北海道の会社だけど、大元は岩手・盛岡のワインとハンバーグのレストラン・ベル。
今では全国何処にいても青春の味を楽しめるのはいい(悔しいが当時の味は生きている)けど、なんか寂しい気もします。ベルで十勝ワインを飲んだのが初お外飲酒だったかも。
金曜日, 10月 29, 2010
僕はラジオ←今週末のオススメ映画情報
清志郎が唄った「僕のトランジスタラジオ」も良かったけど、先日観た映画「僕はラジオ」はこれまた良かった。そして、実話です。
舞台はサウスカロライナの田舎の高校。
いつも高校の周りを一人でぐるぐる徘徊している知的障害を持ったラジオというあだ名の黒人青年が主人公。
彼に真の正義を教えられ、彼に一人ではないことを教えるフットボールのコーチを務める学校教師。
徘徊しているときには「言葉が話せない」と思われていたラジオが、フットボールチームとの交流に始まり、ラジオはいつしか、地域へも溶け込んでいき、学校にとっても、地域にとっても、なくてはならない大切な存在となっていく過程を描いた作品。
ハートフルストーリー、などと紹介されることが多いみたいだけど、僕が感じたのはもっと骨太の「正義のゆくえ」的なストーリー。
確かに、一般的に見れば、とっても小さい「正義」の話なのかもしれないけど、そんな小さい正義であっても、通そうとすればなかなか大変、いや、普通の情熱ではとても無理な社会。でも、正義だからこそ、諦めずにいれば、必ず通る、とも思わせてくれるストーリー。
そして、この話が映画化されるきっかけになったのは、Sports Illustratedのコラムに紹介されたのがきっかけらしい。その後、ニュースに取り上げられ、ドラマ化され、映画化されたという。
小さい正義を守り、感銘し、人に教えたくなるのは、もしかしたら人間に備わった「正義」なのかもしれない。
そして、お母さん仕込みのラジオの選曲が最高。
映画全体を通して、R&Bの名曲の数々がラジオから流れてきます。
静かな夜に、大切な人と温かい紅茶を飲みながら観たい映画でした。
火曜日, 10月 26, 2010
定番)目で見るのではなく心で観るのです
先週末、「七人の侍」を初めて観た。
不明瞭な音声と侍言葉と百姓たちのずうずう弁に日本語字幕付きで観た。モノクロだ。
見始めてやめようかと一瞬思った。
言葉も聞き取りにくいし、映像も荒いし、ただ、物珍しさはあった。
しばらくするとストーリーに引き込まれ、今はもうどこにも無いであろう日本の田園風景や草花の映像そのものにも引き込まれた。
面白い感覚だと思ったのは、モノクロで表現される美しさだ。
最初は引いたカメラの画面、遠くの景色を写しているシーンが、妙な間があるように感じた。モノクロの風景をジッと見なくてはならないと感じる"間"だった。
しかし、その"間"が、遠くの山々や草花、農村の風景を心に留める為に必要な"間"だと気がついた。
モノクロだから、当然、色は無い。
しかし、人工物は前提となる知識がなければ色を想像するのは厄介だけれど、自然のものは心のフィルターで色を重ねることができる。
見慣れてくると自然に心のなかで色を重ね、結局、今、こうしていても数々の美しいシーンを思い出せる。これは自分でも驚きだ。これが黒澤マジックなのか。
冒頭のYoutubeの動画、もう一本が、最近ではテレビなんかでも紹介されるようになった写真「Small planet」の動画版。
リアルな世界を特殊なフィルターで加工することでミニチュアのように映しだす。
このフィルターを通して、正に今の世界を映しだされたとき、自分が何か神にでもなったような気分で、なのに、ミニチュアフィギュアのように見える人間ひとりひとりがいとおしく感じる不思議な気持ちにさせられる。
それは動画になっても変わらなかった。
3Dも目新しさでは凄いけど、あえての2Dや1D(←本!?)、いや、表現形式に関わらず自分の目を通して、そこにあるものを感じられるといいよなぁ。
ちなみに、黒澤映画「七人の侍」、名作・古典と言われるが観たことがない人のほうが多いんじゃないかと思う。
この映画、と、短く説明しようと考えたけど、どうにも一言では言い表せない。あまりに色々なテーマがスマートに詰まった娯楽映画だった。
きっと、こういう映画を「観る人それぞれに感動を与える映画」というんだと思う。
心の目を訓練するにもオススメです。
月曜日, 10月 25, 2010
朝は決断力を高める
↑タイトルにも本文にも関係ないけど、すごーい人がいるもんだ。
今の3Dテレビにはあまり興味ないけど、このレベルなら欲しいと思うだろうな。
そして、スゴイ人は説明がうまい。と、思った。
==ここから下が本文==
朝は決断力を高めるのだそうだ。
いや、正確には、睡眠後に決断力の質が高まる、のだそうだ。
睡眠により、様々な記憶や無駄な記憶が整理されることで、睡眠直後は雑念に囚われずに判断できるからなのだという。
確かに、FRISKのCMのイメージのように、意識的に何かに集中しようとしても良い結論は得られず、むしろ「(集中のストレスからFRISKで逃れたような)ふとした時」に良い結論に辿りつくことは多い。
そんな今日の朝。
とても不思議な出来事に出会った。
今朝は雨ということもあって、モノレールで出勤した。
モノレールを降りていつも通りに改札を抜ける。
何の違和感もなく、改札の先を右に折れ、隣のビルへの外階段へと通じる通路を歩いて行く。
いつも、そのビルのエスカレーターを目指していくのだけど、エスカレーターの向きがいつもと違う。いや、ビルがない。いきなり外につながるエスカレーターだ。いつもと違う。
その場に立ちすくんだ。
隣のビルを通過してしまったのかと後ろを振り返る。
いや、やはり、イキナリ駅からエスカレーターで外階段へと通じている。
あぁ、左右を間違ったのか、と、一旦、改札まで引き返す。
改札前で回れ右、もう一度改札を出た方向に向き直す。
いや、左右はあっている。
一瞬、今朝の季節外れの蒸し暑さの中で、嫌な冷や汗を感じる。
ビルの工事?と、もう一度、今行ったばかりの通路の先を覗き込む。
いつもの風景のようでもあり、何か違うようでもあり。。。。
そしてようやく気がついた。
一駅手前で降りた、ということに。
雑念のない私は直ぐに決断した。
雨の中、会社の方向に向かってズンズンと早歩きを始めた。
季節外れの大汗をかいて会社始業ギリギリに到着したのは言うまでもない。
金曜日, 10月 22, 2010
良きリーダーとファシリテーターとモテ男
聞きはするけど自分の口からは滅多にでない言葉シリーズ。
走りてーなー、でも、ファンタ飲みてーな、でも、ましてや、ターミネーターでもない、ファシリテーター。
プロジェクト管理的にはターミネーターの存在の方が面白い話なんだけど、、今回は大して面白くはないファシリテーターの話。
最近何冊かリーダーシップやファシリテーターの本や文献を読んで、僕が好きなリーダー(カリスマや管理系ではなく、サーヴァントリーダー)とファシリテーターとは、取り扱う対象が違うだけで、求められる行動は限りなく近い、ということに気がついた。
対象の違いは言うまでもなく、リーダーはリーダーだからチームや組織が対象になり、ファシリテーターは何らかの会議と会議への参加者を対象としている。
同じだと感じたのがどういう事かというと、どちらも、対象に対して「自立」「変化」を促し、新しい解決策やコンセンサスを得る事が目的となっている、ということ。
どちらも、当初からリーダーやファシリテーターの頭の中に結論があるわけではなく、メンバーとのコミュニケーションを通じて、それまで思いもつかなかったような解決策を導くのだ。
ファシリテーターは、敢えて衝突する意見を利用し、一見反する意見を深掘りしたり広げたりしながら昇華させ、新しい解決策を導きだし、コンセンサスを得なければならない。その方法は、チームマネジメントでの広く意見を聞きながらアイデアへと昇華・具体化させる運営方法とそっくりだ。
チーム(会議)は自由闊達に意見交換できて、リーダー(ファシリテーター)によって、新たな解決策(コンセンサスの合意)を導きだす。
そして、どちらの場合もとっかかりとして重要なのが、「傾聴力」だ。
聞く、でも、聴くでもなく、傾聴する、だ。
聞く姿勢ができていなければ、まともなリーダー(ファシリテーター)とは言えないのだよな、と、僕の個人的好き嫌いとも合致して、その思いを強くしたのでした。
そんなこんなの中、坊主頭の男が傾聴力を使ってガールズバーでモテるか?というレポートを見つけた。傾聴力、侮ってはいけない。
しかし、この↓本のタイトル、「話が通じない人とも話せる傾聴力」って凄いな。でも、話が通じない人にこそ読んで欲しいのだけど(愚っ痴言うぞう)。。。
水曜日, 10月 20, 2010
リアルの喪失、バーチャルな家族誕生
↑の画像は、Second Lifeサイトの売春婦のお姉さん。
詳細はこちら。
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愛読している「エンタープライズ0.2」シリーズで、いつもは、イタいトップマネジメントを紹介することが多いのだけど、今回は、リアル感を喪失していく一般の人々の話題だった。
僕がこのブログを初めて最初の頃、書いた内容を「あの人が読んだらどう思うか」とか「これは受けるか」とか「これは僕自身をデキる人に見させてくれるかどうか」とか、もうそんなしょうもない事ばかり無意識に考えてしまっていて、結局、ほとんど書き進められなかった。
次のステップは、あまり気にせずどんどん書こうという時期。沖縄に移り住んでからで、美しい島の風景、魅力的な人々、都会暮らし慣れした僕にとっての新鮮な出来事、そういう話題はとても紹介しやすく、更新の頻度も増えた。
そんな風に頻繁に書くようになると今度は、「どこまで書くのか」や「誰に向けて書くのか」、「何のために書くのか」を時折考えるようになった。
実際、わざわざそんな事を書かなくていいのに、という個人的な事を書いてしまって、クレームを寄せられるようなケースもあった。
実は、つい最近まで、何のためにブログを続けているのか、という疑問に答えられない自分がいた。だけど、最近辿り着いた答えは、
「たわいない事の備忘録」「個人的愚痴のはけ口」「何かしら応援したいことのPR」「暇つぶし」
ということ。
僕にとって本当に大切な時間、むしろ、その時間を大切に過ごすならなおさら、ブログやつぶやきは面倒なだけだ。写メも同じ。
大切な時間なのに没頭できないし、わざわざ公開するということは、心のどこかにある「人からどう見られるか」の意識は消えない。大切な時間を大切にせずに大切な時間と言って切り取って一部を公開する矛盾。
実際、そう気づき始めてから、言ってみればブログは「暇つぶし」に徹してからの方が、大切な時間はもちろん、ブログを書くことからも充実感を得られている。日常の些細な気づきをブログというツールを使って文章化する事は、意外に自分の頭の中を知るという面白さがある。
←ま、自己満足なんだけど不満はないし、思わぬ方面からのクレームといったものも、これといってない。
話を戻して、今回の「エンタープライズ0.2」。
ちなみに、いまこの話題は、最近辿り着いた答え的には「何かしら応援したいことのPR」と「個人的愚痴のはけ口」に属する話題。
四六時中ピコピコ(昭和の表現だなぁ。。。今なら、四六時中ペタペタなのか?)するライフスタイルに対しての警鐘、特に子供がピコピコしている事に対する警鐘はPRしたいし、また、筆者と同じようなシチュエーションで他人事なのにイラっとした経験から愚痴もこぼしたい。
いくつかリンク先の0.2では事例が紹介されているんだけど、中でも、小さい子供を連れた夫婦がレストランで食事をしている事例に、言いようのない重い気持ちにさせられた。
そのレストランでの光景は、夫婦がまだ小さい子供にiPhoneを持たせ、ゲームをやらせ、子どもがゲームに飽きて親に話しかけてくると違うゲームをiPoneにセットし直してあげ、子供も目新しい画面になったのでまたiPhoneに集中し、そして、夫婦は二人共それぞれ携帯でメールを打って、三人とも沈黙のまま食事をしている、という光景だ。
家族を捨てた僕には、家族で食事している彼らを非難する資格などない。
ただ、こうして「(携帯やゲームで)感覚を外に向けたまま家族と過ごしている」事は、家族と一緒に過ごすリアルな感覚の多くを失わせ、家族を維持する力みたいなものを弱めている気がする。絆を感じる力を失わせているような気がする。僕の経験にも合致する。
どうせ一緒に過ごしてたってお互い携帯やスマートフォンで(お互いの知らない)誰かと繋がっているんだから、昔ほど家族が一緒の場所にいることに大して意味はないのかもしれない。
あと数年もすると、ハンドル名(今もそう呼ぶのか?)しか思い出せない、アバターは見ているけど本人の最近の写真は見ていない、住所はわからない、そんな形の家族が登場するのかもしれない。つぶやきを共有するだけで「友達」なら、常にネットで繋がり合っているなら家族でもおかしくはない。
こういう家族なら、離脱も簡単だし、複数の家族に所属することも可能だ。
今週はお父さん留守だから、隣のお父さんに来てもらいましたよ~とか。
※はみ出し
昔、まだネットがなくてパソコン通信だった時代。チャットにハマっていた時期があった。そのチャットもWindowsが普及してからは、二窓、三窓と複数の相手と同時にチャットしているのがごく当たり前になっていった。
言葉の重さがどんどん軽くなっていった時代はあの頃から今も続いている。言葉の量が言葉の軽さを補っているとすれば、言葉にも質量保存の法則が成り立つのかもしれない。
※※はみ出し2
北の国から"2002遺言"で、雪子さん(竹下景子)の息子(??)が一日中携帯(PHSと思われる)をピコピコやっていて、中畑の叔父さん(地井武男)に携帯を川に投げ捨てられる、というシーンがあった。ドラマを見ている僕ですら、この携帯息子にイライラして見ていたのだけど溜飲を下げるシーンだ。
今、おなじシチュエーションでiPhoneを投げ捨てる叔父さんがいたら、世の中はどのように受け止めるのだろう。。。
火曜日, 10月 19, 2010
訃報 マンデルブロさん亡くなる
マンデルブロ集合のブノワ・マンデルブロさんが亡くなった。
85才。
20年前、ウニョウニョ増殖していく寄生虫みたいな類の絵と簡単なプログラムサンプルに触れて、数学というのは全く理解不能だけど凄い、と思った。
そして、よくよく見ていると、その絵は、曼荼羅のようでもあり、永遠に紡がれる命のようでもあり、美術などに興味のない僕にとって、とても印象に残った絵のジャンルとなった。ひたすらドギツイ配色でフラクタルを描き続けるプログラムを入手した時など、部屋を真っ暗にして、モニターに映し出されるフラクタルをぼんやり見つめ続けるという、怪しい遊びにもハマった。
また、その絵をカオス(混沌)とも呼んでいて、少なくとも僕にとって混沌のイメージはマンデルブロ集合の絵になっていたし、これからも、そのイメージは変わらないと思う。
訃報に接した今日の今日まで、あの絵を数式で描いた人の事など考えることはなかったけど、思えば、その絵や似た絵を見れば、フラクタルだったりカオス的などと思っていられたのは、マンデルブロさんのお陰だったわけだ。
ご冥福をお祈りします。
土曜日, 10月 16, 2010
ミツバチに朗報で養蜂家はヤッホー
以前ニュースで聞いたときに気味が悪い、と感じたミツバチの大量死。
原因不明とされていた、米国を中心に世界中に広がりかけていたミツバチの大量死の原因がほぼ特定されたというニュースがあった。
特定のウィルスと特定の真菌の両方に感染したハチが発生すると、その巣のハチは全滅する、らしい。
とまあ、ミツバチに朗報なのだけど、そもそも、ウィルスと菌、いや真菌?の違いとか、ウィルスって菌の事じゃないのか、とか、自分の無知を改めて知ったニュースなのでした。
(真菌って要するにカビのことなのね。)
相変わらず、ミツバチ界では大量死が続いているよう。
原因がわかったことだし、早く対策が立てられることを祈ります。
でも、これって、水虫の人だけが死亡するウィルス、とかもあり得るっていうことなのか?
で、ミツバチ→真菌→水虫→水口と辿って出会った素敵なJAZZセッション。
これだからネットはやめられない。
木曜日, 10月 14, 2010
水曜日, 10月 13, 2010
火曜日, 10月 12, 2010
メディアプレーヤー
最近、NMP-1000の内蔵タイマーが電源をいれるたびに1900/01/01だったかに戻ってしまう。
多分、内臓の電池が切れたのかな。昔のショップ製パソコンみたい。。。。
時間のズレは使用上それほど気にはしていないものの、たまに、ウッカリNMP-1000上でファイルをコピったりすると、変なタイムスタンプで精神衛生上よくない。かと言って、電池を取り替えるのも面倒だ。
まぁ、ここまで、後継機種も無く、その割によく使っているので満足度はそこそこなのだけど、なんだかなぁ。
ブノレーレイディスクのIS0りッピソグデータの再生は未だ未完成だし、まぁ、仕方が無いか。
ただ、そんなんでも使い続ける大きな理由が、リモコン操作とS/PDIFインターフェース。
5.1chサウンドは、DVD鑑賞では思いのほか有効で、もう戻れない感じ。
たまに、外出先などで擬似5.1chなんかを体験してみても、イマイチ。
それにしても、この「マルチメディアプレーヤー」が商品としてなかなかブレークしない。HDDレコーダーや液晶テレビなんかにも類似機能があったりするんだけど、如何せん対応するメディアファイルが少ない。MNP-1000でも、たまに、Windows系の動画データなんかで音声コーデックが対応できていなかったりしてプチイラっとするのだけど、大手メーカーは、更に条件が厳しい。
もう一つ残念なのが、Youtubeファイル対応問題。
Youtube側がダウンロード対策で不定期にファイル掲示方法か何か変更するようで、そのたびに、MNP-1000では視聴できなくなる。気長に待っていれば、ファーム更新で対応されるものの、このファーム更新も隔月に一回、という感じ。
更に言えば、日本語での検索もMNP-1000ではできないし、入力した文字も一文字すら記憶しない。(毎回、一から入力しなおす)
ということで、Google-TVに期待するわけだけど、MP3プレーヤー乱立戦国時代を制したAppleのようになれるのか、ホンのちょっとだけ期待してみよう。
そういえば、"OC-HR100"で検索してこのページにたどり着くケースが少なくない。
この機械、少なくとも私が入手したときは、「蓋を開けちゃいけないし、蓋を開けて中を見てもいけないし、中で目立っている突起を見つけちゃいけないし、ましてやその突起をカットしたりしてはいけません。っていうか、蓋を開けたら保証の対象外になるんだからぁ。」と明記してありました。ま、保証する気もなければ保証してもらう気も無い大人が使う機械なのでしょう。
私の場合は、HDDレコーダーVARDIA君のHDMI出力を、古いプロジェクターSANYO LP-Z2に出力するために使っています。快適に鑑賞出来ていま~す。
水曜日, 10月 06, 2010
大人のおもちゃ(新技術)
網膜に直接投影、ってもう実用化されているのは知らなかった。
なんだかなぁ。どう使うかなぁ。未だコンタクトには慣れず、メガネ派としてはなぁ。
この技術、作業しながらマニュアルが見られる、とか、セキュリティ文書を他人の目に晒さずに見られる、とか、言ってます。直接脳に映像を送り込むのだって、まだ荒いドットイメージだとはいえ実現しているのだから、網膜照射ぐらいは簡単なことか。。。
車を運転するドライバーに各種情報を提供する、とか、あと、シャックリを止めたい時に「サプライズモード」(いきなり気持ち悪い画面を表示するイタズラサイトみたいな)とか、まぁ、ありゃあ、何かしら面白そうな気はする。
あるいは、目の前の女性の顔にアイドルの顔を重ねて投影するとか、自分の部屋をセレブな屋敷の部屋の映像と重ねあわせてセレブ気分を味わうとか、バーチャルリアリティにも使えそう。
今夜は南の島で憧れのアンジーとバーチャルデート、みたいな。うーん、そこまで出来るなら是非試してみたい。とも思う。
そういえば、映画「Fight Club」に、見ようによっては、そんなバーチャルな感じで表現されているシーンがあった。
仕事に疲れた主人公が自宅高層マンションに帰ってきたところのシーンで、部屋中の家具やオブジェに重ねあわせて「フィンランド××製のソファ」とかカタログ雑誌のように映し出していたシーン。もう、部屋中のすべての物にブランド名が投影されて、正にカタログ写真。通販生活みたいな風景。
この映画では、メディアに喧伝されるライフスタイルを追い求めていた主人公が自分の部屋を爆破したり自傷行為することで現実感に目覚め、過去の自分が追い求めていたような通販生活なライフスタイルを破壊していく。
瞬く間に彼は、一大テロリスト集団のリーダーに化していく、、、そんな内容。
日々、凄まじい速さの技術革新と新製品情報。
「技術的に実現出来る事」、の評価軸が、金儲けになるかならないか、という評価軸で普及するならば、網膜に直接投影技術、は、そのうち普及することに疑問はない。
豊かな人生に取って必要か?とか、次世代の子供達に伝えたいか?とか、持続可能な社会にとって必要か、とかいう評価軸で考えるなら、少なくとも短期間で普及させることは不要というより、してはいけない気がする。
既に、テレビも携帯電話もネットも、大人ですら使いこなせるようになる前に子供達に蔓延している。せめて、大人のオモチャに留めておけないものだろうか。自動車は自動車免許という知恵で大人のオモチャに留めているではないか。。。。
※はみ出し
最近見かける自動車の「安全機能」。障害物を検知して勝手にブレーキをかけるようなやつ。あれって、究極的には「自動車免許いらず」(誰でも自動車を運転して良い)の社会を目指しているんだなぁ。そうなれば、子供にも自動車を売ることができるから、マーケットは格段に広がるよなぁ。
年老いて、「そろそろ、わしも、運転はやめようかのぅ」なんていう大人な自己判断もいらなくなる。
"年甲斐も無い"や"年相応"なんて、死語になりそう。既に死語なのかも。。
火曜日, 10月 05, 2010
ニュース
DynabookAZのUbuntu化、上手くいくらしい。
何日かウォッチを忘れていた、Cruelさんのページにありました。
「AZnyan ubuntu 調教日記#1」
で、成功へのマニュアルは、
http://ac100.gudinna.com/
ドイツ語?
まずは、マニュアルをダウンロードしてみなくては。
byコピペ坊
月曜日, 10月 04, 2010
土曜日, 10月 02, 2010
紙と鉛筆と電子黒板
ほんの思いつきで「電子黒板」を購入した。
黒板というと、教室にある、ドでかいモノを想像してしまうが、購入したのは、iPadみたいなもの。A5サイズの板である。
機能は、手描きでの書き込み(書いたまま表示)と書き込んだ内容のクリア(消去)である。
それ以外には、、、、何も出来ない。
要するに、紙と鉛筆と消しゴム、を電子的に実現したものだ。正確には、紙一枚と半永久鉛筆と半永久消しゴムかな。
この手の電子機器にありがちな、データ読み込み機能、保存機能、通信機能、キーボード接続、メモリカード接続、画面の明るさ調整、なんかの音を出す、などなどの機能はオプションでもなんでもとにかく一切ない。
ただただ消去ボタンを押すまでの間、画面をなぞった軌跡を表示続けるだけの電子機器だ。
ちなみに、電気を使うのは消去時のみで、いわゆるe-inkとか電子ペーパーと言われている技術の製品。
機能は天と地ほども違うけど、有名所では、amazonのkindleが同じ類の表示技術を使った電子書籍だ。
さて、およそ5000円ほどかけて、なんでこれをゲットしたか(納期に若干時間がかかるらしい)なのだが、自分で買っておいて言うのはなんだけど、よくわからない。
いや、分かっているのだけど、言葉にすると変なのだ。
ゲットした理由は、
「電子的なメリットのほぼ全てを殺した電子的なモノ」
だから。だ。
データの再利用が不可という時点で、電子的なメリットはほぼ皆無だ。では、どんなメリットがあるかというと、
・資源を全く使わずにモノを書ける
・ペンがなくても指でも爪先でも箸でもなんでも書ける。
・僅かなエネルギーのみで書いた内容を全て消去できる。(50000回消せるらしい)
ぐらいか。
だっら、メモ帳を使えばいいじゃん、安いし残せるし、と思ってみたのだけど、僕の場合、実生活でメモ帳は使っていない。
紙は、せいぜい考えがまとまらないときに何かの裏紙にぐちゃぐちゃ書いてみるぐらい。考えがまとまったらPCに転記して、その後は丸めて捨てちゃう運命。一枚として紙で残してはいない。
しかし、よくよくよくよく考えてみると、この電子機器は、
「電子機器のメリットをほとんど省いた電子機器」
だ。
これは、
「牛丼の牛のほとんどを省いた牛丼」
「スポーツカーのスピードのほとんどを省いたスポーツカー」
「音がほとんどしないラジオ」
「波がほとんどない海」
「食欲のほとんどわかない秋」
「女性らしさがほとんど無い女性」
・・・
のような感じではないか。
こう書き並べてみて分かるように、「ほとんど」がキーだ。
全く無いのではなく、「ほとんど無い」ということは、「ちょっとはある」ということで、「厳選してある」可能性もあるわけだ。
「牛丼の牛のほとんどを省いた残りの牛肉」がどれだけ美味しいのか、そこに大いに期待しているのである。
ロマンチックな表現をすれば、「波打ち際の砂浜と木の枝」のような感じに惹かれるのかもしれない。どうせなら、恥ずかしいことを書いて(消して)みたいものだ。
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