火曜日, 6月 28, 2011
再帰的近代化
↑目まいがする動画。
その昔、あらゆる生命は海にいたという。
初めて海面から顔を出し、空気に触れた生き物は、海中深くに潜ったままの原始的な生き物に、こう声をかけたに違いない。
「おい、いつまでそんな原始的な暮らしをしてるんだい?」
初めて陸にあがり、陸と海を行ったり来たりするようになった生き物は、未だ海から出られないままの原始的な生き物に、こう声をかけたに違いない。
「おい、いつまでそんな原始的な暮らしをしてるんだい?」
二足歩行の末、初めて道具を持った生き物(ホモ・サピエンス)は、未だ道具を使っていない原始的な仲間に、こう声をかけたに違いない。
「おい、いつまでそんな原始的な暮らしをしてるんだい?」
時代は巡り巡って。
日本の高度成長期。特段の能力に関わらず時間を削って何かをすれば儲かる時代。
都会に出てそこそこの贅沢もできるようになった生き物は、昔ながらの暮らしを続ける田舎の生き物に、こう声をかけたに違いない。
「おい、いつまでそんな原始的な暮らしをしてるんだい?」
そして今、都会での贅沢とされてきた暮らしが、何か、くすんで見えるようになってきている。
既に高度成長期の脳天気な贅沢はカッコが悪く、「エコに配慮しています」が透けて見えなければならないようだ。
新しい生き物(ライフスタイル)の誕生だ。
もうそろそろ、その新しい生き物は、昔ながらの暮らしを続ける生き物に、こう声をかけるだろう。
「おい、いつまでそんな原始的な暮らしをしてるんだい?」
いずれ、地球の中の原始的な生物たちの話だ。
エコや脱原発などに見られるライフスタイルの見直しを含むこれからの近代化を、再帰的近代化と呼ぶのだそうだ。
たまたま目新しいネーミングが付けられただけで、ずっと、再帰的近代化は遙か大昔から続いているのだろう。
木曜日, 6月 23, 2011
タバコ部屋の奇跡
↑のビデオはまさにワールドカフェを開催しようとしている冒頭の説明風景。
一般にタバコ部屋では会話が進む。
非喫煙者には申し訳ないが、割と仕事の重要な話なども、タバコ部屋で耳に入ることが少なくない。
長い退屈な会議を終え、その会議で一言も発しなかった参加者が、タバコ部屋で核心をつく発言をすることすらある。
そして、会議で決まらなかった結論が、タバコ部屋で決まることすらあるのだ。
タバコ部屋マジックだ。
先日、World Cafeという方法の会議を体験した。
この会議の方法、タバコ部屋と同じように議論が深まる。
しかも、ファシリテーター無しに自然に深まるのだ。
ファシリテーターがいない代わりに、ひと工夫あった。
トーキングオブジェクトの存在だ。
私が体験したWorldCafeのルールでは、テーブルに一つしか無いトーキングオブジェクト(ぬいぐるみ)を持った人にしか発言権はない。
持たない人は、持った人の発言を言葉を挟むこと無くじっと聞くしか無いのだ。
朝まで生テレビではどうだ。
トーキングオブジェクトの代わりに、田原総一朗が場を仕切る。
とはいえ、仕切りきれなくなったり、あるいは、田原自身が発言に言葉を挟んだり、どうしても恣意的に議論が進んでいると言わざるを得ない。
特に、最近の田原さんは、お年のせいなのか、以前のような精彩に欠けているように感じる。
10人もの参加者を仕切るのは、それだけ、体力も神経も使うタフな仕事なのだ。
もうひとつ気がついた。
トーキングオブジェクトを持ちながら話す人の、どこか楽しそうな雰囲気。
そりゃそうだ。いい大人が、例えば豚のぬいぐるみを手に話すのだ。
エキサイトしようにも、あなた、手にしてるのはサングラスをかけた豚のぬいぐるみですよ。
そして、トーキングオブジェクトを持ってさえいれば、確実に話を聞いてもらえる。
この効果も大きい。
その場で自分自身が必要とされていると感じることが出来る。
自分自身の意見をもとに、たとえ逆の意見が出てきたとしても、それは自分の意見があったからこそなのだと感じられる。
そうやって、発言すればするほど、、、そう、気持ち良いのだ。
発言が気持ち良いと感じられない会議が多いことの裏返しかもしれない。
が、気持ち良いからやめられないのだ。
話戻ってタバコ部屋では基本的にリラックスしている。
それに加え、上司や部下の垣根も低くなる。所詮、日陰のタバコをやめられない人間同士だ。
さらに、タバコを咥えている間は会話が続けられない。相手に話を委ねる。
もう一つ大事なことを忘れていた。
場の話だ。World Cafeでは、普段のオフィスを離れ、カフェのような場で行うとされている。
皮肉にも嫌煙権の意識が進んだ結果、タバコ部屋はオフィスからどんどん離れていく。
冗談ではなく、オフィスの敷地内では禁煙で外や近所のカフェに行かざるを得ないケースだってあるだろう。
なるほど、タバコ部屋のマジックとはそういうことだったのか。
World Cafe方式の会議は、割と新しい概念のコミュニケーション方法らしいけど、喫煙者の僕はもう何年も日々体験していたわけだ。
だからといって、タバコ部屋方式の会議、とは言えないわな。
ひとり密かに心の中でだけ思っておこう。
水曜日, 6月 15, 2011
unstoppableを観た!!
何本、何十本、いや、何百本振りだろう。
久々のホームランでした。
もう、喉が渇くことにも気がつかず、ラストシーンまで一気に観終えます。
日を置いて、落ち着いて考えたいけど、ベスト5に入ったかも。という興奮が醒めない映画。
映画の良さは観て頂くとして、この映画、危機管理の観点でも興味深い。
予め用意されたリスク対策が肝心な時に機能しないこと、経営層の判断に対立する現場の判断。
リストラ間近のベテランとコスト削減のために採用される若者。
暴走列車が積載する猛毒の化学薬品、爆発のおそれのある大量の燃料。
スピードを緩めることができないまま、郊外から都心に突っ込んでくる列車。
事態がわからず、思うように避難誘導できない沿線住民。
テレビ局ヘリからの現場中継、緊迫するコントロールルーム、苛立つ関係者、
。。
不謹慎ながら、思わず、フクイチを思わずにはいられなかった。
少なくとも、映画では、常に「最悪を想定した避難」が行われていた。
実際に起きた事故から着想を得たシナリオらしい。
映画はハッピーエンドなんだけど、映画ぐらいはそうでなくちゃ。
水曜日, 6月 08, 2011
"薬は良心"・・・
馬鹿につける薬は無いと言うが、実際は、賢いと思っている人につける薬は無い、、、
とか悠長な言っていられない。
せめて、このような情報を拡散させるしかできない。
お上に頼る日本文化?は、歴史的にも最悪な結末しか無かったのではないか。。
考え方の基本は極当たり前、シンプルなものだ。
●年間許容被爆量1m/SV以下は法律に定められた基準
●放射能は法律により"国"にしか取り扱いが許されていない
覚せい剤が蔓延したからといって
「多少の覚せい剤はただちに健康に被害が無い」
と事実上黙認する社会だとしたらどう思うか。
以下は、武田邦彦さんのブログより抜粋。
http://takedanet.com/2011/06/post_ae35.html
~~~~~~~~~~~~~~
「安全病患者リスト」武田邦彦
1)自治体のお役人・・市民の問い合わせに対して法律を勉強せずに「安全です」という奇妙な症状を示している、
2)校長先生・・保護者の問い合わせに対して「文部大臣が」と答えている。文部大臣より法律や決まりが大切、
3)放射線医療関係者・・講演会などで1年100ミリまで大丈夫と奇妙な言う症状を示している。1年1ミリを決めて、今までそれを守るように言ってきた人なので、かなり重症、
4)大学の先生・・かけ算、足し算をせず、空間からの線量率だけで、食事も何もしないということを盛んに言っている.新しいことを言いたいという潜在的な欲求が症状を示している、研究費の獲得も感染の原因になっている、
5)NHK・・受診料を強制的にとっているので、他の報道機関と全く違う.未だに法律には触れない特殊な症状、受診料は国民からとっているが、予算の承認は国会だから、国会に顔が向いているのが感染の原因と推定される、
6)朝日新聞・・これまで一貫して「危険病」といっても良いぐらい放射線については厳しかったのに、普通の原発の漏れの20億倍になると、突然「安全病」に感染した、3月12日に福島の記者を待避させたとの情報もあり、疑似感染の可能性もある、
7)政府・・感染の発症点。隠匿体質と国民を人間と思っていない潜在的な考えが病気を生んだと考えられる、
8)大人・・大人は郷土や土に愛着があって汚染された土地を離れられない。それはよくよく理解できるが、だからということで子供を道連れにする症状。子供は新しい土地で元気に生きることができる、
9)知事・・県内の生産者が票田なのか、汚染された農作物を子供に食べさせて被曝させることに熱心、
10)市長・・汚染された瓦礫を汚染されていない地域に持ち込み、汚染を拡げることに熱心、
~~~~~~~~~~~~~~~
抜粋ここまで
今は、自らが自らを守る事しかできない。
火曜日, 6月 07, 2011
もしドラ、、続き
↑「いなかっぺ大将」って天童よしみが歌ってたんだ!
先日、もしドラを観てきて、まぁ、中学生男子を見に行くのでなければ映画館に行くまでもないという話を書いた。
ドラマ中で、いくつか感心した(映画の出来という意味ではなく、ドラッカー的に)事を書いておこうと思う。
・イノベーションの始まりはお互いを理解し合うこと、もしくは、イノベーションの前提が相互理解だということ
どんなに立派なビジョンや目標があったとしても、信頼しあえるチームでなければイノベーションの"イ"の字にも辿りつけない。この映画では、そこんとこは、なかなかうまく表現できていたと思う。
・信頼しあうためにやることは対話しかない
第三者が四の五の言っても誤解は解けない。誤解は、その当人同士達が腹を割って話ができて初めて理解し合えるようになる。
人は、そうそう悪意を持って何かをやらかすことはない。仕事ならなおさらだ。
信頼しあうこと、そこからようやく「役割と責任」が機能し始める。
・役割と責任
人それぞれの特性とやりたい事、夢、やりたくない事、多様性を認めて初めてチームの役割分担が可能になる。
この映画では、一番野球の下手な選手が、「主将」を務めることになる。
彼が、チームを纏め、野球部以外のステークスホルダーを纏めるチカラを持っていたのだから当然だ。が、現実には滅多にお目にかかれない。
どっか、ヨーロッパのプロサッカーチームで、元サッカー監督付きの通訳の方が立派に監督を務めてるチームがあった。
・結果は結果でしか無い
真摯に取り組んでいるならば、最後は自分たちを信じ、最後まで信じきる事しかできない。
結果を求め、真摯な取り組みを信じられなくなったとき、全ては水泡に帰すかもしれない。
この映画で、この辺りは、盛り込もうとして消化不良気味だったかな。ま、チャレンジしたのは立派。←上から目線・・・
この間は思い出せなかったけど、前田なんたらがオバチャンになったとき、演歌歌手の天童よしみさんになりそうだと、映画を見ながら思ってました。っていうか、映画見ているときに、あの演歌歌手なんてったっけ、あれあれ、、、、と記憶のジャングルを大分彷徨っていました。
天童よしみ、だったよなぁ。結局、「演歌歌手 のど飴」でググって判明。
自分の記憶力が残念。。。
月曜日, 6月 06, 2011
【心理学的に証明される権力者の傾向】
時の総理大臣をみるまでもなく、出世と共に人間が変わってしまったり、という、そんな話。
心理学的に権力者になると人は変わっていくのだそうだ。正確にはそういう傾向があるのだそうだ。
どう変わるかというと、
1.他者の状況や感情に対する共感性が低くなる
2.偽善的傾向が強まる(他人に厳しく自分に甘い)
http://wiredvision.jp/news/201106/2011060319.html
らしい。
権力者でなくともそんな人は数多に存在するし、ぼくだって、そんな部分は少なからずある。
自分が自分が~、と、特に経験を裏付ける形で要職についたりすればその傾向は強まる。
そんなことを考えて気がついたのは、過去に、家庭において明らかにそんな権力者的傾向が強かった時期があったことに気がついた。
僕は、決して「威張り散らす」タイプではない。
しかし、結果的に、共感できずに偽善的行動に流れていた時期があった。
そもそも、権力者とは何なのか。
権力を行使する人。
ということは、権力を行使する対象があれば誰しもが権力者となる。
権力者とは、特別な人ではないのだ。政治家や企業経営者のように社会的に偉い人だけが権力者ではない。
社会的ポジションは関係ない。
飼い犬に対して飼い主は権力者であるし、子供に対しての親もそうだ。
そしてもう一つ、権力者的振る舞いは、必ずしも一方向に働くわけではない。
ある局面や状況については上から下、違う局面では下から上、そんな風に支配する側と支配される側が入れ替わる事もあることに気がついた。
例えば、お金に関しては夫。子育てに関しては妻、そんなケースだ。
僕の場合、そんなケースが当てはまった時期は、家庭を持ち、仕事もソコソコ上手くいっていたときだ。
僕自身は良くも悪くもキャラクター的には「権力者的」ではないと思う。ヘナチョコオヤジだ。
が、家庭人としての僕は、ヘナチョコで威張りこそしないものの、心の中では家族に対し共感できずにいたし、偽善的行動をとっていた。
この場合、権力者然として振舞っていたかどうかではない。
結果として、権力者的な傾向に陥っていたということだ。
ステレオタイプ的な家族像に囚われていくと、母はこうあるべき、とか、父はこうあるべき、もっと言えば、長男なんだから、とかそんな風に役割が割り振られがちだ。
でも、父親がリストラされたりなんかだと、そうそうステレオタイプは維持できないんだけど、たまたま、父はリストラもなく、母は専業主婦で云々とステレオタイプにはまった時こそ注意が必要なのかもしれない。
少なくとも僕の場合はそうだったように思う。
父としての僕はステレオタイプ的に順風満帆だったし、家族それぞれが、絵に書いたように役割を果たしていた。
それぞれが、自分らしさではなく、"こうあるべき"的なステレオタイプの役割を担う時がヤバイ。
役回りをソコソコこなしていくうちに、それぞれの立場の観点で、皆が権力者となるのだ。
お互いが、お互いを共感できない。
お互いが、お互いに対し、偽善的に接する。
夫婦お互いがそんな風に潜在的には「私こそ権力者」と振舞うようになる。
態度こそ権力者でなくとも、権力者特有の独善的な考え方に囚われるようになる。
お互いがお互いの気持を理解できなくなり、お互いが偽善的に振る舞うようになる。
お互いがお互いをコントロールしているつもりになり、、、、、
そもそも家庭、家族像をステレオタイプ的に捉えるようになったのは何故だ?
テレビ番組やCMで繰り返し流される「幸せのカタチ」。
いつの時代も三種の神器的に家庭に備えるべき商品があった。
その商品を中心に家庭の姿がステレオタイプ的に描かれていく。
休日の過ごし方もそう。今だったら、コストコで買い物とか!?
最近では、商品を売る側はペルソナ戦略とかいって、今存在するニーズでは飽きたらず、ニーズ自体を創りだす。
「架空の売り込み先イメージ」を作り、当然、そんなイメージを先行させるべくCMを流していく。
購入対象の人たちを調べる(共感しようとする)のではなく、人々を売る側の設定したペルソナに合うように誘導するのだ。
最近なら、エコなライフスタイルを紹介し、未だ使えるモノを捨てて買い換えさせるのが最近の流行り。
エコカー、自転車、LED電球、扇風機、LED電球、"快適でオシャレな"登山、サマータイムと朝食外食化、、、
最近ではポルシェまでもがハイブリッドタイプがあるらしい。
結果、前よりも幸せになったか?
社会に対して経済界(商売人)が権力者的に接している気がしてならない。
彼らは、消費者と共感する気などなく、偽善的にモノを売りつける。
そんなに経済に権力を持たせて良いのか?
消費者は経済の奴隷になっていないか?
※はみ出し
「ペットボトルのリサイクルをしている人は、していない人に比べて環境を汚している」
http://takedanet.com/2007/04/post_82ef.html
日曜日, 6月 05, 2011
もしドラ(映画)を観た
一応、"ドラッカー"物でもあるし、どうなのかということで観に行った。
一応、ドラッカーの教えを一言で言うと、という感じの内容だった。
とか何とか言うより、まず、驚いたのは、映画館。
会場に入っていくと、中学生男子しかいない。
大げさではない。入りは、まぁ、席の半分ぐらいが埋まっている感じなのだが、なにしろ、全て中学生男子なのだ。
理由はその時にようやくわかった。
アーカーベー48の前田ナンタラが主演だからだ。
なるほど、世の中、この映画はそーゆー捉えられ方だったのか。
先週末に、職場の方々に「もしドラ観に行くように」などとメールした僕は、アーカーベーマニアと思われたのだろうか。。。
そんなわけで、中学生男子たちの真ん中で見ることとなった。
知ってる役者は全二名。
監督役の大泉ナントカと、マネージャーの親友の母役のナントカぐらい。
あ、あと、ドラッカー本に出会う書店のシーンで、石ちゃんとお笑い女性タレントも知ってる顔だった。
後は、とにかく、若い若い。観に来てるのが平均年齢14歳だとすれば、出演者の平均年齢も18ぐらいなのではないか?
少なくともあの映画館での最年長が僕だったのは確信を持てる。
で、肝心の、ドラッカー。
ストーリーに沿って「ここぞ」という場面でドラッカーの教えが唱えられるのだ。
0.真摯でありなさい
1.存在意義を顧客視点でしっかり考えなさい
2.存在意義を共有しなさい
3.シンプルな目標を共有しなさい
4.イノベーションを起こしなさい
5.成果は結果でしかない。プロセスを大切にしなさい。
ぐらいかな。
まぁ、あの中学生たちにドラッカーの言葉が伝わったようには思えないのだけど、おかげさまで、エンドロールに流れる「♪カチューシャー♪」という鼻にかかった曲がアーカーベーの曲だということがわかっただけでも行ったかいがありました。と日記には書いておこう。
どうでもいいけど、エンドロールで曲が流れだすと、中学生たちも一緒に歌い始めた。
オジサン的には居たたまれなくなり、久しぶりにエンドロール途中で退席したのでした。
いや、前田ナンタラは、大物演歌歌手のほら、小柄な人、彼女に似ているように見えて仕方がなかった。
そんな事を考えながら、たまに、大泉ナンタラの演技に涙ぐみつつ見終えたのでありました。
映画そのものは映画館で見なくてもいい映画だと思うけど、あの中学生男子たちの雰囲気は面白かった。
映画開始前のCMも、必ず声を出して唄ってたし。
違法コピー防止のCMに至っては、あのカメラ頭男の踊りを席で一緒に踊ってるヤツもいたし。
昔も今も中学生男子は元気だ。
よしよし。
土曜日, 6月 04, 2011
放射能も嘘社会も子供には最悪
「共同通信」が配信したニュース。
http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060401000701.html
東電管内で家庭用電気の契約アンペアを下げる世帯が増えて、「殺到する申し込みに対応し切れない状況」らしい。
このニュース、何故かテレビや全国紙では話題になってないみたいだけど、地方紙では配信されているようです。
少なくとも北海道新聞と四国新聞?のHPでは紹介されていました。
検討している人は早めに申し込まないと契約アンペア減は有料化される可能性が高い、かもよ。
("盗りやすいところから盗る""騙しやすい人を騙す"のは、もう、この国のポリシーになりつつある。)
夏のピーク停電脅しをしてる現在、しまった以上、今さら、契約アンペアは落とさないで、とは電力会社は言えません。
残念なのは、普通の企業は売上減は利益減に繋がりがちだけど、かかったコストの3.5%を利益として電力料金を算出することが法律で定められているんだから、"経営"が存在するのだとすれば、経営者いらないぐらいの安泰な会社。
さすがにあり得ないと思いたいけど、仮に、今までの電力会社利益ルールを東電に適用するとすごい。
補償なんかでコストが天文学的に膨大になればなるほど、それだけ膨大な利益を産んでしまうの!?
全くもってあり得ないルール。誇り無きズル賢い人はいるもんです。
そんなルールで儲かったとして、幸せになれたのだろうか。人を幸せにできたのだろうか。
今、幸せなんだろうか。
・保安院の"緊急"会見。(測定した放射能値を発表していなかった事を発表)
http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060401000701.html
東電管内で家庭用電気の契約アンペアを下げる世帯が増えて、「殺到する申し込みに対応し切れない状況」らしい。
このニュース、何故かテレビや全国紙では話題になってないみたいだけど、地方紙では配信されているようです。
少なくとも北海道新聞と四国新聞?のHPでは紹介されていました。
検討している人は早めに申し込まないと契約アンペア減は有料化される可能性が高い、かもよ。
("盗りやすいところから盗る""騙しやすい人を騙す"のは、もう、この国のポリシーになりつつある。)
夏のピーク停電脅しをしてる現在、しまった以上、今さら、契約アンペアは落とさないで、とは電力会社は言えません。
残念なのは、普通の企業は売上減は利益減に繋がりがちだけど、かかったコストの3.5%を利益として電力料金を算出することが法律で定められているんだから、"経営"が存在するのだとすれば、経営者いらないぐらいの安泰な会社。
さすがにあり得ないと思いたいけど、仮に、今までの電力会社利益ルールを東電に適用するとすごい。
補償なんかでコストが天文学的に膨大になればなるほど、それだけ膨大な利益を産んでしまうの!?
全くもってあり得ないルール。誇り無きズル賢い人はいるもんです。
そんなルールで儲かったとして、幸せになれたのだろうか。人を幸せにできたのだろうか。
今、幸せなんだろうか。
・保安院の"緊急"会見。(測定した放射能値を発表していなかった事を発表)
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