木曜日, 9月 09, 2010

倫理的なライセンスのソフトウェア



先日amazonへのリンクを貼った、

を、読み終えた。


そもそも、この本を読もうと思ったのは、最近、今更ながらハマッているGNU/Linux(←この表記もこの本を読んで学んだ。Linuxはカーネル単体しか意味しない)が、何千人ものボランティアが中心となったコミュニティで作られた、、、という事実に単純に「すげーマジ!?」と感じた。
多少なりともIT業界で生業を得て、コードを書くこと自体へのモチベーションも判らないではなかったけど、やっぱり、実際にインストールして使い始めると、一層「すげーマジ!?」だったし、「なんでそんな事ができちゃうの!?」と、ますます興味が増して「本を読んでみるかライン」を越えたからだ。


結論は、著者のストールマンは自らが体験した「反倫理的なソフトウェアライセンスへの憤り事件」をきっかけに、「自分が憤らせる側にならないためにはどうすればいいのか」「自分が倫理的に生きるためにどうしたらよいか」「倫理的なソフトウェアはどうあるべきか」を考え、試行錯誤を重ね、たどり着いた(まだこれからも歩み続けるだろうが)先にあったのが、GNU/Linuxをも創り出すコミュニティだったということがわかった。

コミュニティの力を誇示したかったのでも、自分のプログラミングスキルを誇示したかったのでも、ましてや名声を得てFortune500に名を連ねたかったのでもなく、純粋に人が社会の中で自然に倫理的に暮らすために自分ができること、を考えて実行していったことだったのだとわかった。

善を元にした行動がここまで広がる(しかも悪の帝国(笑)在住で!)のは、未来に希望を持てなくなるような社会状況にあって、微かだが広がるかもしれない光のように感じられた。


彼の言う「自由なソフトウェア」を僕なりに理解し言葉にすると、「倫理的なライセンスのソフトウェア」となる。※ソフトウェアが実装する機能が倫理的かどうかという意味ではない。あくまでライセンス内容の話。

この考え方では、世の中のソフトウェアには、「倫理的なライセンスのソフトウェア」「倫理的でも反倫理的でもないライセンスのソフトウェア」「反倫理的なソフトウェア」の三種類に分けられる。

・倫理的なライセンスのソフトウェア(自由なソフトウェア)
 ユーザーが必要であれば中身を確認できる。(プログラムソースが公開されている)
 ユーザーがコピーを頒布できる。(隣人と共有できる)
 ユーザーがプログラムを改変できる。(自分に使いやすく改変できる。不具合を自分で修正できる。)
 改変したユーザーは改変したプログラムソースを公開する義務を負う。(プログラムを私的所有できない)

・倫理的でも反倫理的でもないライセンスのソフトウェア(オープンソース)
 プログラムソースは公開しているが、第三者に対しプログラムを改変しても公開を義務付けていない。
 (反社会的なソフトウェアに一方的に利用される可能性が高い。)

・反倫理的なソフトウェア
 実行モジュールだけ提供されるプログラム。(裏で何をしてもわからない。検証できない。)

と、こう分類しちゃうと「世の中ほとんど反倫理的じゃん」「随分偏った考え方だな」と、最初は思った。また、有償かタダかは、問題ではないことにも驚いた。

最初は思った、ということは、この本を読み終えたときにはそうは思わなくなったということだ。
むしろ、反倫理的なライセンスのソフトウェアが蔓延し、それほど遠くない将来に、現在の僕たちが常識と考えている自由が無くなる可能性を実感するようになった。

この危機感を端的に説明するのは難しいんだけど、彼の本にあった、料理のレシピを例にこの反社会的なライセンスを説明してみよう。

レシピは、料理そのものではない。が、料理を作るために必要な情報だ。
(プログラムソースはプログラムそのものではない、が、プログラムを作るために必要な情報だ。)
Aさんの作るある料理がとても美味しかった。隣人のBさんにお裾分けするととても喜んだ。
(Aさんのあるプログラムはとても良い機能を実現していた。隣人のBさんにその画面を見せるととても喜んだ。)
Aさんはお裾分けと一緒にそのレシピをBさんにあげた。
(AさんはそのプログラムとプログラムソースをBさんにコピーしてあげた。)
Bさんはその料理をもう一工夫してさらに美味しい料理にした。
(Bさんはそのプログラムソースを改変してさらに良い機能を追加した。)

X村のケース
Bさんは一工夫した料理の新しいレシピをAさんにお返しした。
(Bさんは改変したプログラムソースをAさんにお返しした。)

Z村のケース
Bさんは一工夫した料理の新しいレシピは公開しなかった。
(Bさんは改変したプログラムソースを公開しなかった。)


===時を経たX村とZ村。===
最終的に料理が美味しい村はどちらになるだろうか。
一方で、やたら料理の看板が目立つ村はどちらになるだろうか。
実はBさんは村一番の実力者(or独裁者)で自分のレシピで作った料理を村の名物料理にしたかった。レシピを公開しないBさんはどんな行動をとる?



ストールマンは、レシピの私有化/所有を何もせずに放置していくと、いずれ料理の自由は無くなる、という事を言っている。
名物料理を独占したいBさんは、過去に公開されてしまったAさんのレシピはどうにもできないが、Aさんが新しいレシピを公開するのは我慢ならないのだ。
Bさんは独占が唯一最大の目的で、村の名物料理がレシピの公開によって発展していくことなど害悪としか感じていない。
Bさんは、「私のレシピが盗まれた」といちゃもんを付け、「みんなのレシピを守らなければならない」とレシピを金庫に仕舞うように触れ回り、「守られたレシピ以外の料理を作るのは村の掟にそむく」などという新しいルールを制定し、村人たちが料理そのものに嫌気がさしたころに「全ての料理から関連するレシピ使用料を徴収します。」と独占を完成させようとしていく。


そんな悪夢に対する防波堤の一つが、GPL(GNU Program Lisence)だ。
GPLライセンスは、GPLライセンスされたプログラムを改変したプログラムもまたGPLライセンスとしてソースを公開しなくてはならない、という、ライセンス法規を逆手に取ったライセンスだ。
他人のレシピを参考にしたのなら、そのレシピも公開しなければならない、というライセンスだ。

村の掟は「隣人を助けよ」なのだ。
そして、その習慣が根づいているうちは、たまにBさんが吠えようとも、美味しい料理にありつける。


そんなわけで調べてみたら、Debian GNU/Linuxなら、すべてのモジュールがGPLになっているらしい。
Ubuntuから乗り換えてみよう。
きっと、ちょっとずつ使い勝手が悪い部分はあるだろうけど、ま、使って慣れてしまえば大したことはない。だろう。
Ubuntuで、多少は、昔のコマンド使いの感覚も思い出したし。


ストールマンについて(Wikipedia)

ストールマンの伝記和訳。彼の信条に従い自由なライセンスとして公開されている。

ストールマンの考え方、人柄、がよく現れていて読みやすくて割と最近のインタビュー記事。

彼の考え方が端的に示されている「コピーレフト(ライトではない)」の説明@Wikipedia

青空文庫で公開されている「自由か著作権か」

0 件のコメント: