金曜日, 12月 31, 2010

大雪の

盛岡。ホワイト年越し。

水曜日, 12月 29, 2010

先端フェチ


ついこの間、自分が「先端フェチ(初級)」であることに気がついた。

それは会社のタバコ部屋でのことだ。

多分同年代?の同僚と車での旅行についてあーだこーだと語り合っていた。

ちなみに、タバコ部屋のコミュニケーションの50%が仕事の愚痴、25%が飲み会の調整、10%が先週末何をしていたか、10%が来週末何をするか、5%が仕事の話である。5%も仕事の話をしているのだから、ちょっと僕は仕事のことばかり考え過ぎである。

で、あーだこーだと話していたら、「海岸線の道路をひたすらドライブする」「海岸線の先に何があるのかを辿りつけるまでひた走る」事がお互い大好きだとわかった。
当然、高速道路よりも下道が好きだ。

しかし、彼は、僕のそれよりも大分先をいっていて、最南端や最北端的なものの多くを制覇している、と言うのだ。
「先端フェチなら当然でしょう」と言われた。
なるほど、そういうのは先端フェチと言うのか。と、46才の冬に学んだ。

そして彼は「先端フェチ(上級)」なのだ。

彼は、「先端好きとしては押さえておかなきゃならない場所」などを具体的に話し始めた。
僕は、彼の視線から、にわか先端好きではあるまいな、的な疑念を抱かれていると感じてしまった。

彼が日本全国数十カ所の必須先端の中で彼が制覇した十数先端を挙げていく中、僕が訴えることが出来たのは、つい一ヶ月ほど前に行った長崎平戸の先の方の灯台の話一先端だけだった。

当然彼も、「そうそう、あれね、あの灯台ね。行った行った」と。
二人とも名前は思い出せないその灯台。しかし、名前は思い出されなくとも、ここ九州北部の必須先端の一つなのだ。
その一先端で、どうにか僕がギリギリ「先端フェチ(初級)」に留まることが出来た。

こんなんでは、いかんいかん。
僕だって、先端好きなんだー。
他にもあるだろ、あるだろ~、、、
と何故か試験終了1分前のような気分になってしまった。

そして、それまでは地理の試験だったのに、焦った僕の頭の中に唐突に飛来したのが、女性の体○△×※★(自主規制)

ということで、タバコ部屋は20才を過ぎてから

未来に残したい

牛肉麺。ありがたや。

火曜日, 12月 28, 2010

前回「世界中の本はたくさん」の続き

前回「世界中の本はたくさん」の続き

本絡みで辿り着いたサイトの話題なのにリンクは貼りません。
何故なら、よくよく、よくよくよくよく、読んでも、怪しさを払拭できないサイトの話題だから。


それは、「5万円で貴方も商業出版書籍の著者に」とかなんとか言っているサイトだ。


正確には、「5万円であなたの書いた何かしらをISBNナンバーの付いた書籍としてamazonに取り扱い(1年間)させますよ」ということだ。
ある意味、amazonの新しい使い方として画期的だ。

ちなみに、
ISBNというのは、「社団法人 日本図書コード管理センター」という団体が発行と管理をしていて、誰でも申請すれば、10書籍分で\16,800で登録できるようです。
amazonでの委託販売は、amazon自体がe託販売サービスを受け付けていて、年間\9,000円の参加費用と商品一点の商品預入をすればスタートできるようです。この際に、書籍ならISBNコード、DVDやCDならJANコードなどが必要となるようです。


話し戻って、そのサイト。
ウリ文句が「あなたの長年の夢を実現します。あなたの本を出版できます!」になり、更に自費出版ではなく商業出版「amazonで取り扱わせます」、と謳っています。

当然、出版した自分の名前でググれば、(通常はamazonの結果が優先されるため)検索結果の筆頭にその書籍が表示される。それをもって「あなたの社会的価値が上がりますよ」ということだ。

従来のように自費出版で大枚を失った挙句、大量の在庫を抱え、かつ、誰にも知られない、という寂しい状況にはならないのだ。
ぐぐれば確認できるのだから。SEO対策だとか、そんな事を考える必要もない。
まぁ、名前によってはペンネームを工夫する余地はあるかも。


出版に際して、誰も内容について精査しないし、アドバイスもしない。表紙も自分で用意する。

仮に、旅行先で撮ったデジカメ写真とかが、100枚あれば100ページの写真集
そうやって、それなりの文書量を持ち込めば、amazonで取り扱っている書籍の筆者(←筆者でも監修でも○○編纂委員会代表でも、なんにでもなれる)にしてくれるのだそうだ。

うーん。僕は買わないし、そんな本を掴まされた日にゃあ返品するだけだけど、このアイデアは素晴らしい。
amazonはロングテールをビジネスにしたことでイノベーションを起こしたのだけど、その、ロングテールを逆手に取っている。

ロングテールの部分に名前を連ねること自体の価値を5万円(自分でやれば\25,000円?)として販売しているわけだ。

そして、その怪しいホームページを辿っていくと、要するに儲け話全般を取り扱っている会社にたどり着いた。
儲かり話を○万円でお譲りします、的な。

そして、その儲け話全般を取り扱う会社の代表が、まさに、数冊のamazonで取り扱われる本を出版している人だということがわかった。「学生アパートの探し方」みたいな表題の本も書いた人、らしい。

5万円払えば、(本屋さんでは手に入らないけど)「このブログが出版されました」っていう自己満足を得られるというわけです。

僕なんて単純なミーハーオジサンなので、誰かに「私の話が本になっててね」なんて言われたりしたら、超単純に「スゴイですねぇ」なんて反応しそうで、なんだかなぁ。
その上、「是非、一冊買います」なんて言いそうで、更に、追い打ちをかけるように「サインをお願いします」なんて行っている自分の姿は、、、情けない。。。

月曜日, 12月 27, 2010

世界中の本は1億3000万冊×印刷した数

なのだそうだ。
Googleが調べた結果。
それをWiredが報じていました。


最初、「世界中の本は129,864,880冊」と聞いて、なんだか少ないなぁ、と感じた。
よくよく確認すると本の総数ということではなくて、出版され管理されている書籍の総数ということだ。

この調べ方を超ザックリ言うと、、、
・世界中の図書館の目録や世界中の出版社のカタログなど「書籍」情報をかき集める。これが10億件
・この10億件を名寄せしてマージしたり、書籍に混じりこんだ書籍以外の情報を外したり(中には図書番号が割り振られたTシャツもあったらしい)、そんなこんなを繰り返す。
・で、8月にようやく作業が一段落して、129,864,880冊だったということだ。


じゃぁ、物理的に本はどれぐらいあるのか、を考えようとしたのだけど、初版部数が1000冊以上は必要って情報まで辿り着いた辺りで断念。
そのまま、ネットサーフィンしていたら、面白いサイトを見つけた。
※物理的にどんだけあるかは、とにかく一杯ある、以外の答えに辿りつかなかった。単純に一人数冊持っていたらというアプローチでも、うん百億冊とか、そういう馬鹿でかい桁になるのは間違いない。


話し戻って辿り着いた面白いサイト。は話が長くなるので次回。

日曜日, 12月 26, 2010

洗剤業界のイノベーション



手っ取り早く商売をやるなら「食べ物屋」をやりなさい。と、どこかで聞いたことがある。
要するに、原価割合の小さい商売=水商売がビジネスとして効率的なのは言うまでもない。

中でも、香水や化粧品の類の水商売っぷりたるや、どんだけ薄めてるんだ~というかんじだろう。。

一方、薄めない商売を「原液商売」だとすると、原液商売は何故か、通販や訪問販売の一部ではみかけるけど、スーパーの棚に並ぶような商品では殆ど無いのではないか。
多分、原液商売は、ビジネス規模が小さくなるから、そこに斬り込む大手メーカー=ビジネス拡大が最優先の団体、では取り組む気にならなかったのかもしれない。

ビジネス規模だけの問題なら、まぁ、勝手にやっててもらって構わないのだけど、流行りのエコの観点ではそうはいかない。水商売は地球に優しくないのだ。
薄めれば薄めるほどビジネス的には高効率ビジネスになる一方で、地球に取っては厳しいことだらけだ。
「薄めるために水を大量に使う」
「大きい容器が必要になる」
「容器に詰めるのに時間がかかる」
「一度に運ぶ量が少なくなる」
「倉庫の場所を取る」
「店頭の場所も取る」
「買った人が運ぶのも一苦労」
「交換用も嵩がはる」
「捨てるゴミも余計に増える」

原液を流通させれば、その間の物流コストも保管コストも激減するのがわかっているのに、相変わらず水で嵩を増やして商売しているというのは、エコではない。

きっと、水商売関連企業は、分かってはいるけど世の中にバレルまでは、その話はしないでおこうなー、ってな感じで何食わぬ顔で、水で嵩を増やして商売を続けているのだ。

そんな中で、洗剤の原液ビジネスが話題になっていた。


僕個人としては、洗剤よりも飲料系「コーラとビール」の原液に期待するなぁ。

さあて、この手の原液ビジネスに「イノベーション」や「環境」を標榜する各老舗ブランドはいつ本格的に乗り出すのだろう。

これぞ、

孫の手。

土曜日, 12月 25, 2010

オープンソース+コーラ=オープンコーラ



人類の知の共有で最も進んでいるのが料理のレシピ。だと思う。
今や、世界中のどこに行っても日本食が食べられたり、インドのカレーが日本で独自の変化を遂げ日本のカレーとして逆輸出されたり、アメリカ西海岸で発見された寿司ネタとしてのアボガドが日本に逆輸入されたり。

未だ紛争を止められない人類だけど、料理に関しては、理想的な歴史を刻み続けている気がします。素晴らしい。


以前、まだ自炊を始めたばかりの頃、東京で毎日電車通勤をしていた頃は、その日の夜に食べたいもののレシピを携帯で検索していた。

レシピの素晴らしいのは、たとえ調理に時間がかかるとしても、主要な手間の部分だけ抜き出して書いてあるので、超短時間で概要がわかるということだ。

一方で、概要はわかるものの、自炊を始めたばかりの中年男にとっては、そもそも基本が分かっていないので困ることも少なくなかった。

粗みじんって、何?とか、(みじんと粗みじんの違いがわからない)
三杯酢でって、何?とか、(お酢を三杯、ではない)
湯通しって、何?とか、(蛇口のお湯の下を通すわけではない)
素揚げって、何?とか、(空に揚げるわけではない)
、、、

初めこそ用語を調べてみたりしたのだけど、直ぐに、もっと良い方法に辿り着いた。

それは、今夜は肉じゃがを食べたい、だったら、「肉じゃが レシピ」で検索して、トップ3、三種類のレシピを読むのだ。
そうすると、ちょうど勤務先の最寄りの駅に近づく辺りで三つないしは四つのレシピを読み終え、レシピ毎に微妙に異なる、粗みじんとみじんの違いや、三杯酢の作り方まで書いてある(肉じゃがでは使わないが)レシピなどのお陰で、すんなり頭の中に公約数的レシピが収まるのだ。

著作権に煩くない(出版されているレシピは知らないが)レシピ共有文化に感動すら覚えていた。

で、本題。
「オープン・コーラ」の話。



コカ・コーラ社がレシピを超企業秘密として取り扱っているのは有名な話だが、フリー・ソフトウェアの考え方を用いて、コーラのレシピをオープンソースとして公開し、改訂を続けた結果、商品として成立している、というのが「オープン・コーラ」だ。

ちょうど、Microsoft社がWindowsのソース・コードを公開せずに、バグを放置したまま販売している一方で、同じ機能・目的を果たせるLinuxが製品として使えるものになっている、という話と、まぁ、同じようなことだ。


「オープン・コーラ」はカナダで販売されているそうだ。
是非、飲んでみたいものだ。誰か、奇特な人が私に送ってくれないものか。
(オープンでなかったために幻となってしまったtabclearの缶に似ているところもお気に入りだ)

金曜日, 12月 24, 2010

何故、徳利は必須!

ほわいとくりすますっ。

チーム構成あれこれ


ちょっと過激な表現で面食らったのだけど、こんな話を読んだ。

A.利口でズボラは将校にせよ
B.利口で真面目は下士官にせよ
C.馬鹿でズボラは炊事当番をさせよ
D.バカで真面目はチームに入れてはならない

言っていることはなんとなく分かるんだけど、なんか、スッキリしない、釈然としなかった。それは、表現の問題だと思っていた。

すっきりしない、釈然としなかったときの僕の頭の中を絵に書いてみた。



で、一旦、その話題は忘れかけていたのだけど、フリスクのCMのように、今朝、ふとこんな風に考えるとスッキリすることがわかった。
その絵がこれ。


どのへんがスッキリしたかというと、まず四択ではないこと。
それから、それぞれの仕切りも明確ではない。

そしてなにより重要な気づきは、「利口とバカ」「真面目とズボラ」は、環境によっても随分左右されてしまうということ。
イメージ的には、「とかいのねずみといなかのねずみ」の話だ。


それぞれ相手の暮らし(仕事)は楽だろうと思うのだけど、実際にはとんでもなく大変だということを知る。
これは、未経験の分野においては、どんな利口もバカに成り得るし、真面目にもズボラにも成り得るということ。

だから、ある世界では、「利口とズボラ」で将校として評価されていたのに、ある世界に移ったとたん「バカで真面目」になってチームから排除せざるを得ない、なんて事があるわけだ。

そんな事を考えながら、今の職場の面々を、四パターンに分類してみたらなかなか面白かった。なるほど、と思うことだらけ。ここには書けないけど。

そんな事を考えつつ、辿り着いたオペレーションズリサーチのなんかの改訂版
A.部下からは利口でズボラに見えるようにしなさい
B.上司からは利口で真面目に見えるようにしなさい
C.その他のみんなからはバカでズボラだと思われなさい
D.仲間と仕事をしたければバカ真面目にはならないように

整いました~。

木曜日, 12月 23, 2010

タバコとキス


先日、ライターを忘れて会社に行った際、たばこ部屋に行くたびに見知らぬ誰かに「火を貸してください」とお願いし、100%快く貸していただき事なきを得た。

だが、あとでふと、借りた火をどうやって返せばよいのか、と疑問が沸き起こった。

そもそも、「火を下さい」とは余り言わない気がする。「火をあげます」になると全く聞いたことがない。

最初に想像したのは、日本の農耕文化のムラ社会では、火を貸し借りするのが日常当たり前だったから、ではないかということ。
いずれ返す機会があるだろうから、今回は借りる、ということ。

と、ここまで考えて、ググってみた。

「貸す」の意味には、"モノを一時的に使わせる"という意味があるから、「火を貸す」が成立するのだそうだ。
他に、「トイレを貸す(借りる)」なんかも、貸したから返せ!と言われても微妙な範疇かもしれない。

ちなみに英語の場合は、英語ではborrowで、火を貸すケースではuseを使うとどっかに書いてあった。

そんなしょうもない事を考えていて、そもそも、「火を借りる」ケースは、実際にはライターを借りていると気がついた。
どちらかと言えば、昔、まだマッチで火をつけるのが主流だった時代は、数本しか持ち歩いていないマッチを貸す場合もあったが、吸っているタバコを差し出して、タバコの火を直接分けてあげる事が少なくなかったから、かもしれない。

そういえば、随分長いこと、タバコからタバコに火を移す光景を見ていない気がする。

あの光景は、ほんのりタバコの火の光程度にエロティックな印象がある。
多分、キスをしているような、そんな光景とダブルからだろうか。
さらっと「キスを貸して」と異性に言ってみたらどうなんだろう。

うーん、タバコの火は返せないけど、キスならたくさん返せるから、借りまくりたいものだ。借金ならぬ借キス。

妄想は尽きない。

水曜日, 12月 22, 2010

ヘアスタイル



エグゼクティブの新しいヘアスタイルなのか、極東への出張で枕が合わなかったのか。。。
米Nimbula マーケティング担当バイスプレジデント レザ・マレクザデ氏の記事よりも写真に注目してしまいました。

ちなみに読んではみたものの?だった記事はこちら。
http://journal.mycom.co.jp/news/2010/12/16/009/?rt=m&t=pl&n=3154



寝癖ヘアスタイルは往年のIT業界っぽいスタイルだ。今となっては、レガシーなヘアスタイル、とでも言うべきか。


某Microsoftが本格的にWindowsを世に広めるちょっと前、80年代の終わり頃、某ビルゲイツがなんかの催し、太丸デパート東京駅八重洲口店の特設催事会場での歳末赤札市with全国駅弁大会、ではなく、Microsoftのなんかの催しで来日していたことがあった。
たまたま、会場のパイプ椅子に座った彼のすぐ後ろが僕の席(やはりパイプ椅子)だったことがある。

そうです。その数分間、私はビルゲイツの次席だったのです。
「よう、ビル」と声をかけ「WindowsでIBM OS/2を打ち負かしトップを取るぜ」と未来を告げることも可能な(相手の反応を無視すれば)距離だったわけです。


当時、すでにMicrosoftは大企業になりつつあったけど、まだまだ成功したベンチャーって感じだった。
旧来の大手老舗メーカーが寡占して高値だったコンピューターを、パーソナル用に安価にする鍵を担っていたのが彼の率いるMicrosoftだったのだ。

月刊アスキーで読んでいた通り、彼の背広は肩から背中にかけてフケと思われる白い埃が目立っていて、髪の毛も後ろから引っ叩いたような状態だった。
なんか、ガソリンを入れすぎたエンジンのような熱気というかオーラを感じたものだ。

と、ヘアスタイルにかこつけて、あの時すれ違った有名人を紹介してみた。
当時は、まだまだPCは「ハードありき」の時代で、会社のPCなんて、PC1台にソフトは良くて三本(三種類)みたいな時代だった。PC1セット50万円でも安い、そんな時代。

ソフトウェア一本の値段も相当なもので、相当な値段に相応しい相当なパッケージに収まって販売されていた。ワープロ一本5万円とか、そんな感じ。定番表計算ソフトは定価だと10万円近くしていた。
百科事典か広辞苑のような分厚いパッケージに分厚いマニュアル数冊とフロッピーが3枚とか入っていた。

話はそれるが、「ソフトバンク」も、言葉を話す犬のようなお父さんや、黒人のような息子や、孫より若い旦那さんと結婚したお祖母ちゃん、光の道がどうこうなどと複雑怪奇な現象を宣伝する会社ではなかった。

新しい商品「ソフトウェア」を専門に取り扱う卸業者のパイオニアとして「ソフトバンク」が地位を築き始めた頃だ。ったと思う。
ソフトバンク登場以前は、書籍を取り扱う卸業者が片手間にやっていたようだ。



そんな時代の中で、高額のPCやソフトを手当たり次第に試したい欲求を満たすために考えたのは、週末を秋葉原の(当時はまだまだ怪しい)PCショップでバイトすることだった。
あれは今思えば楽しかったし、随分、勉強させてもらった。

当時は気がつかなかったが、多分、僕も、横から殴られたようなヘアスタイルになっていたはずだ。


火曜日, 12月 21, 2010

NMP-1000P「RIP機能」


ズボラな僕は、内部にハードディスクをセットせずに旧NMP-1000をUSB接続して使ってました。
頂いたコメントでハタと(←このハタは、旗なのか?)気がつき、旧NMP-1000の内臓していたハードディスクを抜き取り、新NMP-1000Pに取り付けてみました。


・新機能「RIP」
USB外付けのCD/DVDドライブにミュージックCDを入れ、ドライブ選択画面でオプションを選択、そこに表示される「RIP」を選択すると、あらまぁ、簡単RIPPINGされます。

ちなみに、デフォルトでは「MUSIC」フォルダ直下に日付のフォルダが作成され、その中にWAV形式で保管されます。個人的には最近はすべてFLACでRIPしているので、この機能は使わないだろうな。

当然、RIP中も、そのデバイス以外のデバイスで音楽やDVDの再生ができます。

同様にDVDを入れてみると、こちらは、ダメでした。再生もRIPもまだダメみたいです。
気になったのは、デバイス表示に「CD-ROM 1」と表示されること。そもそもDVDドライブには非対応なのかもしれません。と取説にも書いてなくて、調べてみたら、
http://www.qnap.com/images/products/comparison/Comparison_NMP.html
ここに書いてありました。(新旧比較ページ)
「Music CD Rip (as WAV files)」
「Support USB CD/DVD/BD drive for playback of user-authored discs」
との事です。
User-authoredなので、基本は、販売されているようなDVDには対応していないということでしょう。


ま、これができちゃうと、メーカーとして存続するか心配になるので、良としましょう。

月曜日, 12月 20, 2010

完璧な

満月。未熟な自分。

行かなきゃ

わかんねー!

朝の「本当の」一服

※以下の話題は、あなたにとって健康上の害を高める可能性がある内容を含みます、が、一生死なずに済む度合いは変わりません※


朝、起きる。とりあえず、お湯を沸かす。そして、朝食の支度(支度というほどの支度ではない)を始める。
その辺りでタバコを一服する。

本来であれば、これが、目覚めの一服となる。

が、どうも、朝起きてから会社に行くまでの短時間の間の一服は、一服のようでどこか嘘っぽい一服だということに気がついた。

なぜなら、実際にはこうだ。

バタバタと出社。席に着く。
始業のベルが鳴る。
先生は入ってこないし、教室のドアに黒板消しが挟まれてもいないし、そもそも教室じゃないけど、起立する。←今はそーゆー環境で仕事している。
起立したら、他の事を考えながら決められた文章に合わせて口をモゴモゴ動かすラジオ体操的な事をする。昭和的唱和。
着席する。
バタバタとなにかしら仕事のようなことをする。


そうして、ようやく一息く時間、平均9時45分頃となる。
そこでの一服が、間違いなくその日初めてニコチン物質が血液に到達し体中を循環することを実感できる時だ。


要するに、朝起きた後の一服はクラクラする感覚がないが、平均9時45分頃の一服はタバコ特有のクラクラ感がある、ということだ。

その後は、終日、クラクラ感なしの一服にしかならない。
ということは、朝起きた後家を出るまでの何本か(多分、朝食前後で二本ぐらい吸っていると思う)は、なんか、無駄な一服になっている気がしてならない。
あの、その日最初の一本にのみに許されるべきクラクラ感が、実際には、その日三本目辺りに許されているのは、どこか、許されない事態だ。

多分、血流の問題なのかな。朝、運動をしてから一本吸えばクラクラ感が味わえるのだろうか。
でも、朝、目を覚ますために吸っているのに、その前に運動するとなると、目を覚ますために何をしたらいいのか、で困ってしまう。
そんなことに気がついたのでした。


ちなみにこのクラクラ感、何時間か長い時間タバコを吸わずに吸ったときに顕著に感じることができる。
以前、願掛けで10日間ほどタバコを吸わなかったことがあった。

その願掛けが実らず、失意の中で吸った10日振りのタバコは凄かった。
外で立ってる状態で吸ったんだけど、クラクラ感MAX、地面に接触している自分の足の裏を中心に地球が回っているような感覚だった。

さすがにその時は、これは天然モノの薬物だ!こんなものを吸っていて、普段は何ともならないなんて、どんだけ僕の身体は凄いんだ、普段の僕の身体は無敵モードか、などと感動していたのだけど、次に吸った二本目では、クラクラMAX感は消えていた。残念だった。


それが忘れられなくて、しばらく、感覚を空けて吸うようにしてみたんだけど、24時間以上空けてもそこまでの感覚には至らない。
せいぜい、前述のプチクラクラ感、プチクラ感どまりだ。
そんなんで満足する今日このごろなのでした。

※はみ出し
 その天然モノ薬物に関する注意書きをまとめたサイト。四種類あるらしい。
 http://popdragon.seesaa.net/article/5039747.html

※※はみ出しパート2
 世界中のその手の注意書きをまとめたサイト。
 http://muen.cool.ne.jp/q_and_a/q10_2.htm


土曜日, 12月 18, 2010

家の前の

フレディー。

吸引力が変わらない、もう一つの(革命的)方法



最近、掃除機を買い換えた。

5年ほど使っていた掃除機、使っていたといっても、掃除の頻度が少ない(掃除はなんか苦手である)ので、使用回数は2年分ぐらいで、吸い込んだゴミの量は5年分、といったとこか。

これまで使っていた掃除機は、不精な自分の性格を考え、いわゆるフィルター買い替え不要←洗えるやつ、のモデルだった。
これはとても自分にはマッチしていたようで、なんだかんだと、たまーーーーーーにフィルターをガシガシお風呂場で水洗いして使ってきた。

一方、ガシガシ水洗いする、ということは、掃除機の使用を終えたタイミングでゴミを捨てることになる。
別に、掃除しないときに「掃除は別の日にやるとして、たまには掃除機のゴミを捨ててフィルターを洗うか」ということには、普通はならない。はずだ。少なくとも僕が普通であればそういうことだ。

むろん、僕の家に使用人が何人もいて、執事がいるなら、話は別だ。

「おい、山岡(←執事の苗字イメージ)、明日辺り掃除をする気分になるかもしれぬ、掃除機のフィルターをガシガシと洗っておくよう誰かに言っておいてくれ」
これなら掃除しないときにフィルターを洗う可能性はある。
が、うちには山岡どころか、山田も田岡も鈴木も水上も池田も金子も川田も竹本も、ましてや大塚もいないのだ。

そういうわけで、掃除機のフィルター洗いは掃除の後、ということになる。
そうすると、肝心の気合が入った掃除の日には、僕は超テンションが高いのに掃除機は唸るばかりでやる気なし、ということになるのが常だ。

こうして、フィルター洗い後だけは二人のテンションは高いのだけど、フィルター洗い後のテンションの高い時期が、最初の頃ほど長続きしなくなった。

そして、ある時からグンと吸引力が落ちた。フィルター洗いの効果も無くなった。

分解してみたり、できることはほぼやりつくし、一時は復活したように見えたが、結局、すぐに同じ音だけ立派で吸引サボタージュ状況は変わらず、継続使用を断念したのだ。

二人の蜜月は終わった。
そして、泣く泣く使い慣れた掃除機君は下取りに出され、新たな掃除機君がやってきた。

これだ。


どうだ。見るからにテンション高いぞって顔をしている。
電源を入れると、青い部分が青く光っても不思議はない。(でも、そのような機能はありません。)
ともすると、このまま自走式で掃除してくれると良いのだが、そこは二人で愛を育む仕様となっており、常に私が手を添えてあげないと掃除はしない。なかなか、慎み深いのだ。
ましてや、電源を入れずに部屋の隅に置いておくと、ジッと、私が声をかけるまでジッと待っている。

二人の愛の作業としての掃除。
昼は独り大人しく慎み深く部屋の隅で待っている、
そして、夜にスイッチを入れたともなるとその慎み深さはどこへやら、大胆奔放かつ激しく吸引するのだ。

。。。なんか変な話になってしまった。


もとい、使い始めてすぐに東芝製のこの掃除機の良いところが、実はとてつもなく良いことだとわかった。
もっとアピールしても良いのではないか。
それは、フィルターに普通のティッシュペーパーをセットできるのだ。

掃除しているうちに吸引力が弱くなったと感じたら、ゴミ箱に掃除機のゴミカセットを持っていき、ポチッとスイッチを押すとパコンとカセットが開き、ポトンとティッシュと共にゴミが落下するのだ。

たったこれだけの事なのに、掃除機の使い方が変わるのだ。
どう変わるかというと、例え掃除中であっても、吸引が弱くなった気がしたら、ポチッ・パコン・ポトンとするだけで、快適に掃除が継続できるのだ。

ということは、不精な僕みたいな人間はゴミを溜め込み吸引力をおとしているのだけど、ポパポで済むならしょっちゅうゴミを捨てることになり、そもそも、ゴミを溜め込みすぎてフィルターが詰まるような事自体が少なくなるわけだ。

これに気がついてから、ちょっと、掃除が好きになったかもしれないのでした。

金曜日, 12月 17, 2010

参りました映画「ブロークバック・マウンテン」



雑誌を読まない生活が定着して随分経つ。
雑誌を読まないと、世の中の流行を知る術は、「街に出る」「TVを見る」「上司の発言」ぐらいなものだ。しかも、「街に出る」は結局自分のセンスが問われるわけだし、「TVを見る」は高尚な番組しか見ない

そんなだから、話題作にも関わらず、なんの先入観もなく話題となった映画を観ることがある。
というか、レンタルDVD屋さんは、話題作を目立つ場所に置くので、「話題作」ということは知るところとなるのだけど、どの辺りが話題になっているのか、は、わからずに手に取ることになる。


当然、そういう時は、見始めての数分で「この映画は○系だな」などと思いながら観ていくのだけど、今回は、想定範囲を超えていた。


不意打ちされる、辻斬りにあう、食器棚の陰からゴキブリが~、会議中に思わず熟睡して夢まで見ててイビキをかいた気がして突然目が覚める、とか、そういう類の全くもって想定していない新鮮な驚きと戸惑い。
そういえば、この間の(ホラーと知らずに借りた)ホラー映画もそうだった。
(そして、そう気がついた時に、観るのを中断する事も出来ないのが不思議だ。据え膳食わぬは男の恥、とでも考えているのだろうか。)


タイトルが覚えられそうで覚えられない映画「ブルーマウンテンバック」でも「マウンテンブルーバック」でも「ブルーバックマウンテン」でもなく、「ブロークバック・マウンテン」が、その不意打ち辻斬りおぬし何者映画となった。

ストーリーはググればあちゃこちゃにでていると思うので割愛。

なにしろ、この映画、冒頭から素晴らしい景色の連続だ。
そしてその景色に一体化したカウボーイと羊たちの群れ、もう、「山最高」「カウボーイ最高」「アウトドアライフ最高!」「自然最高!」的な感動を覚えながらストーリーは進んでいくのだ。

この手の冒頭で素晴らしい自然を見せつけられるのは、グラン・ブルー以来かもしれない。なにしろ、景色に大感動するのだ。

だが、グラン・ブルーのように、事は進まない。
いずれ会議は終わるか、誰かの甲高い発言で睡眠を中断させられるか、会議中の睡眠自体を中断させられるか、中段だけに留まらず責められるか、不幸にも、そんな風に世の中も映画も出来ている。

壮大な景色の中で出会う二人のカウボーイ。
少しづつお互いを理解し合い、男の友情が育まれていく時間。
うーん、いいじゃないのー、包みこむ広大な自然がまたいいじゃないのー。


そして、だ。
こともあろうか、その二人が、夜のテントで股間のテントを、あー、なんでそうなるの、コント55号でもそうはならない、いやいや勝手にこの映画はここで流れてるけど知ってて借りたわけではないんです、っていうかとにかく参ってます、いや映像的には美しいんですよ、いや自然が美しい、いやうろたえてるというか、はぁ、参った。

世はダイバーシティとか言われる世の中。
僕自身は、世間一般平均かそれ以上に多様性に対して柔軟な人間だと思っていた。
しかし、会議中の居眠りを中断させられた時の「眠りを妨げられたショック」「居眠りを隠し切れなかったショック」と同様に、そのストーリー展開のショックだけでなく、「案外、僕は多様性の許容度に乏しい人間なのかもしれない」というショックなんかも加わって、とにかく参ったのでした。

自分のダイバーシティ許容度を試せる映画かもしれません。(先入観なく見始められれば)

というわけで、内容の善し悪しは(ショックが大きすぎて)いまだ判断できず。の映画です。

木曜日, 12月 16, 2010

映画 オーケストラ



映画には、定番・鉄板のストーリーにも関わらず、「感動する映画」「感動しない映画」、あるいは「もう一度観たい映画」「二度と観ない映画」「観なきゃよかった映画」が存在する。
要するに「好き」「嫌い」に別れる。

そして、この「好き」「嫌い」の傾向は、結構、その人そのものの傾向も表しているようだ。
最近気がついたのは、タランティーノ派と反タランティーノ派。タランティーノ派ではないのでタランティーノ派が何を良しとしてタランティーノ派的映画を観ているのかわからないが、なにしろ、タランティーノの映画は観る機会がないのが反タランティーノ派だ。
何度も言うが、観たことがないのでタランティーノさんの映画をどうこう評することができないのだけど、結果的に、観てない、もしくは観ても記憶に留まっていないのだから仕方がない。

この事実を指摘したのは、私ではなく、まだ記憶力の衰えていない若者だったが、僕はとても納得した。ちなみに彼も反タランティーノ派で、彼なりのタランティーノ派がどういうものであるか理論も数十分にわたって展開してくれたのだが、残念ながら私の衰えた記憶に残ったのは、タランティーノの映画は素人にはつまんない、だった。
とにかく、あれほどレンタルDVD屋さんでアピールしてくるブルースリー風レオタードに身を包んだ女性の流し目にも、なぜかそそられないのだ。


そんな派閥の一つになるかもしれない「オーケストラ派」。

この映画、例によってストーリーはググッてもらうとして、とにかく、良い。
今年一番涙を流した映画だ。だからと言って、悲しい話ではないし、むしろ、面白おかしく楽しい元気がでる映画だ。ベスト1というわけでもない。
ストーリーが凝っているわけでも、何か特殊な映像効果があるわけでも、すばらしい風景があるわけでもない。

だけど間違いなく名画だ。

題名もストレートだ。
オーケストラが主人公だと容易に想像がつく。
オーケストラという題名で、未開のジャングルに戦士が迷い込み伝説のタイガーと戦う、「おー消すトラ」ではない。

クラシック音楽はちょっと、、、という、クラシック音楽苦手派の方でも大丈夫だ。なぜなら、私がこの映画をDVDで観た後、たまたま映画館でやっていて観に行ったんだけど、一緒に観た連れは、途中、クラシック音楽界に蔓延する眠り病にかかりながらも、最後は感動して涙と鼻水を大量に流していた。


そして、オーケストラ派の多くが属するのが、ヨーロッパ(主にフランス)映画派になる。
無意味にやたら心拍数を上げようとする映像・音響的効果ではなく、あくまで伝えたいのは「気持ち・心」の派閥になる。
やたら長いタイトル「星空に向かって狼は悲しみのメロディーを啼く」みたいな映画ですら、派手なアクションシーンの中でしっかりと心が描かれている。

多分、製作現場では、「心を描く」事が最優先された中で、いろんなアイデアが取捨選択され、映画作品として、とても豊かな作品に仕上がるのだろう。

そういえば、この映画を見たから、そこから一気に、「クラシック音楽関連映画」を借りては見るようになったのだ。
気が付かなかったのだけど、こういう風に、次に見る作品をも左右する作品は、どんだけ凄いか、ということだ。

マーケティング費用と広告費用で膨大な制作費の半分以上を使ってしまう映画会社がアホに見える。し、多分、アホなのだろう。


尊敬するリチャードストールマンは、「もしハリウッドの映画を見ようと思ったら、事前に内容を吟味して、駄作でないとわかってから行くようにしたほうがいいよ」と言っている。全くその通りだ。


何が凄いか、は、僕の力ではどうにも言葉にできないけど、ヨーロッパ映画派、notアバター派、notホラー映画派であれば感動間違いなし。
観ていないのでわからないが、"のだめ派"は駄目かもね~←超先入観

進化例

退化例

水曜日, 12月 15, 2010

NMP-1000P来ました

新旧とも見かけは全く同じ、リモコンも全く同じだから二台一緒に操作可能!?
USBのDVDドライブ認識されます。
で、新チップのおかげで、動きは全般にスムーズになりました。ネット関連も動きは○。なによりネット関連サービス(ニュース系)がだいぶ増えました。
UPnPはうちの東芝RD-E301を認識しフォルダも表示されたけど、再生は出来なかった。要調査。


まだ安定してない部分もありますが、ま、そのうちファーム更新でなんとかなるかな。
で、早速、ファーム更新。と調べたら最新1.1.1Build1012でした。

手持ちのBD(MKV)ソースは○、ISOは×。


という感じ。

ティーバッグの紅茶の作り方



オノ・ヨーコが亡きジョン・レノンとの思い出でジョンが「ティーバッグを入れてからお湯を注ぐと思っていた」という話を語ったことがニュースになっていた。
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120901000308.html



ほー。僕もずっとそうだと思っていたが、正しくはお湯を注いでから、そのお湯にトポッとティーバッグを落とすのが正しいのだそうだ。

インスタントコーヒーやカップスープ、チキンラーメンだってなんだって先に具や粉を入れ、だから、レアな後乗せ系のモノは、「後乗せだよー」をやたら強調しているわけで、だったら、ティーバッグにも「後入れマーク」を書いていて欲しいものだ。

で、書いておきたいのは「後入れマーク」の話でも「あ、トイレ!まぁ君」の話でもない。こんな話題がニュースになったこと、そのものの話。


今年はジョン・レノン没後30年なのだそうだ。

最近では、昨日のことも直ぐに忘れるというのに、30年前の、あの日の事はよく覚えている。

盛岡ではチラホラ雪が舞っていた。
朝7:00のNHKニュースで知った。
ジョン・レノンの訃報のニュースなのに、何故か映像はLetItBeを唄うポールの姿だった。

あの頃、所謂、スターのおふざけジョークの一つとして、「嘘の訃報を流す」事は"あり得る"事だった。オールナイトニッポンなんて、何度、その手の訃報を流すジョークをやったことか。

僕はその朝、ちょっとマヌケなNHKのニュースを見て、嘘だと思っていた。
スターの気まぐれに付き合わされる国営放送のアナウンサーを気の毒にすら思った。

ちょうど、ジョンの何年か振りのニューアルバムがリリースされたばかりだった。
お葬式の合図にも思えなくもないトライアングル?で始まる曲「Starting Over」がリリースされた後でもあり、ラジオや街のレコード店で耳にすることも多かった。まさしくプロモーションのように思えたのだ。

学校でも、友人とそんな話をして、夜に帰宅して続報を目にしてようやく死んだのだと納得した。

知ってる人でもなければ、1枚か2枚レコードを持ってるぐらいでBeatlesが一番というわけでもない、多分、単なる洋楽(しかもハードロック)好きな高校生でしか無かった僕だったのだけど、まるで、仲良くしてもらっていた親戚の叔父さんが亡くなったような気分になった。

10代のあの頃、人の死を、今以上に理解できていなかったけど、少なくとも、もう、悪いジョークも新曲も生まれないのだけは、とても個人的な損失に感じられたのでした。

その後、お小遣いを叩いてアルバムを手に入れ、イントロの鐘の音を何度も聞くことになったわけだけど、同じアルバムに収録されていたオノ・ヨーコの曲「キス・キス・キス」の悩ましい声「抱いてぇ」にしばらく別の意味で悩まされたのでした。

アンティキティラ島の機械



沈没船から発見された「世界最古の計算機」と言われる計算機がある。
アンティキティラ島の機械だ。

紀元前!に作られた膨大な歯車の複雑な組み合わせ。暦や天体の動きを表すものらしい。

この機械がどう使われてたのか、その凄さが科学的・数学的・天文学的にどうなのか、そんな事は僕にはわからない。
が、とにかく、2000年以上前の、まだ天動説が信じられていた世界で作られた精密な歯車、その歯車達に惹かれる。


発見された機械そのものは、当然、動くわけもなく、そこからレプリカが作られてきたのだけど、やはりそのレプリカがまた美しい。

そして、Legoで作られたAntikythera Mechanismがこれ。




プロジェクトのイメージは、こんな感じ。「自由な歯車」
人それぞれはユニークな歯車。で、全体がうまく動くのは美しい。

火曜日, 12月 14, 2010

小倉弁 ○○してる→○○しとう


ここ小倉では、○○してる、を、○○しとう、と言う。
ブログを書いてる→ブログを書いとう
食べてる→食べとう
買ってる→買っとう
ムフフしてる→ムフフしとう
とっくに行って取ってると言ってる→とっくに行って取っとうと言っとう
みたいな感じだ。

住み始めた当初、"てる"、を、"とう"、と言っているのかと思ったがこれは間違い。
この文法を適用してしまうと、
テルテル坊主→とうとう坊主
西郷輝彦→西郷逃避行
秋の夕日に照る山紅葉→秋の夕日に遠山揉み爺
ヤッテル、ヤッテルゥ!→やっとう、やっとう!(あ、これはアリだ)

逆に、知らないうちに標準語だと思われとう、小倉弁もある。
自民党は、元々、自民テルだったのに、今では、自民党になった。
砂糖も、元々、サテルだったのに、今では砂糖。
菊池も元々佐藤だったのに、今では菊池。
そんな感じだ。

長崎が近いこともあって、外国語にも多大な影響を与えた。
もともとは、Tell me please.と言っていたのに、今では、Talk me please.
トウシューズは、テルシューズだったし、
テレサ・テンさんは、元々は交差点だった

♪わかっとー、わかっとらんとー♪
♪ヘィヘーィ、ヘーィ♪
ショカクヤチトセさんのブルースが聞こえてきそうだ。

そんなだから、今、ここに住んでいて言葉に不自由することはない。
ちゃんと地元の言葉を使わないと、もっともっと書いとうとう。
※たまに、会議とかで地元の言葉に出会うと、「方言使っとう」とあたたかい気持ちになれます。

※※速報「NMP-1000P アマゾンでも取り扱い開始」

金曜日, 12月 10, 2010

カラカレカラ

カラスガレイノカラアゲ

辛いカレーソースとかかけたい。

木曜日, 12月 09, 2010

ゴールデンスランバー観ました


何枚か借りた中に紛れ込んでいた邦画の一枚。
「洋画」のフォルダーに入れてたから、再生してみて、「やたら邦画のCMが多いなぁ」と思ってたら、本編が邦画。
あぁ、確かに借りた気がする。と、大した期待無しに見始めた。

南極料理人だったかな、も、良かった、堺雅人主演の作品。
うーん、彼は好印象。南極料理人も良かった。

例によってあらすじ等は、Wikipediaなどで確認してもらうとして、
なにしろ娯楽として楽しかった。
映画は、こう楽しめ!みたいな映画。

まず、主人公が「普通の男」で、感情移入しやすいのが良い。
首相暗殺犯に仕立てられる、なんて言うと、サスペンスっぽいけど、サスペンス要素もある青春回顧映画かも。

そして、タイトルになっているBeatlesの"Golden Slumber"が、その、普通の人達と大げさな事件の狭間のやるせなさみたいな空気にぴったり合っていた。

映画の中の回想シーンで、大学生の主人公達がGolden Slumberを聞きながらPaul McCartneyのその時の心中を語り合うシーンが合った。
確かに、僕も、10代でBeatlesのLet It Beに出会ったとき、ライナーノーツを読みながら、バラバラになったメンバーがどんな気持ちでこのアルバムを作ったのか思いを馳せたことがあった。
うまく説明できないが、片や既に解散した世界のスーパースター達に対し、何か、他人事には思えない、10代のあの感覚。
あの頃は、やっぱり、純粋だったのかな。

そんな感覚や、「こんな話があったら面白いでしょ」的な、やや無責任なストーリー展開や、観ているうちにそんなほろ苦かった時代の感覚を次々に思い出せる映画でした。

そして、エンディングの斎藤和義の曲も良かった。
っていうか、斎藤和義、知らなかったし。
まだまだまだまだ、たくさん知らない素敵な音楽があるんだと思った。

娯楽映画だから、また観よう、っていうのとは違うけど、心に残って、なんかたくさんの久しぶりの感覚を味わえる、やっぱり素敵な映画だったな。
意外に、一人で深夜に観るのがお勧めかも。

ランチはナンだ

一昨日?だったかにテレビで「ホタテの出汁が効いたモツ鍋で億万長者になったモツ鍋オタクのオジサン」を見た。
ホタテスープとモツ鍋はそんなに旨いのか!

で、夕べ、アルミの容器に入った一人用モツ鍋とチャルメラ一袋を買った。
モツ鍋にチャルメラスープ(と相応の水)を入れ、締めはチャルメラの麺、を試した。
しかも、全行程を撮影して、最高のモツ鍋が超簡単に出来る事実を世界に発信しようとまで考えていた。
理由はわからないが、一大発見確実、と信じていたし、あわよくば何かしら○○長者
になっちゃったりして〜と、仄かな期待さえしていた。

・・・
しょっぱかった。モツの風味は無かった。その上、チャルメラでもなかった。
ただただ、脂っこいしょっぱいキャベツとニラとモツとスープだった。
締めは、義務と責任と化した、しょっぱい麺だった。

億万長者はむろん、世界に発信も不要だった。

気を取り直して、とりあえず、しょっぱくないランチ!

水曜日, 12月 08, 2010

テレビ型携帯電話なら許す



とりあえず、良いことも悪いことも最初に体現するアメリカで、いよいよ「煩いCMの音量を下げる法律」が施行されるのだそうだ。
音量を下げると言っても、音量を普通の番組と同じレベルにする、ということ。
仕方がない、と諦めていた、あの、CMになると音量が上がる現象、というか、放送局がスポンサーに阿って(おもねって)、CMになるとボリュームを大きくしていていた。

この「CMに限ってボリュームを大きくする戦略」で、以前の私の家庭では、一悶着あったのだ。
ニュース番組とか、まぁ、普通にテレビを見ているときは平穏無事なのだが、CMになった途端、音に神経質な家族から、「テレビの音下げてよ」とクレーム。
そう、見るテレビ番組の趣味が全くもって合わない場合、チャンネル戦争を回避したとしても、その後、"CMの度にボリュームを下げる下げない戦争"が勃発するのだ。
ということはだ、テレビ局よ、もう、かれこれ10数年、そんな姑息な手段で、スポンサーの機嫌を取っていたわけだ。


普通に考えれば「当たり前」の状態にするだけの話だ。
この、「当たり前」の状態にするために、何十年もかかり、法律まで必要だったと考えると、本当に人間は賢いのか疑問になる。
よくよくよく考えると、そもそも、CMの時間と番組の時間では、消費するエネルギーが違うはずだ。
エコなスポンサーは、今後、暗く静かなテレビCMを流すべきなのかもしれない。。。なんてなぁ。


なにはともあれ、良いことだ。大歓迎だ。
なんだったら、聞き耳をたてなければ聞こえないぐらい音を小さくして、映像も「ぼーんやり」すると、むしろCMの効果はあがるかもしれない。
「ン?、何のCMだ?、、、聞こえないし見えないし、、、もっと見せてくれ~。。。。」
なわけないか。

そういうスポンサー至上主義、視聴者シランプリ業界だからだろうか。最近のテレビCMにもう一つイラっとすることがある。それは電子音だ。

携帯電話の着信音、バイブ音、そんな感じの音が、地デジ対応した新しいテレビのスピーカーからリアルに鳴り響く。
電子音は方向感が曖昧になるため、必ずしもテレビから鳴ったのかどうか確信しにくいのが、CMを流す側のミソなのだ。

しかも最近は、普通にCMのバックで流れるBGMや効果音に仕込まれている。
その上、いい気になったのかどうかは知らないが、バラエティ番組でもこの電子音をガンガン使い始めているように感じる。

なんとかならないものか。
そもそも携帯電話ですら、一日中ほとんどマナーモードで使っているのに、何で、CMの携帯電話もどき電子音に「ハッ」としなきゃならないのか。本当に迷惑だ。

ググってみると、そんな人は僕だけでないとわかる。
○ドバシカメラ、トイザ○ス、ビック○メラ、○ーリツ、とかが取り沙汰されているようです。

こーゆーのが、アメリカのように法律でないと規制できない、というか、規制しないとヤメラレナイ。
CMの音量や電子音で、そのCMの会社の人だって、当然、「煩い」「耳障り」と感じている人だっているはずなのに、自らはヤメラレナイ。
そして、普通の番組にまで取り入れはじめているTV放送業界。


言ってみれば、こーゆーのは、駅前や繁華街の強引な客引きと基本的な考え方は同じだ。
大声で興味を引かせる。気になる掛け声「ほら、そこの奥さん」とかと同じ。


繁華街の客引きに声をかけられても、「見えません、聞こえません」に徹して通り過ぎるように、この手の輩とのトラブルを避けるには、テレビを見ない。あるいは、録画しておいてCMを見ない。それが一番。
・・・あれ、自己解決しました。

NMP-100P 12/10国内発売へ

というニュース。よしよし。
「H.264圧縮の高精細なビデオファイルや、BD ISOの再生にも対応した。発売日は12月10日。店頭予想価格は35,800円」

価格comにも
「再生可能なファイル形式は、動画がAVI、MPEG/MPG、VCD (ISO、MPG、NRG)、DVD(VOB、IFO、ISO、NRG)、WMV、ASF、TP、TS、TRP、M1V、M2V、M4V、M2P、 M2T、 M2TS、BDMV/BD ISO、MTS、MOV、MP4、RMP4、MKV、MOD、3GP、。画像がJPEG/JPG、BMP、PNG、GIF。音楽がFLAC、APE、 WAV、WMA、AAC、PCM、AC3、MP3、Ogg、M4Aとなる。」
うーん、楽しみ。

amazonはまだ古い。→取り扱い開始した模様

火曜日, 12月 07, 2010

レーザープロジェクター(円錐と四角錐)

レーザープロジェクター、をニュースで見かけた。
LEDではなく、レーザー。

何が違うかというと、「無限焦点」ということで、プロジェクターにつきものの、「ピントを合わせる」必要がないということだ。

だから、どんな場所(凹凸があろうが)に投影しても、ピントが狂うことはない。
斜めの壁やドーム型の壁とかにも、とりあえず、綺麗に映る。
それだけでなく、プロジェクターを持ったまま動いていて壁に投射しても(投影された画像の大きさは変化するけど)ピントがずれることはない。のだそうだ。
こんな感じだ。


今回商品化されたのは、小型であくまでモバイルユースを前提にしたもの。
でも画面を見る限り、明るさが15ルーメンと心もとないわりに、ま、いい感じだ。
一般に超小型プロジェクターは、ケーブルを引っ掛けたりするとすぐ動いてしまうらしい。
そのたびにピントがずれたりするようだけど、そういう事は無くなるわけだ。


レーザーでの映像投影イメージは、きっと、円錐形の金太郎飴みたいな感じなのだろう。どこで切ってもピントのあった同じ絵が出てくる。

レーザープロジェクターでググルと更に次世代の技術がヒットする。
3D投影技術だ。これは、デモを見てる限り凄い。
最初に公開されたスターウォーズのシーン、レイア姫のメッセージを再生するシーンを彷彿させる出来だ。
こんな感じだ。


ひっくり返したピラミッドの中に浮かぶ3D映像。
これを部屋の何処に置けばいいのか、今のテレビやスクリーンのように壁におっつけてしまうのはなんかもったいない。
じゃあ、リビングのど真ん中にドーンと置いても、一日中見てるわけじゃないし。。。

とりあえず、↑の映像にあったように、広い空港ロビーにでも置いといてもらいましょう。

月曜日, 12月 06, 2010

コロコロ スーツケース コロコロ



もう流行りだして大分経つけど、コロコロ式スーツケース(空港なんかでよく見かける引きずって歩くやつ)を持つ、いや、コロコロ引きずる人が本当に多くなった。

かなり小さめのコロコロバッグも最近ではよく見かける。
あれ、自分の前を歩いている人がコロコロしていると邪魔に感じるんだよなぁ。

どう見ても、サイズ的にも、多分、重さ的にも、無理やりコロコロしているようにすら見える。
そういう人に限って、入りきらない荷物用に手提げのバッグ(下手するとこちらのバッグの方が大きかったりする)をコロコロバッグに載っけて二階建てコロコロしている場合も多い。


大きければ「大変ですねぇ」という気持ちになれるし適当に離れて歩くんだけど、あまり小さいと、「足元邪魔だから手に持って歩いてくれ~」となる。前を歩いていた極少二段重ねコロコロバックが急停車なんかすると、急に足元にネズミかなんかが飛び出してきたような状況になる。
そもそも、小さめのコロコロバックほど、柄の部分が長く出来ていて、後ろを歩く人に対して荷物を引きずっている感が伝わりにくいのかもしれない。

大荷物を引きずったり担いだりしていない限り、人の後ろを歩くときは前の人の背中を見て距離感を無意識に把握しているんだろうなぁ。
こんな事を無意識にできる僕ってチョット凄いかも。

あの小さいコロコロに、金塊でも詰まっていれば理解できるんだけど、小さい上に中身も軽いようにしか見えないのだから困る。
(きっと、キャスターがよく出来ていて軽快にコロコロしているようにみえるだけで、金塊か鉛の塊を運ぶためにコロコロしていると信じたい)


とかいう僕は、そこそこ大きいコロコロバッグを持っているけど、長年の耐久テスト張りの使用に耐えかねたのか、コロコロのタイヤゴムが剥がれてしまった。
メーカーに修理を頼んだら「部品がないから新製品に交換」となった。

愛着があっただけに残念だった。

それ以上に、そのアウトドアメーカーが「販売したものは何年経っても修繕に応じる」なーんていう事を売りにしていただけに、まぁ、それは衣料品系に限ってなんだろうな、とは思ったけど、ちょっとガッカリした。

その上、修理をお願いした愛着があったバッグは新製品と交換だということで丁重にお詫びを頂いたものの戻ってこなかったし。(修理のためにメーカー本国アメリカに送られたということだ。この結論まで二ヶ月ほどかかった。)

そんなこんなで、新製品に交換してもらってから、とんと使わなくなった。無理して大荷物を持ち歩かなくなったのだ。

以前は、どれだけ無理していたかというと、旅も三泊を超えるあたりから「どうせ着替えが増える」という理由で、仕事用とは別の普段使いのパソコンや、各種充電器、オフに履き替える靴、読みかけのハードカバー、なんかが増えて、ともすると、コロコロバッグにすら収まらない量の荷物を抱え大移動していたのだ。

これだけ抱えて大移動したところで、旅先で使うものはたかが知れていて、結局は荷物のうち確実に使用するのは着替え、ぐらいなもので、後は、「あれば安心」だったり、もしかすると「こんな時のために買った商品を使わないのはもったいない」なんていう、買ったものは神様です、の結果の大移動だった気もする。

冗談みたいな、充電器は持ってきたけど、肝心なカメラは忘れた、みたいな事もあったり、そもそも、僕にはそんな几帳面なことは満足に出来ない、と改めて認識した。
自慢ではないが、前日食べたお弁当の空箱を翌日、下手すると翌々日とかに今夜はお弁当を作ろかな、なんて時にバッグの中に入れっぱなしだった時もよくあるのだ。

なんであれ、新コロコロバッグになってからは一回ぐらいしか使ってなくて、要するに、コロコロバッグ自体が「こんな時のために買った商品を使わないのはもったいない」対象だったと気がついた。




極少二階建てコロコロしてる人を見かけた時、「そんなちっちゃいバッグは手に持て~」とツッコむのではなく、「コロコロしたかったんだねぇ」と車間距離ならぬ人間距離(ジンカンキョリ)をちょっとおいて、優しい目で見てあげたい。
そのうち、新しいバッグを手に入れたらコロコロ欲は治まるから。

土曜日, 12月 04, 2010

ようやく、

家の前にそびえる銀杏の大木が色付きました。

水曜日, 12月 01, 2010

車内アナウンス


どうにもこうにも、日が短くなって、帰る時間なんてベルピュンでも真っ暗。
残業してなくても真っ暗だ。

サマータイムを検討するなら、ウィンタータイムだってあっていいはずだ。冬は、勤務時間を6時間に短縮すれば・・・・いや、だからってサマータイムの勤務時間が12時間になるのは勘弁。
なかなか思うようにならないことばかりだ。

という事で、他にもちょっとしたトラウマになりそうな事もあり、ここのところ、自転車ではなくモノレール通勤になっている。

会社最寄りのモノレール駅から会社までは10分ほど歩く。
途中に三つぐらい市内バスの停留所がある。
この間みたいに、一個手前の駅なんかで間違って降りたりすると、バス停は10個近くあるかもしれない。

そもそも小倉、というか九州は日本でもずいぶんバス路線が発達している土地なのだそうだ。確かに、小倉でも随分バスをよく見かける。
市内バスはもちろん、高速バスのたぐいもとっても多い。
そして、これまた乗車率もなかなかのように見える。

話を戻して、会社まで歩く途中のバス停での話。
そんな風にバスが多いから、バス停にもバス二台がかち合って止まったりもする。バス停のバス停車スペースが長いのだ。
同じ小倉駅行きが二台並んで止まったりすると、僕なら、どっちに乗るべきか混乱するのだけど、ここら辺の人たちはみんな普通に乗っている。

そもそも、バスが二台同時に来た場合、混んでいる前のバスをパスして後ろのバスは乗せてくれるのだろうか。バスをパスするのは、日本語的にも問題がありそうだし、バスをパスすると、後ろのバスは僕をパスしそうで怖い。

先日の朝も、そんな感じだった。
モノレールを降りてテクテク歩いていると、バス停にバスがちょうど二台止まった。

先頭のバスから車内アナウンスが聞こえる。
酔っ払ってるような、もはや、解読不可能な「らうぅらうららぁうららぅらぁ」みたいなアナウンス。頭の中で何度巻き戻して再生しても理解不能、と、思っていると、後ろのバスからも車内アナウンスが。こちらはずいぶん快活な声で、「おはようございまぁす。小倉駅行きでございまぁっす」。

同じバス会社なのに全く違う雰囲気のアナウンス。
電車なんかだったら、まぁ、だいたい、その路線の雰囲気というか、アナウンススタイルが確立されているのだけど、どうも、まだスタイルの確立までに至っていないようだ。

スタイルの確立までどれぐらいかかるのだろう。
あの酔っ払いスタイルも捨てがたいものだ。

どうせなら、方言を活かした、地域性豊かなアナウンスがいいんだけどな。
随分前に、大阪の電車会社が「車内アナウンスでの関西弁禁止」というニュースを見たことがある。そーゆーの、つまんないよなぁ。

会社脇の

桜並木。