木曜日, 9月 30, 2010
エコライフ
新作のオーガニックコットンのTシャツを着て、
買い換えたばかりのエコカーに乗って、
深夜のコンビニに行って、
エコなペットボトル入りのミネラルウォーター買って、
お気に入りのエコバックに入れて、
LED照明に換えたばかりの明るい我が家に帰って、
買い換えたばかりのエコな冷蔵庫にエコなミネラルウォーターしまって、
エコなエアコン点けて、
エコな洗濯機に洗濯仕掛けて、
台所の洗い物をエコな食器洗い機にセットして、
エコな大画面液晶テレビを付けて、
エコな携帯でネットに呟く。
「あと他に、地球のために何ができるだろう。。。」
地球のために、もっともっと稼いでエコライフ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3
※「エコ」の意味。wikipediaより
エコロジー(Ecology)の略。「環境」や、環境に関わる事象のこと。正確には「生態学」を指す。
エコノミー(Economy)の略。「経済」のこと。
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2646881/4671736
↓は、一年ほど前、オーストラリアの小さな町でペットボトル販売禁止令が施行されたニュース
火曜日, 9月 28, 2010
電子書籍が売れている
電子書籍が売れているのだそうだ。
アメリカのamazonでは、ハードカバーを超える売上高となった、とちょっと前のニュースに出ていました。
※但し、amazonは販売実績を公表しない、という姿勢を従来からとっていて、何故、この件だけ公表したのかは不明です。。。。
そして、後発ながら、日本のメーカーも参戦。
シャープ、米国東芝と、電子書籍販売サイトをサービスインするようです。
●著作権ビジネスの美味しいところ
経済活動的に、著作権ビジネスはとても素晴らしいものです。しかも、エコ。
電子的な情報のやりとりだけで一冊売れようが一万冊売れようが、売る側はほとんど手間は変わらない。なのに、一万冊売れれば一万倍の売上なり利益が上がる。
製造業は、利益率数パーセント、いや、利益率1%とかのしのぎを削るビジネス。
そこへくると電子著作権ビジネスは打ち出の小槌。
しかもですよ、携帯電話なんかのサービスにある「月額料金」系のサービスなんて、どれだけが使われずに業者の懐に入っていくのか。
元々何も減らないのに加え、権利すら行使しない顧客も少なくないはずです。
●amazonやappleの魅力
amazonは、ネットの特性を吟味した結果、ケタ違いの品揃えをすること(ロングテール)で、「従来は誰も手を出せなかった領域」で成功しました。
知恵と決断と行動力の勝利でした。
appleは、コンピューティングの素晴らしさを一般の人に伝えるべく、ユーザーインターフェイスを妥協しないことで辿り着いた「新しいコンピューターの使い方」で成功しました。(iPodまでは、本質的にはユーザーインターフェイスの成功だと言えます)
●著作権ビジネスへの疑問
一方、著作権ビジネスは、「取れるところから取る」のが基本です。
誤解がないように補足しますが、「取るべきところから取る」ではありません。仕組みがなければ取れないので、テレビ局などは、伝え漏れ聞こえてくる話だと、景気変動型定額固定料金だったりするそうです。
そして王道は、カラオケボックスやカラオケスナックの上前をピンはねするビジネス。
残念ながら、このビジネスからは、あまり、生産的なインテリジェンスを感じられません。(携わっている人には申し訳ないけど。。。)
取れるところから取るために、著作権の有効期限は伸びていくばかり。作者はもちろん、作者直接の遺族すらも亡くなって尚継続する著作権料。
せっかく「どれだけコピーしても何も減らない」究極のエコな情報共有は、何ら人知を感じられないビジネス世界のエゴにより、未来永劫実現しないのかと、暗澹たる気持ちにさせられます。
●次のターゲット
言うまでもなく、電子著作権ビジネスの次のターゲットは教科書です。
毎年改訂の度に収入が入り、物流コストも改訂を反映させるコストもほとんど掛からなくなる。
売上は変わらないまま、今の教科書ビジネスのコストが限りなく0に近づく。
※情報の電子化でコストが激減するというのは妄想のようです。音楽も映画もメディア媒体が安価になろうが、ダウンロード販売になろうが、結果的に価格体系はさほど変わっていません。
そうなると、教科書会社は大サービスに打って出ます。いえいえ、教科書をタダにするわけではありません。
お金を払うほどの価値がない領域は、バンバン無料で教科書の付属資料として配られるかもしれません。回答が無い問題集を電子教科書リーダー向けに大量に配るかもしれません。単語カード式電子書籍用ゲームを10問分だけタダで配るかもしれません。期末テスト直前対策と銘打った電子書籍を目次と最初の3ページだけ無料で配るかもしれません。
携帯電話のゲームソフトと同じやり口です。
そして、お金を払わざるをえない(取れるところから取る)分野で商売を広げることになるのでしょう。
●真のターゲット
学校で電子書籍を使って育った子供達は、自分が大人になる時は、抵抗なく電子書籍を読むでしょう。ビジネス的には一番利益率の良い顧客になるわけです。
そして、「紙の本は地球に優しくない」というキャンペーンはもう準備が始まっているかもしれません。結果、電子書籍すら手に入らない貧しい国や地域の子供達には、古本という形ですら情報に触れることはなくなるわけです。
「デジタルデバイドの現実化」です。
●インターネット・レボリューション
20年前、インターネット登場は「情報革命」と言われ、「知の共有が始まる」と期待され持て囃されました。
僕に限らず、その瞬間に立ち会えた多くの人が、興奮し、「未来」を語り、未来を感じました。
しかし、「知の共有が始まる」という理念は、したたかに小金を狙う人知から遠く離れた人たちに蹂躙され続けているような気がしてなりません。
●きっと大丈夫
こんな時は、グーテンベルクの印刷機のことを考えて溜飲を下げます。
最初に印刷機で印刷された世界初の印刷物は豪華装丁版の聖書だったそうです。
印刷された重厚な革張りや金縁の装飾をされた豪華装丁版聖書は、当初は、「印刷技術により読み書きさえ出来れば誰でも本(情報)にありつける」という考えは無残に打ち砕かれたと想像できます。
手描きの本を書棚にコレクションしている金持ち達が、物珍しい機械で印刷されたという聖書をコレクションに加えたのですから。
でも、それから長い月日を経て、当初の「印刷技術により知の共有は革命的に進む」は実現しました。今や、タダで手に入る最もポピュラーな印刷物は聖書にほかなりません。
一方で、聖職者達が教会でテレビで直接に語りかける行為も綿々と続いていることを考えると、印刷技術は知識の裾野をある程度広げたけど、旧来の本に頼らない"伝承作業"も廃れることはなかった、ということになります。
●気の持ちよう(ちぇっ、結局、結論なんかないんだ。。。)
電子教科書の時代となり、子供達の学習の仕方はどんどん変わっていくことでしょう。変化の過程にめぐり合ってしまった子供達には気の毒ですが、新技術を想定外の革新的な使い方をするチャンスと、失ってしまった旧来技術を見直すことができるチャンスに出会ったと考えるしかないようです。
amazonは降って湧いた大儲けのチャンスに興奮しているのでしょう。
ビジネスというのは、どんなに崇高なポリシーを掲げていても、いざ、目の前に人参がぶら下がると、ポリシーを貫くのは困難なのだなぁ、と思わずにいられませんでした。いや、ビジネスに限らず、人間の特性なのかもしれません。
そして、また新しいビジネスモデルを引っさげた救世主?が現れることでしょう。面倒だから、ちょっと立ち止まればいいのに、と思っても、死ぬのは許されても立ち止まる事は許されないのがビジネスマンなのですから。
●はみ出し
http://ditt.jp/
こんな団体が既に活動を始めています。
我が家のGNU/Linuxその後
環境的にはサボっていて何も変わっていないが、Dynabook AZのLinux化は素晴らしい技術者(しかも日本人)のお陰で僕は何も出来ないのに進んでいる。感謝。
その意味するところの半分も理解出来ないのだけど、彼のAZNyanへの試行錯誤を連ドラを観るようなワクワクドキドキ感で読んでいる。
http://www.funclang.net/cruel/
気になるのは、メーカー(東芝)に対する彼のソースコード要求は、未だ回答がないらしいということ。期待しています→東芝さん。
そんな中、今日から、LinuxCon JAPANという催しがあり、この催しに合わせたインタビュー記事が大変興味深かった。Linuxコミュニティに参加する日本のSE達のインタビュー記事だ。
ストールマンの理念が、コミュニティの現場ではどんなふうに浸透しているのか、が、よくわかる記事でした。
僕にはプログラマは向いていない、と思っているものの、モノを作る、事に携わっている彼らの言葉は、とても楽しそうで、読んでいる僕までそんな気分にさせられました。こんな方々にも感謝。
http://www.atmarkit.co.jp/news/201009/24/linuxcon.html
最近読んでいるリーダーシップ学の本に書いてあったリーダーシップの考え方によれば、Linuxコミュニティというのはこんな風に言える。
常に変化し続け、固定化された役職や具体的な報酬という手段がない組織、その中で有効なリーダーシップは「統御系」(統制=管理型ではない人間性によるリーダーシップ)になる。報酬や地位などによるリーダーシップ発揮は出来ないのだから当然だ。
上記のインタビュー記事には、コミュニティ内での意思決定についても記述があり、「・・学」的には、数種類の意思決定パターン*を、ごくごく自然に使い分けられている様子が見て取れる。
*リーダー単独で意思決定/メンバーの意思確認の上でのリーダーが意思決定/メンバーが意思決定/リーダーに委任を受けた誰かが意思決定。。など。
組織論?的にも、この手のコミュニティは、要注目だ。凄い。面白い。
月曜日, 9月 27, 2010
linux -Ununtu- に移行中
遅ればせながら一ヶ月ほど前からUbuntuを使い始めました。
Ubuntu 10.04 LTSというバージョンを雑誌の付録からインストール。
このPCの用途「DVDのISOリッピング」「WEBブラウジング」は快適に使えています。
まぁ、何年か前とは違って、本当によくできています。
インストールはまったく問題無し。リッピングも基本機能でサポートされています。
某MS-Windowsの場合なら、搭載するPCメーカーがドライバを提供するから問題になることは少ないけど、今、こうして使っていても、どれだけの有志達の力の結果で動いているのか、ただただ不思議だとしか言えません。
で、インストールして設定変えて、などという楽しみ自体が久しぶりだったんだけど、困ったことがありました。
このUbuntu、快適なのですが、近年、相当の改善があったようで、いろんなバージョンの情報が飛び交っています。
私が困ったのはそれ。
トラックポイントを使った縦スクロールをしたかっただけなのですが、この方法がわからない。
ちょっと前のバージョンまでは「xorg.conf」を書き換えたようなのですが、そもそも、このファイルにアクセスができない。
アクセスできるようになったら、どう変更するのが正しいのか、これもわからない。
ということで、初心者が躓くところを一通り経験した気がするので覚書として残しておきます。
【トラックポイントのセンターボタンでの縦スクロール設定方法@Ubuntu 10.04+GNOME2.30】
1.Ubuntuソフトウェアセンターにアクセス
2.「trackpoint」で検索
3."Pointing Devices"をインストール
4.インストールしたPointing Devicesにて設定
簡単でした。
【なぜ、そんな簡単なことが直ぐにできなかったか(躓いた理由)】
・設定情報をconfigに書かなければならない、というちょっと前のUbuntuや、大昔のWindowsの手法だと思い込んでいた。
・GUIのフォルダ画面で存在する「X11」フォルダが端末画面では表示されなかった。
という感じで、2日間ほどああでもない、こうでもない、と楽しめたのでした。
だいたい、リブートしても直ぐに立ち上がってくるので、トライ&エラーで何度も試せるのが良いですね。
久々にコマンドラインに触れ、それ自体が楽しい感覚ではあったのだけど、その目的がマウス関連だという皮肉…
土曜日, 9月 25, 2010
木曜日, 9月 23, 2010
笠松のじっちゃんの言葉 その2
先日に続いて、笠松のじっちゃんの言葉 その2
・・・・・
馬鹿な話だ。
馬を手放す気になって初めて、馬に名を付けていないことに気づいた。
二十年近くも飼っているのにだ。
此処らじゃ滅多に馬には名を付けん。
名を付けてはいかんと教えられた。
名を付けると、馬に情が移る。
手放すときに心が痛む。
昔は冬ごとに馬を手放した。
夏じゅう働かして、それでも食えんから、
馬を売って、そして冬場をしのいだ。
春に、新しい馬を買うために、冬場は山で獣を捕って売った。
鹿や狐や兎や貂(テン)や。
・・・・・
"北の国から"12話より。
「北の国から」のススメ
ここのところ「北の国から」シーズン1/81年×24話(DVD12枚)を借りてきて観ています。
毎晩、2話ずつ観進めていっているのだけど、当時、見ておけばよかったと後悔するほど、これはすごい作品だ。
あなたを守っているもの、あなたが守っているもの、あなたが生涯を通じて身に付けていかなければならないこと、弱いのはあなただけではないということ、大人が必ずしも強いわけではないということ、傷つきやすい子供、意外に強い子供、傷つきやすい大人、意外に強い大人、あなたにとって大切なもの、あなたはかけがいのない存在だということ、大切だと思っていても意外にそうでもないもの、気がつかなかったけど実は無くてはならないもの、強く生きるということ、克服できない弱さ、家族、地域、地球の生物としての人間、大地、宇宙、、、
心をグッと掴まれて揺さぶられる映像、音、言葉。
あまり揺さぶられ過ぎるので、一晩でDVD一枚分、二話しか見ることが出来ない。
見終わると、グッタリするのだ。
心が揺さぶられなかったら、私が、50円(うちの近所では旧作50円フェア開催中)お返ししましょう。
秋の長雨の夜、一人暮らしの人はお一人で、家族と暮らす方はご家族みんなで、是非、鑑賞してみてください。
オススメです。
水曜日, 9月 22, 2010
宇宙スケールの明日
確か、レオナルド・ダ・ヴィンチが言ったと思うのだけど、「いずれ地球は海で覆いつくされるのだ」という話。
確かに、地球という宇宙から見れば小さな箱庭の中で、陸は風化するのみ。
そして、風化を超えるほどの新たな陸地は通常の想像では登場し得ない。
何があるかは誰にもわからないとはいえ、いずれ全ての陸地は体積比で圧倒する海に消える、というのは(余りに遠い未来で想像もつかないが)納得出来る。
質量保存の法則→陸地は風化するとその全てもしくは一部が海に溶ける→新しい陸地と風化のスピードでは風化のスピードが速い→陸地の体積よりも海の体積の方が大きい→陸地は海に吸収される
一方で、「地球の歴史を一年とすると」によると、宇宙スケールで考えれば、いずれ地球上の水は拡散し、海は無くなるのだという。
※地球の歴史を一年とすると、12月31日の16:20に人類が誕生したのだそうだ。朝ごはんもランチもオヤツも食べそびれた。もう夕飯時じゃーん。
話変わって、プロプライエタリなのは分かっているのだけど、グーグルの漢字変換を使っている。便利なのだ。
日々、検索される文字列を変換候補として表示するシステム。これが案外、他のどのかな漢字変換よりも上手に変換してくれる。
さっき入力したレオナルド・ダ・ヴィンチだって、「レオナルド」で、もう「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を予測して候補として表示してくれる。
「たべほ」と入力すると「食べ放題」「食べホ」と何故か「食べ放題酔龍」が表示されるのだ。そんな有名店があるのか。。。しかも横浜中華街。もしかしてグーグルに広告料払うと変換候補に表示される?
とにかく、圧倒的な情報量は、当初は良く出来た(と思われた)、考え抜かれたロジックを凌駕するのだ。
この考えたでいけば、言語の壁もいずれ無くなるのかもしれない。
しかも二つのパターンで言語の壁は消えていく。
(あくまでウン万年とかの話ですよ。僕には英語すらコンプレックスなんだから。)
一つ目は、少数民族の言語のように、廃れる言語があっても新しい言語はそうそう生まれない。ということは、言語というものは、減っていくだけの運命にあるということだ。次のスーパー翻訳機が出来た後は減らずに済ませられるかもしれないけど、それまでは使用者が少なければ衰退するだろうなぁ。
そしてもう一つはスーパー翻訳機。圧倒的な情報量がロジックを駆逐するパターン。
翻訳前の文章と翻訳後の文章の組み合わせをどんどん蓄積していけば、何十年か何百年か何千年後に、ヒトが翻訳した自然な翻訳文をデータベース化してしまえば、まぁ、必ず似たような文章がヒットして、その訳文も同じようにヒットするはずだ。
もちろん、言語は生き物で、どんどん変化していく事もわかるけど、とはいえ、その勢いを超えるペースで訳文も増えていればいつかは追いつくはずだ。
この「時間のスケールを極大化して情報量でロジックを凌駕する」遊びは面白い。
他にも、(以前紹介した)自動作曲ソフトウェアが、長い時をかけて、音楽として成立する音の組み合わせ全てを作りきってしまう、なら、音階の連なりとしての音楽の独自性なんてのはあまり意味はなくなり、むしろ、その音階の連なりをどういう風に表現するか、が、人間のユニークさになっていくだろう。音痴なんかは、人間にしかできない技で、いつかその未来には神妙な心持ちで音痴に耳を済ませ、聴き終えた(終わりが分かり難いのも音痴の特徴だったりする)瞬間に「ブラボー」と叫んでいるのかもしれない。
いやいや、音楽として認識出来る音階の連なり、の、音楽として認識出来るという部分だって長大な時間を経れば変化していくことが考えられる。
今は雑音にしか思えない音階や、不協和音や、半音と半音の間の音を使った音楽も、未来の人間社会では受け入れられているかもしれない。
現に、明治時代のヒトが、えっと、パヒュームじゃなくてパフュームとか聞いたら、音楽には聞こえないかもしれない。(←昭和の僕ですらパヒュームとか打ち込んじゃうし。。。)
他にも、小説のように「妄想」を表現したものもそうだ。音階の連なりと違って、妄想については、時代のスケールをいくら極大化してもその表現を受け入れる人間の文化の変化の方が早いだろう。どうひっくり返っても前述の翻訳のようにはならない。文化の変化は極大化した時間のスケールでは追いかけることが出来ないのだ。
絵などの芸術作品はどうだろう。
ある「○○風」が確立されては模倣され壊され、音階の連なりに相当する「○○を絵で表現する」事自体は、もはや絵に描かれていないモノなど無い。○○風までは、単なるパターンなのだから既に画像編集ソフトでも写真をピカソ風にするとか、はコンピューターで簡単にできるだろう。
が、「どういう風に表現するか」は、前述の音楽と同じで予測不能だ。おそらく何億年先も新しいユニークな表現が登場していることだろう。
その時代時代の文化を背景に、何をキャンバスにして描いているのか、どんな絵筆を握っているかは想像もつかない。眼球をキャンバスに分子レーザーでその人にしか見えない絵を描く、とか。
秋の夜長にそんな事を考えていて気がついた。
ヒトがヒトである原点は、「変化を起こす」ことなのだ。
今でこそ洋服を着て、言葉を話し、プライバシーという概念で動物の本能的な行動の一部を隠匿し、まるで、神様か何かのような取り澄ました社会生活を(一部の人々は)送っているが、人類の歴史から見れば、せいぜいこの数千年の話だ。いずれ大晦日の夕方以降の話なのだ。
それ以前は、動物園で見るゴリラや猿といくらも違わない生活を送っていたのだ。いや、正に地球という限られた庭の上で、人間以外の様々の動物と一緒に弱肉強食・食の連鎖の中でバランスを取ってある意味美しく、正しく存在していたわけだ。
キューブリックが映画A.I.で描いた数万年後の地球は、氷に閉ざされ、もはや人間は物理的な形態を失い、精神的な存在(肉体はどこか安全な所に存在しているのかもしれないが)になっていた。
変化に対応するとは、そういう事だ。肉体は変化への対応に限界値があるが、精神はどんな環境変化でも消失しない。
精神的な存在としてのヒト。
それはそれで便利そうだし、あまり、悪いことが出来なさそうだし、いいことづくめに思えるのだけど、一つ残念なことがある。
それは、食べる楽しみ(排泄する手間も含めて、)が無くなることだ。
いやはや、精神的な存在になってしまった時代に生まれなくて良かった。
今日も明日も明後日も、美味しくご飯を食べましょう。(毎朝スッキリしましょう。)
月曜日, 9月 20, 2010
西の国で北の国からを見る
近所の貸ビデオ屋さん。
連休中の特別価格に釣られて、1981年の「北の国から」を借りて見た。
これ、シリーズがあまりに多くて、観初めてわかったのが、81年当時放送されたやつは観ていなかったということ。
多分、名場面集とかで見かけたシーンもたまーにあったけど、ストーリー自体は全く初めてだった。
一枚のDVDに二話が収録されていて、あまりの内容の深さ(濃さではない)に、一日一枚見るのがやっと。
登場人物のクマ(材木工場で働く寡黙で大柄なお兄さん)さん宮沢賢治の詩を時折口ずさむのも良いのだけど、純の同級生正吉のお爺ちゃん大友柳太郎扮する「笠松のじっちゃん」が純に語りかける言葉が心に残った。
・・・
昔はここはうっそうたる森じゃった。
熊が遊んどった。
元々ここらは熊の土地じゃった。
人間が来て勝手に熊を追い出した。
あの奥に古い切り株がまだあろう。
500年は経っとった。
桂の大木でわしらがノコで切り倒した。
そりゃあ、吠えるような凄い声立てた。
あの声はまだ、耳についとる。
木の声、倒される、木は倒される時、大声を上げる。
殺生もずいぶんした。
そして開いた。
いったい開くのに何年かかったろう。
馬と、木と、粗末な道具と。
馬も、もうおらん。
そして、若いもんはみんな、土地を捨てる。
わしらが折衝して切り開いたこの土地をじゃ。
熊や、木や、馬に、何と申し開く。
人間は勝手じゃ。
・・・
このセリフが、とても心に染みた。
役者の大友柳太郎さんは、85年に73歳で自らの命を絶った。
金曜日, 9月 17, 2010
統計よりも「1人のストーリー」が有効な理由(Wiredより)
仕事で、そうショッチュウではないが、アンケートなり○○調査なりの報告をまとめることがある。
このアンケートで、いつも、扱い(お偉いさんへの報告)に困るのが、「コメント」の扱いだ。
そもそもアンケート分析は、"統計的に有意な"(←専門ではないのでそれ以上は説明できないが。。)傾向を読み取るものだ。要するに、言葉は悪いけどレアなケースは無視して、より強いニーズを探るものなわけだ。
しかし、現実はそう簡単ではない。それが、コメントの扱いだ。
大概の場合、結果報告を聞く人達は、統計的に有意な部分よりも、より生のコメントに反応する。たとえそれが、何万分の一の意見だとしてもだ。
そういうわけで、報告は、そういう方向に話が進まないように慎重を期すわけだ。
で、なんでこんな話をしているかというと、面白い研究結果が紹介されていたからだ。
「統計よりも「1人のストーリー」が有効な理由」Wiredより
http://wiredvision.jp/news/201009/2010091722.html
この研究結果の例では、チリの鉱山での事件の方がパキスタンの洪水よりも感心を呼んでいることを挙げている。
リンク先ではこのようにまとめている。
「われわれは、ひとりの子供が井戸に落ちたら心配で目を離せないが、清浄な水が無いことで毎年何百万人もの人が死ぬことには関心を持たない。雑誌の表紙に載ったひとりの戦争孤児には何千ドルもの寄付が行くが、ルワンダやダルフールで大虐殺が起こっていても無視される。マザーテレサの言うように、「数として見た時には行動しない。ひとつの例を見た時には行動する」のだ。」
もしかすると依然と戦争や様々な紛争が終わらないのは、マスという枠でしか報道してこなかった(出来なかった)メディアのあり方が良くなかったのかもしれない。
戦地から個々の人々や個人で活動するジャーナリストが、一つ一つの例を報道するようになった時、受け止める僕たちは、数としてではなく、隣人の事として心を揺さぶられ、自分の問題として紛争を終わらせる事をようやく考える気になるのかもしれない。まだ、そこまでネットは行き届いていないが、Twitterなどで戦地に暮らす方がつぶやいたりするのは効果があるのかもしれない。
※こういう個々人の(無償だったりの)活動が産み出す効果の話をすると、企業こそ信頼性を保証しているとか、直ぐに持ち出されるわけだけど、Wikipediaの例や、大新聞が戦前、戦後、に真逆の論調に変わったことなどを考えれば、そう目くじらをたてるような話ではないと思う。
僕の大好きな、近未来を描いたドラマ「MAX HEADROOM」の主人公MAXは、そんなパーソナルメディアのカメラマンだったことを思い出した。
木曜日, 9月 16, 2010
女性諜報員とワーキングマザーの同一性
諜報員は深夜に敵基地に忍び込む。
(ワーキングマザーは、残業後、閉店間際のスーパーに駆け込む。)
敵基地で入手した情報を持ち帰り、食事をとりながら、睡魔と闘いながら潜入時に負った傷の手当をしつつ、持ち帰った暗号の解読。
(家に帰り食事を済ませ、息をつく間もなく食後の睡魔と闘いながら、お洗濯や翌日の子供の食事やお弁当などを準備。)
本部から早朝明け方の定時通信。パソコン画面の向こうで背広姿の上司へ報告と上司からは、夕べの敵基地に再度潜入の指示。
(部活朝練の子供に合わせて早起きし、朝食準備。眠い目を擦りながら子供と会話。子供から、ひと月も前に案内されていた明日期限の学校への提出物がある事を知らされる。)
世を忍ぶ仮の姿、事務員として仕事に出かける。目立ってはいけないため、ほどほどにオシャレをし、ほどほどに仕事をこなす。ただ、よく見れば、その眼光は鋭い。
(生活の糧を得るために事務員として仕事に出かける。それどころではないため、ほどほどに身なりを整え、ほどほどに仕事をこなす。ただ、よく見れば、その眼光は眠いか必死かどちらかである。)
定時が過ぎ、仕事はできるがチャラい同僚から飲みに誘われるが、つれない態度で断る。今夜も潜入捜査が待っている。
(定時が過ぎ、仕事も出来ない上にセクハライエローカードの同僚から飲みに誘われるが、つれない態度で断る。今夜こそ夕べ売り切れていた特売の豚コマをゲットするのだ。)
と、目的が異なるだけで、さほど生活に違いはないということに気がついた。
諜報員もワーキングマザーのどちらにも僕はなれないけど、心から尊敬します。
火曜日, 9月 14, 2010
木曜日, 9月 09, 2010
倫理的なライセンスのソフトウェア
先日amazonへのリンクを貼った、
を、読み終えた。
そもそも、この本を読もうと思ったのは、最近、今更ながらハマッているGNU/Linux(←この表記もこの本を読んで学んだ。Linuxはカーネル単体しか意味しない)が、何千人ものボランティアが中心となったコミュニティで作られた、、、という事実に単純に「すげーマジ!?」と感じた。
多少なりともIT業界で生業を得て、コードを書くこと自体へのモチベーションも判らないではなかったけど、やっぱり、実際にインストールして使い始めると、一層「すげーマジ!?」だったし、「なんでそんな事ができちゃうの!?」と、ますます興味が増して「本を読んでみるかライン」を越えたからだ。
結論は、著者のストールマンは自らが体験した「反倫理的なソフトウェアライセンスへの憤り事件」をきっかけに、「自分が憤らせる側にならないためにはどうすればいいのか」「自分が倫理的に生きるためにどうしたらよいか」「倫理的なソフトウェアはどうあるべきか」を考え、試行錯誤を重ね、たどり着いた(まだこれからも歩み続けるだろうが)先にあったのが、GNU/Linuxをも創り出すコミュニティだったということがわかった。
コミュニティの力を誇示したかったのでも、自分のプログラミングスキルを誇示したかったのでも、ましてや名声を得てFortune500に名を連ねたかったのでもなく、純粋に人が社会の中で自然に倫理的に暮らすために自分ができること、を考えて実行していったことだったのだとわかった。
善を元にした行動がここまで広がる(しかも悪の帝国(笑)在住で!)のは、未来に希望を持てなくなるような社会状況にあって、微かだが広がるかもしれない光のように感じられた。
彼の言う「自由なソフトウェア」を僕なりに理解し言葉にすると、「倫理的なライセンスのソフトウェア」となる。※ソフトウェアが実装する機能が倫理的かどうかという意味ではない。あくまでライセンス内容の話。
この考え方では、世の中のソフトウェアには、「倫理的なライセンスのソフトウェア」「倫理的でも反倫理的でもないライセンスのソフトウェア」「反倫理的なソフトウェア」の三種類に分けられる。
・倫理的なライセンスのソフトウェア(自由なソフトウェア)
ユーザーが必要であれば中身を確認できる。(プログラムソースが公開されている)
ユーザーがコピーを頒布できる。(隣人と共有できる)
ユーザーがプログラムを改変できる。(自分に使いやすく改変できる。不具合を自分で修正できる。)
改変したユーザーは改変したプログラムソースを公開する義務を負う。(プログラムを私的所有できない)
・倫理的でも反倫理的でもないライセンスのソフトウェア(オープンソース)
プログラムソースは公開しているが、第三者に対しプログラムを改変しても公開を義務付けていない。
(反社会的なソフトウェアに一方的に利用される可能性が高い。)
・反倫理的なソフトウェア
実行モジュールだけ提供されるプログラム。(裏で何をしてもわからない。検証できない。)
と、こう分類しちゃうと「世の中ほとんど反倫理的じゃん」「随分偏った考え方だな」と、最初は思った。また、有償かタダかは、問題ではないことにも驚いた。
最初は思った、ということは、この本を読み終えたときにはそうは思わなくなったということだ。
むしろ、反倫理的なライセンスのソフトウェアが蔓延し、それほど遠くない将来に、現在の僕たちが常識と考えている自由が無くなる可能性を実感するようになった。
この危機感を端的に説明するのは難しいんだけど、彼の本にあった、料理のレシピを例にこの反社会的なライセンスを説明してみよう。
レシピは、料理そのものではない。が、料理を作るために必要な情報だ。
(プログラムソースはプログラムそのものではない、が、プログラムを作るために必要な情報だ。)
Aさんの作るある料理がとても美味しかった。隣人のBさんにお裾分けするととても喜んだ。
(Aさんのあるプログラムはとても良い機能を実現していた。隣人のBさんにその画面を見せるととても喜んだ。)
Aさんはお裾分けと一緒にそのレシピをBさんにあげた。
(AさんはそのプログラムとプログラムソースをBさんにコピーしてあげた。)
Bさんはその料理をもう一工夫してさらに美味しい料理にした。
(Bさんはそのプログラムソースを改変してさらに良い機能を追加した。)
X村のケース
Bさんは一工夫した料理の新しいレシピをAさんにお返しした。
(Bさんは改変したプログラムソースをAさんにお返しした。)
Z村のケース
Bさんは一工夫した料理の新しいレシピは公開しなかった。
(Bさんは改変したプログラムソースを公開しなかった。)
===時を経たX村とZ村。===
最終的に料理が美味しい村はどちらになるだろうか。
一方で、やたら料理の看板が目立つ村はどちらになるだろうか。
実はBさんは村一番の実力者(or独裁者)で自分のレシピで作った料理を村の名物料理にしたかった。レシピを公開しないBさんはどんな行動をとる?
ストールマンは、レシピの私有化/所有を何もせずに放置していくと、いずれ料理の自由は無くなる、という事を言っている。
名物料理を独占したいBさんは、過去に公開されてしまったAさんのレシピはどうにもできないが、Aさんが新しいレシピを公開するのは我慢ならないのだ。
Bさんは独占が唯一最大の目的で、村の名物料理がレシピの公開によって発展していくことなど害悪としか感じていない。
Bさんは、「私のレシピが盗まれた」といちゃもんを付け、「みんなのレシピを守らなければならない」とレシピを金庫に仕舞うように触れ回り、「守られたレシピ以外の料理を作るのは村の掟にそむく」などという新しいルールを制定し、村人たちが料理そのものに嫌気がさしたころに「全ての料理から関連するレシピ使用料を徴収します。」と独占を完成させようとしていく。
そんな悪夢に対する防波堤の一つが、GPL(GNU Program Lisence)だ。
GPLライセンスは、GPLライセンスされたプログラムを改変したプログラムもまたGPLライセンスとしてソースを公開しなくてはならない、という、ライセンス法規を逆手に取ったライセンスだ。
他人のレシピを参考にしたのなら、そのレシピも公開しなければならない、というライセンスだ。
村の掟は「隣人を助けよ」なのだ。
そして、その習慣が根づいているうちは、たまにBさんが吠えようとも、美味しい料理にありつける。
そんなわけで調べてみたら、Debian GNU/Linuxなら、すべてのモジュールがGPLになっているらしい。
Ubuntuから乗り換えてみよう。
きっと、ちょっとずつ使い勝手が悪い部分はあるだろうけど、ま、使って慣れてしまえば大したことはない。だろう。
Ubuntuで、多少は、昔のコマンド使いの感覚も思い出したし。
ストールマンについて(Wikipedia)
ストールマンの伝記和訳。彼の信条に従い自由なライセンスとして公開されている。
ストールマンの考え方、人柄、がよく現れていて読みやすくて割と最近のインタビュー記事。
彼の考え方が端的に示されている「コピーレフト(ライトではない)」の説明@Wikipedia
青空文庫で公開されている「自由か著作権か」
火曜日, 9月 07, 2010
プラプライエタリな貸出履歴情報は嫌だ。レンタルビデオ屋さん
↑ただいま私が御執心の方のお唄。笑
マイブームである。プロプライエタリ。覚えられない単語だから、もう、プロプラ・・言えたり言えなかったりなのだ。
毎日毎日、食前食後に唱えるしか無い。
『今日もご飯が美味しいのは、プロプライエタリのお蔭です。』
だいたい、資産を意味するプロパティの形容詞がプライエタリって言われても、なんで、そんな風に覚えにくく変化するのか、納得できない。
さて、小倉に越してから週末ともなると近所のレンタルビデオ(いや、今はレンタルDVD屋さんか。。。)屋さんでDVDを借りる事が度々あった。
その、小さなビデオ屋さんは旧作が常に100円ということもあり、歩いても行けるし、電車で会社に行ったときは駅の階段を降りてすぐだし、言うことなしのお気に入りだったのだ。
たしかに、お気に入りだったのだ。
が、今、お気に入りでなくなろうとしている。
その理由は、そのビデオ屋さんのカウンターに貼られた新たなルールだ。
新たなルール
「お客様から、確認の申し出がない場合、過去の貸出と重複しているかは、お知らせいたしません」
だ。(おおむね、そんな意味の文章)
初めてそのルールが貼り出されたことに気がついたとき、「?」とは思ったが大して気に留めていなかった。しかし、だ、つい先日、何本か借りて家に帰ってから、その張り紙の大きな意味に気がついた。
見始めて気がついた。そう、重複していたのだ。。。
たかだか100円なのかもしれない。
また、貸ビデオ屋さんとしても、薄利のビジネスで、重複をお知らせするほど余裕がないのかもしれない。
でも、なんか損したというより、とても嫌な気分だった。
だって、貸し出す際に会員証をピッとやって、貸し出すDVDをピッとレジに登録した際に気がついているはずなのだ。
意地悪をされたような、いや、もうお互い子供じゃないから、一種の攻撃を受けたような感覚。
、、、と、当初は思った。
いやしかし待てよ、もしかすると、これは個人情報保護かなんかの措置を言葉足らずで実施しているのかもしれない。
amazonなんかは、(確認しようがないので少なくとも表向きは)購入履歴、検索履歴なんかを自分で確認して編集できるようになっている。でも、街の小さなレンタルビデオ屋さんでそこまでしてもらおうなどと、ハナから期待していないし、出来たとしても面倒なだけだ。
だから、近所の顔を知ったレンタルビデオ屋さんでは、毎回、奥のカーテンに閉ざされたエリアに踏み込まないし(たまに間違ったようなふりをして入り込むこともあるが、、汗)、個人情報なんか気にせずに重複貸出を知らせて欲しいのだ。
そりゃあ、たまたまサスペンス物で意味深なタイトルのDVDを返しに行った時に、アルバイトの若い女子がカウンターにいたりすると、妙に汗ばんだりしたりもする場合もあるけど(←同時に、カーテンの奥のDVDじゃなくて良かったと胸をなで下ろす)、重複ぐらい黙ってても教えて欲しいものだ。
今度借りに行ったら、そこんとこ、真実はなんなのか聞いてみよう。
恥ずかしいタイトルの時は小声で、「既に借りてますよ」と一言付け加えてもらえるように。
金曜日, 9月 03, 2010
読み物×2点
最近、気がついてみると家の中にLinuxシステムが増えている。
・携帯カーナビ
→Linuxベースで動いている。Linuxのライセンス(OSI)に従い派生したプログラムソースは公開されているのでこれが確認できる。http://www.sony.net/Products/Linux/Audio/NV-XYZ88.html
・メディアプレーヤーボックス
→ベースというか、もう、そのもの。普通にtelnetでログインできるし。
・Android
→DynabookAZ。Androidも悪くないけど、普通にLinuxに載せ替えられれば。。。
・PC
→数年前のThinkPadは、Ubuntuマシンとして復活。以前のLinuxディストリビューションと違って、最近は、パフォーマンスだけでなく使いやすさの面でもMS-Windowsを超えた感じ。
最近は、USB-HDDにUbuntuを入れて、会社のPCでも使ってます。
そんな最近、気に入った読み物二点。
1.伽藍とバザール
http://cruel.org/freeware/cathedral.html
カテゴリとしてはプログラム開発の論文、ということになるんだけど、実は、ネットでの新しい知的創造活動の可能性(例えば、行政だったらネット上のボランティア達が官僚達よりも優れた政策を作るとか)を示唆した読み物として面白いです。元気が出る論文。
2.SCOとIBMの訴訟に関するOSIのポジション・ペーパー
http://www.opensource.jp/sco/sco-vs-ibm.html
SCOという会社がUNIXについて所有権を主張し、IBMに対し訴えを起こした。
これについて、オープンソース推進の立場からOSIという団体が作成したSCOに対する反論。
結果的に、UNIXの生い立ちや系譜、企業とオープンソースの関わり、などがコンパクトに纏まっていてわかりやすい内容。
よくよく考えていくと、そもそも、社会における「所有すること」の意味なんかも考えさせられる良書(良文?)です。
最後にOpen Source Initiative(OSI)が定義するオープンソースライセンスの要件。読めば読むほど、よく出来た、素晴らしい考え方です。結果も付いてきているのが何よりも素晴らしい!
1.自由な再頒布ができること
2.ソースコードを入手できること
3.派生物が存在でき、派生物に同じライセンスを適用できること
4.差分情報の配布を認める場合には、同一性の保持を要求してもかまわない
5.個人やグループを差別しないこと
6.適用領域に基づいた差別をしないこと
7.再配布において追加ライセンスを必要としないこと
8.特定製品に依存しないこと
9.同じ媒体で配布される他のソフトウェアを制限しないこと
10.技術的な中立を保っていること
※この訴えは既に棄却の方向とのニュースがありました。
http://slashdot.jp/linux/article.pl?sid=10/06/14/0814236
詳細(wikipediaへのリンク)
水曜日, 9月 01, 2010
「混乱を来しているプロジェクト」に必要なこと。
↑本文に全く関係ありません。。。ただ、すごい!
そんな事を考えて(考えているからと言って私が担当してるプロジェクトではないかもしれません。汗)見つけたサイト。
漠然と考えていたことがとても良くまとまっていました。
【マネジメント過剰、リーダーシップ不足】
http://people.weblogs.jp/ppf/2010/04/style16.html
特に気に入った点は、
●階層別のマネジメント特性について
・トップマネジメントにはリーダーシップしか期待できません
←全くもってその通り。普通、財務部門出身の上司の下で仕事したいとは思いません。
・ミドルマネジャーのマネジメントとリーダーシップのバランスで組織はどうにでも変わる。
←筆者は「実感」しているそうです。私は経験不足からか「組織はどうにでも変わる」実感まではありませんが、リーダーシップだけのミドルマネージャーのもとでは、とても心配になって変わるどころではない、、、という経験を振り返ってみたりするとその通りだと思います。
・ジュニアマネジメントには、自身が率いるチームに対するリーダーシップは期待できますが、組織全体にはマネジメントしか期待できません。
←「期待できません」まで言うのは哀しいけど、組織全体を考えれば、確かにその通りです。また、マネジメントだけのミドルマネージャーの下で強引にリーダーシップを発揮すれば、自らが出る杭として打たれるならまだしも、チーム全体も存在危機に晒されることでしょう。
こう整理すると、実際にW/Lやコストを削減するのは現場なのだから当たり前だということと、実際は、その組織のプロセスがマネジメントしていくという事にも気がつきます。社長が(お金を直接)マネジメントするわけではないのです。
ちなみに、分かっているつもりでも直ぐにゴッチャにしてしまうので改めて整理。
●マネジメントとリーダーシップの違い
・マネジメント:管理する事。人員配置、予算管理、スケジュール管理。課題管理。
先のサイトでは「コントロールと問題解決」だと。
・リーダーシップ:導くこと。ビジョン/目的の共有。指針やシナリオを示す。
同じく先のサイトでは「動機づけと啓発」。なるほど。
というわけで、「混乱をきたしているプロジェクト」に必要なことの答え。
「混乱を来さない体制(マネジメント)」を作ること。
往々にして、責任論の末、担当者もPMもマネジメントも次々交代し、最後に行き着くのがそこなんじゃないかな。と。
先日観た「The Wave」の衝撃もあって、ついでに、独裁とリーダーシップを考えてみて一つ気がついた。
独裁とリーダーシップの決定的な違いは、配下の一人一人の成長や変化を停止させる事。だ。なるほど。
言い換えれば、部下が育たない上司はリーダーシップを発揮していない、ということだ。これまた、なるほど。
リーダーシップ論?の講義ノートのようなページ。
http://www6.ocn.ne.jp/~tetugaku/page33.htm
登録:
投稿 (Atom)