火曜日, 1月 31, 2012

シネコンでの映画の見方

いつからか映画館はシネコンに変わっていった。
もちろん、今でも昔ながらの映画館もあるにはあるが、そっちはミニシアターと呼ばれるようになり、ミニじゃない方はシネコンとなったようだ。

ちなみに、シネコンとはシネマ・コンプレックスらしい。
映画にコンプレックスを抱く症候群のようにも読めるが、このコンプレックスは、"複合の"とかそんな意味らしい。
マザコン的な症候群系のコンプレックスは"感情複合"が元らしいが、ややこしいったらありゃしない。

シネプレックスという呼び名もあるようなのだけど、シネプレだとマクドナルドをマクドと呼ぶ関西地域限定的な感じもしたりしなかったりするので、とりあえず、シネコンに落ち着いたのだろう。

そんなわけで、僕の映画を観る場所は、「部屋」「ミニシアター」「シネコン」のどれかということになる。

●部屋
部屋に関しては、「観たいものを借りてきて(もしくは購入して)観る」となる。
プラスして、飲食しながら、とか、喫煙しながら、とか、自由気ままである。
観る格好も、限りなくだらしない。たいてい、見終わった後立ち上がると、ポロポロと煎餅のカスやピーナッツなんかが床に散らばるのだ。

犬でも飼っていたら、この瞬間はハッピーアワーになること間違いなしだ。

部屋観("へやかん"ではない、"へやみ")に関しては、観たくないものを借りてしまうはずは無さそうだが、ジャケ借りで失敗することも少なくない。
セクシー系と思ったらホラーだったとか、戦争モノだと思ったらホラーだったとか、恋愛モノだと思ったらホラーだったとか、しかも、そのホラーがたいして怖くない上に笑うこともできないとか、そんなケース。

そんな経験から、最近は、"借りる候補"を携帯メールの下書きに書き留めておいて借りる、というパターンが増えた。
50絡みのオジサンともなると反省を活かすことができるのだ。

●ミニシアター
ミニシアターに関しては、「行ってみて面白そうなのを観る」パターンが多い。
そもそも好みが「非ハリウッド」で、ヨーロッパもの、アジアものだったりするので、意外にも外れは少ない。
打率で言えばシネコン(ハリウッドもの)を圧倒し、イチローをも超えている印象がある。

加えて、ミニシアターの場合は、思いがけず監督の舞台挨拶があったり、10数分上映した所で「映写サイズを間違えたのでもう一度最初から映写します」なんて放映事故?があったり、数人しか居ない客の一人の携帯がピピピーと鳴って、「上映中は切っとけよー」なんて思ってたら「もしもし・・」なんて電話に出ちゃう客(ご老人)がいたり、ハプニングも楽しいものだ。

●シネコン
以前は「観たいのをやってるからシネコンに行って観る」というパターンが多かった。
ところが、満を持してのシネコンにもかかわらず、結果、「それほどでも(CMを見て期待したほどでも)無かった」という、残念な結果が続いた。

映画館で見た映画の人生ワーストも去年記録した。→これ

そんなわけで、仕方ないので新たなシネコン活用方法を考え、実践してみたので報告したい。

●(新)シネコンでの映画の見方
最近は、ハリウッドもの中心の大手の映画はどれを見ても大した差はない気がする。
むしろ、事前の宣伝の効果で、その映画に間違った期待をいだいてしまうことが多い。

だから、事前に何を見ようなどと決めてはいけない。
決めないまま、できることなら、今、何が上映されているのか知らないまま、とりあえずチケット売り場に並ぶ。

並んでも気を抜いてはいけない。「何を見ようか」「どれが面白いか」などと邪念に囚われてはいけない。
できるだけ目を閉じて、行列から聞こえてくる囁きにも耳を貸さず、心を無にしよう。

さて、チケット売り場に並んでいたことすら忘れた頃に自分の番になる。
チケット売り場の係員は、こう言うだろう。「何になさいますか?」

そうしたらおもむろに、「次の上映は?」と尋ねる。
質問に質問を返すのだから怪訝な顔をされることもある。
が、気にすることはない。こちらはチケット売り場の係員のバイトを成立させている立場なのだ。

「いや、今から最初に上映開始になるのは何ですか?」と毅然とした態度で問い返すのだ。

「はぁ、次はAKBナンタラで5分後です」とか言われたら、フィーリングで「その次の上映は?」と尋ねる。
「その次はMr.ビーンナンタラで15分後です」とか言われたら、またまたフィーリングで「更にその次の上映は?」と尋ねる。

係員がややイラっとした表情を見せつつ「その次は○△□×で25分後です」とか言われた辺りで、「じゃ、それ」と応えそのチケットを購入する。
それ以上やると、スケジュールを見て決めてから並んでください、と言われかねないし、社会人としてのモラルも問われてしまうので、まぁ、3つが限界だろう。

理想は、一番最初に上映開始になる映画にする、なんだけど、残念ながら小心者の僕はまだ試していない。
(まんが祭りだったら困るし、そもそも、AKBナンタラは映画なのか未だ謎だ。)

結果、やはり、「ま、面白かった」となる。
期待値0からの「ま、面白かった」なので、同じ物を厳選して見て「がっかり」するよりは良いのではないか。

●まとめ
映画のチケット料金は「従量課金制」にならないのだろうか。
10分150円で良いと思う。200円でも良い。
期待に胸を膨らまして、いざ上映開始、、、その10分後に後悔してもJAROに訴えられないのは悔しい。

金曜日, 1月 27, 2012

大沢富江さんは知っている?


僕は大沢富江(オオサワトミエ:Osawa Tomie)さんという人は知らない。
でも、アメリカにはOSAWATOMIE(オサワトミー、カンザス州)という街がある事を昨日知った。

ただそれだけのことだ。が、ポスターで見かけて驚いた。


大きな地図で見る

木曜日, 1月 26, 2012

"暗号解読"トピックス「ヒエログリフ」


↑ヒエログリフ解読に欠かせなかったロゼッタストーン

「暗号解読」を読み終えました。
いやー。面白かった。少し時間を空けて、もう一度読みたい。


それにしても、著者のサイモン・シンは凄い。
ネットの暗号解説サイトの説明を何回読んでもチンプンカンプンだった。
そんな僕でも、とってもわかりやすい解説に感謝。

著者のシンちゃん、Wikipediaによると彼は僕と同い年。学年は一個上。
イギリスの作家/テレビプロデューサーだという。
※サイモン・シン(Wikipedia)

ベストセラー「フェルマーの最終定理」も、これなら面白いに違いない。
タイトルで拒否らずにこちらも読んでみたい。

解説の巧さにも増して、ストーリーもどんどん引き込まれる展開だった。
史実を追いながら、まるで自分がその時代時代の社会に暮らしているかのような臨場感を与えてくれる。
結果が難解で複雑なモノも、そこに至る人間模様や、取り組んだその人の背景なんかを知ると、面白いように頭に入るというか腹に落ちるんだなぁ。

そんな名作「暗号解読」の中から印象深かったことをメモっておこう。

●エジプトのヒエログリフ
まず、ヒエログリフ。一番印象に残ったのはコレだ。
そもそもこの象形文字は暗号でもなんでもない、当時は普通に使われていた言語・文字だ。
しかし、当時の言語が廃れてしまった結果、誰にも読めなくなってしまったのだ。
言語が廃れる、ということは、その言語で記されたものは「暗号」になるという、考えてみれば当たり前のことに驚いた。

で、さらに興味深かったのは、エジプトのヒエログリフが何百年もの間誰にも解読できていなかったということだ。
長い間「絵文字(表意文字)」として取り扱われ、中には自己流に絵の並びから内容を推測する専門家までいたらしい。
※そんな専門家がいたから正攻法で解読しようとする人もなかなか現れなかったようだ。

話はそれるが、自己流に絵の並びから解読する専門家、という職業が今もあるなら是非応募したい。
「おぉ、これは、"蛇と女"と"壺の中のライオン"を組み合わせた絵文字ですな。この意味するところは、粘着質の女が自分の夫の自由を奪う、という意味じゃ。今も昔も変わらぬよのぅ。」
などと想像力を膨らませ解読して、いや、解読したかのようにみせる仕事も面白そうだ。

そんなこんなで、言語が廃れて数百年後、19世紀になってようやく、天才フランソワ・シャンポリオン(古代エジプト学の父と言われる人)が、アルファベットや平仮名のように「表音文字」だと突き止めた、以降は、正しく翻訳されるようになっていった。

詳しくはこちら(Wikipedia)

ヒエログリフの読み書きを指南するサイト!

↓はシャンポリオンさん。音楽室に貼ってあるポスターとは違います。



ということで、ヒエログリフの下りを思い返してるだけでも、テンションが上がるなぁ。
これからは、やっぱり、何百年、何千年も先まで記録を残したいなら岩に壁画かなぁ。

未来へに託す記録といえば、映画「10万年後の安全」(核廃棄物をフィンランドの山の中地下数百メートルに埋める話。既に穴を掘り始めていて2100年には完成する予定。らしい。)でも、10万年後の社会に「ここは危険物が埋められている」ことを伝える手段が無いと言っていたなぁ。10万年後の人間がいたとして、10万年後に文字や言葉でコミュニケーションしていたら、そのことの方が驚きになるもんなぁ。
映画『100,000年後の安全』

水曜日, 1月 25, 2012

問題:看護師のメモより

メンタルの問題を抱えたため、休職して入院した患者Sさんの周囲は賑やかだ。
家族の付き添いや友人の見舞いはもちろんだが、何しろ、毎日見舞いが絶えない。
毎日入れ代わり立ち代わり職場の同僚や上司らしき人、先週末なんて社長?らしき人まで見舞いに来ていた。
Sさんはもうじき退院する。退院後すぐに職場に復帰するそうだ。
彼の家族から、彼の職場は復帰に向けて準備万端整えていると聞いた。

※※※
さて、ここで問題です。
上記メモにはSさん自身については特に触れていません。
以下、A~EのSさんの記述それぞれについて、どんな職場なのか考えなさい。
参考として、どんな職場なのかを表すキーワード例を以下に示します。

【それぞれのケースでどんな職場を想像しますか?】
A.入院患者Sさんは会社の経営危機を救った後にメンタルで休職したスーパーヒーロー社員
B.入院患者Sさんはトラブルプロジェクトを立て直すきっかけを作った後にメンタルでの問題を抱えたヒーロー社員
C.入院患者Sさんはプロジェクトでの残業がきっかけでメンタルの問題を抱えた社員
D.入院患者Sさんは理由はよくわからないがメンタルの問題を抱えた社員
E.入院患者Sさんは理由はよくわからないがメンタルの問題を抱えた派遣社員

【参考:職場を表すキーワード】
「社員満足度」「管理職満足度」「離職率」「職場外でも尊敬できる/できないマネジメント」
「会社の業績」「会社/事業の未来への持続性」「社会貢献」「社会と人のために」など

※"看護師のメモ"はフィクションだよ。



月曜日, 1月 23, 2012

電子教科書を阻むもの、は多分もう無い

相変わらず電子教科書周辺は騒がしい。
正確には、「電子教科書周辺のお金の匂いに企業が騒がしい」。

次の段階は、「電子教科書周辺の子供の親たちが騒がしい」に進むようだ。
さすが企業のやることは抜かりがない。
戦略的に電子教科書採択への最短距離を着実に進んでいるようだ。

教科書屋さんやiPad屋さん達が「電子教科書にしましょう」では胡散臭さを感じる人もいるのだ。
でも、親たちに言わせれば学校は否応なく採用する。子ども自身は何も知らずに大人に従うのみだ。
親たちに言わせてしまえば、業者は「そうですかぁ。致し方ありません、お売りしましょう。」となる。

親たちに言わせるにはどうするか、こんなニュースがあった。

「電子教科書のほうが教科書より学習効果が高い」

アメリカの教科書出版会社とiPadのAppleが共同で調査し発表したようだ。
そんな結果しか出ないに決まっている。
ここで報じられている「電子教科書」とは、モノは電子教科書だけど中身は「教科向けゲーム」だったのだから。

そして、これからは日本でも同じような調査発表が続くだろう。
これは効果的な戦略だ。「学習効果が高い」と言われて反対する親はそうそういないだろう。

学習効果があろうがなかろうが「漫画で学ぶナントカ」シリーズは教科書にならなかった。
漫画を教科書にしている国があるとは聞かないから、多分、世界共通の常識は、「漫画は教科書にしない」だったのだろう。

これまでの日本の常識は、集団の学習と個々人の遊びには何らかの境界を設けるものだった。
姿勢を正して学ぶ、スタイルだ。

一方、先ほどのニュースにある電子教科書とはゲームだ。
多分、一人でそのゲームに取り組んでも学習効果のある内容なのだろう。
教室で集まってやる必要はそれほど感じられない。

電子書籍もネットも空気のように存在する中で育った子供たちが何を失っていくのか、僕にはよくわからない。
ただ、それが空気のように当たり前に存在するようになると、そんなものは大切にしなくなる、ってうのが人間という事は言える。

ということは、電子教科書がなければ勉強ができない、となる気がしてならない。
同様に、ゲーム化された電子教科書がなければ教えられない、という教師も増えるだろう。

もちろん、専用のゲーム化された教材がなくても学んでいく子供もいるだろう。
だが、全体としてはどうなんだろう。平均としてはどうなんだろう。
つまらなそうな教科に興味を持ち学ぶ能力、という能力は幻想なんだろうか。

なんだかジジ臭くなったな。
でも、そういう事が気になるのだから仕方がない。
結果、充分なテストも何もなしに、わずか数年で子供たちの学ぶ場に導入されるのだろう。
原発よりはリスクが少ない、とでも言うのだろうか。。。

そういう時代だ、といえばそれまでだけど。
あちこちで、「未来の子供たちのために」とか、言わなきゃいいのに。
期待しちゃうじゃん。

※ハミ出し
子供時代を思い返して感じる紙の本の良さ
・情報量や内容に応じて質感が変わること。小説の内容を忘れても量だけ覚えていたりする。
・年月の経過で質感が変わること。兄弟が読んだ、従兄弟から貰った、、、ボロほど価値がある気がする。
・原始的な表現となるため想像力が鍛えられること。ゲームは解くことに夢中になりがち。ビジュアル付きだし。
・物理的な傷(折る、破る、追記する)をつけられること。モノ全体として自分のオリジナルのものになる。
・人にそのまま譲り渡せること。←これがビジネス的著作権的には面白くない
・その本が読まれ年月を経た質感は、その本固有の質感となりコピー出来ない。読んだお気に入りの本を大切な人に譲る、とか、それは本屋さんで買い替えることとは全く意味が違う。
・本の質感自体がその人にとってかけがえの無い大切な記憶となること。本に触れたときに読んだ時の感覚を思い出すとか、あるよね。教科書の表紙のテリテリ具合やザラザラ具合なんて今も覚えている。

日曜日, 1月 22, 2012

タモリ倶楽部 2/2



昨日からの続き。
昨日は、タモクラの良さのうち、
1.レアなテーマを探しだす
2.レアなテーマを高尚な視点と下衆な視点双方から掘り下げる
3.「実」を取る主義の徹底
まで話を進めた。

では続けよう。

4.正直であることの徹底
前述の下ネタに話題が逸れがちなことも含め、基本、正直である。
今回は"飛び出し坊や"の生みの親に収録現場から電話をかけるという、この番組としては思い切ったテを用意したが、電波状況が悪かったらしく、先方に話が伝わりにくいと判断するや否や、そのコーナーは中断となった。

他の番組でも同様の光景を見かけることがあるが、話を取り繕ったり、先方が言おうが言うまいが、番組司会者が予定調和的な話を補完したりするが、タモクラではそれは無い。
「聞こえていなければもういいです」的な締めくくりで電話は切られ、それ自体放送されている。
タモリ倶楽部は生放送では無いが、当然、必要な編集はされているとはいえ、編集で切り刻まれた感がないのだ。

後述するがソラミミのコーナーを務める安斎さんは、タモクラ界では遅刻の常習者で有名だ。今回の梅屋敷での収録では、ソラミミだけでなく本編にも登場したのだが、30分遅刻したらしく、撮影開始時には間に合ったものの「遅刻したお詫び」とももに、番組開始しばらくしてから撮影に加わっていた。

ちなみに、彼の住まいは横浜のはずなので、梅屋敷まで30分とかからないはずである。
それが、30分の遅刻をしたのだから、彼は、集合時間に家を出たということになる。
一般の人であれば外出先から訪れた可能性も否定できないが、この番組収録は日中なので、彼の朝一の仕事であったに違いないのである。

これがごく自然なテレビカメラの先で起きている事だ。他の番組がいかに不自然かということに、今さらながら気が付かされるわけだ。

5.適度な息抜き
一見、本編も緩い雰囲気で緊張感など無いように思えるだろうが、あまりにテーマが突飛なこともあり、息抜きが必要だ。
ごくたまに、手抜きテーマのように誤解されやすいテーマの時など、ある意味、保険的な意味合いも兼ねての「空耳アワー」コーナーがある。

このコーナー。通常の回では、テーマを掘り下げる本編の出演者はタモリ以外に出演しない。だから、どっか別の場所で、かつ、まとめて収録することも可能なわけだが、必ずロケ地で収録する。
ロケ地が外であっても構わない。とにかく、本編の撮影をしている場所もしくはその近辺で収録されている。

こうすることで、本編とは全く関わらない「空耳」というテーマが、本編の匂いを途切らすことなく番組のほぼ中央に据えられるわけなのだ。

「適度な息抜き」とは、そうでなくてはならない。
仕事中の適度な息抜きが居酒屋で酒を飲むというわけにいかないのと同じだ。
仕事場を離れること無く、意識だけが仕事を離れ妄想に浸る、それが適度な息抜きというものなのだ。

6.柔軟な出演者組み合わせにより広範なテーマを料理
この番組のテーマの範囲は、とてつもなく広い。以前「蟻の飼育」というテーマさえあった。
番組では蟻の飼育にハマっている人達を集め、その、魅力を大いに語ってもらう趣旨だった。
あるいは、昆虫が糞をするシーンを観よう、という回もあった。

このように、テーマを深掘りしようにもどう手を付けるのか、そもそも出演者側には、そのテーマに関して「語れるような人」がいない場合もある。

そこで、タモクラでは、出演者のバリエーションを広げる、という方策を取っているのだが、その方策はユニークなものだ。
例えば今回の「飛び出し坊や」であれば、美術的方向性がテーマになるのは歴然としている。なにしろ第一人者がみうらじゅん氏なのだ。
そして、番組お抱えとも言えるアーティストとして安斎氏を据え、番組の中心にタモリ、とくれば、後は司会進行役をどうするか、ということになる。

他の番組であれば、多少アート方面にも明るいタレントを起用するところだが、この番組はなんと言っても空耳アワーを擁する番組だ。
アート方面、、、、、なら、「ホンコン」でしょう。

ということで、ホンコンが司会を務めるのだ。
今回のテーマ掘り下げで、ホンコンが一司会進行に留まらず、テーマに対するスパイス的な役割を果たしたことは言うまでもない。

7.形式化と破壊(イノベーション)
もはや形式美、とも言える番組冒頭での「毎度おなじみ流浪の番組タモリ倶楽部です。今日は・・・」で始まるタモリに、タモリの話を遮る形で共演者たちが加わる、と、ここまでが形式化されているわけだが、共演者たちがどうタモリの話を遮って、今回のテーマを持ってくるか、が見所の一つだ。

共演者達は様々な方法でフレームインしてくるのだ。
タレント(特に若手芸人)にとって、フレームインテクニックを試す貴重な現場となっているのは言うまでもない。

そのうち、番組事態で取り上げることになると思うが、この番組では、通りすがり系:「お、タモリさんじゃないですか」と入ってくるパターンが多い。
他の番組ではあり得ないが、そこで、「さっきから見てたろ」と突っ込むタモリは燻し銀のような輝きを発している。さすがである。

8.番組のオープニングとエンディングの芸術的な舞踊風景
地デジ化で新しく撮り直された(撮り直し自体も番組化された)オープニング、および、エンディングの舞踊する女性の臀部を後ろから撮影したアーティスティックな映像。
何度見ても飽きない。ありがとう。

ということで、もう充分だろう。
タモリ倶楽部は面白い。のだ。

土曜日, 1月 21, 2012

タモリ倶楽部 1/2



は良い。
先週(首都圏でいつかはよくわからないが)の放送などは、典型的な「タモリ倶楽部の良さ」が詰まった放送だった。

先週の放送を例に、その魅力を書き残しておこう。

1.レアなテーマを探しだす
先週のテーマは「飛び出し坊や」だった。
まず、「飛び出し坊や」と聞いても何のことだかわからない。
世間で流行っているか、よりも、深く追求している人がいるかどうか、が重要なのだ。
過去に、もう10年以上エロ漫画雑誌にエロ漫画を投稿し続けるナントカさん(名前は忘れたがその投稿を見たことはある気がした)の作風の変化などを追った回もあった。
今回の飛び出し坊やとはこちら→

この「聞いてもわからないテーマ」を取り上げている番組としては、他に、放送大学の講義がある。放送大学のテーマヒット率(番組を最後まで観ようと思わせる確率)は、1/7ぐらいなのだが、タモリ倶楽部はその数倍2/3ぐらいになるのではないか。

さすがのタモリ倶楽部も、3回に1回程度はテーマを外す場合もあるのだけど、まぁ、それはこれから述べる他の要素で充分にカバーするのだ。残念ながら放送大学の場合は、テーマ以外にカバーする要素がないので、結果、放送大学の番組を観る機会はまずない。

2.レアなテーマを高尚な視点と下衆な視点双方から掘り下げる
番組では、まず、様々な「飛び出し坊や」を分類する。
このテーマの研究者である「みうらじゅん」はかれこれ30年ほど(まだ高校生だったという)写真に記録し続けている。

その飛び出し坊や研究家の第一人者が、ここからが重要なのだが、「自由に」テーマに対して論評するのだ。
時に仏像の伝搬(同氏は仏像に関する研究者としても知られる)との対比をし、時に、その造形から性的な連想を想起させるとの話題まで、実に自由なのだ。

タモリ倶楽部では、共演者についても、発言内容は自由だ。
度々、いわゆる下ネタに話題が逸れているように見えるが、ある説によれば成人男性は17秒に1回性的な想像をするのだというから、この番組自体はとても自然かつ自由に出演者たちが思った通りの発言が許されている稀有な番組なのだ。

自由に発言する番組といえば、朝生(これも奇しくもテレ朝だが)があるが、あちらも自由ではあるものの、まぁ、タモクラの前には大人げないと言わざるを得ない。
そんなわけで、タモクラは観るものの共感を得られないはずがないのだ。

3.「実」を取る主義の徹底
今回の「飛び出し坊や」発祥の地は滋賀県なのだという。
単に垂れ流され続ける普通のテレビ番組であれば、スタッフや出演者が滋賀県に取材し、場合によっては現地ロケや中継を組むところだ。

が、タモリ倶楽部は、そんな無駄な時間は使わない。なにしろ、毎週1テーマを前述の深さでこなし続けるのだ。
表面的な派手さなどタモクラには不要だ。テーマを深堀する「実」が取れれば良いのだ。

ということで、今回は、滋賀出身の番組ADが帰省した際に撮影してきた映像を参考映像として使用していた。番組は、その情報と、みうらじゅん氏の撮り貯めた飛び出し坊やの写真を中心に我々視聴者に必要十分にテーマの深遠さを伝えていた。

ちなみに、番組は京急梅屋敷駅近くの喫茶「琵琶湖」で収録されており、ここまでテーマに対し真摯に向き合い、僅かな隙も許さない番組は、残念ながら他に観たことがない。

話は長くなるので明日に続く。

金曜日, 1月 20, 2012

身近なバグ(でも直せない?)

よく見かけるけど実は誤り→「言われなくても勉強しなさい」と言われて勉強する。
正しい姿→「言われなくても勉強しなさい」と言われたから勉強しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「言われなくても勉強するようになれたらいいねー」

・類似ケース
よく見かけるけど実は誤り→「指示されなくても行動しなさい」と指示されて行動する。
正しい姿→「指示されなくても行動しなさい」と指示されたから行動しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「指示されなくても行動できるようになれたらいいねー」

単に言葉のアヤと思っていたけど、そうではない。
「言われなくても・・・」とは、言われない場合に・・・する、なのだから、言われたからやらなくても間違っていないわけだ。我慢して言わなかったら、やったかもしれないけどねぇ。

言われずにやって欲しいことを「言われなくても・・・」と伝えること自体がバグなのだ。

言われた時にこんな言い訳をしたら叱られるだろう。
僕もいい加減50歳も近づいてきて、会社の上司に、こんな口答えはしない。多分、していないと思う。
(汗)
が、でも、厳しく言わせて貰えば、「本気でないから間違った言葉のまま繰り返している」のではないか?


「言わなくても」の真意は「主体的に」なって欲しいのだろうとは思う。
でも、本当に「主体的に」なって欲しいなら、そんなバグのある言葉を発せずに、本人に気づかせなければならない。
本気ならそうするハズだ。

自分で考え気づかせることをせずに声高にバグっている言葉を叫び続けるのは滑稽だ。

なのに、同様にバグに気が付いていない人からの評価は得られてしまう。
口うるさく「言われなくても勉強しなさい」を唱える親御さんを教育委員会とかは教育熱心だと評価するだろう。

でも、肝心の、そうしてもらいたい人達からは支持されない。
「やろうと思ってたのに言うんだもんな」と、感じてしまうのだ。ま、"やろうと思ってた"も嘘なんだけど。

あろうことか、「あれだけ酸っぱく言ったのに、わからん奴らだ」とか、間違いに気づくどころか居直ることもしばしばだ。

だから、これは厄介なバグなのだ。
ということに気が付きました。←今さら何を言う

姉妹品「皆でリーダーシップを発揮しよう」もヨロシク。

※はみ出し
 この週末で読み終える「暗号解読(上下巻) サイモン・シン著」が"超"面白い。
 書いてあることを試したくなって、人生最高桁数手書き計算「十"兆"」の計算をしました。単なるわり算だけど。
 ↓記念写真

木曜日, 1月 19, 2012

これが

カレーラーメン。

水曜日, 1月 18, 2012

国語のテストの時間です

こういうテスト問題があったら皆はなんと回答するのかなぁ。

【国語の問題】
「長く使うのがエコ」に続く文章で最も適切なものを選びなさい。

①「今あるものをを長く使いなさい」
②「これを買いなさい」
③「安くなる特典付きだから急いで買いなさい」

某フォルクスワーゲン社のCMによると、正解は③らしい。
なるほど、多分、道徳的に僕が間違っているのだろう。

そのCMはこちら↓。(CMのくせにブログへの「埋め込み」を許可していない。)
http://youtu.be/4PMtrpzfi1U


これを見た時、思わず笑ってしまった。ウケた。

まず、皮のブーツなんかを映して、"いいものを長く使う。それが本当のエコ"とくる。
ここで僕は「いいこと言うじゃん」と身を乗り出す。

次に、"フォルクスワーゲンにしませんか?今ならエコカー割引10万円。"とくる。
これで僕は「なんでやねん」とテレビに向かってコケツッコミを繰り出す。

そういうCM。

※ハミ出し
 どこに委託しているのかしら無いけど、以前からフォルクスワーゲンのCMって、僕的には残念な感じが多いなぁ。

火曜日, 1月 17, 2012

ワンショット360度撮影卵型デジカメ「TAMAGGO」

以前に、何回かバーチャルリアリティ関連の話題を取り上げたことがあった。
・光を記録するカメラ
・ヘッドマウントディスプレイ
・視聴覚交換器

またまた期待できる機器が発売された。
名前はTAMAGGOと言う。卵型の360度ワンショット撮影機能デジカメだ。

見るのが早い、↓のビデオ、特に1分36秒辺りから、このカメラで撮影した"結果"が疑似体験できる。


うーむ、唸ってしまう。
やはりこうして実際に「こうなりますよ」と見せられるとインパクトがある。
こーゆーデバイスが登場して、次に期待するのは、静止画→動画、であり、この動画をどう再現するかということになる。
それは、間違いなく、ヘッドマウントディスプレイだろう。

視線を向けた方向の景色が見えるわけだ。
ここでようやく没入感は次の次元へと行くわけだ。

(普及には時間がかかるだろうが)
そうなると新たな表現手段を得たことになる。
芸術的センスを持った人にこれを持たせると何をするだろう。
※ここで、海外旅行の体験、とか言うと、それはフィルムカメラが普及し始めた時代にもそうだったらしい。
 当時の映画は、まだ知らぬ珍しい海外の様子をただ写したものだったらしい。
 というより、「映画」なる表現手段が確立されていなかったのだから致し方ない。

うーん、過去の映画を、その世界に入ってみている感覚、だけでも相当面白い気がする。
スターウォーズの世界に没入してシナリオを追っていくのは、小説とも従来の映画とも、もちろん3Dとも全く違うだろう。
なにより、これで、次世代は3D、という芽はなくなるかもしれない。
圧倒的に3Dよりも360度の方がインパクトも没入感も大きいから。

当然、3D×360度だってあるだろう。

うーむ。
やはりメモリーやハードディスクメーカーはまだまだムーアの法則を継続しなくてはならない。
突っ込みどころ満載の乱暴な計算をしてみれば、ワンショットで、普通の写真の縦(上方)×縦(下方)×横×前後で3×3×3×2でも54倍、4×4×4×2だと128倍もの容量になる。
DVD画質で2時間録画で百GB、3Dにすると数百GBというトンデモ容量だ。

ふぅ。眩暈がするのでコンテンツの話しに戻そう。

十年後か二十年後か知らないが、いずれいつか新世代HMDによる360度動画視聴の普及期が来るとしよう。
そのメガネをかければ、上下左右前後何処を見ても、撮影されたその場所の景色が広がるのだ。

黎明期には、歴史が示す通り、海外旅行の体験ビデオとかが流行るのだろう。
そんな時期を過ぎ、いよいよ普及期が到来する。

まず、ヒットするのは、新感覚のホラー映画だ。
後ろを振り向く、というのは、かなり恐怖だ。振り向かないと何が来ているのかわからないし。
振り向くと後ろの景色が見える。何も居ない。いや、正面の主人公は明らかに自分の後ろを見て震えている。
何がいるのか、もう一度振り向く、キャーーーーー、こりゃー間違いなくホラー映画のイノベーションだ!

戦争映画も良いかもしれない。
3D最初のヒット作のあの青いなんかの映画も、3Dの戦闘シーンが話題になった。
うーむ。やはり、ホラーやアクション映画を中心にカナリ面白そうだ。

遠隔地にいる誰かの360度カメラで撮影したライブ映像を見るのも凄そうだ。
真冬に暖房を入れていない部屋で、ハワイのビーチの360度映像に浸るのも興味深い。
僕の脳と身体はどう反応するのか。何をどう見ても常夏の景色の中で、ふるえる自分。いや、暖かく感じるのか?エアコン効き過ぎだー、とか思うのか?


ただ、今のヘッドマウントディスプレイではぜんぜんだめだ。
xメートル先の大インチディスプレイ、ではないのだ。視界全てを遮る映像でなければならない。
どの方向を見てもリアルタイムに映像が切れ間なく切り替わるのだ。

うーん、早く体験したい。
メーカーの技術者の皆様、がんばってください。ヨロピク~♪

月曜日, 1月 16, 2012

女性の下着

最初に断っておくが、タイトルはこの後で、"今年の一本"候補レベルの映画の話をしたいからなのだ。
僕個人の趣味嗜好の話ではない。

とはいえ、男性は女性の下着が好きだ。
僕は、、、僕もやっぱり好きだ。
認めよう。
収集したりこそしていないが、なんだかんだ女性下着というのはドキドキしてしまうものだ。
あまり心臓にいいものではない。
少なくとも僕にとっては癒し系のグッズにはなりえない。

僕の名誉のために書き記しておくが、これは、僕自身が悪いのではなく、ホモサピエンスのオスのDNAの何らかの作用なのだから、社会的に問題ある行動を伴わない分には致し方ないのだ。
許して欲しい。誰に?かはわからんが、とにかく、そういうことだ。

ここからは一般論。
どんなふうに好きかは人それぞれだ。
それ専門の泥棒や、それ専門のオークションや、好みの下着を女性に着せたがる人も少なくないと聞くし、中にはそれ専門の自らが着用するマニアまでいる。
※こんな話を書いていると誤解されそうだが、あくまで一般論で僕の趣味嗜好ではない。

男性はそれほど女性の下着が好きなくせに、自分の好みの下着は妻や娘には着用させたくないとか、もう、支離滅裂な生き物だ。

男性はかようにDNAレベルで期待を裏切るレベルで低俗なのは致し方ないとして、一方の女性は、オシャレの一貫としての下着もありなんだろう。でなければ、この映画は成立しない。
そもそも、レースの下着というのは、いや、下着にかぎらず、レース編みというのは一般に女性の好みである。

男性向けにレースのブリーフは無いし、万万が一あったとしても、キモイ。
キモい上に、万万が一、いや億億が一、朝、目が覚めてトイレに行った時に、自分の股間を覆うものがレースだったとしたら、恥ずかしい事この上ない。
誰に知られるとか、そんなことは関係なく、人生の中で3本の指に入るレベルの恥ずかしさなのは間違いない。
※他に2つも恥ずかしい事があったのか、という詮索は遠慮願いたい。50年近く生きていればいろいろあるのだ。

っていうか、レースの下着にかぎらず、レースの帽子もレースのTシャツもレースのYシャツも普通は男性用は無い。
なーんて書いているうちに、レースのハンカチにまで邪なドキドキ感に陥りそうだ。

そもそも、ショッピングモールなどでズンズン女性の下着売り場に入っていく妻を、追いかけていいものか、入り口で待っているのが良いのか、その場から立ち去るべきなのか、そんな風に逡巡している事自体が恥ずかしいことなのだから普通にしていればいいのか、下着売り場の入り口に立つ男性の普通ってなんだ、とかとかとかとか、もう、今思い出しても恥ずかしいシチュエーションだ。

幸いなことかどうかは別に、今は、独り者なので、何らそのような困るシチュエーションは無いので安心だ。
むしろ、一年ほど前に休日のショッピングモールに独りで出かけたことがあったが、もはや、オヤジ独りでショッピングモールに行くこと自体が申し訳ないような気分がしたので、それっきり一人で行っていない。

話が脱線しすぎだ。
話を戻して、下着の話。いや、映画の話を書いておきたい。

かように男性は大好きな女性の下着を、一方でとても恥ずかしく、自分のことのように恥ずかしい自意識過剰なワケワカメな生き物なのだ。

という男性心理をも考えさせられた、"今年の一本"候補の映画の話。

それは、「マルタのやさしい刺繍」だ。


スイスの田舎に暮らす老女のお話。
ここのところ老人が主人公の映画を観る機会が多いのは、多分、映画関係のマーケティング戦略が、団塊の世代をターゲットにしているからなのだろう。

これはそんな老人主人公映画の中でも秀でた映画だ。

丸田さんちのおばあちゃんの話だ。
そして沖縄の県庁所在地は那覇市だ。←ハナシだ と ナハシだ を掛けてみました。

ストーリーはこんな感じ。
スイスの片田舎、隣近所みーんな知り合いのこの村で、雑貨屋を営む丸田さんのおばあちゃん(面倒だから漢字で良いだろう)。
近所に世帯を構える外面は堅物の息子は、村で唯一の協会の牧師をしている。

そんな丸田さんちのおばあちゃんが夫を亡くしてからのお話。

最愛の夫を失って、一年もたとうというのに喪服を着続ける丸田おばあちゃん。
ずいぶん長いこと打ちひしがれていた丸田おばあちゃんだが、荷物を整理している最中に、若かりし頃に自分が作ったレースの下着を見つける。
そう、おばあちゃんは若い時分、レース職人だったのだ。

若い時にはパリでランジェリーショップを持ちたい、そんな夢も、結婚という幸せと交換で諦め、代わりに思い出として大切に仕舞っておいたレースのランジェリー。

そのランジェリーを見て、当時の夢、情熱が再び沸き上がってくる。
交換条件の結婚も、夫が一方的に先立ってしまったわけだし。

そんなこんなで、友達の後押しにも助けられながら、雑貨屋を畳み、村で唯一のランジェリーショップを開店する。
スーパーすら無いような小さな村で、それはそれは大変な騒ぎになった。

過激でも何でもない、ごく上品な手作りレースのランジェリーショップにもかかわらず村は大変な騒ぎになる。
女たちは遠巻きに眺め、男たちは露骨に下衆な視線を浴びせる。
気が狂ったと息子は嘆き、土地の有力者は露骨に排斥しようとする。
まるで風俗店でもできたような騒ぎ。

そんな騒ぎで、訪れる客も無く、店は立ちいかなくなり、諦めようとするのだが、、、
そこから老人たちのチームワーク、なにより丸田おばあちゃんの夢に対する強い意思で、ついに村にイノベーションが・・・

っていうような話。

このお婆ちゃん、その友達のお婆ちゃんたちが可愛い。ほんとうに可愛い。
脇役のおじいちゃんたちも、カナリ可愛い。
見ているうちに、まるで中学生が親の反対を押し切って、大人顔負けの仕事を成し遂げる、そんな感じすら覚える。

一方、変化に対して強硬に抵抗するのが、「大人たち」だ。
ちょうど僕と同じ年代、50絡みのオジサンたちだ。
そうなると、その妻達も、表立ってはオジサン達に従う。
オジサン相手に抵抗するのは面倒臭いのだ。その上、息も臭かったりするのだ。

もう本当にオジサン、オヤジ達というのは、どうしようもない。
オヤジ達はオヤジ同士では破廉恥な事も大好きだと認め合っているくせに、おばあちゃんが堂々とランジェリーショップを始めることには強硬に反対する。
酒飲みで、スケベで、低俗で、そのくせ偉ぶりたがって、、、もう見ていて嫌になる。

「おばあちゃんの為に」と言っては子供じみた手段も辞さないオヤジたち。
老年に差し掛かった中年男というのは、外見も中身も酷いものだ。
見ていて自己嫌悪に陥るほどだ。

しかし、僕の周りを見ても、、、まぁ、否定できない。
(ここでは僕自身に関しては否定も肯定もしないでおこう。)

でも、おばあちゃんは凄い。
そんな抵抗にも屈せず、明るく、時に凛として、夢を実現していく。

ストーリーにも書いたけど、そんな年寄りたちのチームワークが、村にいくつかのイノベーションをもたらす。
コンサルタント垂涎の事例になりそうな、新たなビジネスモデルも誕生する。
ドラッカー的にも「アリ」なストーリーなんだよなぁ。

家で一人で見ているのに、「がんばれー」「いいぞー」「オヤジ引っ込めー」「やっほー」などと声が出てしまう、とても温かい気持ちになれる映画でした。

※ハミ出し
 残念ながら今年の一本は逃したけど、「木洩れ日の家」も可愛いおばあちゃんが主役の映画。モノクロ映画。
 おばあちゃんも可愛いけど、同居する犬も可愛い。そしてやっぱり、オヤジは醜い。
 今年はおばあちゃん・おじいちゃん映画から目が離せません。

日曜日, 1月 15, 2012

無線LAN SDカード「FlashAir」


ネグロポンテの言う「あらゆるモノがネットワークされる」世界。

以前から無線LAN機能を持つSDカードはあって、その発想も技術も方向も素晴らしかった。
だけど、今ひとつ、アクセス性が限られていた*ので手を出す気にならなかった。
*カメラ:SDカード側からネットワーク資源にアクセスする

最近、カメラを新調した際も、改めてその製品を確認したのだけど、やはり、「すごいんだけど今一歩」感があって、結果、今までのカメラで使っていたメモリーカードを使い回していた。

が、今回のザ・東芝製品「FlashAir」では、「外部から直接カードにネットワークアクセスする」という点が今一歩感を払拭した。※
※他メーカーの従来製品でもダイレクトモードがあったがカメラ側からpushするようだ。この製品はPC(やスマホ)からpullできる。

そもそもカードの抜き差しは、「データを取り出す」際に必要になる。
この取り出す作業をパソコン側から操作しやすい、っていうところがキモだったのだ。

これを使えば、目出度く、「カードを抜き差しする」から解放される気がする。
新年早々目出度いのだ。

===以下、50絡みのオジサンの愚痴になります===
今回の製品は普通のSDカード(切手大)なのだけど、それですらオジサンの色気のない手先では取り扱いが難しい。
背中を丸め、カメラの底とかの、これまた数ミリの繊細なロックを外す。
そして、更に背中を丸め、その開いた蓋の奥を覗き込む。
僅か数ミリ飛び出しているメモリーカードの頭をごつい指で押し下げる。
ほんの少し飛び出した所で、ごつい指で摘みながら引きぬく。

私はまだ、幸運なことに老眼も自覚していないし、指先の震えも自覚していない。
概ね無自覚な人間なのだ。
なのに、SDカードの取り扱いに関しては、ストレスの高い作業だと自覚している。
それぐらいメモリーカードとは厄介なシロモノなのだ。黒くてもシロモノなんだな。

そもそも、ああいう繊細な指先の作業は、こんな汎用品相手にするものではない。
ぜひとも繊細な指先の作業は、愛するもの※にこそすべきなのだ。
デジカメや、ましてやメモリーカードを愛しているわけではない普通の人には余計な負担でしか無いのだ。
※注:おじさん的にはエッチな意味含みではあるけど、職人さんが製品を愛するとか、いろいろあるでしょ。

とにかく、そんなストレスフルな作業が嫌なのだ。

と、こんな事をCES※で発表された新製品のニュースを読みながら考えてたのだけど、そもそもデジカメのカードはいるのか?と疑問が出てきた。
カードなんて使わずに数十GBのメモリーとネットワークアクセス機能があればいいんじゃないか?
※CESとは、年に一回ぐらい開かれるオタク向けオリンピックみたいなもの
http://www.cesweb.org/


そういえば、iPodなんかは、最初からそういう方向の製品だった。
なんでもかんでもネットワークされるようになれば、デジカメにメモリーカード、そんな組み合わせはナンセンスになる日が来るのかもしれない。

僕自身は、自分の手元にあるハードディスクにデータが無いと不安を感じる、クラウド不適応世代なんだけど、「カード抜き差し嫌い」としては、クラウドも致し方なしになってしまうかもしれない。

という風に、好むと好まざるにかかわらず、ジワジワとネットワークは広がり深まっていくのでありました。

===以下、50絡みのオジサンの愚痴が更に続きます===
それにしても、携帯に使う「マイクロなんとかカード」は、本当にあの大きさでなければいけないのだろうか。
尋常じゃない小ささだ。あーゆーのは、悪い冗談とか、人をバカにしたとか、非常識とか、そういう小ささではないのか?
子供が誤って飲み込んだとしても、飲み込んだことにも気がつかないような大きさだ。

よく、マイクロなんとかカード撲滅デモが起きないものだ。
大阪の件が落ち着いたら、橋本大阪市長に撲滅をお願いしたいぐらいだ。

さらにだ、マイクロなんとかをミニアダプターに挿入し、挿入済みのミニアダプターをアダプターに挿入するなどという、針を二本束ねてその穴に糸を通す的な神業レベルの作業まで強いられる。
あーゆー作業は、ジェームス・ボンドやトム・クルーズにこそ似合うのであって、50絡み(あるいはそれ以上)の成人男性が背中を丸めて、開いた口からヨダレを垂らしそうになりながらやる作業ではない。

そんなカメラはクリント・イーストウッドが拳銃で撃破するに違いない。
撃破して欲しい、撃破しなければならない、撃破せよ!

土曜日, 1月 14, 2012

虚しい言葉「エシカル」

多少高くとも道徳的な買い物をする、そんな考え方をエシカル(ethical)というのだそうだ。

元々は「倫理的な」といった形容詞だったらしいが、こと最近は「エシカルファッション」とか「エシカルジュエリー」といった感じで、商品と結びついて使われることが少なくないようだ。

「地球に優しい素材」だったり「児童労働の関与していない製品」だったり、良いことなんだろうけど、結局、"エコ"に続く売らんかな的な流行語になっちゃうと思うと滅入る。
エコの時も、始めこそ本来のエコの意味で使われていたのが、いつの間にか商品を売るためのキャッチフレーズになってしまった。

エシカルファッションやエシカルジュエリー、意味を正確に表わせば、「倫理的素材ファッション」「道徳的製造宝石」とかになる。

うーむ。意味がちゃんと伝わると買う前に「ほんとうに必要なのか?」と一度考えてみる気になる。
要するに買う気が失せるのだ。

が、カタカナのマジックは売る側には都合が良いのだ。
真意なんて伝わる必要など無く、むしろ真意は伝えたくない。
だって、エシカルの真意は倫理的/道徳的なんだから、買い物で言えば「不要なものは買わない」はずだから。
売る側の真意は、理由は何でもよくて買う気が増せば良いのだ。

エコがそうだったように、エシカルも流行りだすと「不要かどうかなんて考えず、とにもかくにもエシカル的なモノを買いましょう」になるわけだ。
こんなならいっそ、理由はともかく今あるモノは捨ててでも新しくモノを買う、そういう姿勢こそが道徳的で倫理的だ、と文部省辺りに認定してもらいたいものだ。

【道徳的、エシカルな生き方】
去年買った減税エコカーは野暮ったいのでエシカルカーの新車に買い換えた。
やっぱりエシカルな宝石に買い換えなくっちゃ。
近所の野菜なんて怖くって。。。やっぱり外国産のエシカルマークの付いた野菜でしょ。
エシカルな水しか飲みませんのよ。水道水ってエシカルじゃないでしょ。
原子力こそエシカルなエネルギー。


木曜日, 1月 12, 2012

メンタムの話(オジサンのメンタル含む)


50絡みのオジサンの冬は痒い。
去年まで、まだ50絡みではない去年まではなんでも無かったのに、今年は酷く痒い。

最初はダニでもいるのかと思った。
あるいは聞いたことはあるが体験していないタムシというのも調べてみたりした。

Wikipediaでどんなに詳しく調べても、痒みが治まるわけではない。

そうこうするうちに、お尻を中心に、脇腹、もも、脛、と、ととと、とにかく痒みはおさまらない。
寝ているうちに掻きむしっていることもあるようで、ももの辺りには、掻きむしった痕までできた。

そんなこんなしているうちに、その、痒みのある周辺が「カサカサ、パサパサ」になり、なんだか粉を吹いているような感じになったのだ。

ここまできて、ようやく、あ、これは肌が乾燥しているんだ。と気がついた。
そして、冬の乾燥肌にはクリームを塗って保湿するのが良い、とも聞いた。
この時期、そのテのクリームは薬局にたくさん並んでいる、ということも聞いた。

聞いてから10日ほどして、薬局に行った。
聞いて直ぐに行かないということは、それぐらいは我慢できる程度だったことと、勝手に薬局に感じている敷居の高さから、と、痒みというのは心ゆくまで掻きむしった後にいったんは治まるからだ。

なるほど、何種類も並んでいる。
見慣れた赤十字社幼児虐待もしくは幼児コスプレマークのメンタム製を手に取る。
更に箱に貼られたPOP広告は「関根勤」だ。彼の笑顔が「50絡みのオジサンにオススメ」と僕に語りかける。
※この時はまだ、「メンタム」と「メンソレータム」が違う会社だと気がついていません。

しかし、他の製品もどうなんだ。と、その分野に関してなんの選択基準もない事をわかっていながら、パッケージや効能、使用方法などから読み取れる情報を元に妄想を膨らませ、なんらかの理由を持って選ぼうとする僕。

結局、その陳列棚に並んだ各社製品で、単位グラムあたりの値段の最も高い(といっても僅かな差だったが)メンタムメンソレータムにした。
何がどう違うのかわからないが、"第二類"というのも他の"第三類"より良いのかもしれない、とも思った。

で、結果。
なんで早く塗らなかったんだろー、っていうぐらい、絶好調だ。
少なくとも乾燥肌に関しては、50絡みのオジサンであることを忘れさせてくれる。

メンタムメンソレータム、ありがとう。

※はみ出し
 ちなみにメンタームのキャラクターは頭にインディアンっぽい羽を付けた男の子でした。

水曜日, 1月 11, 2012

円形脱毛とその対策


不思議なもので、それは何の前触れもなくやって来る。
最初は、頭を触った時、「あれ、ここに傷があったかな」ぐらいの感じ。
自分ではわからず、人に指を掴まれて指の先をその部分に当てられて、「お、なるほど」と思うような小さいハゲ。

スタートは子供銀行の1円硬貨ぐらいからだ。

普段坊主頭にしていると、こういう空間の発見は早い。
早いだけではなく、「以前は無かった」と断言できるのもよい。

それから一ヶ月ほどで、ムクムクと、いや、ジワジワと、か、気がつくと面積が広がっている。500円硬貨ぐらい。
しかも、見事に円形に広がるのだから、もう、筆箱にコンパスを忘れても大丈夫、的な真円を形作っているのだ。
そもそも、円形脱毛症は聞いたことがあるが、正方脱毛症や直方脱毛症、三角脱毛症、正十二角形脱毛症、などというのは聞かない。

あまりに綺麗な円形なので、ニコニコマークを書いてみようかと思ったり、敢えてのリボンを貼り付けるとか、ゴルフ場チックに旗を立ててみる、とか、まぁ、行動には移さないものの、なかなか話のネタにはなるヤツなのです。

で、年末最終勤務日の後の職場の宴会に「スキンヘッドで登場」っていうのをやってみた。

去年は床屋さんでスキンヘッドにしてみたんだけど、頼んだ僕も、頼まれた床屋さんも、お互いもう嫌だ、っていうぐらい面倒だった。
そりゃそうだ。髭剃りの面積比で10倍ほど、毛の密度で3倍ほど、全体で30倍ほどの手間なのだ。

実際、去年のオネエ疑惑ありの床屋さんでは、まるまる1時間ほどかかって仕上がったのだ。

で、今年。
ここ最近は、自分で坊主頭にするので、その上で、頭の「髭剃り」をすればいい、と、短絡的に考えた。

帰省準備と散髪のために最終出社日を午後半休して自宅に帰る。

まず、鏡の前に絶つ。
そして、「エリザベスカーラー」と呼ぶのかは知らないが首の周りで髪の毛をキャッチするエリマキトカゲ状の物体を装着する。

いつものように、まず、丸刈りにする。
これはやってみるととても気持ちいいものだ。
特に、刈り始めは、「今日は逆モヒカンにしよう」とか「今回はザビエルにしてみよう」とか、創意工夫が活かせるのだ。

そんなこんなで、50絡みのオジサンともなると、日常ではめったに鏡を見ることも無いのだが、この時ばかりはシッカリ鏡の自分と対峙するのだ。

10分ほどだろうか、程なく丸刈りは終了する。
丸刈り長さ調整のアダプターが壊れてしまったので、3mm固定だが仕方ない。

ここで一度、カーラーに溜まった髪の毛を捨てる。

白黒ニ色の髪だ。
どうせなら、灰色一色になってくれれば良いのだが、DNAはそれを許さず、真っ白と真っ黒のニ色の毛が、綿のように溜まっている。

いつもならここでシャワーを浴びて作業完了なのだが、今日は、ここからが本番。

まず、いつも使っている(丸刈り用とは別の)電気シェーバーで刈ってみる。

「???」
激しい音はすれども、髭のようにシェーバーの通過した場所がスッキリ、とはならない。
髪の毛を根こそぎカットする予定が、髪の毛の先、それも3mm残った分の1mmほどをカットするだけのようだ。

シェーバーの角度が悪いのかと思い、刈りたい場所にたいして垂直に当たるようにして、グリグリグリグリと押し付けるようにしてみる。

ブーン、ザリッ、ジャリッジャリッ、ガガガリッ、と、激しく、今度は手応えもシッカリある。

そして、頭からシェーバーを離し、剃り跡を確かめる。。。。

ガーーーーーーン。
ヤバイ。。。
やっちまったなー、と餅をつく光景が目に浮かぶ。

シェーバーを当て擦りつけていた場所。右側頭部。
そこに、焼畑農業の跡地ができているではないか。

ところどころに焦げた木々を残したまま、他は燻っている、そんな風景がシェーバーを当てていた12平方cm(3cm×4cm)ぐらいに広がっているではないか。

落ち着け自分。

さらに暫くの間、焼畑農法を続けてみる。
10分程続けてみると、ようやく、焼畑農法の中心部分に、僅かながら美しい土地が現れる。

、、、が、このペースではどう見繕っても3時間以上はかかってしまう。
年末最終飲み会に間に合わないではないか!

などと、こんな時に面積比で作業時間を割り出すなんて、算数は役に立つなぁ、などと思いながら、

1.このまま帽子を被って、恥を忍んで床屋に行ってツルッパゲにしてもらう
2.このまま何も無かったことにして(恥を晒して)、正月休暇最後に坊主頭にする

うーん、どうする。

その時、僕の目に、先ほどまで丸坊主にするためのシェーバーが目についた。
そのシェーバーは、髭剃りにも使えるアタッチメントがあった事を思い出した。
ゴソゴソ、その使ったことのないアタッチメントを取り付けた。
うーむ、二枚刃なんだ。○枚刃を、初めて意識した。

そして、スイッチを入れる。
半ば選択肢1で諦めつつも、焼畑農業の聖地にシェーバーを当てていく。

「!?」
世の中に"!?"という、ビックリハテナ顔があったら、この時の鏡に映った僕の顔がそれだ。

二枚刃の威力というのはこういうことか。

明らかに、さっきのシェーバーとは違う。
単位時間あたりの耕作面積でいうと、2倍、いや3倍ぐらい違う。
なおかつ、あまりの出来事に忘れていたが、さっきのシェーバーにはあった「痛み」が無い。
さっきのシェーバーでは、時々、「ガリガッガッガーガリガリ」のように、明らかに歯に髪が巻き込まれたようになって、少し痛かったのだ。
(それにしても、髪の毛は3mmでも30cmでも痛みは同じだ。)

それから苦節1時間ほどで、私の頭は見事に肌頭(スキンヘッド)となり、見事に円形脱毛部分は無くなった、という話でした。

その二日後に、また、円形脱毛症が発症したのは言うまでもない。

↓これ、欲しい。

火曜日, 1月 10, 2012

お正月休み

年々、スーパーやデパートの初売が1月1日に限りなく近づいている。
それとともに、年末年始休暇も取りにくくなってきている。

そもそも、12月31日で営業していて、1月1日初売って、ありがたみがない。
せっかく「コンビニエンスストア」が開いていても、スーパーが1月1日に開いていたらコンビニ業界的にもありがたくない。

そんなんじゃ年末も正月も、いつもと何にも変わらないのだ。


おせち料理にありがたみがない。
スーパーが開いているのだから、わざわざ、冷えたお惣菜をつまむ必要もなかろう。


お年玉にありがたみがない。
日常的にお金を使っている、良く言えば金銭感覚の研ぎ澄まされた、そういう子供にとって、お金は"大"でなければありがたみを感じなくて当然だ。
しかし、元来、「お年玉」は小さいお金を指したはずだ。"玉"でなくてはならない。

そして、本当のお年玉のありがたみ。
それは、あの、お年玉を貰っても使うお店が開いていない、という焦燥感だ。
多少なりとも溜まっていくお年玉、開かない店、デパートでしか売っていない大型のプラモデルに化けるはずのお年玉が、近所の駄菓子屋のオモチャに変わっていく。

そういう事は今はないのだから、僕個人はお年玉は配っていない。
甥っ子や姪っ子には申し訳ないものだ、が、仕方ない。のだ。
そーゆー時代なのだ。


テレビの正月番組にありがたみがない。
年がら年中お笑い番組があるのだから。


正月ドライブのありがたみがない。
田舎に帰っていても、意外に車の出は多い。
初日の出見物や初詣で交通事故、のニュースが珍しくない。
初詣で交通事故とは、初詣のありがたみも怪しい。。



そんなんだから、計画停電は、こういうタイミングでやるといいのに。
謹賀新年、計画停電。語呂もいい。
お正月明けの通電開始には、きっと、拍手が起こるだろう。

「謹賀新年 計画停電のお知らせ お正月3が日の発電を中止させて頂きます。○○電力」

月曜日, 1月 02, 2012

あまSUN(天草)

無骨な見かけに、実は爽やかな甘いみかん。かっこいいヤツ。

沖縄の味を雪降る岩手で食す、なんと贅沢なお正月。