金曜日, 12月 30, 2011

駒門PA

かけ蕎麦。安心。

朝蕎麦デザート

湾岸長島PAの足湯、無料!

湾岸長島PA

朝蕎麦。

吉備SA

かき揚げ蕎麦。(かけ蕎麦無し)

木曜日, 12月 29, 2011

映画「瞳の奥の秘密」



アルゼンチン映画。

ジャンル的にはサスペンス映画。
、、なのだが、サスペンスというより、人生ドラマの方が近いかもしれない。

見終わった後、時間をかけて味わいが広がるのが感じられるような良作でした。
様々な愛情の形を通して、生きているこの時間、を考えさせられる大人の映画。

・25年に渡るストーリー
 同じ俳優たちが、25年のギャップをとても自然に違和感なく演じています。
 役者って凄い。メイキャップが凄い?のかも。
・容赦無い「罪」に対する容赦無い罰と失われるもの
 見終わった後、大きなショックと共に深く深く考えさせられます。
・"大人の"愛情
 これまた深く深く考えさせられます。
 妻に対する愛情、屈折した愛情、自己犠牲の愛情、、、
 正解のないような問いなんだけど、主人公の最後の決断でホッとさせられました。
・映像の美しさ
 映画冒頭の映像。心の奥底で互いの愛情を感じ取っている男女の駅での別れのシーン。
 映画に引き込まれるだけでなく、主人公同様に僕まで繰り返し思いだしてしまう心に残るシーンです。


そもそも、アルゼンチン映画って他に何か見たことがない。
だからなのかはわからないけど、とても独特の雰囲気、味がある映像が心に残ります。
ピアノの音色を中心に、音楽も華美にならず、旋律と言うより澄んだ"音"が記憶に残ります。

"たまたま"なのかどうかは分からないけど、また、アルゼンチン映画を観たい、と思わせるに充分な良作でした。

火曜日, 12月 27, 2011

30日から冬休み



今年の夏休み、ここ北九州から盛岡に向かう高速道路で、果たして、どこを境に「かけ蕎麦」が東日本風になるか、という調査を敢行した。
結果、駿河湾を境に、うどん屋さんのなんちゃってかけ蕎麦が、東日本の正統派かけ蕎麦になる、という事を発見し、調査を終えた。

あれから半年。
この冬初めての冬休みである。
最近では元旦にも大抵のお店は開いていて、全くの冬休み感は減退気味なんだけど、まぁ、とにかく冬休みだ。
"元旦も休まず便利"ではなく、"元旦にもお金を使わせられている"だけだと気がつくのはいつの日か。。。

ともあれ、この冬休みは、いつもの「どうやって長期休暇の許可を得るか」に悩む必要はなかった。
何故なら、有休が残っていなかった、からだ。
長期休暇も何も、もう、年内は休暇を取れなかったのだ。職場自体が29日まで営業日なので、30日からが冬休みとなる。

そんなわけで、上司の前でも客先でも、堂々と過ごす年末であった。

駄菓子はお菓子、だがしかーし、私の会社は12月年度末なので1月には新たに有休が使えるではないか。
ちょっと心配で、確認してみたが、やはりそうだ。1月には来年の有休が付与される。
お魚も有休も新鮮なうちに調理するのがいい。

ということで、この冬休みも、ここ北九州から盛岡に車で向かってみようと思う。

で、その道中のテーマを検討することとなった。冬休みの自由研究だ。
前回の夏休みのテーマで、蕎麦の西限はわかった。
駿河湾以東でなければ東日本系の蕎麦は食べられないという事実だ。
「伊東に行くならハトヤ♪」というCMがあるが、駿河湾以東が伊東になった、などという事実はない。

ちなみに、前回のコースは、北九州~横浜までが、
九州道→中国道→山陽道→広島岩国道→中国道→名神→東名阪→伊勢湾岸→東名
ということを、NEXCOのホームページで知った。
パーキングエリアよりは少ないが、サービスエリアの数に匹敵しそうな高速自動車の路線。

ちなみに、中国道と山陽道はどっちかが山側でどっちかが海側で並行しているようで、知らないうちに中国道から山陽道に抜け、やはり知らないうちに山陽道から広島岩国道経由中国道に戻っているようだ。
僕は中国道をひた走っているつもりだったが、そんな風に乗り換え乗り換え進んでいたのだ。

気がついたら、もう、私は汚れた身体になっていた、みたいなものだ。
(ナビという箱は、こうやって、50絡みのオジサンの知力低下を促進するのだ。)

話戻して、今年の冬の帰省道中のテーマだ。
なにしろ夏に分かったのは、「テーマがあった方がより楽しい」ということ。
きっと、小学校の夏休みの自由研究も、夏休み最終日以外にやっていれば楽しかったのかもしれない、と気がついた。
あぁ、40年前の自分に教えてあげたい。

そんなこんなで、とりあえず発表しようと思います。

♪ドラムロール♪
2011年冬、西日本縦断高速道路の旅、テーマは、「引き続きかけ蕎麦を食べる」です。
♪シンバル♪

どういうことかというと、前回、この路線でかけ蕎麦を食べたのは、
中国自動車道 王司PA
山陽自動車道 宮島SA
山陽自動車道 小谷SA
山陽自動車道 龍野西SA
名神高速道路 桂川PA
東名阪自動車道 御在所SA
東名高速道路 浜名湖SA
東名高速道路 牧之原SA
東名高速道路 足柄SA
だ。

こういう時にブログというのは便利だ。
こんな記憶も記録(メモ書きとか)も何も無いのだけど、ブログには残ってた。

で、少なくともフードコートやスナックコーナーがありそうで、前回かけそばってないPA/SAが、
九州自動車道 吉志PA
関門橋 めかりPA
関門橋 壇之浦PA
山陽自動車道 沼田PA
山陽自動車道 奥屋PA
山陽自動車道 高坂PA
山陽自動車道 八幡PA
山陽自動車道 福山SA
山陽自動車道 道口PA
山陽自動車道 吉備SA
山陽自動車道 瀬戸PA
山陽自動車道 福石PA
山陽自動車道 白鳥PA
山陽自動車道 三木SA
山陽自動車道 淡河PA
中国自動車道 西宮名塩SA
名神高速道路 大津SA
名神高速道路 草津PA
新名神高速道路 甲南PA
東名阪自動車道 亀山PA
東名高速道路 美合PA
東名高速道路 赤塚PA
東名高速道路 新城PA
東名高速道路 遠州豊田PA
東名高速道路 小笠PA
東名高速道路 日本坂PA
東名高速道路 日本平PA
東名高速道路 由比PA
東名高速道路 富士川SA
東名高速道路 愛鷹PA
東名高速道路 駒門PA
東名高速道路 鮎沢PA
東名高速道路 中井PA
東名高速道路 海老名SA
これだけあるのだ。

ここまで読んで、「どんだけ暇なんだ」と思わないで欲しい。

今年は特に忙しかったのだ。どれだけ忙しかったかといえば、有休が無くなるほど忙しかったのだ。
そんな有休が無くなった50絡みのオジサンに、この年の瀬に三連休(先週末)あったではないか。
冷え込むこの時期の三連休、しかも、街に出た所で胡散臭いだけのオジサンは大人しく家にいたのだ。
もう、ネットサーフィンも回線がすり切れるほどできたのだ。

ともかく、WikipediaとNEXCO西日本、中日本、東日本それぞれのサイトを見た限り、まだ30箇所ぐらいは候補地がある。

充分に道中を楽しめそうではないか。
これこそ、年越し蕎麦ではないか。

そういう事にしておこう。

土曜日, 12月 24, 2011

ポン酢の美味しい食べ方(後編)



どうしてもメインになれないポン酢。
そんなポン酢の窮状を救う「ポン酢メインの料理」を紹介しよう。

これは、ここ、北九州で、まさに今、旬を迎えているフグ、それも"てっさ"だ。

(武田鉄矢風に)
はーい、みんなー、(手を叩きながら)、ざわざわしなーい。
いいですかぁ、ここからが重要ですぅ。
ここからがキモ(フグだけに)ですぅ。


ちなみに、今の今まで知らなかったが、「てっさ」はフグの刺身、「てっちり」はフグの鍋なのだそうだ。
で、それぞれ「鉄刺身」「鉄ちり鍋」が縮んだものらしい。
その名付け親である大阪は、国内フグ消費量の6割を消費するのだという。
大阪人はふぐが好きなのだ。

ちなみにのちなみに、縮むといえば、人生最高体重を謳歌している僕は、セーターに限らず、下着からコートまで全ての衣類が縮んでいるのだけど、それは別の話だ。

話を戻す。
この「てっさ」。
世の中的には「高級料理」「聞いた時、ちょっとハイな気分になる料理」「聞いた時、財布の中身が気になる料理」、、
とされているのかもしれないが、これが、実は、「ポン酢を美味しく食べるための料理」なのだ。
(あくまで「てっさ」(刺身)の話です。)

そもそも、フグの人気というのは、希少とか旨さではない。ここ、勝手ながらキッパリ言い切らせて貰う。
フグの人気は「毒」に起因する珍味的価値なのだ。これも勝手ながら断定させて頂く。

免許を持つ料理人でなければさばけない、うえに、イワシのようには採れた事がないから適度な希少性が維持され、魚全般に言える鮮度の問題から、下関界隈で食べると美味い、とか、そんな事から人気なのだろう。
(実際には、"フグに特化した加工工場"が下関に集中しているのだそうだ。)

で、この「てっさ」の旨さを、この辺りの出身の同僚(約3名)に聞いてみた。
このあたり、北九州市内のスーパーでも、この時期は普通にふぐ刺しが売られている。
さほど高い値段ではない。

そして、その地元のおっさん達の回答は、驚愕のものだった。

A.「よくわからん」
B.「さほど食べたいと思わん」
C.「結局、ポン酢と紅葉おろしで決まる」

そうだ。その、どれも共感できた。

頑張って頑張ってポジティブに表現した所で、結局、フグの刺身は「歯ざわり」以外にフグの味というものは限りなく無に近いのだ。
臭みがないとも言える。

フグの身になって考えて欲しい。
食われないための戦略はそんなにたくさんあるわけではない。
1.食べにくい形の身体になる。
2.食べても不味い体になる
3.ちょっとぐらい食べられても気が付かないぐらい、名前を覚えられないぐらいたくさんの子供を擁し大家族を構成する
4.誰にも出会わないような場所で暮らす
5.祈る

そう、フグは2をメインに選択した。しかも、不味いどころか、「毒」を体内に用意した。
2の完成形だ。
食えるものなら食ってみろ精神旺盛なのだ。
不味い上に毒まで用意したのが彼らの選択なのだ。

しかし、毒生成に進化の力の全てを集中してしまった。
毒の生成は、それはそれは大変な進化なのだ。その毒に自分がやられないように進化しなければならないのだ。
そんなこんなで、フグは、自身の身を不味くする方は中途半端な結果となった。
不味いと言うより、単に味が無いという結果に至ったのだ。

毒+不味い身、なら、スーパーフグだったんだけどなー。

これでわかっていただけただろうか。
「てっさ」は、フグの身の味を味わうものではない。
味わうというのは、「味があって」ナンボだ。
あくまで「てっさ」はフグの身の歯ごたえを、とか、風味をとか、いろいろ世間では言われてきたがどれも、支払った額に対する言い訳なのだ。

「あんなに支払ったのだから、美味かったに違いない」
そう思いたい。人間はそういう可愛い愚かさを持ってるのだ。
プチ情報だが、自分が食べたいかどうか、値段に惑わされずに考えたいなら、
「最後の晩餐に食べたいのか?」
と、自問自答すれば良い事が多い。

ということで、「てっさ」は、実は、ポン酢そのものを味わうための食べ物、なのだ。
試しに、てっさに何も付けずに一口食べる。味わってみるがよくわからない。
次にてっさにポン酢と薬味を付けて食べる。
。。。美味い。

だから、「ポン酢を味わうならてっさ」が真実なのだ。

正確にメニューにすれば、本日のメインディッシュは、「ポン酢のテッサ和え」なわけだ。

ということで、この時期、東京からエライ人が出張でやってくると、「せっかくだから本場のてっさを」などとヌカスのだけど、本当に迷惑だし無意味だからやめていただきたい。

迎え入れる我々は、ポン酢を味わうために度重なる出費を強いられるのだ。
せいぜい、ポン酢に紅葉おろしを味わうぐらいだ。あと、アサツキか。

「ポン酢のてっさ和え」なのだから、適正料金はポン酢代金+αであるべきだ。
それなら、エライ人の要望にも、「どうぞどうぞ、どんぶり一杯好きなだけお食べ下さい」と応えられる。
が、あの値段だ。

いっそ、ロッテ(LOTTE)に「新感覚ガムてっさ」(無味超薄)とかを作っていただきたい。
あるいは、マンナンライフに「新感覚コリコリこんにゃく、てっさ風」(無味超薄)が良いかもしれない。

これなら、飽きるまでポン酢や薬味の味を楽しめそうだ。

しかし歯牙無い(←"しがない"ってこういう字だったのか。。。)平サラリーマンは、エライ人の要望を満たすべく、ふぐ屋の予約に奔走するのでありました。

※ふぐを河豚と書くのは、「ブウ」と鳴くかららしい。
※何度も食べたことがあるわけではないが、白子に関しては美味い。と思う。
が、最後の晩餐に選ぶ気はない。

やっぱり

今日らしいランチ?!

金曜日, 12月 23, 2011

ポン酢の美味しい食べ方(前編)



世間は冬である。
冬は暖かくなりたい。
ホカホカしたい。

ということで、鍋が脚光を浴びる季節だ。
鍋物、実は「手間が掛かっているところを自慢したい料理人およびカリスマ主婦協会」的には、ファーストフード扱いなのだけど、そんな事はおいといて、ポン酢の消費量もグググーンと伸びているはずだ。

そのポン酢に注目した料理があることに気がついた。
是非、ミツカンの次のCMに西田敏行でやってもらいたいものだ。

そもそも、ポン酢というのは、基本は脇役だ。
メインの食材を引き立てるのが彼らのミッションだ。
Wikipediaにも「和食の調味料」と書いてある。あくまで調味料なのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E9%85%A2

湯豆腐に、鍋に、しゃぶしゃぶサラダに、なんだったら炒め物や和え物などにも使えるのだ。

だが、所詮ポン酢だ。
調味料の域を超えられないのだ。

「本日の日替わり定食はポン酢定食です」
「メインディッシュはポン酢の鉄板焼きです」
「ポン酢丸焼き」
「ポン酢サンド」
というわけにはいかない。

ポン酢の限界なのか、と勝手に某ミツカンの社員になったような気持ちで、限界を感じていた。
「ごめんなさい。一生、脇役で居させてください」と謝ろうとしていた、まさにその瞬間に閃いた。

実は隠れた「ポン酢メインの料理」が世の中にはあったのだ。
あの有名料理、実は「ポン酢が主役」だったのだ。
目からウロコ、豚に真珠、タンスにゴン、なのだ。

それにしても、前置きが長い。その前置きに恥じない発表をこれからしたい。
と思ったが、今日はここまで。次回に続く。

水曜日, 12月 21, 2011

ウラネット


デパートやスーパーで買い物するなら、その店の人が、来店客の様子や動向を見極めて商品の配置を変えてみたり、空調の温度を変えてみたり、あるいはBGMを変えたり、ありとあらゆる「気づき」を活かして、なんとか売上増に繋げられるように来店客の観察をしている。

リアルな世界では売り場を観察するのだけど、ネットでの購買では、ホームページへの来店客の様子をつぶさに見る=記録に残して記録を見るということになる。
そして、ありとあらゆるデータと売上の相関関係を考えていくことになる。

ページを開いてからクリックする時間と売上との相関、年齢との相関、前回購入してからの期間、どこのホームページから辿ってきたかとの相関、PCでアクセスしているのかMACなのかスマホなのかの相関、もうありとあらゆるデータが使えそうな気になるわけで、それをやるためには、単なる顧客リストを凌駕する大量の記録や場合によっては外部の記憶まで含めた「ビッグデータ」が必要になる。

そういうわけで、amazonなんかが顕著だけど、「オススメ」とか言って、思いがけない商品をおススメられたりする。

このアプローチ、最近はなんか面白く無い。
オススメなんかされてから知るようなモノは、きっと、知らないほうが幸せかもしれない。
オススメされずにいたら、もっと、素敵な方法、しかも、モノを買うのではない他の方法に辿り着けるかもしれない。

ということで、こんなネット通販会社があったらどうなのよっていうヤツを書いてみよう。

このネット通販では他のネット通販と同様に、訪れた顧客に様々なガイドを提供する。
もちろん、流行りのビッグデータをバンバン活用しているのだ。
「これは以前にも購入済みですよ」辺りからスタート。これは今でもあるかもしれない。
でもここからは、 購入に対してネガティブなアピールをする。
「これを見ているということは、あれにも興味があるでしょうが、どちらも使われないランキングに入ってます」
「これは中古市場に流れる率の高い商品です」
「これは携帯性に反して電源ケーブルなしでは使えません」
「この商品の耐久性は○ヶ月と思われます。しかも、その前に飽きます。」
「類似の商品が百均にあります」
「この商品の環境負荷・自然に還元するまでの平均年数は12,400年です」
「この柄はあと5ヶ月で流行遅れになります」
「あなたの年齢でこの商品はミスマッチです」
「この商品の購入した顧客の13万4527人が"ダメ(-1)"ボタンをクリックしています。」
「この商品は、あなたよりも○○さんが上手に使えそうです」
「あなたはこのカテゴリーについて飽きやすいようです」
「あなたの今月のクレジットカード決済額は、過去2番目の高額決済となります」
とかとかとかとか。

「それじゃあやってけないじゃん」と思うあなたはまだまだ甘い。
そもそも、ネット通販って、桁が3桁も4桁も大きい桁の顧客数を相手にする。
準備がないと、スカスカオセチ料理のように、とんでもない失態を晒すことになる。

だからこそ、この新しいネット通販サイトでは、ことごとく購買意欲を削ぐのだ。
もったいないを具現化したネット通販会社。
会社(サイト)名は、ウラネットがいいな。←オヤジ臭

で、本当に売りたいモノだけを、顧客を慎重に選んで売る。
「本当に必要で、度重なる購買意欲低下メッセージにも挫けず、オーダーした」
そんなお客様なら、手にしたら心から幸せになれる、だろうっていうネット通販だ。

当然、取扱商品は本当に価値のあるものになる。
環境負荷がとても小さいものがいいかもしれない。
もしかしたら、宅急便での配送はしない、というネット通販でも良いかもしれない。
「購入された方は店頭までお越しください。遠方の方は旅行を兼ねていらっしゃい。」
「簡易包装もしませんので、お持ち帰り用の袋や箱はご自身でご用意ください。」
「(商品ステータス)ただいま注文頂いた商品を店頭に並べて眺めております。」

当然、1% for the Planetなんて甘いレベルではなく社会貢献もする。
「当店では一切値引きいたしません。売上の10%は、お客様の支払いと同時に、レジ前の赤十字募金箱に寄付させて頂きます」
とか。

これは面白い店になりそうだ。っていうか、来店してもらうから通販じゃないし。

でも、これが近所にあったら、何を売るのか知らないが、行ってみたいと思う。
で、何も買えないのだ。売ってくれないのだ。

うーむ。よくわからなくなった。
ウラネットは難しい。

オチ無しです。

火曜日, 12月 20, 2011

pogoplug(ポゴプラグ)


ボックスPCというジャンル?の製品。
家で使っているハードディスクをインターネット越しにアクセスできるようにしてくれるもの。
ネーミングはいまいち。日本語的には読みづらい。
ポゴプラグ。

ただの黒い箱に電源ケーブルとLANポートとUSB差込口があるだけのシンプルな箱。
ブラックボックスの中身はLinux PCで、Linuxマシンとしても使おうと思えば出来るようです。
Linux化はここを読むとできそう→http://ichi84.blogspot.com/2011/04/pogoplugopenpogo.html


この箱に、LANケーブルを差し、普段使っている外付HDDを繋ぎ、電源ケーブルを差し込むと作業完了。
その後はメーカーのホームページにアクセスしてアクティベーションすれば、あらら、自分のHDDがネット越しに見えちゃいます。
(正確には、私の場合は、最初、ルートのフォルダしか見えないHDDがあって焦りました。HDDの容量や内容に応じてインデックスファイル作成に時間がかかるようです。)

これを意図せずに裏でやったら単なるウィスルなわけだけど、それがウリのこの箱。
メーカーのサイト(https)経由でアクセスすることで所謂ハッキングからは守られる、らしい。
SSL通信も選べる。

少なくとも、自前で自宅のPCをDDNS登録してフリーのSSL入れて、とか面倒はない。
たまにルーターのログを見る機会があると、結構、アタックってされてるみたいだし。

さて、使用感。
久しぶりに「ワクワク感」だけで手を出した箱なのだけど、ま、便利。
出先のPCだろうがAndroidだろうが、良くできたサイト並みに普通に自宅のHDDにアクセスできる。
ダウンロード速度はクラッシー経由のPCで1.5MBほど。
Android君で3G経由でも、普通のサイト並みに動画を見ることが出来ました。
(動画などは接続先のデバイスにストリーム最適化する機能もあるようです。)

と、持ち上げておいての結論。

日常的には使いません。←ここ、ツッコむところです。

だって、HDDに電源入れっぱなしなのもなんだし、日常的にアクセスしたいわけではないので。
貧乏性なのか、電源を切らない、と思った瞬間に、「壊れそう」と心配になり、UPSもRAIDも欲しい、となり、「マイ・データセンターかよ!」と一人ツッコミしてしまう状況になりそうだし。
※電源を切ったからといって壊れる時は壊れるのだけど。

プライベートクラウドとは今っぽくて聞こえはいいけど、年がら年中アクセスしたいわけではない。

というわけで、僕の場合の利用するシチュエーションは、
・大容量ファイルを誰かに手渡したい
・長期家を開けるので、旅先からデータを見たい
ぐらいか。

年に数回の利用のために約\7,000円の出費となるワクワクボックスの話でした。
(月額使用料金とかかからないのが良い。)

※ハミ出し
でも、よくよく考えると、カテゴリー的にはVPNソフトだよ。っていうか、VPNソフトの単機能版みたいなもの。
企業的には「会社のPCでは使わないように」という風になる気がします。
ポゴ君をマウントしたPCがハッキングされるのも怖いし、それ以上に怖いのは、このサービスのサーバー自体がハッキングされる、なんて、考えるのも恐ろしい。

月曜日, 12月 19, 2011

先日の続き「自己年齢誤解症候群」



12月生まれの中高年を襲う「自己年齢誤解症候群」。
なんと、中高年の1/12程度がその症候群になっていると厚生労働省が発表するとかしないとか。

この症候群、昨日は、12月に二度歳を取ってしまう所まで書いたけど、まだ、その後も続くのだ。
12月誕生月を終え1月に入ってもなお、症候群の見るも無残な症状は続くのだ。

その「さらなる恐怖」を書いておきたい。

♪じんぐるべーるじんぐるべーるめがまーわるー♪

もう聞き飽きたけど、12月は師走である。
なぜ、師走なのか、先生がどうして走るのか、12月はむしろ冬休みで先生はのんびりしているのではないか?
そんな疑問はさておき、12月生まれの中高年も、そうでない人々と同じように年を越すのだ。
いや、年を越す前に、三途の川を越すようなことがなければだが、概ね年を越すのである。

で、その「年を越す」が問題なのだ。
ちなみに、「三途の川を越す」場合は問題は起きない。
ちなみにちなみに、年も三途の川も(いずれは)みんな越すわけなのだが。

話戻って。
年を越すと、テレビもラジオも年賀状も久しぶりに合う親戚も友人も、多分"年明けのお父さん犬のCM"も、まぁ、他にネタがないのかというほど、「今年は何をする」のかを話題にする。

年賀状に至っては、自ら「今年は何をする宣言」を去年の押し迫った頃に書いて(印刷して)いるのだ。
もっと正直に、「来年は○○します」と書けば良いのだが、何故かそうはなっていない。
どうせなら、「今年は郵便局の締め切り前に年賀状を出します」と年賀状に宣言すれば良い。

そんな宣言を横目に、「今年も去年と同じように、ぼちぼち、ウダウダ、コッソリやれれば良いかな」と思っているので、そんな返事をすると、それを聞いた人は嬉しそうに「そうだよ。気負わずにね」などと、だったら聞かなきゃいいのに、だ。
もしくは、「いい歳して、もう少し人生真面目に○△※~」と、さほど尊敬できるようでもない相手にお小言を頂戴する場合もある。

そんな1月が「自己年齢誤解症候群」には困ったことになる。
「やぁ、今年はいよいよ○歳になるので。。」的な会話が落とし穴なのだ。

そりゃぁ、1月とか2月、、、11月ぐらいまで生まれの方々はいい。
そんな皆さんは、去年の誕生日以降、それなりの期間誕生日以降の年齢を謳歌してきているわけだ。
少なくとも11月生まれなら丸一ヶ月は「私は○歳」と"今年"抜きで語れるわけだ。

これに対し、12月生まれはヒドい。
誕生日を過ぎて「私は○歳」と"今年"抜きで語れる期間が一ヶ月と無いのだ。
しかも、12月。世の中は某宗教団体の教祖の誕生日に夢中だ。よくわからない赤い洋服を着た髭面の住居侵入罪男も人気だ。
とても、12月生まれの中高年のオジサンの誕生日について注意を払ってくれる余地はないのだ。

そんな中、あっという間に1月がやってくるヤァヤァヤァ。

せっかく、やっとの思いで、年の暮れに二歳取り過ぎた歳を訂正し、ミカンを食べながら紅白を見る頃には正しい年齢を認識したというのに、もう、1月がやってくるヤァヤァヤァなのだ。

12月と1月の間に半年ほど隙間を作って欲しいものだ。
そんな隙間もないのだから、1月に「今年は何歳?」って聞かれても「その質問には答えかねます」という気分なのだ。

だが、全般に人の良いと言われる12月生まれの中高年は「そうですねぇ、今年は(○+1)歳になります。もう、いい歳ですわ。ガッハッハ」などと、この時期だけ通用する"お屠蘇気分"という酔っぱらいを美化した状態で回答するのだ。しかも誰にも喜ばれるわけでもないオジサンの笑顔付きだ。

これを数回やると、もう、年末年始休暇を終えて仕事に行く頃には、「私は(○+1)歳」という誤解が完成し、この誤解が解けるには個人差があるが私の場合は3ヶ月ほどかかる。

こうやって、12月生まれの中高年は、一年の半分ほどを自分の年齢が怪しい状態で過ごしているのだ。
もっと怖いのは、誰からも指摘されなかったり、引き算ができなかったりした場合、11~12月に2歳歳を取り、1月にもう一歳歳をとるため、毎年三歳ずつ歳を重ねていってしまうのだ。

今のところ僕はそういう自体に陥らずに済んでいる。

が、万が一、生まれてまもなくロシアかアフリカか火星とか家政科とか、どこか言葉の通じない国に放り込まれていたなら、今月私は141歳の誕生日を迎えることになるのだ。

危ないところだった。
良かった。ここはまだ日本だ。
(この計算をしたことで、また、自己年齢誤解症候群に陥りそうになる。。。)


最後に、月毎の自己年齢把握状況としてまとめておこう。

1月 誕生日を迎えたばかりなのに「今年は何歳」を意識して新年改めて誤解する月
2月 「今は何歳、今年は何歳」を整理し始め誤解を解こうとする月
3月 ようやく「今は○歳。今年は(○+1)歳」をスンナリ言えるようになる月
4月 花見や新入社員/新入学シーズンで中高年の年齢は放って置かれる平和な月
5月 中高年的には誕生日よりも5月病に悩む若者の存在に悩む月
6月 なぜ、日本でローマ式のジューン・ブライドを望むのか、挙式関連のニュースに毒づく月
7月 長いこと七夕飾りにお願いを書いていないと思い出す月
8月 有休をどれだけ消化しても怒られないか、非難さないか、考える月
9月 まだ冷えたビールが旨い、と確認する月
10月 仕事の成果が明らかになり会社では憂鬱な顔をしていないと余計な仕事が回ってくる月
11月 お、来月誕生日じゃん、と、(○+1)歳を意識し始め誤解が始まる月
12月 誕生日で(○+1)+1歳じゃんと、大いに誤解する月

なんであれ、親に感謝

木曜日, 12月 15, 2011

12月生まれの中高年の誤解



もういつの頃からだろうか、自分の年齢が怪しい。
もちろん、義務教育のお陰で、計算すれば年齢は分かる。多分、引き算だ。

ところが、その、計算した年齢が、まるで他人の年齢のように感じるのだ。
自分の年齢と違うような気がして、暇に任せて指折り数えてみたりしないと間違っているような気がするのだ。

もう何年もそんな状態なのだけど、今年、ようやくその理由がわかった。
自己年齢誤認学会という学会があれば発表しなくてはならない発見だ。

その理由とは、ひとことで言うと、誕生日が12月だからだ。
職場で隣の席のヨカバイおじさんは11月生まれだけどこの理論に理解を示した。
ということは、12月生まれの殆どの中高年は、私と同じであろう。間違いない。

その自己年齢誤解へのステップを解説しよう。

1.誕生月の前の月(毎年11月の出来事)に自己年齢誤解は始まる(「ご」)
 まぁ、誕生月の前月ぐらいになると、「あぁ、来月で○歳だなぁ」ぐらいの事は考える。
 プレゼントされる予定があろうがなかろうが、大人としてのしきたりと言うか、年齢を聞かれた際に正しく答えるためだけでも、とにかく考えるのだ。
 そもそも、自分の年齢を聞かれた時に、スムーズに答えられないのはマズい。
 それだけで、「あぁ、既にボケはじめているのね」などと思われかねないのだ。
 50絡みともなると、世間は、「あぁ、天然だからねぇ」と微笑ましく思ってはくれないのだ。
 「あぁ、冴えない50絡みのオジサンとは思ってたけど、ボケも早いのねぇ」としか受け取られない。

 そんなわけで、11月ぐらいから、いよいよ○歳だな、と自己確認するのだ。

2.誕生月の前の月の終わりごろ(毎年11月後半)にほぼほぼ誤解する(「ごか」)
 11月に「いよいよ○歳だ」と思い始めて3週間ぐらい経つと、自己確認という意識は消え、スムーズに「○歳だ」と認識するようになる。
 ようやく、多くの同級生たちと同じ年齢になるのだ。
 この時期になると、「何歳だっけ?」と聞かれるとすかさず「○歳です」と応え、その後、心のなかで、「来月なんだけどね」と思うようになる。
 この時期、会社も年末で、なんか知らないけど、年齢を書いたりする機会もある。そのたびに、「○歳」と書いて、心のなかで「来月なんだけどね」と思うわけだ。

3.誕生月当月(12月)は誤解確定(「ごかい」)
 そんなこんなで12月ともなると、たまに、誕生日の話題なんかもあったりして、「あぁ、その飲み会の日、誕生日だ」みたいな感じで、そうなると、「いくつになるの?」と聞かれるわけ。
 ここで恐ろしい事態が起こる。
 「うん。来週、(○+1)歳になるんだよ」と。いやいや、○歳でしょ。○歳は、誕生日を迎えたらの話だったはずが、誕生日が来ていないうちに○歳のつもりになってるじゃん。



ということだ。
今回、幸いにも「いくつになるの?」と聞いた相手が同級の同僚だ。
それに「うん。(○+1)歳」と答えたらすかさず「それおかしいじゃん」とツッこまれ、気がついたわけだ。

というか、ここまで書いて気がついたが、同級の同僚が「いくつになるの?」っていう質問が既にトラップだ。
アイツもボケてるんじゃないか?

今回は、こうして、誕生日前に正しい年齢を取り戻せたわけだが、こんな同僚がいないと誕生日その日になってようやく気がつくのだ。

こうして、50絡みのオジサン達はご長寿さんクイズへの階段を駆け上がっていく。

この話には続きがある。
それはまた次回。(忘れなければ)

金曜日, 12月 09, 2011

出身地による傾向



ふと思いついて出身地で性格や性質はどんな傾向にありがちなのか、をググってみた。
まぁ、テレビ番組になるほどだから県別云々は様々あるのだけど、概ね占い的で、どうとでも読み取れるようなサイトが多い。

そんな中で、興味深いデータをまとめている政府のサイトにたどり着いた。
(こーゆー(サイト訪問者を増やすのが目的としか思えない)作業を税金で賄う必要があるか、は、置いといて)

それは、「総務省 統計局・政策統括官(統計基準担当)・統計研修所」というサイトだ。
この中に「家計調査(二人以上の世帯)県庁所在市および政令指定都市別ランキング」というのがある。
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286922/www.stat.go.jp/data/kakei/5.htm

これ、よくよく見ると、なかなか興味深い。

●ティッシュペーパー購入金額ランキング
上位に東北各市が顔を並べる。
これは、鼻水をかまなくてはならないのだから当然だ、と一瞬思ったが、那覇市もベストテン入りしている。
きっと、冬に冷たい水で布巾や雑巾を使うよりも使いやすいからだろう。
であれば、慢性的な水不足の沖縄でのベストテン入りも納得だ。

●トイレットペーパー購入金額ランキング
同様にトイレットペーパーも興味深い。
ここでも東北各市と那覇市がランクインするのだけど、これは、ティッシュと同じ事だろう。
これってウォシュレット普及率と関係しそうだとも思ったけど、普及率が高そうな東京や横浜が突出していないところをみると、そういう事でもないのだろう。

●菓子購入ランキング
これも興味深い。
・ゼリーと羊羹は食べない金沢市
・カステラ以外食べない長崎市
※あくまで、他の都市に比べて、です。

●米/パン/小麦系食品購入ランキング
・麺は食べるけどパンは食べない盛岡市
・うどんは食べるけどパスタは食べない高松市
・即席麺中心の宮崎市
・インスタント麺嫌いの横浜市(カップも袋も両方低ランク)
・即席麺(袋入り)嫌いのさいたま市
※あくまで、他の都市に比べて、です。

などなど。調味料別の購入ランキングなどもある。

うーん、平和な情報だ。

木曜日, 12月 08, 2011

ちょっと興奮「ヨーロッパ最大のIT企業が社内電子メールを廃止」



するんだそうだ。電子メール廃止。18カ月後。
これは、来年のムーブメントになるかもしれない。
http://jp.techcrunch.com/archives/20111201solving-email-overload-with-a-company-wide-ban/

リンク先記事はどうやって廃止するか報じていない懐疑的な論調だし、僕も最初は「それは無理でしょ」と感じた。

でもまてよ、その会社がどうなるかはわからないが、世の中的にはアリかもしれない。
電子メールを評価する/しない、好き嫌いから離れて考えてみよう。

電子メールでの仕事の進め方の特徴
・1対1もしくは1対Nのコミュニケーション
・リアルタイムではない(読むタイミングは読む側に任せられる)
・仕事内容別ではなく担当者別に、送り手の意向でメールは飛び交っている
・重要度の判定は読む側に任せられる(送る側が"重要"マークを付けられるが、受け取る側は、送信者と件名から独自に重要度を判定している)
・仕事以外のメールも飛び交う
・基本はローカルでデータ管理されてしまう
・メール単独で完結するわけではなく、成果物はDBに格納し、場合によっては掲示板などソーシャルネットワーク的なものも使う。

ソーシャルネットワーク(Facebook的なやつ)での仕事の進め方
・1対1もしくは1対NもしくはN対Nのコミュニケーション
・リアルタイムではない(読むタイミングは読む側に任せられる)
・自分の担当業務に応じて、必要なコミュニティー、必要なスレッドに参加する
・自分が必要な分の更新情報に絞って受け取ることが出来る(メールやログイン時のトップ画面で)
・重要度は参加者の意思と連動する(重要でないコミュニティーには参加しない)
・情報がオープンになるため仕事以外の会話は最小限に抑えられる
 (個人的な会話をソーシャルネットワークではしない)
・基本はクラウド型のデータ管理
・オープンソフトの開発はソーシャルネットワーク型で進められている。実績は十二分にある。

なるほど、メールは、どうしても相手の仕事内容を考えながら、それぞれ別々に報告したり、依頼したり、確認したり、ということになる。宛先が重要なわけだ。
当然、同じ内容でも相手に合わせて表現を変えたり、言葉遣いを変えたりしている。
たまに見かける目上の人が部下に乱暴なメール指示(結果的に、部下が上司を訪ね、直接話を聞かなければならない)を出したり、なんてことが、今は当たり前だ。

一方、ソーシャルネットワーク。
情報にアクセスする人を想定するとは言っても、特定の個人とは限らない。誰が目にするのかわからないのが基本だ。だから、表現を相手毎に合わせて変える必要はないし、同じ情報を相手毎に表現を変えてメールするようなことも不要だ。
さらに、仕事内容毎の分類にそって、参加者自身が自分で情報を取捨選択していくスタイルになる。
悪く言えば相手任せになるわけだけど、ミッションが明確であれば、概ね担当すべき人が必要な役割を自ら担うだろう。
もちろん、残念ながら自ら取捨選択できないケースもあるだろう。そんな時は、1対1でメールを差し上げる。と。そんな感じになりそうだ。
これは、言ってみれば今も変わらない。


現実には、全廃という話ではなく、仕事をすすめるメインはソーシャルネットワーク、メールは補助的なものになっていくのでしょう。
最近は、企業でもソーシャルネットワークを活用しようと取り組み始めているのですが、従来の仕事の仕方「メール」に慣れ親しんだために、なかなか移行できないだけなのかもしれませんねぇ。


実際、今、自分がメールで処理している仕事を、ソーシャルネットワークに移して困ることがあるか?と考えると、「読んでもらいたい相手が、日常的にアクセスしているなら大丈夫」だな。
残念ながら今はそんな状況ではないので、日常的にアクセスしているメール主体で仕事を進め、自分の仕事の記録先としてソーシャルネットワークを使ったりしている状態。

一人ソーシャルはあまり意味が無いのだろうけど、バックアップの心配もないし、履歴管理もできるし、後で探しやすいし、まぁ、便利ではあります。


みんなが担当業務のコミュニティーに参加し、自分の仕事のスレッドやwikiをきちんと認識してアクセスして行動するなら、必要以上に余計な会話や、なにより、準ジャンクメールの相手をする時間は激減するでしょう。
1対1になりがちなメールだと、どうしても、余談も始まってしまうし、しかもクローズな話題(悪口や愚痴)もしやすかったりしがちです。ソーシャルネットワークなら、必要な範囲でオープンになるため、そーゆー非生産的(コミュニケーションの面でもさほど有意義でない)な活動はしなくなるでしょう。

あるいは、上司の乱暴な指示メールなんかも、SNS主体で仕事を進める場合は公開されてしまうので、乱暴な指示を改めるか、あるいは、そんな指示しかできない方には退場していただくしかなくなるわけだ。

SNSで仕事をする妄想を進めていく中で、その昔、電子メールを仕事で使い始めた時代を思い出しました。
最初の頃は、「飲み会の約束」ぐらいでしか使われなかった、あの時代の空気。
あの時代「報告書は無くなります」なーんて言ってたけど、必要に応じて残るものは残りつつも、確実に「主体はメール」になった。
社長(トップ)が電子メールを使うようになったら会社全体で電子メールを使うようになった、あの時代と同じように、社長がSNSを使うようになれば会社全体でSNSを使うようになるわけだ。

ということで、電子メール偏重からソーシャルネットワーク偏重へと舵を切る時代が始まった、んだねぇ。

※ハミ出し
 ソーシャルネットワーク、流行りのつぶやきも顔本もプライベートでは使ってないなぁ。
 あーゆーのは、プライベートだと気を使っちゃうから疲れそうなんだよねぇ。
※ハミ出し
 "Atosの野望"は、本当らしい。ツール詳細はわからないけど、組織変革と何らかのSNSを活用して「ゼロメール(Zero email)」を達成するのだとAtosのホームページで謳われている。
 http://atos.net/en-us/about_us/zero_email/default.htm

水曜日, 12月 07, 2011

タンゴは格好いい(映画「ヒトラーの贋札」)


タンゴのハーモニカが心に沁みた。
ウーゴ・ディアスを知った。

それは、"ヒトラーの贋札"を観たからだ。
例によってストーリーはこちら→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%B4%8B%E6%9C%AD

陽と陰、善と悪、希望と絶望、、、

映画のストーリーも、表裏一体の人間の弱さと強さが見事に描かれているんだけど、そのストーリーを何倍にも引き立てたのがタンゴ(ミュージック)だ。

黒猫のタンゴとだんご3兄弟ぐらいしか知らないのにタンゴの魅力を語りようもないのだけど、何故、タンゴはあんなふうに、どちらかといえば脳天気な明るいリズムに、あの物悲しい旋律を被せることになったのだろう。
っていうか、多分、黒猫と団子のせいでタンゴに対する偏見があったのかもしれない。

この映画で使われているようなタンゴを、子供の頃から聞いて育ったら、とても奥深い人間になるような気がする。
劇的ビフォーアフターで比べてみてもらいたいものだ。

〜〜加藤みどり(劇ビアのナレーション)の声で〜〜
40をとうに過ぎたのに相変わらず落ち着きのないオジサン。
ついに、タンゴの匠がハーモニカを聞かせてあげます。
するとどうでしょう、それまでの単細胞無自覚オジサンが、まぁ、素敵な50絡みのクールなジェントルマンに生まれ変わったではありませんかぁ。
〜〜ちなみに加藤みどりさんはサザエさんの声優〜〜


そんなふうに、タンゴには、常に物事を二面から見られるような、一時の感情だけに支配されないような、クールな大人になれるような力があるような気がする。

実際は、そんな事はないのだろうけど、でも、そんな気にさせられたのが、この映画だ。

しばらくの間、タンゴにハマりそうだ。

火曜日, 12月 06, 2011

50絡みの男とデフレ


世の中デフレなのだそうだ。ちなみに↑の映像はシルブプレだ。デフレとは何の関係もない。

随分前からそんな話は聞いているし、大体が、僕が若かりし頃(既に20年も経っている)のアルバイト賃金と今のアルバイト賃金に大した差はない。むしろ、安くなっているぐらいだ。
ということは、デフレは20年もつづているのか?

ということで、デフレがいつから続いているのかググッてみた。

うーむ。Wikipediaのデフレの項目に、その答えがズバリあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
"2011年10月現在、GDPデフレーターという総合的な物価指標で見た場合1997年の消費税引き上げという特殊要因を除けば日本のデフレは事実上1995年頃から16年以上も続いていることになる。"

もうすぐ、17年、デフレスタート同時に生まれた子は高校卒業を迎えるではないか。
そっか、これが、失われた20年なんだ。

ということは、今、20歳位の若者は、二歳ぐらいまでにお財布持って買い物していない限り、生まれてこの方、ずーっとデフレだ。(←当たり前だ)
そもそも、モノの値段を実感できるようになるのが10代半ばだとしたら、35歳位までの人達は、事実上「デフレしか知らない世代」なわけだ。

そんな若者からみたら、そりゃぁ、世の中が「拡大する」なんてのは夢物語だろう。
「景気拡大」「デフレ脱却」も、20年もの長きに渡って変化がなければ、その言葉は無意味になる。
世界平和や貧困撲滅と何ら変わらない、実感しにくい言葉。

経済が拡大する事を経験していない世代にとって、言葉の持つイメージは違うわけだ。

そんな終わりのないダラダラした事を考えている中で、ふと、自分が50絡みだと気がついた。
今風に言えば、アラフィフか。

そもそも、50絡みとは言うのに、0絡み、10絡み、20絡み、30絡み、40絡み、60絡み、70絡み、どれも使われていない。馴染みがない。
100絡みすら言われない。

年代の呼称として唯一絡めるのが"50絡み"なのだ。
まさに自分が、その貴重な、人生一度しか無い50絡みになってるは驚きだ。
どうだ、凄いだろ。と、一瞬思ったが、その灯りはすぐ消えた。
※後でよくよく調べたら、別に、40絡みや60絡みという言葉も使わなくわない。
 が頻度は女性が40絡み~50絡み、男性は50絡みが多いようだ。

なにせ、50絡みは、どこかイマイチの曇り空の日の夕日のようだ。
カッと夕焼けが照らされるでも無し、雨でもない。季節は晩秋、そんなイメージ。

僕自身は、ちょっと前まで40過ぎとか、バカボンのパパとか、中年真っ盛り、とか、思っていたのだが、昨日、ふと気がついてみたら正真正銘50絡みである。
50絡みの自分というのは、新たな自分の発見だ。

きっと、職場なんかでも、「ほら、あの50絡みのオジサン」と、若干のガッカリ感を持って使われているようなカンジがするなぁ。
コンビニでも、レジ(たまに客層を打ち込むらしい)で、「男性・50絡み」などと打ち込まれているのだろうか、、、と思ったが、あーゆー機微の無い機械は、「男性・50代」と、せっかくの50絡みは無視されているのだろう。
コンビニのオニイサンに声を大にして伝えたい。私は50代ではない。50絡みの40代なのだ!


こんな話を友人にしたところ、「アラフォー」という言葉が最初に定着したのは、女性に対してじゃなかったかという話が出てきた。(こういうしょーもない話を聞いてくれる友がいるというのは、恵まれた50絡みだと思う。)

うん。確かにそうだ。そうじゃないかもしれないが、多分そうだろう。ググッて確かめるのも面倒だ。

女性のアラフォー、男性の50絡み。
多分、世の中の期待値、性的な意味とか仕事をバリバリこなす的な意味とか、そういう期待値が下りに差し掛かるのが、女性のアラフォー/男性の50絡みなのかもしれない。

下りに差し掛かっている年齢層にフォーカスしたから、そのどちらも言葉としてブレイク、もしくは定着したのだろう。

そう思うと、ちょっとだけ昨日よりも謙虚な気分になった気がした。
そんな50絡みに気がついた初日だったのでした。

※ハミ出し
 時間をもっと細かく刻めば、今月誕生日を迎える私は、今、「48絡み」なんだなぁ。
※ハミ出し2
 アラフォーの語源(結局、気になってググッてみた。):http://zokugo-dict.com/01a/arafo.htm
※ハミ出し3
 ググった時のヒット数(重心を取ると45強ぐらい)
「"10絡みの男"」 0件
「"20絡みの男"」 0件
「"30絡みの男"」 1,750件
「"40絡みの男"」 5,370件
「"50絡みの男"」 7,090件
「"60絡みの男"」 1,440件
「"70絡みの男"」 4件
「"80絡みの男"」 0件
 ついでにググった時のヒット数(重心を取ると43ぐらい)
「"10絡みの女"」 0件
「"20絡みの女"」 0件
「"30絡みの女"」 1,730件
「"40絡みの女"」 5,530件
「"50絡みの女"」 5,800件
「"60絡みの女"」 5件
「"70絡みの女"」 2件
「"80絡みの女"」 0件
 も一つついでにググった時のヒット数
「"アラサー"」 129万件
「"アラフォー"」2030万件
「"アラフィフ"」 280万件


日曜日, 12月 04, 2011

白いリボン


ドイツ/オーストリア/フランス/イタリア合作映画。
世界大戦直前の一年、ドイツ北部の田舎町の空気が見事に描かれている。

当時の日本に合い通ずるような、厳格な生活、何であれ結果的に女性と子供が虐げられる社会、権威主義、、、

地主は己を守る権威にすがり、小作人の長(家令/執事)は己を守る地主にすがり、小作人は家令にすがり、幼年の子供は年長の子供にすがり、夫のいない乳母は雇い主の病院の医者の愛人となり、大人に従うしか無い子供たちは大人の暴力に狡猾に生きる術を学ぶ、、、

風景こそ宮崎駿の描くような美しい田園風景なのに、村に広がるのは、「不信」「怖れ」「嫉妬」と、愛情を失った人間社会の弱さが痛いほど描かれていました。

戦争が決まった日、礼拝のため村人全員が教会に集まる。

集まった村人達にあるのは、戦争に突入することで不安になっているわけではない。
「(村に縛られずに)新しい旅に発てる」と、村でしか生きる場所がなかった状態からのヤケクソに近い開放感があるのだ。

そんなエンディングを見ながら、観客側としては、なんとも暗い気分にさせられたのでした。
あの時代の空気を共感させられる、この映画、この監督ミヒャエル・ハネケはすごい。
ちなみに、2009年の作品でモノクロ作品。

木曜日, 12月 01, 2011

タイトル忘れたムーア中傷(反駁ではなく)の映画で学習できたこと


↑は、アメリカを愛するからこそアメリカ政府に手厳しいムーアの日本に対する見解。
これも手厳しいが、日本に対する愛情を感じられる力強いコメント。
ムーア監督についてはこちら(Wikipedia)

ゲンパツ、コッカイ、ネンキン、スモウキョウカイ、カンリョウ、ナベツネ、シンブン、テレビキョク、などなど、旧態依然体質だと非難轟々でも、それが「古き良き文化」だと言い張れる皆様。
かく言う私もキツエンに関して、そういう言い方をしていた時期があったなぁ。反省。

そんな「アメリカこそ正義、アメリカこそ古き良き文化、それがアメリカですが何か?」の方々が溜飲を下げられる?アメリカ映画を見た。
というより、見てしまった。
見てしまったんだから、仕方がない。なんかしら学習効果を残すべく、前向きに、勉強になった点を記録しておこう。

勉強になったのは、「情報公開された事実(反論の余地が無い事実)」に対し、
1.真実を明らかにした人に対する中傷(しかも外見的中傷ばかりで見るに耐えない)
2.中傷はその家族に対しても容赦しない(子供にも容赦無い)
3.論理的な説明や反証は一切ない(反論は無いのか、できないのか。。。)
4.現在生きている人の言葉ではなく、歴史上の人物の言葉を借りて言い訳する(軽い扱いで、本当に尊敬してるのか?)
そういうアプローチ。

なるほど、論理的な主張が完璧に近ければ、相手の土俵には乗らずに非論理で対抗するのは効果的だ。
私が見たことがある、なるほど納得のケンカテクがそうだった。
真っ当な理由でクレームを受けたら、「ところで、あなた、口が臭いよ」の一言で形勢逆転するというやつ。

そのワースト更新映画のタイトルを思い出せず、検索してみたけど、見つからないや。
こういう時にTSUTAYAだとねぇ。返しちゃったものはわからない。
だから何の映画の話は書かないで(というより思い出せないから書けない)おこう。
とにかくマイケル・ムーアを中傷する(彼の主張内容ではなく、彼の経歴/外見的特徴や家族に対する中傷)ためだけの映画だった。

なるほど、マイケル・ムーアは、中傷も止むない大統領並の権力者、、、じゃないし。
そもそもパロディー映画が一ジャンルを確立するアメリカでは、多少の中傷は「ブラックユーモア」の範疇に収まるのかもしれない。


これで気をつけなければならないジャンルが一つ増えた。
ホラー映画に加え、アメリカの安っぽいパロディー映画にも気を付けよう。
(どちらも、後味が悪く睡眠に影響するのだ。)

最近はヨーロッパ作品に偏りがちなんだけど、封切りされたら観たいアメリカ映画はこれ↓。