木曜日, 1月 27, 2011
水曜日, 1月 26, 2011
紙の教科書で学んで失ったもの
http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/097/index.html
子供の世界が騒がしい。
上述↑リンク先の情報で「電子教科書が子供の学習に役に立つかどうかは、私塾で採用されていない事実を考えれば明白」というような事が書いてあったが、全くそのとおりだ。
「子どもの教育のために教科書の電子化を!」という言い方は欺瞞以外の何者でもない。
何者でもないのなら何者なのかというと、「ビジネス創造(儲かりまっせ)としての教科書の電子化」だ。
そもそも、食うに困らない時代になってからの大人たちの中(まぁ、50歳以下としよう)に、「自分が子供の頃に、PCや携帯があったら、立派な大人になれたのに」と思っている大人はいるのだろうか。
あるいは、「自分が子供の頃は、情報が少なすぎたから勉強できなかった」と感じている大人はいるのだろうか。
あるいは、今をときめくゲーム開発者が、「自分が子供の頃に、電子教科書で学んでいたら、もっと素晴らしいソフトを開発できた」とか感じているのだろうか。
はたまた、「子供のうちに教科書を電子化して慣らしておかないと、大人になって最新機器を使えない」とでも思っているのだろうか。
ようやく法制化された「携帯会社は子供達を悪意あるネット情報から守らなければならない」というルールも、Wifiが使えれば携帯会社との契約無しでも使えるスマートフォンによって、有名無実化している。
子供に何の制約も無しにiPodを持たせるということは、その子が深夜の繁華街の路地裏をうろついても親は気がつかない、ということだ。
※携帯電話の場合は、以前、子供をターゲットにしたSNSサービスなどが、子供同士のイジメや子供目当ての犯罪に使われて社会問題化した際に、子どもに携帯を持たせる場合はアクセス制限などの措置を取らなければならないという法律ができた。
時間と場所の制約を超越するネットでは、現実社会では常識の「夜の繁華街の路地裏、は警戒すべき」のような肌感覚は得られにくい。
そして残念ながら、法の規制がなければ、いずれ誰かが、子供であろうと何であろうと金儲けの対象にしてしまう。
しかもネットは「誰であれ人を集め」れば、金になる。
その製品価格が「子供のおもちゃ」にしては高額で普及していない間は社会問題化しない。安価になったからと言って、親が音楽プレーヤー(のつもりで)として買い与えたiPodで子供は制約無しにネットサーフィンできるのだ。
とかなんとか言っていても、未払い給食費の問題など関係なく、子供への影響云々より経済への影響が計り知れない(儲け話をフイにする)というホンネで電子教科書は導入されるのだろう。
電子教科書ソックリのiPadカバーが売れる日は近い。←昔は教科書ソックリの教科書ガイドがありましたねぇ。
せめて、少し時間をかけて(人間の1世代分ぐらい)考えてもいいだろうに。。。
WIREDで印象的な言葉があった。
今の子供達は「親が認知できないであろう環境の中で成長」している。リスクは誰が負っているのか。。。
月曜日, 1月 24, 2011
二晩ほどかけて、ゆっくり沁みる映画
極度の緊張は、思考能力や感情を停止させることがある。
例えば、最近、と考えてみたけど、初老とも言えるこの年令になると、さすがに簡単には緊張しなくなって、むしろ、緊張感のない生活で、目も口元も体も全体にだらし無くなりさえしている。少なくとも最近は極度の緊張を感じたことは思いつかない。
それでは、話が全く進まないので、今さっきの事は忘れてしまうけど、忘れることのない昔の話を思い出してみよう。
例えば、遠い昔、ピアノの発表会。それも幼少の頃の発表会。
これなんかは、極度の緊張の最たるものだった。
一度など、鼻血を出したこともある。そういう時に限って、衣装は、白いスーツだったりして、周囲からはぴんからトリオとか言われたものだ。
白いスーツに真っ赤なネクタイ、そして、鼻血のシミ。
そういう緊張極まっている時というのは、何かを考えて行動していないのは確かだ。
ロボットのように決められた場所でお辞儀して、決められたコースをギクシャクした足取りでピアノにたどり着き、座り、何も考えずに弾き始めるのだ。
弾き始めに、「どう弾くか」など考えてはいけない。客席にかぼちゃが並んでると思え、とか言うけど、これもダメだ。客席の存在自体を意識に置いてはならない。
「僕はカラクリ人形です。」ぐらいの自己暗示が必要だったのだ。
だから、ピアノなんて、目を瞑って弾けるほどに練習しないといけない。
本来であれば、音楽としての完成度を極めるために練習を積むのだろうけど、当時の僕は、そんな事は思いもつかず、ただ、ソラで弾けるようになる事を目指していたし、それでようやく、自分の記憶に残せない緊張感の中で一曲弾くのだった。
だから、「演奏どうだった?」と聞かれても、「ドキドキした」しか記憶にはないのだ。
そんなだったから、高校生ぐらいから始めたロックバンドでは、ただただ、自分が楽しむ事に徹していたし、バンドの仲間から「練習嫌い」と言われようと、無理に練習することすらせずにいた。
練習は緊張を産むのだ。
なんか、こう書いちゃうと、緊張が良からぬもののように読めちゃうけど、当然、必要な緊張とか、そういうものは理解しているつもり。
ただ、緊張が嫌いだったし、緊張に打ち勝つような強さが無かったのだと思う。
さて、話し戻って、その緊張による思考停止を最近経験した話。
それはチョット前に観た「Frozen River」という映画。
この映画、とても静かに、言ってみればさほど大きな事件があるわけでもなく、淡々とストーリーは進んでいく。登場人物たちも、北九州に住んでいれば目立つかもしれないアメリカ人とアメリカンインディアンだけど、映画の舞台はカナダに接したインディアン居留地のある小さな街で、ごく、普通の人達だ。
なのに、気がつくと登場人物たちの極度の緊張状態を共有していることに気がつく。気がついたときには、その緊張感から逃れることは出来なかった。
多分、数分のラストシーンで、緊張感から解放された、と観終わったときには思っていた。
ただ、ほっとした気持ちと同時に、なにか、引っかかるようなモノを感じて、時々、そのシーンが目に浮かんだりする不思議な感覚があった。
実は、その緊張感は、映画を見終わった後も何日か続いていたのだ。
そして、今日。
観終わって二晩を経た今日、ようやく緊張感から解放されたと実感した。
スッキリした、とは違う、沁みたなぁという感覚。
時間が必要だったのだ。正に、あの映画が描いた日常の小さなドラマが、必要な時間をかけてようやく染み渡ったのだ。
極度の緊張から解放された後、じんわりと数日かけて心に沁みる。
そのじんわり加減は、映画のストーリーと重なる。
映画に描かれたた凍りついた川が、春の訪れとともに、ゆっくりゆっくりとその流れを取り戻すように、映画を観た僕にゆっくりゆっくりと沁みてくるなんて、実はすごい映画なのかもしれない。
ただ、一般に、映画の評価は観終わってすぐの評価であることが多いだろう。そう考えると、なかなか、評判を得るタイプの映画ではないかもしれない。
と、調べてみたら、アカデミー脚本賞にノミネートされていたようだ。
NHKがスポンサーに加わるサンダンス映画祭では、しっかりと、グランプリに輝いている。
なんだ、僕が鈍かっただけか。
沁みただけ良しとしよう。
↓はフローズン・レバーです。
日曜日, 1月 23, 2011
戦争映画に参戦し辛くも勝利
映画"コード・イーグル"をみた。
90分の映画の冒頭あたりからその予感はあった。
10分を過ぎた頃には、途中で見るのを止めちゃおうか何度もリモコンを手にした。
いずれレンタルだ。しかも50円でだ。
見るのを止めるのは簡単だった。
しかし、戦争も一旦始めればやめられないのと同様に、見るのを止めるわけにはいかなかった。
そこで無意味に苦境に陥った主人公の兵士が言う。
「俺は諦めない。最後まで命令に従う」と。
って、最初の戦闘シーンで、敵に上陸地点がバレてたと考えないのか?
いくら敵の支配下の島だからって、どう見ても撮影しやすい以外に何もメリットが無さそうなビーチのど真ん中に真っ昼間に上陸するか?
30人で上陸して十字砲火を浴びて、どう考えても生き残れない状況で、特に理由もなく7人が生き残って、その時点で、「俺は諦めなきゃバカか?」としか思えないはずだ。
いや、主人公の兵士を責めても仕方がない。
「見続ける俺はバカか?」と考えるべきだったのだ。
内容はゴレンジャーにも遠く及ばない、っていうか、ゴレンジャーに失礼な、内容だ。
だけど、仕方がない、僕も主役の彼も同程度のバカなのだろう。
もう少し見てみるしかない。
次から次へと繰り出される、予想以下の展開。
予想以下の展開に、次の予想のハードルを下げると、敵もしたたかなもので、更に予想を下回る展開を用意してくる。
仕方がない、気持ちを切り替える。
これは映画ではない。アーミーオタクたちのオフ会で、なんたらとかいう戦争ごっこを撮影したものだ。
そう思えば、ほら、今、倒れこみながらマシンガンを連射するシーンなんて、あれをやりたかったのだ。
ストーリーではない、あのシーンを撮影したかったのだ。
ほら、唐突に家族を想い出すシーン。
まだ到着して間もないけどさ、戦場でボロボロに疲れた表情で俯きながら「一人でも世界を変えられる」っていうセリフを言いたかったんだよ。
そんな風に誤魔化しながら見ていても、1時間あたらりからは誤魔化しも通用しなくなった。
これは重大な覚悟が必要だと悟った。
理由なんかいらない。
「僕は諦めない。最後まで見る」と。
これは映画ではない。僕が主役の最後まで見られるかどうかのDVDゲームだ。
戦場は、ここ、リビングなのだ。
覚悟を決めたあたりから、僕の顔は、梅干しを食べたような、困った顔のまま固定されたような、口の中が唾でいっぱいになった表情が続いていたに違いない。
ずーーーっと、「しょっぱいな。。。」と、もう、ストーリーにツッこむ気力もない。
リモコンに触れずにメインメニューまで戻ることが出きるかどうかの高等なゲームなのだ。
極東の50円レンタルビデオ屋さんにまでバーチャルソルト(仮想塩)を送り込んだアメリカ人と、そのソルトのしょっぱさに負けじとスクリーンを凝視する日本人中年男の戦いなのだ。
そして僕は戦った。
眠ることもなく、早送りをすることもなく、席を立つ事も、携帯をいじることもなく、最後まで諦めずに戦った。
そして、僕は、勝利したのだ。
大量の唾を飲み込みながら、最後まで見たのだ。
唾と同量の血を流していたら死んでいたに違いない。
それほど戦いは凄惨を極めた。
ラストシーンも、、、もう言うまい。
敗者にそれは酷だ。
エンドロール、あるんだ。ちょっと驚きだ。
大丈夫だ、このエンドロールに名前を刻まれるほどの罰ゲームもあるまい。
敗者は敗者なりの責任の取り方があるわけだ。
エンドロールが流れたとき、「終わった。戦いは虚しいばかりだ。」と心から感じたのでありました。
※はみ出し
この「しょっぱい」は、関取が負けたときに土俵の砂が口に入って「しょっぱい」が転化したものらしくて、「情けない」とか「弱い」とかの意味らしい。最近はお笑い芸人が使うのでなんとなくわかってはいたけど、こういう形で、体感するとは思わなかった。
※※はみ出し2
冒頭のYoutubeの動画は、運悪くDVDを買ってしまった人が掲示したようです。ご愁傷様。
↓amazonでも勝利したものの虚しさを感じた人(しかも購入しちゃった)たちのユーザーレビューが見られます。
土曜日, 1月 22, 2011
MAN ON WIRE
美しい。
今は無きニューヨークのワールドトレードセンターの二つの頂点の間に浮かぶ人影。
その人影は頼りないワイヤーの上を笑顔で歩いて行く。
当時のフィルムと関係者へのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリー映画「MAN ON WIRE(綱渡りの男)」。
その偉業に敬服するというよりも、綱渡りの姿の美しさに魅せられた。
それは、太刀打ち出来ない自然の美しさにも匹敵するような美しさだと感じた。
青い空をバックに、直立の人の影が浮いている。
日常の風景に突如として浮かび上がる、綱渡り師のシルエット。
とても凛とした立ち姿。人間のシルエットはこんなにも美しいものかと気がつかされた。
遠目にはワイヤーさえ識別不可能で、空中を人が歩んでいるようにしか見えない。
そしてそのシルエットは、ただ歩むばかりではない。
時には、その空間の中間地点で横たわりさえするのだ。
それは、横たわる大仏のようにすら思える、畏怖の念を感じずにはいられない光景だ。
映画自体は、その偉業、到底、マトモに許可されることではなく、違法に実現するまでを追ったストーリー。
どうやってビルに入るか、どうやって60mもあるビルの間にワイヤーを張るか、どうやって資材を運び込むか、上空の天気は大丈夫なのか、生きて綱を渡り切れるのか、考えれば考えるほど不可能としか思えない。
その不可能にチャレンジする動機は、夢、だ。
綱渡り師フィリップと恋人、仲間たち。
夢が叶った後、彼らは、恋人でさえも、もう交わらない別々の人生を歩んでいく。
フィリップを最後まで支えた親友が、30年以上経った今も、その時の緊張と感動を思い出し、涙を浮かべながら「ここまできて諦めるわけにはいかなかった」と語る。
壮大な夢を成し得た仲間だからこそ、その後の人生は、それぞれの人生を歩むのかもしれない。
人生をかけるような夢だったからこそ一つになったチームだったのだ。
ようやく、暗い記憶にしか重ならなかったそのビルの光景が変わったような気がした。
金曜日, 1月 21, 2011
木曜日, 1月 20, 2011
中年と怠惰
先日、朝会社に着いてからチョットした驚きがあった。
その日は、寒波の厳しい朝だった。
いわゆる凍てつく朝を会社へと急ぐ。
寒い朝はどうしても体が丸くなる。
北風を浴びる表面積を最小化しようという努力なのかどうかはわからない。
そんな丸めた体で会社に到着する。
オフィスに入る。その瞬間は暖かさに感謝する。
ロッカーにコートなどをしまい、席に向かう。
何の変哲もない、ただ、寒いだけの朝だ。
何人かに朝の挨拶をしつつ、自分の席に付く。
自分の足元が視界に入る。
腹は大分出てきているが、まだ足元が見える程度だ。
足元が視界に入る。
自分の足元。
そもそも、このオフィスは比較的小さなデスクなので、足元に許される面積および体積が狭い。
どれぐらい狭いかというと、仕事するうえで特に不具合無く仕事が出来る程度に狭い。
だから、脚を組むなんていうタカアンドトシだったら「欧米かよ!」っていうような態度や、椅子に座ったたままタップダンスの真似事をしたりとか、は出来ないし、そもそも、デスクの下が狭いせいで、なんだかいつも臭っているような気もする。
"気もする"と書いたのは、そんな気がしてしまった以上、絶対に確かめたくないし、誰かに指摘されても認めたくない、そんな気持ちなのだ。
話し戻って、その心なしか黄色く霞んでいるようなデスクの下に見えるのは、紛れもなく自分の足だ。
出勤用の茶色い革靴。出勤用のズボンの裾。
そこまでは想定の範囲内だ。
そして、通勤用のズボンの裾から顔を覗かせる、毛糸のレッグウォーマー。
レッグウォーマー!?
そこには家で足元の寒さ対策のレッグウォーマーが。。。
もちろん、ピンク色でも無いし、ハートの柄でもない、中年男子に相応しい、濃紺の地味なレッグウォーマーだ。確か、去年のこの時期、スーパーで買ったやつだ。
いや、相応しい色柄かどうかは問題ではない。
部屋着、もしくは部屋着の一部を着用したまま、人によっては神聖なる職場に着て来ている事が問題だ。
そういえば、朝、着替えるときに、夜寝るときに履いた靴下を脱ぐのが面倒で、「ええいっ、この靴下でいいじゃん」と、怠惰な判断を下したことを思い出した。
「どうしよう」と、思いながらも、「うーん、暖かい。」と、その存在を認識してこその幸せな足元の暖かさ。
「うーん、暖かい。このまま履いておこう。」と、またまた怠惰な判断をくだす。
不思議なもので、その存在を忘れているときにはそんな幸せな気持ちは味わえないのに、気がついてからは、何か特した気分だ。というか、多少ズボンの裾からはみ出したところで、気にならないのは中年の特権だ。
そんなふうに、その日は一日中ずっと幸せを感じて過ごしたのでした。
怠惰は時に幸せを増幅する、のでした。
水曜日, 1月 19, 2011
負のスパイラル進行中 by 旧メディア(テレビと新聞)
新聞なんてとってないから旧メディアの報道なんてテレビしかわからないのだけど、去る1/14、23年間に渡るチュニジアの独裁体制が崩壊したというニュースを、もう三日以上経った今日知った。
あまりの自分の無知さ加減にガッカリではあるものの、なんか、普通に目に触れなかったことが不思議に感じられたので、ググッてみた。
その画像がこれ。
なにか良い比較対象、と思い、よく知らないが、ニュースサイトのピックアップにあった「板野友美 ソロデビュー」のニュース検索と比較してみた。
それはこれ。
いい絵がないからテレビで取り上げられず、テレビで取り上げられないから新聞もあまり報道しない、そんな負のスパイラルを想像した。
火曜日, 1月 18, 2011
角川映画最高傑作
↑これはれっきとした角川映画である。
それは、ロボゲイシャ。
何気に竹中直人が出ている。
やりたい放題、思いつくまま、止める者は誰もいない、自由な映画。
中でもお尻手裏剣とお尻刀は秀逸。
特にお尻刀での立ち回りはよくぞ映像にしたとしか言えない。
敵味方双方が、「そんな恥ずかしい格好で・・」と罵り合いながら立ちまわる、いや、お尻を向けながら後ずさりしあうのだ。
あるいは、ロボゲイシャになるまでの修行の中で、煮えたぎったしゃぶしゃぶを手で掴み取る、これもダチョウ倶楽部を彷彿とさせる、正当な日本の文化を織り込んでいる。
素晴らしい。
そんな努力の甲斐あって、国内より海外でウケているようだ。
もし、手にする機会があったら、必ず見ておくべきだ。
日本の小中学生は、道徳の時間に(←道徳の授業があるのか?)見ておくのが望ましい。
そうしないと、もし海外の友人や、通りがかりの外国人旅行客から、ロボゲイシャの話題を振られても答えられずに恥ずかしい思いをすることになってしまう。
ちなみに、ここだけの話、Youtubeのトレーラーを見てしまえば、借りるまでの必要はなかった、気もする。
月曜日, 1月 17, 2011
中年のニヤニヤ
↑のおじさんと本文とは何の関係もありません。念のため。
朝、出勤前のどうしようもなくバタバタしている中、歯磨きし始めたときに気がついた。
洗面台の鏡に歯を磨く男が映っている。中年男だ。
うーむ、これはキモい。
何故なら鏡に映るこの中年男。なぜ、ニヤニヤしているのだ。
「お前は何にニヤニヤしているんだー?」
と、ニヤニヤしながら鏡に映る男にツッコミを入れてみた。
鏡に歯磨き粉(←練り歯磨きだが)の飛沫が吹きかかった。
前日夜に見たセクシー女スパイ映画を思い出したわけではない。
朝の地元テレビ番組で新顔の女子アナを見つけたわけでもない。
とりわけ気持ちの良い天気だったわけでもない。
パーフェクトな朝御飯だったわけでもない。
いや、むしろ、普段よりちょっと目覚めが悪くて、どちらかと言えばご機嫌斜めだったような朝なのに。
そうなのだ。中年男(一人暮らし)は理由なくニヤニヤしているのだ。
ニヤニヤしているというより、ニヤニヤした顔になっているのだ。
きっと、仏か神様の存在に近付いているからかもしれない。
同時に、口元が緩くなってきているのも一つの理由だろう。
「口角泡を飛ばす」を、まだ極稀にではあるが、経験済みだ。
あるいは、感情のアクセルが緩くなってきているのも一つの理由だろう。
ちょっとした泣ける話などに、どうにも涙が止まらなくなることも増えた。
(アクセルが緩いので、泣くのも早いけど立ち直るのも早い。一方で、若者のように一旦火がついたら止まらない、ということも無い。)
こんな事を通勤モノレールの中で考えながら、やはり、ニヤニヤしていた。
そういうわけで、中年男(一人暮らし)のニヤニヤはキモいけど仕方のないものなのだ。
お願いだから通報などしないで欲しい。ニヤニヤ。
どうか優しく見守ってほしい。ニヤニヤ。
※ニヤニヤしていない時だってあるに違いないと信じたい。
土曜日, 1月 15, 2011
金曜日, 1月 14, 2011
左胸ポケットにしまっておきたいHDD
↑は、散弾銃を浴びても大丈夫なHDDケース。
銃弾をあびるような、例えば戦地に、HDDを持っていくこと自体が、なんだかなー、という気がするのだけど、まぁ、壊れないに越したことはない。
とりあえず、戦地に赴くのであれば、左胸ポケットにしまっておくのがオススメです。
このケースを数珠つなぎにして、着てしまう、というのもいいかも。
木曜日, 1月 13, 2011
「トータル・リコール」の世界
映画「トータル・リコール」では、バーチャルリアリティの旅行が舞台となっている。妻がシャロン・ストーンなのに、バーチャルリアリティの火星旅行を試しちゃうシュワちゃんはうつけ者なのだけど、とりあえず、あのレベルのバーチャルリアリティがいつ頃実現できるものなのか考えてみた。
●本日の前提
新しい知識が金になるのは30年かかる by ピーター・ドラッカー
18ヶ月毎に(集積回路の能力が)倍になる by ゴードン・ムーア
●パソコン一昔
昔は、モノクロで、っていうか、そもそも、真っ黒な画面に文字が白く光ってカーソルが点滅していたパソコン。
ちょっと思いついて、当時、80年中頃のパソコンの解像度と現在のiPadの解像度の爆発的増加具合を、ムーアの法則にある倍々ゲームと比較してみた。
PCのスタンダードとなった、IBM PC/ATがEGAというディスプレイ規格で登場したのが1981年。今からちょうど30年前だ。
●IBM PC/ATの解像度*色数
で、この時の解像度および表示可能色数が640×350×16色で、単純に掛けると3,584,000(約350万)になる。
●iPadの解像度*色数
次に、iPad。1024×768×16777216色で、単純に掛けると13,194,139,533,312(約13兆)だ。
●能力比(乱暴者の計算)
13兆を350万で割ると3,681,401(約370万)となり、単純なディスプレイ表示画素及び色数の爆発的増加は370万倍になる。
●ムーアの法則の表
次に、18ヶ月毎に倍増を計算する。アホなのでEXCELで単純な表を作成すると、こんな感じになる。
●あら不思議、意外にいい線いっています。
この表を見ながら、先ほどの、370万倍がどの辺りになるかというと、31.5年目~33年目辺りとなる。
うーん、ツッコミどころ満載だと思うけど、とても都合よい数字だ。
なぜか。ここからが本題。
●バーチャルリアリティ=没入感
Microsoft X-BOXで話題のkinect。コントローラーレスで(体のアクションだけで)ゲームをコントロールできる。
この仕組みのプレーヤーに対する影響は画期的らしい。ゲーム画面の中への没入感が「ハンパねぇ」らしいのだ。
この没入感。久しぶりに「バーチャルリアリティ」を思い出した。
で、3D流行りでもあるので、本当に勘違いするようなバーチャルリアリティの映像はいつぐらいに完成するのか、を考えてみた。
●視界占有率100%を目指して
今、仮に40インチのディスプレイなりプロジェクターを使ってそれなりに視界を塞いだとしても、まぁ、水平方向に45°、垂直方向に15°といった程度の視界占有率だろう。(もちろん、ここでは、人間は後ろを振り返ることも含めて上下左右全てに視界が及ぶと仮定している。)
で、45°と15°というのは、その人が球体に入っていた場合、その球体の1/8と1/24となり、多分、表面積の、1/192でしかない。
この数字、「えぇっ」と思ったが、そもそも、正面しか向かなければそれなりの視界占有率になるが、ここでの前提は、あくまで上下左右全ての方向を分母とするから、そんなものなのだ。
画面だけ用意するのに192倍の能力が必要なことがわかった。
●3D化を目指して
もうひとつ、3D化を考えなければならない。
ネットに様々あるテスト的な3Dシステムを見た限り、バーチャルリアリティにふさわしい自然な3Dというのは、36視差ぐらいは用意されていなければならない。
なぜ、36視差かというと、この動画を見たからだ。
これぐらいだとカナリぐっとくる。
●能力比は?
で、話戻して、全ての視界と36視差で192×36=6912となる。
今の6912倍程度の能力が実現されるようになると、いよいよ、本格的なバーチャルリアリティが実現するということだ。
実際にはヘッドマウントディスプレイのように、映像を映しだすメガネで視界を覆って、顔の動きに合わせて映像を送り込んだりするのかなぁ。。
●それは何年後か?
で、6912倍が、ムーアの法則の表で何処に位置するかというと、18~19.5年後となる。
ということで、全身を仮想世界に没入させられる、本格的なバーチャルリアリティが実現するのは、2030年頃であろう。
とはいえ、バーチャルリアリティは視覚に留まらず、触覚や皮膚感、そんなものも必要だ。
●普及とは商売になるということ
冒頭のドラッカーの定理を借りれば、バーチャルリアリティが商売となるのは更に30年後。2060年頃だろうか。
僕は生きていないだろうけど、この時代辺りでようやく、うっかりするとバーチャルな事を忘れてしまう程度の簡易版バーチャルツアーみたいなのが実現するのだろうなぁ。
●映画では2084年にはバーチャルツアーが実現している
簡易版が2060年だから、更に30年かけて現実と区別がつかないレベルのバーチャルツアーシステムが完成したのだとも言える。
そう考えると、なかなか、現実的な時代設定なのかもしれない。
●結論
僕はバーチャルリアリティでの旅行はしない。
生きてる間には間に合いません。
良かったような、残念なような、しゃろん・すとーん。
水曜日, 1月 12, 2011
イノベーションと大所帯を率いるマネージャー
マネージャー(PMではなく人事上のマネージャー)が50人もの部下を持つなんて、私のようなズボラな人間には無理~、と思っていた。
が、面白い、納得する記事を見つけた。
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2010/20100705/15377/15387/
その記事によると「敢えての大人数所帯で構成した組織の方がイノベーションを起こしやすい」という内容だ。
敢えて、マネージャーに30名~50名の大所帯を管理するように組織を構成する。
すると、物理的な限界もあって、
・細かく管理できないことで、部下の自主性が促される
・上司の特権"情報の独占"が排除されオープンな職場環境になる
・社員の自由度が担保される
・社員自ら考え行動する能動性が必然になる
・階層の壁を突破できない社員は良い仕事が出来なくなる(評価されない)
・階層の壁を超えた仕事がそこかしこで発生するためイノベーションが起きやすくなる
という状況になる。
一方リスクとして、
・収拾がつかなくなる
こともありうる。
そのため、マネージャーの役割は、
・直接的な管理はしない(物理的にできない)
・コーディネーターに徹する(物理的にこれしかできない)
・(管理しないため)面談など社員とのコミュニケーションを密に行う
・組織の方向についてもコミュニケーションの中で合意を得ていく
として組織を間接的にコントロールするのが役割となるのだそうだ。
当然、間接的にコントロールしながら組織としての結果を出すという、対人間に対するマネジメント本来のスキルが要求されるようになる。
(指示と管理は、本来、機械相手のマネジメントであるはずだ)
ちなみに、上述のサイトで紹介されているGoogle社では、上司と部下とのOne on Oneの面談は30分/週だそうだ。他に四半期ごとに個人目標設定(見直し)をするのだそうだ。
なるほど。
30分/週というのは、50人部下がいる場合、正味25時間かかるということだ。
マネージャーは、毎日、概ね殆どの時間を部下と会話している、ということだ。この場合、マネージャーの仕事は部下との会話、だと言い切れる。
部下からすれば、通常の会社のように、「忙しい上司の時間を自分との会話のために割いてもらうこと自体マイナス評価になりそう」なんて心配なく、「話忘れたことがあったけど、来週の面談で話せばいいや」ということで、そりゃあ、風通しは良くなるに違いない。
そして、この方法の本質的に素晴らしいところは、マネージャーに対し、上下関係で(対機械のように)人の上に立つのではなく「人として人を纏めていく」という能力を要求するところだ。
当然、マネージャー自身も人として成長するであろうことは容易に想像できる。
この方法はGoogleのような企業にだけ有効なのだろうか。
いや、むしろ、高度成長期の日本企業なんて、きっと、どこもそんな風に人としてうまくマネジメントしていたのだと思う。今現在だって、小規模ながらも成長している会社では、そんな風にマネジメントしている会社の方が大いに違いない。
むしろ、大した成長もできなくなった会社の方が、大量の高給取り管理型マネージャーと深ーい組織階層になってヒイヒイ息も絶え絶えに喘いでいるような気がする。
株主は株価の成長は願っても人の成長は願わない。Googleの経営参加権の無い株式公開は、そんなところでも意義深いのかもしれない。
(イノベーション後には株価は上がるがイノベーションの最中には株価が上がらないかむしろ下がる)
↓は"超"オススメです。
が、面白い、納得する記事を見つけた。
http://www.president.co.jp/pre/backnumber/2010/20100705/15377/15387/
その記事によると「敢えての大人数所帯で構成した組織の方がイノベーションを起こしやすい」という内容だ。
敢えて、マネージャーに30名~50名の大所帯を管理するように組織を構成する。
すると、物理的な限界もあって、
・細かく管理できないことで、部下の自主性が促される
・上司の特権"情報の独占"が排除されオープンな職場環境になる
・社員の自由度が担保される
・社員自ら考え行動する能動性が必然になる
・階層の壁を突破できない社員は良い仕事が出来なくなる(評価されない)
・階層の壁を超えた仕事がそこかしこで発生するためイノベーションが起きやすくなる
という状況になる。
一方リスクとして、
・収拾がつかなくなる
こともありうる。
そのため、マネージャーの役割は、
・直接的な管理はしない(物理的にできない)
・コーディネーターに徹する(物理的にこれしかできない)
・(管理しないため)面談など社員とのコミュニケーションを密に行う
・組織の方向についてもコミュニケーションの中で合意を得ていく
として組織を間接的にコントロールするのが役割となるのだそうだ。
当然、間接的にコントロールしながら組織としての結果を出すという、対人間に対するマネジメント本来のスキルが要求されるようになる。
(指示と管理は、本来、機械相手のマネジメントであるはずだ)
ちなみに、上述のサイトで紹介されているGoogle社では、上司と部下とのOne on Oneの面談は30分/週だそうだ。他に四半期ごとに個人目標設定(見直し)をするのだそうだ。
なるほど。
30分/週というのは、50人部下がいる場合、正味25時間かかるということだ。
マネージャーは、毎日、概ね殆どの時間を部下と会話している、ということだ。この場合、マネージャーの仕事は部下との会話、だと言い切れる。
部下からすれば、通常の会社のように、「忙しい上司の時間を自分との会話のために割いてもらうこと自体マイナス評価になりそう」なんて心配なく、「話忘れたことがあったけど、来週の面談で話せばいいや」ということで、そりゃあ、風通しは良くなるに違いない。
そして、この方法の本質的に素晴らしいところは、マネージャーに対し、上下関係で(対機械のように)人の上に立つのではなく「人として人を纏めていく」という能力を要求するところだ。
当然、マネージャー自身も人として成長するであろうことは容易に想像できる。
この方法はGoogleのような企業にだけ有効なのだろうか。
いや、むしろ、高度成長期の日本企業なんて、きっと、どこもそんな風に人としてうまくマネジメントしていたのだと思う。今現在だって、小規模ながらも成長している会社では、そんな風にマネジメントしている会社の方が大いに違いない。
むしろ、大した成長もできなくなった会社の方が、大量の高給取り管理型マネージャーと深ーい組織階層になってヒイヒイ息も絶え絶えに喘いでいるような気がする。
株主は株価の成長は願っても人の成長は願わない。Googleの経営参加権の無い株式公開は、そんなところでも意義深いのかもしれない。
(イノベーション後には株価は上がるがイノベーションの最中には株価が上がらないかむしろ下がる)
↓は"超"オススメです。
NMP-1000P Firm-up 失敗しても大丈夫(Safe bootの方法)
QNAPのユーザーフォーラムを見ていたら、何故かドイツのフォーラムにNMP-1000PのFirmware 1.1.2βがアップされていた。
で、Firm-upしてみたら、なぜだか途中でフリーズ、仕方なく再起動したら、こんどは起動しない。。。
で、あちこち探したら、ちゃぁんとSafebootできるようになっていました。
(見つかるまではドキドキだったけど。。。)
方法は簡単。
http://www.qnapclub.jp/viewtopic.php?f=5&t=283
ということで、1.1.2βの使い勝手まではまだよくわかりませんが、普通に使えています。
メデタシメデタシ。
で、Firm-upしてみたら、なぜだか途中でフリーズ、仕方なく再起動したら、こんどは起動しない。。。
で、あちこち探したら、ちゃぁんとSafebootできるようになっていました。
(見つかるまではドキドキだったけど。。。)
方法は簡単。
http://www.qnapclub.jp/viewtopic.php?f=5&t=283
ということで、1.1.2βの使い勝手まではまだよくわかりませんが、普通に使えています。
メデタシメデタシ。
火曜日, 1月 11, 2011
デッドマン・ソルジャースを観た。(後編)
==(前編より続く)==
一晩悩んだ末に見る決意をした「デッドマン・ソルジャース」という邦題に騙された「Horrors of th war」が原題のホラー映画。
仏壇にお線香を上げ、いや、うちには仏壇はないので、仏壇にお線香をあげたような気持ちになって、映画を見はじめた。
見る以上、生きて帰りたい。亡くなったご先祖様達に守ってもらうのだ。ホラーにはホラーで対抗するのだ。
レンタルビデオなので延々と続くCM。
早送りでCMを飛ばしていく。
そして、ようやく本編が始まる。
いや、これもCMか?
映画の冒頭、イメージ映像?、なにしろ最初はCMかと思ったほどの延々とこれから起こるシーンと思われる下りがあった。
このイメージ映像で、この映画が、戦地に現れる狼男とゾンビの映画だと言うことが、僕にでもすっかり理解できた。
これは、ホラー映画の常道とは異なる、きっと画期的なホラー映画なのかもしれない。
自らネタばらしをしたように見せかけて、ストーリーを進めるうちに、想定外の、そう、この映画なら番町皿屋敷か何かに兵士達が迷い込むのかもしれない。
油断禁物がホラー映画の鉄則だ。
で、ストーリーが展開していく。とくに理由もなく、とにかく狼男が登場。
さらに歳末バーゲン大売出しなのか、冒頭のイメージ映像すら無くとも心臓への負担は心配がない登場。
チラッチラッと姿を見せて、最後も、来るぞというタイミングで、ある意味とても良いタイミングで登場。とてもわかりやすい。
その後、まぁ、延々と上官との確執や故郷の恋人を思い出すシーンや、過去の悲惨な戦地の思い出など、戦争映画的な場面が延々と続く。いまさら戦争映画だと言われても、ただただこちらは困るだけだ。先祖にお祈りした手前、バツが悪い。
ストーリーも中盤を過ぎ、狼男との戦いで、運悪く狼男になった兵士を含む選抜チームが、ナチスの最終兵器のゾンビ兵の製造工場へ戦闘を仕掛ける。
そのゾンビも、弾を撃っても撃っても死なないのかと思いきや、頭に撃てば普通に死ぬ。
そんなほぼ決定的なヒントも映画前半の一人のゾンビに出くわした際に判明している。
もはや、想定外のシーンはなにもない。
どうだ、怖いもの無しだ。僕のご先祖様の出番は無い。
しかし、ここで気を抜いてはいけない。
ホラーとはそういうものだ。
13日の金曜日だったかなんて、エンドロールが始まってから、もう一回アレを見たら心肺停止間違いなしというドッキリが仕込まれていた。
そうやって、「来るぞ、きっと来る、そうだ、ここで油断させて来るぞ。」
と身構えていると、想像を遥に下回るチープさで、そのシーンはやってくる。
身構えて、「あぁ、死んでくれよぅ。でも、やっぱりしぶとく生き返ってしま、、、、わない。。。」
とても心臓にやさしいホラー映画なのだ。
いや、その戦闘シーンがやってくれば良い方で、3回に2回は、スルーして、全くのほほんとした場面に変わっていく。
やってきたとしても、ちゃんと、「はい、狼男の出番でーす。準備してくださーい。」だったり、「そのガサガサ音がする茂みからゾンビ登場しまーす。いきなり登場しないで~。チラ見してから登場してね~。」だったりで、観客にとても優しい演出が続く。
後半の最新ゾンビとの戦いも斬新だ。
なぜか、ゾンビは兵士を掴んでは投げる戦法に終始する。
掴んで投げる、2~3mほど兵士が投げ飛ばされる。
ちょうど、プロレスの感じ。裸でないだけ、さほど痛そうにも見えない。僕にも一回ぐらいは肋骨骨折ぐらいで耐えられそうだ。
そして、いつのまにか、その兵士の中にいる狼男が月夜でもない昼日中なのに狼男に変身して登場する。(変身シーンは無い)
その狼男とゾンビのバトルも取っ組み合いだ。
そんなこんなで戦いは人間が勝利(そりゃそうだ。最後の場面でのゾンビは一人しか登場しないのだから。)し、戦争映画っぽいエンドロールが流れる。
うーん。この映画は何だったのだろう。
通常、僕の場合は、つまらない映画だと眠くなる。
が、この映画は眠くはならない。
それは、ホラー映画に対する過度の(好みではないが)期待があったからだと思う。
万が一、ウトウトしている時にドッキリを仕掛けられたら目も当てられない。
もしかすると、「デッドマン・ソルジャース2」で、ウトウトさせてからの~、という壮大な戦略なのかもしれない。
あるいは、これがホラー映画業界の罠なのだ。
固定ファン以外にマーケットを広げるために、戦争映画ファンに狙いを定め、それとはわからないようにパッケージしてビデオを家庭に送り込む。
そう考えると、先日のセクシーホラー映画も納得だ。
単なるセクシービデオにしか見えないパッケージで客を釣り、ホラー映画を見せる。
こうやって、ホラー映画のシェアは保たれているのかもしれない。そういえば、僕の周囲にホラー映画好きは一人もいない。が、近所のビデオ屋さんなんて小さい店なのにホラー映画コーナーがある。
見たい人がいないのに製作したい人はいて、そして、延々と製作され続ける。
きっと、そこがホラーなのだ。
一晩悩んだ末に見る決意をした「デッドマン・ソルジャース」という邦題に騙された「Horrors of th war」が原題のホラー映画。
仏壇にお線香を上げ、いや、うちには仏壇はないので、仏壇にお線香をあげたような気持ちになって、映画を見はじめた。
見る以上、生きて帰りたい。亡くなったご先祖様達に守ってもらうのだ。ホラーにはホラーで対抗するのだ。
レンタルビデオなので延々と続くCM。
早送りでCMを飛ばしていく。
そして、ようやく本編が始まる。
いや、これもCMか?
映画の冒頭、イメージ映像?、なにしろ最初はCMかと思ったほどの延々とこれから起こるシーンと思われる下りがあった。
このイメージ映像で、この映画が、戦地に現れる狼男とゾンビの映画だと言うことが、僕にでもすっかり理解できた。
これは、ホラー映画の常道とは異なる、きっと画期的なホラー映画なのかもしれない。
自らネタばらしをしたように見せかけて、ストーリーを進めるうちに、想定外の、そう、この映画なら番町皿屋敷か何かに兵士達が迷い込むのかもしれない。
油断禁物がホラー映画の鉄則だ。
で、ストーリーが展開していく。とくに理由もなく、とにかく狼男が登場。
さらに歳末バーゲン大売出しなのか、冒頭のイメージ映像すら無くとも心臓への負担は心配がない登場。
チラッチラッと姿を見せて、最後も、来るぞというタイミングで、ある意味とても良いタイミングで登場。とてもわかりやすい。
その後、まぁ、延々と上官との確執や故郷の恋人を思い出すシーンや、過去の悲惨な戦地の思い出など、戦争映画的な場面が延々と続く。いまさら戦争映画だと言われても、ただただこちらは困るだけだ。先祖にお祈りした手前、バツが悪い。
ストーリーも中盤を過ぎ、狼男との戦いで、運悪く狼男になった兵士を含む選抜チームが、ナチスの最終兵器のゾンビ兵の製造工場へ戦闘を仕掛ける。
そのゾンビも、弾を撃っても撃っても死なないのかと思いきや、頭に撃てば普通に死ぬ。
そんなほぼ決定的なヒントも映画前半の一人のゾンビに出くわした際に判明している。
もはや、想定外のシーンはなにもない。
どうだ、怖いもの無しだ。僕のご先祖様の出番は無い。
しかし、ここで気を抜いてはいけない。
ホラーとはそういうものだ。
13日の金曜日だったかなんて、エンドロールが始まってから、もう一回アレを見たら心肺停止間違いなしというドッキリが仕込まれていた。
そうやって、「来るぞ、きっと来る、そうだ、ここで油断させて来るぞ。」
と身構えていると、想像を遥に下回るチープさで、そのシーンはやってくる。
身構えて、「あぁ、死んでくれよぅ。でも、やっぱりしぶとく生き返ってしま、、、、わない。。。」
とても心臓にやさしいホラー映画なのだ。
いや、その戦闘シーンがやってくれば良い方で、3回に2回は、スルーして、全くのほほんとした場面に変わっていく。
やってきたとしても、ちゃんと、「はい、狼男の出番でーす。準備してくださーい。」だったり、「そのガサガサ音がする茂みからゾンビ登場しまーす。いきなり登場しないで~。チラ見してから登場してね~。」だったりで、観客にとても優しい演出が続く。
後半の最新ゾンビとの戦いも斬新だ。
なぜか、ゾンビは兵士を掴んでは投げる戦法に終始する。
掴んで投げる、2~3mほど兵士が投げ飛ばされる。
ちょうど、プロレスの感じ。裸でないだけ、さほど痛そうにも見えない。僕にも一回ぐらいは肋骨骨折ぐらいで耐えられそうだ。
そして、いつのまにか、その兵士の中にいる狼男が月夜でもない昼日中なのに狼男に変身して登場する。(変身シーンは無い)
その狼男とゾンビのバトルも取っ組み合いだ。
そんなこんなで戦いは人間が勝利(そりゃそうだ。最後の場面でのゾンビは一人しか登場しないのだから。)し、戦争映画っぽいエンドロールが流れる。
うーん。この映画は何だったのだろう。
通常、僕の場合は、つまらない映画だと眠くなる。
が、この映画は眠くはならない。
それは、ホラー映画に対する過度の(好みではないが)期待があったからだと思う。
万が一、ウトウトしている時にドッキリを仕掛けられたら目も当てられない。
もしかすると、「デッドマン・ソルジャース2」で、ウトウトさせてからの~、という壮大な戦略なのかもしれない。
あるいは、これがホラー映画業界の罠なのだ。
固定ファン以外にマーケットを広げるために、戦争映画ファンに狙いを定め、それとはわからないようにパッケージしてビデオを家庭に送り込む。
そう考えると、先日のセクシーホラー映画も納得だ。
単なるセクシービデオにしか見えないパッケージで客を釣り、ホラー映画を見せる。
こうやって、ホラー映画のシェアは保たれているのかもしれない。そういえば、僕の周囲にホラー映画好きは一人もいない。が、近所のビデオ屋さんなんて小さい店なのにホラー映画コーナーがある。
見たい人がいないのに製作したい人はいて、そして、延々と製作され続ける。
きっと、そこがホラーなのだ。
OC-HR100 まとめ(使い方)
検索キーワード「OC-HR100 使い方」でたどり着いた方。
いつの間にかamazonでも取り扱ってましたよ。
amazonの商品紹介の写真とカスタマーレビューをじっくり眺めてご検討されると良いと思います。
とりあえず、一年ほど前にやってきたOC-HR100君。
今まで特に問題なく使えています。
月曜日, 1月 10, 2011
デッドマン・ソルジャースを観た。(前編)
たまにだけど、戦争映画を観たいときがある。
人間の極限状態とか、人の弱さや残酷さ、無力さ、そして、そんな究極のネガティブな状況での仲間とのチームワークとか、何に惹かれているのか、こう書いていてもよく分からないけど、たまに見たくなるのだ。
で、昨日、戦争物何本か(近所のビデオ屋さんは相変わらず旧作50円だ)とセクシースパイ物一本を借りた。
その戦争物の一本が「デッドマン・ソルジャーズ」だ。
このビデオ、第二次世界大戦末期のドイツの秘密部隊と連合軍のフランスでの戦い、とあり、たまたま他に借りたヒトラー関連のビデオもあったので、何の気なしに借りたのだ。
家に持ち帰ると、いつものように、メディアプレーヤーで見るためにISOイメージでバックアップするのだけど、この時、映画ごとにフォルダーを作る。とりあえず洋画は原作のタイトルでフォルダー名をつける。
というわけで、この時もそうしようとしていた。
で、こういう時に、スペルに自信がないから、念のため確認することになる。
ググってみるわけ。
今回は、恥ずかしながら、ソルジャー、のスペルがどうにも自信がなくて確認することになった。
カタカナにすると"ジャ"なので、"j"が入るような気がして仕方なかったのだ。
ネットは残酷だ。
ググってみたら、スペルはすぐに判明したが、一緒に、チラチラと内容も垣間見える。
ネタバレとかそういう事ではなく、単に、amazonかなにかの売り文句が僕に決断を迫る。
その文句はこんな感じだ。
「迫りくるゾンビ達との戦いに・・・」
もう充分だ。
ホラー映画なんじゃん。
そして、そもそもカタカナの邦題が原題と違う事に気がついた。
邦題は「デッドマン・ソルジャース」なのに、原題は「Horrors of war」だ。
いや、原題が「Horrors of war」なのに、邦題は「デッドマン・ソルジャーズ」か。。。
なんなんだその邦題は。
しかもだ、そのビデオ屋さんは、ホラーコーナーもあるというのに、戦争映画のコーナーに置いてあったではないか。
借りる僕はむろん、ビデオ屋さんまで欺く邦題のネーミング、およびパッケージ。
それから、一晩、悩んだ。
見るべきか、見ざるべきか。
朝起きて、見ることに決めた。
==続く==
日曜日, 1月 09, 2011
循環三重苦
某参天製薬だかの発表で、"循環三重苦"という言葉を見かけた。
http://hitomi-sukoyaka.com/doc/report110105.pdf
この発表では、長時間パソコンで仕事する多くの女性が、血液循環を起因とする「肩こり」「眼精疲労」「冷え」の三症状に悩んでいる、これを、「循環三重苦」と呼ぶことにしたようだ。
最初、これを読んだ時、
「冷え」て「肩こり」になり、「眼精疲労」・・・話が循環しない、
「肩こり」になって「眼精疲労」・・・やっぱり繋がらない、
「眼精疲労」になって「肩こり」して「冷える」・・・
と、何故か、三つの症状が順序良く循環する様をイメージしようとしてできず、よくよく読んでみると、症状が循環するのではなく、血液循環による三症状だということがわかった。
で、「血行三重苦」とネーミングすればよいのに。何故、循環三重苦とネーミングしたのか考えてみた。
「血行三重苦」の場合、この言葉からイメージする対処は、「血行を良くしよう」となる。血行を良くするためのマッサージやストレッチ、あるいは肩こりなどの部位を温めるとか、そういう対処になる。
しかし、だ、「循環三重苦」とすれば、三重苦が注目され、しかも、循環する(という誤解)によって、循環しないように三つの症状それぞれを緩和しなければならないように受け止められがちだ。
事実、この発表でも、「それぞれの症状に対処が必要」としており、「パソコン仕事で疲れている貴方、それは循環三重苦なんですよ。そして、循環三重苦の一つ眼精疲労には目薬ですよ!」をアピールしているわけだ。
なかなか良く考えられた姑息なネーミングだなぁ、と思った。
そのネーミングを決めた会議に拍手。パチパチ。
※はみ出し
そもそも、「眼精疲労」が曖昧だ。Wikipediaの"眼精疲労"の項では、眼精疲労への対処として、マッサージや目を温めるなどが紹介されているが、なぜか、目薬の記述はない。ちなみに、パソコンのモニターを目線に対して下の方に置くのがまぶたを(目線に対して上の方にモニターがあるよりも)開かずに済むので披露は軽減されるのだそうだ。意外にもノートパソコンは眼精疲労の点では有利な面もあるということだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BC%E7%B2%BE%E7%96%B2%E5%8A%B4
モニターに対する目線を下にできる作業用デスク
金曜日, 1月 07, 2011
スキンヘッド体験記
この年末、スキンヘッドを体験してみた。
いつもは3mmの坊主頭なので、3mmしか違わないのだが、体験してみると何ミリであっても0mmになるということは、無限の違いを感じられるものだった。
ちょっと言い過ぎた。大げさでした。が、思いの外、違いを感じられるものだった。
その違いや気づきを、書き残しておこうと思う。
●床屋さん的面倒な客の第一位
禿げてる訳でも、薄くなったわけでもない客のスキンヘッドは面倒
床屋さんでスキンヘッドを注文すると、まず、0.5mmの丸刈りにされました。これは電気バリカンでパパっと済みます。が、その後、カミソリで髪を剃るのですが、この剃る作業が髪の生えている面積分の手間がかかります。僕の場合は、一時間ほどかかりました。そして料金はいつもの丸刈り一回分と同じでした。
床屋さん曰く、「大抵はある程度禿げていたり、髪が薄くなったお客様がスキンヘッドにする場合が多いんですけどねぇ」とのこと。尚、この床屋さんが次回も同じ値段で対応するかどうかはわからない。
●三日坊主の語源
二日目まではスキンヘッドに見えていたのが三日目になると「坊主頭」に見えるようになります。髭と同じ理屈です。髪も毎日伸びてくるのです。
きっと、三日坊主の「坊主」とはお寺の住職を指していて、お寺の住職が頭髪の手入れ = 頭をカミソリで剃る、をサボると三日目にはわかったのでしょう。さぽったのがわかる、うっすら頭髪が生えてきた状態を指して「三日坊主」と言うようになったと勝手に解釈して実感してました。
ググッてみると、「一般の人が出家してみたものの、僧の修行に耐えられず俗世間に戻ってくる」事が三日坊主の語源だということです。しかし、実際には、俗世間に戻ってきた状態が頭を見れば一見してわかったからこそ慣用句にまでなったのでしょう。
僕の実感は当たらずとも遠からず、でした。
●摩擦係数最大
二日目の終りから五日目辺りまでは、頭の摩擦係数最大でした。
洋服の脱ぎ着の際にいちいち頭に洋服が引っかかります。天然のマジックテープです。
●意外に寒くいとは感じない
肌が露出して寒いかと思ったのですが、確かに、寒いことは寒いのですが、常にダイレクトに空気に当たっているせいか、僕の脳が活発に働いているせいか、理由はわかりませんが、ペタッと触ると意外に暖かく、本人的にも、そんなに寒かった気はしません。
冷たくなった手を頭にペタッとさせて温めるのは気持よかったです。
●意外に怖がられない
知人にとっては、普段坊主頭を見ていたせいか、ドラスティックな変化というより、「あれ、こんなんだったっけ」的な感じです。
●本人は意外に怖い
なにしろ、3mmとは言え覆っていた髪が無くなるというのは、どこかにぶつけたら大変、という恐怖はしっかりありました。ぼうしても怪我防止用帽子は手放せません。
●ポリポリ出来ない
「いやぁ、参ったなぁ」ポリポリ、と、後頭部や耳の上なんかを掻くと、この動作が髪があってこその動作だということに気が付きます。やってみるとポリポリとはならず、ナデナデみたいな感じで、どうにもポリポリ欲が満たされないのには参りました。ポリポリ。
●毛糸の帽子→○、野球帽→×
帽子というのは、それなりに頭にフィットしなければスッキリしません。が、スキンヘッドで野球帽を被ると、なんか、載っけている感が強く、しかも野球帽の生地というのは素肌に当たるにはゴワゴワ過ぎて不快です。
スキンヘッド用に優しい裏地の野球帽を開発して欲しいものです。
●眉毛は大事
頭髪も髭もキレイになった時、自分の顔が自分の顔であるのは、ギリギリ、眉毛で保たれているということに気が付きます。ちなみに、僕の場合は、まだ鼻毛は(耳毛も)大事ではありません。
●スキンヘッドを続けるために
電気シェーバーが必要だと思われます。が、ヤマダ電機で見た限りでは、丸刈り用の電気シェーバー(スキカル君的なやつ)も何種類もあり、髭剃り用の電気シェーバー(出勤時の迷惑なコマーシャル的なやつ)も何種類もあるにも関わらず、スキンヘッド用のものはありません。なので、髭剃り用の電気シェーバーを使うことになると思われます。
●またしてみたいかどうか
してみたい!
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