるいかもしれないけど)家族・親戚関係や地域のコミュニティは息を吹き返すのかもしれない。
参考:相談する「誰か」の一覧(都道府県別)
参考:(なにかと評判の悪い厚生労働省の)自殺死亡統計の概況
参考:wikipediaデュルケーム「自殺論」
追伸
都道府県別の自殺率(男性)で、ここ沖縄が秋田・宮崎に次いで全国で三番目という事に驚いた。
これが要因の一つで長寿沖縄は過去の話となっている。
ちなみに出身地の岩手は、秋田>宮崎>沖縄>島根>岩手と、全国で五番目だった。
月曜日, 10月 27, 2008
ライフハック
↑EXCELハック!
最近チラホラと、ライフハックという言葉を見かけるようになった。
(そういえば、1年ぐらい前だろうか、そんなタイトルのムック本を買ったこともあったなぁ。)
ライフハックとは、僕の理解では、生活そのものに関するハッキングで、ネガティブに捉えられがちなハッキングの言葉の意味を本来の正しい意味で使っていて僕は好きだ。
「生活の中での裏技と生活自身の楽しみ方」って感じかな。
そもそも、ハッキングは、赤ちゃんがお母さんのオッパイを飲めないときに自分の親指をしゃぶってひと時の安心を得るみたいな知恵。もう少し大人になると、ファーストフードで氷り抜きのドリンクを注文するとか、そんなちょっとした、でも(本人にしてみれば)爽快な裏技。
これが、対象や方法が変化して、(主に)政府や大企業などが安直に民から何らかの利益を吸い上げようとする仕組みや制度に対し、抜け穴や裏技を使って抵抗する知的な遊びに変わった辺りから、ネガティブなイメージも付いてまわるようになったんだと思います。
そう考えると、コンピューターハッカーに限らず、ハッカーの言葉の使い方として税ハッカーとか水道ハッカー、鉄道ハッカーや買い物ハッカーも使えると思います。
買い物ハッカーなんて、スーパーの特売時間を把握してお得な買い物をするあたりが初級って感じかなぁ。
さて、そのハッキングという言葉を使った「ライフハック」がジワジワと流行り始めているように感じます。
で、通常は、「ハック」という言葉の意味が通じる層に向けて「ライフハック」を使うので、どうしても、効率的な仕事の仕方的な話だったり、デジタルツールを使った家計管理だったり、そんな感じ。
オタクの知恵袋みたいな感じ。
でも、「ライフハック」を「生活の楽しい裏技」と考えると、もう少し、話は広がります。オタクの知恵袋ではなく、みんなの知恵袋。
例えば、大根が余るときは大根おろしにして冷凍すればいい、とか、人気の無い英会話学校でグループレッスンを申し込むと致し方なく個人レッスンになる(ジェイソン先生ゴメン!)とか、そんな生活の中のちょっとしたTips。
電車に乗るときは、○○駅乗り換えは先頭車両なら△△線に乗り換えやすいとか、そんなこと。
こういうのって、生活をちょっとだけ楽しい気分にさせてくれるよね。
ライフハックが流行るのは生活があまり楽しくないからなのかもしれない。いや、明らかに50年前よりも進歩した生活スタイルのはずなのに、それほど楽しくなっていないことなのかもしれない。
そんな事を考えながら、今朝、寝坊してタイマーで朝に炊き上がった3合の保温しっぱなしのご飯をどうハッキングするのか、変な菌にハッキングされていないことを祈りながら、そんな事を考えているのでした。
※※EXCELでプロモーションビデオが!これも結構ハッカー的なニュース!※※
※※※wikipediaによるとライフハックはあくまで「仕事術」の意味で使われるらしい※※※
ライフハックが仕事術という意味だとすれば、なんだかな~。一気にライフハックの意味が「つまらない」ものになる。
そりゃあ仕事は大切だよ。大切ですよ。大切でしょうとも。大切なんでしょう。大切に違いない。。。
でも、やっぱり生活を楽しくする知恵の方が、よっぽど幸せに繋がるような気がするなぁ。
あ、僕は仕事が出来る男だから、既に「仕事術が完成している」(←ほどほどに仕事する)からそう感じるのかもしれない。
(笑)
火曜日, 10月 21, 2008
飢餓
この間の「貧困」を考えてから、そんな一生懸命では無いのだが、気が向いたときにその手の情報を見ていた。
知らなかった、、無知だった事いくつか。
・飢餓人口は8億数千万人にも及ぶということ。7人に一人が飢餓に苦しんでいる。
・夢と共に語られがちのバイオ燃料、車1台を満タンにするトウモロコシの量はアフリカの人が一年に食べるトウモロコシの量と同じ。
*wikipediaより
・wikipediaに「2007-2008年の世界食料価格危機」の項目があるということ
・仮想水という考え方。
・牛肉100g辺りを生産するために2tの水が使われる
知っていて損は無い。"無知の知"ということで。
そして、もし、すこしでも興味がわいたらWFPのサイトを見てみることをお勧めします。
♪だけども問題は今日の雨、傘が無い♪
ま、そういう感は、正直ある。
この曲をラジオの懐メロで知った(←リアルタイムでは無い。ここ強調。)中学1年生の僕は、「自分本位で生きるっきゃないよなぁ。こんな事を公の場で歌うのって凄いなぁ。」と本気で思ってたのでした。。。
逆説的比喩は、おバカな青少年に誤った知識を与えてしまう例。。。
中学生の時に一中学生には何も出来ないと率直に感じた。
そして、中年になっても、やはり、何かが出来るとは思えない。
だからと言って知らずに済ませられる事では無い。
陽水の唄で社会問題を知ったのと同じように、知ることが変化の可能性を絶やさない為の行動なのかもね。
WFPの活動を仮想体験するゲーム。(これも「無知の知」と思えばアリなんだろうなぁ)
とりとめないけど、そんな今日この頃なのでした。
※沖縄のカボチャは旨い!ホクホクなんです。
(↑と言いつつ、カボチャの煮付けが作れることをアピール。あぁ、幸せ過ぎに注意。)
知らなかった、、無知だった事いくつか。
・飢餓人口は8億数千万人にも及ぶということ。7人に一人が飢餓に苦しんでいる。
・夢と共に語られがちのバイオ燃料、車1台を満タンにするトウモロコシの量はアフリカの人が一年に食べるトウモロコシの量と同じ。
*wikipediaより
・wikipediaに「2007-2008年の世界食料価格危機」の項目があるということ
・仮想水という考え方。
・牛肉100g辺りを生産するために2tの水が使われる
知っていて損は無い。"無知の知"ということで。
そして、もし、すこしでも興味がわいたらWFPのサイトを見てみることをお勧めします。
♪だけども問題は今日の雨、傘が無い♪
ま、そういう感は、正直ある。
この曲をラジオの懐メロで知った(←リアルタイムでは無い。ここ強調。)中学1年生の僕は、「自分本位で生きるっきゃないよなぁ。こんな事を公の場で歌うのって凄いなぁ。」と本気で思ってたのでした。。。
逆説的比喩は、おバカな青少年に誤った知識を与えてしまう例。。。
中学生の時に一中学生には何も出来ないと率直に感じた。
そして、中年になっても、やはり、何かが出来るとは思えない。
だからと言って知らずに済ませられる事では無い。
陽水の唄で社会問題を知ったのと同じように、知ることが変化の可能性を絶やさない為の行動なのかもね。
WFPの活動を仮想体験するゲーム。(これも「無知の知」と思えばアリなんだろうなぁ)
とりとめないけど、そんな今日この頃なのでした。
※沖縄のカボチャは旨い!ホクホクなんです。
(↑と言いつつ、カボチャの煮付けが作れることをアピール。あぁ、幸せ過ぎに注意。)
月曜日, 10月 20, 2008
サザエさん
毎週日曜日、夕飯を作りつつ、あるいは、早めの夕飯を食べながら、なんとなくサザエさんを観ている。
いや、見ているというか、視界に入っている、という感覚に近いかもしれない。
本命は、その後のカラクリTVなのだが、正になんとなくサザエさんをつけっ放しにしているのだ。
(連ドラも観ない僕にとって、唯一、確実に見ている番組なのかも!?)
昨日もそうだ。
昨日は、太平洋に鎮座する熱帯低気圧のお陰で、珍しく近所のポイントにしっかりした波が入っていた。
2ラウンドほど海に入ったせいもあり、ほどよい疲労感で、簡単に夕飯を済ませようとお弁当ともども準備しながら、視界の端でサザエさんを見ていた。
ブラウン管、もとい、液晶の中で相変わらずサザエさん一家は何十年も変わらない、幸せそうな生活を続けていた。地デジにも対応するのだろう。(既にしているのか。。)
この番組が始まった当時は、この絵が、世間一般の幸福であったはず。
それから年月を経て、核家族化が進行したり、バブルに踊ったり、バブルが弾けたり、援交や引きこもりなどが社会問題になったり、終身雇用が崩壊し格差社会と呼ばれる、今のこの時代にもサザエさん。
本当は、今の時代、今の社会に合った典型的な幸福の姿、があってしかるべきなのだが、、、サザエさんになってしまっている。
その30分前に放送しているのはまる子ちゃんで、やはり、昭和40年代辺りの話。
最初は、幸せの絵が描けなくなっているのかと考えたが、待てよ、自分の事はさておき、今、今日現在も、普遍的な幸福の形としてサザエさんは生き続けているし、親と同居していたりいなかったり、両親が揃っていたりいなかったり、兄弟がいたりいなかったり、様々な外見的な形の違いこそあれ、本質は変わらないのかもしれない。
じゃあ、サザエさんの幸福の本質はなんなのだろう。
・家族が健康であること
・多少の失敗や人間的な弱さはあるが、最終的には登場人物全員が倫理的であること
・親族のコミュニティが活きていること
・地域のコミュニティが活きていること
・あくまで日々の暮らしを楽しんでいること。(せいぜいピクニックぐらいが家族のイベントであること)
なんだ、普通のことじゃないか。。。。と、思える今の僕は幸せなのだろう。
この番組が視聴率を維持できるうちは、まだ、世の中、捨てたもんでは無いのかもしれない。
木曜日, 10月 16, 2008
健康が気になる中高年
会社の健康診断の検診結果が届いた。
で、最近はこんなのもシステム化されていて検診結果もWEBで閲覧するのだが、ログインで一苦労。
IDにパスワード、で、こんなシステム結果閲覧ぐらいでしか参照しないので、パスワード期限切れ、パスワードも文字数や数値混在などガチガチ。変更するも何度も拒否られて、検診結果を見るためにイライラしてこれでは健康を害してしまいます。
医療情報は超個人情報ということで本人にもできれば見せたくないのだろうか。
ようやくアクセスを許可され閲覧。
いずれも"A"なのだが、
最高血圧120以下→130
中性脂肪150未満→173
この三点は"A3"で、「要生活改善」なのだそうだ。
うーん、当日の朝食もしっかり食べただけに、その影響も多少気にはなるが、こういうことは対処しても損は無い中高年。
ということで、血圧は誤差の範囲として(既にいい加減。。)、中性脂肪に着目。
そもそも中性脂肪は、、、、とググってみた。
・脂肪はエネルギー
・直ぐ使われるエネルギー脂肪酸
・備蓄型エネルギー中性脂肪
・高中性脂肪状態の弊害
・過剰分が血液に蓄積される
・いろんな意味でドロドロになる
・高中性脂肪状態を放置すると
・脳卒中系でやばい
・原因
・消費量に比べ脂肪を多量に摂っている
・対策
・摂取量を減らす
・消費量を増やす
ということらしい。
うむ。確かに、運動は適当(適度にではなく、適当に。。)にしていても、最近はたまの一人自宅焼肉とかも気に入っていたりして、脂肪摂取は大いに違いない。
大体、肉は美味しいし、特にロース系はたまらん。
何故、肉の脂身は食べると頭がスーッとするのか。これはまた別の機会に調べてみよう。
そんなこんなで、脂肪分の摂取量を減らして脂肪の消費量(家計ではなく体内の)を増やす事を考えてみた。
(前フリ長っ!)
うーん、うーん、うーーーーん、、、、
運動量増は根気が続きそうに無いので諦めます。
ということで、脂肪摂取量を減らす方法で攻めたいと思います。(何を攻める~。何処を攻める~。)
(とはいえ、昨日は「業務スーパー」なる所で大量の冷凍肉をゲットしているしなぁ。)
この話の続きはまたいつか。
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