木曜日, 3月 31, 2011

電力危機



要するに、
・使用料全体の7割ほどを占める一般家庭昼の使用電力を抑えたい
 産業(工業系)は何がなんでも残さなきゃならない。復興にも産業は必要。
・原発問題は長期化、揉めてる間は総電力生産量は簡単には戻らない
・被災地域に人が戻れるように、戻っていかなければならない
・これを機に変革、みたいな、次のライフスタイルは描けていないしまとまった意見もない
・物理的な工事を伴う系のソリューションは復興優先を考えると非現実的
ということだと思う。

そうすると、手続き系金銭系で誘導して危機を乗り越えるのが現実的だ。

で、
・東北地方(福島県)の大規模事業者電力の無料化(時限措置)
・家庭用電力については、新契約時に契約金(東電管轄は10万円とか、被災者免除条項あり)を取る
・電気利用を断念する契約解除世帯には電力危機協力金を支払う(5万円とか、毎月5千円とか)
・アンペアダウン奨励金
・高層マンション課税
・電気機器→ガス機器買い替え奨励金
・夜間電力無料化、昼間電力料金倍(家庭用/一般事業者用区別無し、電車とかは別ね。)
・どっかのテレビ局企画、電気無しサバイバル生活トライアル懸賞金1千万円
 (都会で電気無しでも快適な生活のコンテスト。生活の知恵と実践を評価)
辺りを総花的に展開すれば、もしかすると、日本式21世紀型ライフスタイルも確立されていくかも。
携帯なんかは先進的なものをガンガン使うんだけど、生活そのものは本当のエコスタイルで、個人で独占的に使う電気は無し、みたいな。

人間個人の脚力で住めない高さや、通えない仕事、、、、そして、コントロール不可能な原子力の利用、物理的制約をチカラワザで乗り越える、なんか、知恵の無い時代の終わりが始まったのかもしれない。
情報ネットワークがここまで普及したら、そういう物理的な要素から解放されていくべき。

いろんな仕事を海外に委託してるけど、だったら、日本に住む人を通勤不要で雇用したっていいわけで、それでなくても島国なんだから、適度な人口密度で暮らすことを考えたほうがいいし、適度な電力依存度、っていうのもあるのだろう。

一人当たりの電力使用量を小さくしていけば、代替電力(自然エネルギー系)の価値も上がるだろうし。

僕の尊敬する人で、マンション住まいなのに夏に冷房無しで暮らしている人がいる。
そりゃあ、暑いんだろうけど、話を聞くと、よほど夏を満喫しているし、涼しく過ごすための小さな工夫を楽しんでいる。
家族でそうしている。
チカラワザライフとは違って、とてもスマートな生き方だと思う。

だから、新しいスマートなライフスタイルを(選択の余地もないわけだし)東京で創出すれば良いのだ。
ペタペタ系のモバイルツールとか、ノートパソコンとか、そういうものの電気は(自宅以外の何処かで充電して)使いながらも、自宅に帰ると無電生活。あるいは極小規模な自家発電とか。

と、そんな事を考えている今も、こうして、原始的な方法(電力会社依存)で電気を使っているわけだが。

火曜日, 3月 29, 2011

お土産

うーん、こんな駄洒落なのに、ほんのちょっと胸騒ぎ。
まったく男というものは。

日曜日, 3月 27, 2011

バーサタイリスト。少しわかった気がする。



僕はテスト嫌いだ。
テストまでの間に、たくさんの知識を詰め込む作業が苦手なのだ。
毎日毎日、コツコツと積み重ねていく努力が苦手なのだ。

小学校の頃、毎日漢字の書き取りをする宿題が出たことがあった。
毎日1ページか2ページか、とにかく決められた分量の漢字の書き取りをする、そんな宿題。

この手合いが一番嫌いだった。
そんな宿題を考えつく先生にも、そんな宿題用としか思えない書き取りノートにも、そして、理不尽な環境に救いの手を差し伸べない両親にも、悪意を感じた。

その時は、締切間際に、書き取り用ノート日数分のページの各マスに、一・二・三・四・・・八十一・・・二百十三・・みたいな感じで、漢数字でページを埋めていくことを思いついた。

見方によっては大胆なヤツ、と思われるかもしれないが、実際は、この方法はきっと誰かに怒られる、とビクビクしていた。

だから、とりかかる前に親に相談した。

親は、「好きにすればいい」と言ったので、それを良いことに実行に写したのだ。
決して、大胆でも豪快でもない。ビクビクしながらもサボりたかっただけだ。

書き始めた。
書き始めて気がついた。
これは、後半に行けば行くほど、一つの数字で三マスも四マスも埋められる。
効率が良いじゃないか、これなら、宿題を終えないと見られないテレビはすぐに見れるじゃん、などと思ったものだ。
↑本当にアホだった。


あるいは、高校の合唱部の体験入部の時もそうだ。
女子もたくさんいて華やかで、明らかに天文部なんかとは違う香りのする合唱部のイメージとは裏腹に、彼らは毎日、運動部並みの腹筋とか腕立て伏せをしていた。
これが嫌で入部を断念した。

音楽は好きだったけど、女の子も好きだったけど、毎日のあの努力が自分には耐えられないと思った。
信念を通すために、孤高の人となっていった。

漢字書き取りを忌避してた頃とは違い、このころは、僕には無理、って素直に思えた。
でも、入部確定モードで先輩に散々奢ってもらったりしていたので、「音楽性が合わない」などという、お前はプロミュージシャンかっ、という理由で入部を辞退した。

そんなわけなので、一貫して脳も筋肉も非アスリートな生き方で今日まで生きてきてしまっている。。。



話を戻す。

知識って、携帯でググれるようになった今、それほど重要じゃなくなっている。
正確には、「字面で表せる程度の表面的な知識」はそれほど重要ではなくなっている。
ググることさえできれば、誰でも百科事典好きの小学生ぐらいにはなれるのだ。

大学入試など様々な試験だって、ググらせて貰えれば、知識を問う問題にかなり対応できる。
最近の大学ではレポートもそんな感じなので、知識ではなく知恵を問う課題に変わってきていると聞いた。
入試なども知識を問う問題ではなく、「知恵」を問う問題に変わっていくだろう。


では、知恵とは何か。知識は要らないのか?
知恵は、持ちうる様々なジャンルの知識、と、様々な経験、そして想像力、それらから結び付けられる「新たな知」なのじゃないか。

料理好きで化学好きな人が、調味料を加える順番を一般常識と変えてみたらおいしい料理が出来た、とか、そんな感じ。
いや、料理好きで化学好きな人が、今問題になっている原発の燃料棒冷却に対して、化学の知識と料理の経験と普段は妄想にしか使ってなかった想像力を活かして新しい冷却方法を考えつく、そんな感じ。

当然、一見関連しない知識と経験を、未経験の分野に結び付けられる「柔軟な考え方」、も必要だ。


お、ようやく本題。これって、バーサタイリストのことではないか!
バーサタイリストなんて言葉があろうが無かろうが、既に、世の中はそっちの方向に進んでいるのだ。
(だから、そんなモヤモヤした新しい事柄を表す言葉としてバーサタイリストがあるのだろうが。。。)


この震災でも様々な「専門家」がメディアに登場したが、これだけ注目される災害だと、彼らの一言一言はリアルタイムにネット上で"知識レベルで"検証されていく。
すぐさま、発言が正しいかどうか議論され、信頼できるソースにたどり着くと収束する、を超高速で繰り返していた。
2チャンネルでは1000で終了するスレッドが100以上続いていたから、便所の落書きとはいえ、既に10万件以上のコメント/レスがあったのだ。

そんな中で一定の評価を得る専門家と、どんどん信頼を失墜していく専門家とが明白になる様子が興味深かった。



もはや、どんなに知識量が多くても、それを誠実にきちんと伝えられなければ価値がないのかもしれない。
ネットでの知の共有により、「似非(エセ)専門家」や「肩書きだけの人」には厳しい時代になるのかもしれない。

そういう視点から「バーサタイリスト」を見直すと、とても納得感が得られる。
知識が不要と言っているわけではない、経験だけが重要と言っているわけではない。
ましてや、妄想力が全てなんてわけじゃない。

価値のある知、知恵を創造しようとする人間像がバーサタイリストなのだ。


バーサタイリスト=「知恵」(地頭力)=「それなりの知識」+「それなりの経験」+「結合・発展させる力」

月曜日, 3月 21, 2011

残せるもの

結局、企業とかそういうことに限らず、人が、親が、社会が、後世に残せるものは、「文化」なのだと思った。

話は変わるが、仙台で被災し避難していた友人が自宅に戻ったが、ガスは無いそうだ。
盛岡の実家は、電気は通ったものの相変わらず燃料(灯油)が無いそうだ。
まだまだ普段の生活とはいえないが、電話口の声はとても元気だった。

寒いだろうに、でも元気な盛岡の母の声に、
避難生活で疲れていただろうに、でも元気で「やっと家に帰れる。家族でこれから家で焼き鳥パーティ」との仙台の友人の声に、
妙な罪悪感に落ち込んでいる場合じゃないんだと思った。

一日も早く原発の危機が去りますように。

金曜日, 3月 18, 2011

「したいこと」「すべきこと」「してること」


↑は、Zappos Culture Bookの紹介。
詳しくはhttp://ashcan-s.com/?p=100


さて、Zapposを読んでの気づき。

人も組織も、結局、「今していること」が「すべきこと」あるいは「したいこと」だと思い込みやすい。
物事を白紙で考え直す、というのは困難なのだ。

「したいこと」を主張する若者に対し、「したいこと」と「すべきこと」は違うだろ、子供みたいなこと言ってるんじゃない、とかしたり顔で説教する退職カウントダウンの管理職。
たとえ「したいこと」が我侭だとしても、その深層にこそイノベーションのヒントが隠れているというのに。

そうやって、我侭や文句も、時間の経過と共に諦め、慣れ、惰性となり、いつの日か「今していること」が「したいこと」になってしまう。
あの時若者だった人が、今は、若者の我侭に説教する管理職や煩い先輩になるわけだ。

「したいこと」を実現して「今していること」になったわけではない。
「したいこと」を忘れ、惰性のまま「今していること」が「したいこと」だったと思い込んでしまうのだ。

よく言われる選択と集中は、「したいこと」の追求の先にあるのではないか?
「したいこと」を追求すると「シタクナイコト」も明らかになる。
「したいこと」を追求すると「デキテイナイコト」も明らかになる。
「したいこと」を追求すると「ドウシタラデキルカ」を考えるようになる。

Zapposは、「したいこと」の一つに「変化」を加えている。正確には「感動のサービスを実現するためには柔軟でなければならない」ということ。サービスはルーチンワーク化した時点で、ジワジワと満足度を下げていくのだ。

そんなわけで、彼らなりに徹底的に「変化を妨げるもの」について具体的な行動をとっている。

その中で特徴的なものが、入社の条件だ。
彼ら独自の入社面談の中で、変化を妨げそうだと判定された人はどんなに優秀であっても入社できない。
また、入社後の試用期間中にそれが判明した場合、退職金を支払って入社を拒む。
ちなみに、試用期間中には、ファイナンスのプロだろうがなんだろうが、必ず彼らのコアビジネス「(靴のインターネット販売の)コールセンター」業務を経験させるのだそうだ。

「300年は持続するための企業文化」を全社員で考えた末の彼らの辿り着いた答えなのだ。
(時間をかけ、真剣に、全社員で考え意見を出し合い納得して辿りついているのが素晴らしい。)

木曜日, 3月 17, 2011

震災で


この震災で、東京圏でも生活の影響は大きかった。

とはいえ、東京圏での生活必需品の買い溜め、品不足は、なんだか腹が立って仕方がない。
誰に腹を立てたら良いのか。。。

買い物に行く時間的余裕と金銭的余裕と人一倍な不安感の全てを持ち合わせるあなた、
買い溜めしてあなたの家に持ち帰ったところで、
何かが起こってしまえば、あなたの家にはいられないのです。
何かが起こってしまえば、あなたの満タンの車は走れないのです。
だから、今暫く不便はあるだろうけど、普通にしていて欲しい。

今、東北で、灯油がなかったり、電池がなかったり、食料品がなかったり、東京とは比べものにならないぐらいの苦労や不安を抱えている人達が大勢いるのだから。
そんな知人や親戚が東北にいて、ニュースを見て、腹を立てている普通の人も大勢いるのだ。

話し変わって、都心だけは煌々と灯りがついていたり、テレビ局は一局たりとも休んでいなかったり、それってどうなんだろう。

普通に考えれば、優先順位、大切にする順番は、
個々人や個々人の家庭→普通の企業→公的な企業→官業
だとばかり思っていた僕は単純脳細胞なマヌケオヤジなんだと気がついた。

計画停電中のエリアの人達にも電気料金の請求来るんだよね。。。
TVなんて、こんな時なんだから、輪番放送にすればいいのに。


そんな東京圏から出張ベースで小倉にやってきて一緒にしている同僚。
千葉の自宅マンションの地域は水道がヤラれて、水を使えない生活が続いていて苦労していた。
水をマンションの外に汲みに行き、階段を登りに登って部屋にたどり着くのだ。
「とりあえず、家も電気もあるし、水は汲みに行けばいいだけだら」と話していた。

今日、彼の家族から彼にようやく水道が通ったとの連絡が。
でも、その直後に計画停電が実行され、彼のマンションは電気なしでは水道も出ない。
計画停電の間、水道だけならまだしも、電気も水道も使えないという事態に。
「とりあえず、(復電を)待っていればいいから」
謙虚である。
仕事は強引だけど、ちょっと、見直したのでした。


不便は我慢するから、せめて、安全な状態に早くなってほしいものだ。

月曜日, 3月 14, 2011

重要なこと


つい、忘れそうになる。惰性に身を任せそうになることを、忘れそうになる。
かと言って、タトゥーを入れるわけにもいかない。

ドラッカー『プロフェッショナルの条件』より

自らが所を得ていないとき、あるいは組織が腐っているとき、あるいは成果が認められないときには、辞めることが正しい選択である。出世はたいした問題ではない。

万人に平等な時間を、出世のために無駄にしてはいけない。

土曜日, 3月 12, 2011

東北地震

岩手盛岡の実家にようやく連絡つきました。停電だけど大丈夫。
みっちゃん、買い出しに行ってます。


命あってのもの。沿岸部のみんな、頑張ってください。

火曜日, 3月 01, 2011

イノベーションは起きない(その時がくれば起きる)



イノベーションは何故困難なのだろう。
いや、意図的に起こそうとすると困難に思える事が多いのに、実際に「起きる」ときは、何故起きたかもわからないようなのがイノベーションなのかもしれない。

チュニジアのジャスミン革命は、野菜売りの青年の落胆と抗議の焼身自殺がきっかけで起きた。
決して、何ヶ月も周到に準備されていたわけではない。
もちろん、Facebookだとか、理由は様々あるだろうが、「Facebookがあるから革命だ!」というわけじゃなかった。理由は結果論でしかない。

一方で、変革だ変革だ、と、シツコイほどに言われているのに、何にも変わらず、あまりに耳に慣れ過ぎて、もはや元々の意味すら怪しくなってきている事もある。っていうか、世の中に多過ぎ。
最近では多くの企業で、「イノベーションカンパニー」だとか「イノベーションフューチャー」だとか、むしろ、イノベーションを唄わない企業の方が少ないほどだ。

なのに、イノベーションの成功事例は少ない。
星の数程あるチャレンジの中で、成功するのは、ほんのわずかだ。
そうして、チャレンジに失敗して、あるいはチャレンジすらできずに市場から去っていく会社も多い。

看板こそ昔のまま、あるいは、看板だけは昔のロゴに戻したりして、実態はどっか別の資本で、看板だけが残っているような話もよく聞く。
少なくともイノベーションに成功した話よりは、よく耳にする。

だから、最近考えているのは、「イノベーションに成功する」事ではなく、「イノベーションの芽を摘まないために何をしてはならないか」っていうこと。
きっと、イノベーションは、起こすものではなく、自然発生的に起きるべくして起きるものなのだ。
ただ、起きないのは、イノベーションを起こさないような、イノベーションを否定するような行動が世の中に溢れているから、なのかも、というように考え始めている。

そもそも、イノベーションはパラドックスなのだ。
中東の長期独裁政治だって、新進気鋭のベンチャー企業だって、始めはイノベーションに満ちていた。
それが、たかだか数年で、そのイノベーションの中心にいた組織や人々がイノベーションを継続できないばかりか、新たなイノベーションを潰す側にまわるのだ。

ノリエガは、今、自分に歯向かってくる若者たちを見て、自分の若かったころを思い出すことはないのだ。

小さい会社、大きい会社、腐敗した官僚、官僚組織、国家、どんなものであれ、イノベーションは起きるときに起き、起きない時には起きない。
これだけ、考え方も方法論も事例も揃っているのに、だ。

自分を振り返ってみてどうか。
人生の中にイノベーションがあったか。そして、それは、起こそうとして起きたのか?
イノベーション的な事はあることはあった。
が、やはり、起こしたとは感じられない。起きた、としか言いようがない。

そうして、この問いは、禅問答になっていく。
出来ることをするしかない。その先に変革が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
来なくても諦めてはならないし、諦めなければ、いつか来るかもしれない。

人生とは歩きつづけること、みたいな話だ。

なんだかなぁ。←阿藤快 風に