金曜日, 12月 31, 2010

大雪の

盛岡。ホワイト年越し。

水曜日, 12月 29, 2010

先端フェチ


ついこの間、自分が「先端フェチ(初級)」であることに気がついた。

それは会社のタバコ部屋でのことだ。

多分同年代?の同僚と車での旅行についてあーだこーだと語り合っていた。

ちなみに、タバコ部屋のコミュニケーションの50%が仕事の愚痴、25%が飲み会の調整、10%が先週末何をしていたか、10%が来週末何をするか、5%が仕事の話である。5%も仕事の話をしているのだから、ちょっと僕は仕事のことばかり考え過ぎである。

で、あーだこーだと話していたら、「海岸線の道路をひたすらドライブする」「海岸線の先に何があるのかを辿りつけるまでひた走る」事がお互い大好きだとわかった。
当然、高速道路よりも下道が好きだ。

しかし、彼は、僕のそれよりも大分先をいっていて、最南端や最北端的なものの多くを制覇している、と言うのだ。
「先端フェチなら当然でしょう」と言われた。
なるほど、そういうのは先端フェチと言うのか。と、46才の冬に学んだ。

そして彼は「先端フェチ(上級)」なのだ。

彼は、「先端好きとしては押さえておかなきゃならない場所」などを具体的に話し始めた。
僕は、彼の視線から、にわか先端好きではあるまいな、的な疑念を抱かれていると感じてしまった。

彼が日本全国数十カ所の必須先端の中で彼が制覇した十数先端を挙げていく中、僕が訴えることが出来たのは、つい一ヶ月ほど前に行った長崎平戸の先の方の灯台の話一先端だけだった。

当然彼も、「そうそう、あれね、あの灯台ね。行った行った」と。
二人とも名前は思い出せないその灯台。しかし、名前は思い出されなくとも、ここ九州北部の必須先端の一つなのだ。
その一先端で、どうにか僕がギリギリ「先端フェチ(初級)」に留まることが出来た。

こんなんでは、いかんいかん。
僕だって、先端好きなんだー。
他にもあるだろ、あるだろ~、、、
と何故か試験終了1分前のような気分になってしまった。

そして、それまでは地理の試験だったのに、焦った僕の頭の中に唐突に飛来したのが、女性の体○△×※★(自主規制)

ということで、タバコ部屋は20才を過ぎてから

未来に残したい

牛肉麺。ありがたや。

火曜日, 12月 28, 2010

前回「世界中の本はたくさん」の続き

前回「世界中の本はたくさん」の続き

本絡みで辿り着いたサイトの話題なのにリンクは貼りません。
何故なら、よくよく、よくよくよくよく、読んでも、怪しさを払拭できないサイトの話題だから。


それは、「5万円で貴方も商業出版書籍の著者に」とかなんとか言っているサイトだ。


正確には、「5万円であなたの書いた何かしらをISBNナンバーの付いた書籍としてamazonに取り扱い(1年間)させますよ」ということだ。
ある意味、amazonの新しい使い方として画期的だ。

ちなみに、
ISBNというのは、「社団法人 日本図書コード管理センター」という団体が発行と管理をしていて、誰でも申請すれば、10書籍分で\16,800で登録できるようです。
amazonでの委託販売は、amazon自体がe託販売サービスを受け付けていて、年間\9,000円の参加費用と商品一点の商品預入をすればスタートできるようです。この際に、書籍ならISBNコード、DVDやCDならJANコードなどが必要となるようです。


話し戻って、そのサイト。
ウリ文句が「あなたの長年の夢を実現します。あなたの本を出版できます!」になり、更に自費出版ではなく商業出版「amazonで取り扱わせます」、と謳っています。

当然、出版した自分の名前でググれば、(通常はamazonの結果が優先されるため)検索結果の筆頭にその書籍が表示される。それをもって「あなたの社会的価値が上がりますよ」ということだ。

従来のように自費出版で大枚を失った挙句、大量の在庫を抱え、かつ、誰にも知られない、という寂しい状況にはならないのだ。
ぐぐれば確認できるのだから。SEO対策だとか、そんな事を考える必要もない。
まぁ、名前によってはペンネームを工夫する余地はあるかも。


出版に際して、誰も内容について精査しないし、アドバイスもしない。表紙も自分で用意する。

仮に、旅行先で撮ったデジカメ写真とかが、100枚あれば100ページの写真集
そうやって、それなりの文書量を持ち込めば、amazonで取り扱っている書籍の筆者(←筆者でも監修でも○○編纂委員会代表でも、なんにでもなれる)にしてくれるのだそうだ。

うーん。僕は買わないし、そんな本を掴まされた日にゃあ返品するだけだけど、このアイデアは素晴らしい。
amazonはロングテールをビジネスにしたことでイノベーションを起こしたのだけど、その、ロングテールを逆手に取っている。

ロングテールの部分に名前を連ねること自体の価値を5万円(自分でやれば\25,000円?)として販売しているわけだ。

そして、その怪しいホームページを辿っていくと、要するに儲け話全般を取り扱っている会社にたどり着いた。
儲かり話を○万円でお譲りします、的な。

そして、その儲け話全般を取り扱う会社の代表が、まさに、数冊のamazonで取り扱われる本を出版している人だということがわかった。「学生アパートの探し方」みたいな表題の本も書いた人、らしい。

5万円払えば、(本屋さんでは手に入らないけど)「このブログが出版されました」っていう自己満足を得られるというわけです。

僕なんて単純なミーハーオジサンなので、誰かに「私の話が本になっててね」なんて言われたりしたら、超単純に「スゴイですねぇ」なんて反応しそうで、なんだかなぁ。
その上、「是非、一冊買います」なんて言いそうで、更に、追い打ちをかけるように「サインをお願いします」なんて行っている自分の姿は、、、情けない。。。

月曜日, 12月 27, 2010

世界中の本は1億3000万冊×印刷した数

なのだそうだ。
Googleが調べた結果。
それをWiredが報じていました。


最初、「世界中の本は129,864,880冊」と聞いて、なんだか少ないなぁ、と感じた。
よくよく確認すると本の総数ということではなくて、出版され管理されている書籍の総数ということだ。

この調べ方を超ザックリ言うと、、、
・世界中の図書館の目録や世界中の出版社のカタログなど「書籍」情報をかき集める。これが10億件
・この10億件を名寄せしてマージしたり、書籍に混じりこんだ書籍以外の情報を外したり(中には図書番号が割り振られたTシャツもあったらしい)、そんなこんなを繰り返す。
・で、8月にようやく作業が一段落して、129,864,880冊だったということだ。


じゃぁ、物理的に本はどれぐらいあるのか、を考えようとしたのだけど、初版部数が1000冊以上は必要って情報まで辿り着いた辺りで断念。
そのまま、ネットサーフィンしていたら、面白いサイトを見つけた。
※物理的にどんだけあるかは、とにかく一杯ある、以外の答えに辿りつかなかった。単純に一人数冊持っていたらというアプローチでも、うん百億冊とか、そういう馬鹿でかい桁になるのは間違いない。


話し戻って辿り着いた面白いサイト。は話が長くなるので次回。

日曜日, 12月 26, 2010

洗剤業界のイノベーション



手っ取り早く商売をやるなら「食べ物屋」をやりなさい。と、どこかで聞いたことがある。
要するに、原価割合の小さい商売=水商売がビジネスとして効率的なのは言うまでもない。

中でも、香水や化粧品の類の水商売っぷりたるや、どんだけ薄めてるんだ~というかんじだろう。。

一方、薄めない商売を「原液商売」だとすると、原液商売は何故か、通販や訪問販売の一部ではみかけるけど、スーパーの棚に並ぶような商品では殆ど無いのではないか。
多分、原液商売は、ビジネス規模が小さくなるから、そこに斬り込む大手メーカー=ビジネス拡大が最優先の団体、では取り組む気にならなかったのかもしれない。

ビジネス規模だけの問題なら、まぁ、勝手にやっててもらって構わないのだけど、流行りのエコの観点ではそうはいかない。水商売は地球に優しくないのだ。
薄めれば薄めるほどビジネス的には高効率ビジネスになる一方で、地球に取っては厳しいことだらけだ。
「薄めるために水を大量に使う」
「大きい容器が必要になる」
「容器に詰めるのに時間がかかる」
「一度に運ぶ量が少なくなる」
「倉庫の場所を取る」
「店頭の場所も取る」
「買った人が運ぶのも一苦労」
「交換用も嵩がはる」
「捨てるゴミも余計に増える」

原液を流通させれば、その間の物流コストも保管コストも激減するのがわかっているのに、相変わらず水で嵩を増やして商売しているというのは、エコではない。

きっと、水商売関連企業は、分かってはいるけど世の中にバレルまでは、その話はしないでおこうなー、ってな感じで何食わぬ顔で、水で嵩を増やして商売を続けているのだ。

そんな中で、洗剤の原液ビジネスが話題になっていた。


僕個人としては、洗剤よりも飲料系「コーラとビール」の原液に期待するなぁ。

さあて、この手の原液ビジネスに「イノベーション」や「環境」を標榜する各老舗ブランドはいつ本格的に乗り出すのだろう。

これぞ、

孫の手。

土曜日, 12月 25, 2010

オープンソース+コーラ=オープンコーラ



人類の知の共有で最も進んでいるのが料理のレシピ。だと思う。
今や、世界中のどこに行っても日本食が食べられたり、インドのカレーが日本で独自の変化を遂げ日本のカレーとして逆輸出されたり、アメリカ西海岸で発見された寿司ネタとしてのアボガドが日本に逆輸入されたり。

未だ紛争を止められない人類だけど、料理に関しては、理想的な歴史を刻み続けている気がします。素晴らしい。


以前、まだ自炊を始めたばかりの頃、東京で毎日電車通勤をしていた頃は、その日の夜に食べたいもののレシピを携帯で検索していた。

レシピの素晴らしいのは、たとえ調理に時間がかかるとしても、主要な手間の部分だけ抜き出して書いてあるので、超短時間で概要がわかるということだ。

一方で、概要はわかるものの、自炊を始めたばかりの中年男にとっては、そもそも基本が分かっていないので困ることも少なくなかった。

粗みじんって、何?とか、(みじんと粗みじんの違いがわからない)
三杯酢でって、何?とか、(お酢を三杯、ではない)
湯通しって、何?とか、(蛇口のお湯の下を通すわけではない)
素揚げって、何?とか、(空に揚げるわけではない)
、、、

初めこそ用語を調べてみたりしたのだけど、直ぐに、もっと良い方法に辿り着いた。

それは、今夜は肉じゃがを食べたい、だったら、「肉じゃが レシピ」で検索して、トップ3、三種類のレシピを読むのだ。
そうすると、ちょうど勤務先の最寄りの駅に近づく辺りで三つないしは四つのレシピを読み終え、レシピ毎に微妙に異なる、粗みじんとみじんの違いや、三杯酢の作り方まで書いてある(肉じゃがでは使わないが)レシピなどのお陰で、すんなり頭の中に公約数的レシピが収まるのだ。

著作権に煩くない(出版されているレシピは知らないが)レシピ共有文化に感動すら覚えていた。

で、本題。
「オープン・コーラ」の話。



コカ・コーラ社がレシピを超企業秘密として取り扱っているのは有名な話だが、フリー・ソフトウェアの考え方を用いて、コーラのレシピをオープンソースとして公開し、改訂を続けた結果、商品として成立している、というのが「オープン・コーラ」だ。

ちょうど、Microsoft社がWindowsのソース・コードを公開せずに、バグを放置したまま販売している一方で、同じ機能・目的を果たせるLinuxが製品として使えるものになっている、という話と、まぁ、同じようなことだ。


「オープン・コーラ」はカナダで販売されているそうだ。
是非、飲んでみたいものだ。誰か、奇特な人が私に送ってくれないものか。
(オープンでなかったために幻となってしまったtabclearの缶に似ているところもお気に入りだ)

金曜日, 12月 24, 2010

何故、徳利は必須!

ほわいとくりすますっ。

チーム構成あれこれ


ちょっと過激な表現で面食らったのだけど、こんな話を読んだ。

A.利口でズボラは将校にせよ
B.利口で真面目は下士官にせよ
C.馬鹿でズボラは炊事当番をさせよ
D.バカで真面目はチームに入れてはならない

言っていることはなんとなく分かるんだけど、なんか、スッキリしない、釈然としなかった。それは、表現の問題だと思っていた。

すっきりしない、釈然としなかったときの僕の頭の中を絵に書いてみた。



で、一旦、その話題は忘れかけていたのだけど、フリスクのCMのように、今朝、ふとこんな風に考えるとスッキリすることがわかった。
その絵がこれ。


どのへんがスッキリしたかというと、まず四択ではないこと。
それから、それぞれの仕切りも明確ではない。

そしてなにより重要な気づきは、「利口とバカ」「真面目とズボラ」は、環境によっても随分左右されてしまうということ。
イメージ的には、「とかいのねずみといなかのねずみ」の話だ。


それぞれ相手の暮らし(仕事)は楽だろうと思うのだけど、実際にはとんでもなく大変だということを知る。
これは、未経験の分野においては、どんな利口もバカに成り得るし、真面目にもズボラにも成り得るということ。

だから、ある世界では、「利口とズボラ」で将校として評価されていたのに、ある世界に移ったとたん「バカで真面目」になってチームから排除せざるを得ない、なんて事があるわけだ。

そんな事を考えながら、今の職場の面々を、四パターンに分類してみたらなかなか面白かった。なるほど、と思うことだらけ。ここには書けないけど。

そんな事を考えつつ、辿り着いたオペレーションズリサーチのなんかの改訂版
A.部下からは利口でズボラに見えるようにしなさい
B.上司からは利口で真面目に見えるようにしなさい
C.その他のみんなからはバカでズボラだと思われなさい
D.仲間と仕事をしたければバカ真面目にはならないように

整いました~。

木曜日, 12月 23, 2010

タバコとキス


先日、ライターを忘れて会社に行った際、たばこ部屋に行くたびに見知らぬ誰かに「火を貸してください」とお願いし、100%快く貸していただき事なきを得た。

だが、あとでふと、借りた火をどうやって返せばよいのか、と疑問が沸き起こった。

そもそも、「火を下さい」とは余り言わない気がする。「火をあげます」になると全く聞いたことがない。

最初に想像したのは、日本の農耕文化のムラ社会では、火を貸し借りするのが日常当たり前だったから、ではないかということ。
いずれ返す機会があるだろうから、今回は借りる、ということ。

と、ここまで考えて、ググってみた。

「貸す」の意味には、"モノを一時的に使わせる"という意味があるから、「火を貸す」が成立するのだそうだ。
他に、「トイレを貸す(借りる)」なんかも、貸したから返せ!と言われても微妙な範疇かもしれない。

ちなみに英語の場合は、英語ではborrowで、火を貸すケースではuseを使うとどっかに書いてあった。

そんなしょうもない事を考えていて、そもそも、「火を借りる」ケースは、実際にはライターを借りていると気がついた。
どちらかと言えば、昔、まだマッチで火をつけるのが主流だった時代は、数本しか持ち歩いていないマッチを貸す場合もあったが、吸っているタバコを差し出して、タバコの火を直接分けてあげる事が少なくなかったから、かもしれない。

そういえば、随分長いこと、タバコからタバコに火を移す光景を見ていない気がする。

あの光景は、ほんのりタバコの火の光程度にエロティックな印象がある。
多分、キスをしているような、そんな光景とダブルからだろうか。
さらっと「キスを貸して」と異性に言ってみたらどうなんだろう。

うーん、タバコの火は返せないけど、キスならたくさん返せるから、借りまくりたいものだ。借金ならぬ借キス。

妄想は尽きない。

水曜日, 12月 22, 2010

ヘアスタイル



エグゼクティブの新しいヘアスタイルなのか、極東への出張で枕が合わなかったのか。。。
米Nimbula マーケティング担当バイスプレジデント レザ・マレクザデ氏の記事よりも写真に注目してしまいました。

ちなみに読んではみたものの?だった記事はこちら。
http://journal.mycom.co.jp/news/2010/12/16/009/?rt=m&t=pl&n=3154



寝癖ヘアスタイルは往年のIT業界っぽいスタイルだ。今となっては、レガシーなヘアスタイル、とでも言うべきか。


某Microsoftが本格的にWindowsを世に広めるちょっと前、80年代の終わり頃、某ビルゲイツがなんかの催し、太丸デパート東京駅八重洲口店の特設催事会場での歳末赤札市with全国駅弁大会、ではなく、Microsoftのなんかの催しで来日していたことがあった。
たまたま、会場のパイプ椅子に座った彼のすぐ後ろが僕の席(やはりパイプ椅子)だったことがある。

そうです。その数分間、私はビルゲイツの次席だったのです。
「よう、ビル」と声をかけ「WindowsでIBM OS/2を打ち負かしトップを取るぜ」と未来を告げることも可能な(相手の反応を無視すれば)距離だったわけです。


当時、すでにMicrosoftは大企業になりつつあったけど、まだまだ成功したベンチャーって感じだった。
旧来の大手老舗メーカーが寡占して高値だったコンピューターを、パーソナル用に安価にする鍵を担っていたのが彼の率いるMicrosoftだったのだ。

月刊アスキーで読んでいた通り、彼の背広は肩から背中にかけてフケと思われる白い埃が目立っていて、髪の毛も後ろから引っ叩いたような状態だった。
なんか、ガソリンを入れすぎたエンジンのような熱気というかオーラを感じたものだ。

と、ヘアスタイルにかこつけて、あの時すれ違った有名人を紹介してみた。
当時は、まだまだPCは「ハードありき」の時代で、会社のPCなんて、PC1台にソフトは良くて三本(三種類)みたいな時代だった。PC1セット50万円でも安い、そんな時代。

ソフトウェア一本の値段も相当なもので、相当な値段に相応しい相当なパッケージに収まって販売されていた。ワープロ一本5万円とか、そんな感じ。定番表計算ソフトは定価だと10万円近くしていた。
百科事典か広辞苑のような分厚いパッケージに分厚いマニュアル数冊とフロッピーが3枚とか入っていた。

話はそれるが、「ソフトバンク」も、言葉を話す犬のようなお父さんや、黒人のような息子や、孫より若い旦那さんと結婚したお祖母ちゃん、光の道がどうこうなどと複雑怪奇な現象を宣伝する会社ではなかった。

新しい商品「ソフトウェア」を専門に取り扱う卸業者のパイオニアとして「ソフトバンク」が地位を築き始めた頃だ。ったと思う。
ソフトバンク登場以前は、書籍を取り扱う卸業者が片手間にやっていたようだ。



そんな時代の中で、高額のPCやソフトを手当たり次第に試したい欲求を満たすために考えたのは、週末を秋葉原の(当時はまだまだ怪しい)PCショップでバイトすることだった。
あれは今思えば楽しかったし、随分、勉強させてもらった。

当時は気がつかなかったが、多分、僕も、横から殴られたようなヘアスタイルになっていたはずだ。


火曜日, 12月 21, 2010

NMP-1000P「RIP機能」


ズボラな僕は、内部にハードディスクをセットせずに旧NMP-1000をUSB接続して使ってました。
頂いたコメントでハタと(←このハタは、旗なのか?)気がつき、旧NMP-1000の内臓していたハードディスクを抜き取り、新NMP-1000Pに取り付けてみました。


・新機能「RIP」
USB外付けのCD/DVDドライブにミュージックCDを入れ、ドライブ選択画面でオプションを選択、そこに表示される「RIP」を選択すると、あらまぁ、簡単RIPPINGされます。

ちなみに、デフォルトでは「MUSIC」フォルダ直下に日付のフォルダが作成され、その中にWAV形式で保管されます。個人的には最近はすべてFLACでRIPしているので、この機能は使わないだろうな。

当然、RIP中も、そのデバイス以外のデバイスで音楽やDVDの再生ができます。

同様にDVDを入れてみると、こちらは、ダメでした。再生もRIPもまだダメみたいです。
気になったのは、デバイス表示に「CD-ROM 1」と表示されること。そもそもDVDドライブには非対応なのかもしれません。と取説にも書いてなくて、調べてみたら、
http://www.qnap.com/images/products/comparison/Comparison_NMP.html
ここに書いてありました。(新旧比較ページ)
「Music CD Rip (as WAV files)」
「Support USB CD/DVD/BD drive for playback of user-authored discs」
との事です。
User-authoredなので、基本は、販売されているようなDVDには対応していないということでしょう。


ま、これができちゃうと、メーカーとして存続するか心配になるので、良としましょう。

月曜日, 12月 20, 2010

完璧な

満月。未熟な自分。

行かなきゃ

わかんねー!

朝の「本当の」一服

※以下の話題は、あなたにとって健康上の害を高める可能性がある内容を含みます、が、一生死なずに済む度合いは変わりません※


朝、起きる。とりあえず、お湯を沸かす。そして、朝食の支度(支度というほどの支度ではない)を始める。
その辺りでタバコを一服する。

本来であれば、これが、目覚めの一服となる。

が、どうも、朝起きてから会社に行くまでの短時間の間の一服は、一服のようでどこか嘘っぽい一服だということに気がついた。

なぜなら、実際にはこうだ。

バタバタと出社。席に着く。
始業のベルが鳴る。
先生は入ってこないし、教室のドアに黒板消しが挟まれてもいないし、そもそも教室じゃないけど、起立する。←今はそーゆー環境で仕事している。
起立したら、他の事を考えながら決められた文章に合わせて口をモゴモゴ動かすラジオ体操的な事をする。昭和的唱和。
着席する。
バタバタとなにかしら仕事のようなことをする。


そうして、ようやく一息く時間、平均9時45分頃となる。
そこでの一服が、間違いなくその日初めてニコチン物質が血液に到達し体中を循環することを実感できる時だ。


要するに、朝起きた後の一服はクラクラする感覚がないが、平均9時45分頃の一服はタバコ特有のクラクラ感がある、ということだ。

その後は、終日、クラクラ感なしの一服にしかならない。
ということは、朝起きた後家を出るまでの何本か(多分、朝食前後で二本ぐらい吸っていると思う)は、なんか、無駄な一服になっている気がしてならない。
あの、その日最初の一本にのみに許されるべきクラクラ感が、実際には、その日三本目辺りに許されているのは、どこか、許されない事態だ。

多分、血流の問題なのかな。朝、運動をしてから一本吸えばクラクラ感が味わえるのだろうか。
でも、朝、目を覚ますために吸っているのに、その前に運動するとなると、目を覚ますために何をしたらいいのか、で困ってしまう。
そんなことに気がついたのでした。


ちなみにこのクラクラ感、何時間か長い時間タバコを吸わずに吸ったときに顕著に感じることができる。
以前、願掛けで10日間ほどタバコを吸わなかったことがあった。

その願掛けが実らず、失意の中で吸った10日振りのタバコは凄かった。
外で立ってる状態で吸ったんだけど、クラクラ感MAX、地面に接触している自分の足の裏を中心に地球が回っているような感覚だった。

さすがにその時は、これは天然モノの薬物だ!こんなものを吸っていて、普段は何ともならないなんて、どんだけ僕の身体は凄いんだ、普段の僕の身体は無敵モードか、などと感動していたのだけど、次に吸った二本目では、クラクラMAX感は消えていた。残念だった。


それが忘れられなくて、しばらく、感覚を空けて吸うようにしてみたんだけど、24時間以上空けてもそこまでの感覚には至らない。
せいぜい、前述のプチクラクラ感、プチクラ感どまりだ。
そんなんで満足する今日このごろなのでした。

※はみ出し
 その天然モノ薬物に関する注意書きをまとめたサイト。四種類あるらしい。
 http://popdragon.seesaa.net/article/5039747.html

※※はみ出しパート2
 世界中のその手の注意書きをまとめたサイト。
 http://muen.cool.ne.jp/q_and_a/q10_2.htm


土曜日, 12月 18, 2010

家の前の

フレディー。

吸引力が変わらない、もう一つの(革命的)方法



最近、掃除機を買い換えた。

5年ほど使っていた掃除機、使っていたといっても、掃除の頻度が少ない(掃除はなんか苦手である)ので、使用回数は2年分ぐらいで、吸い込んだゴミの量は5年分、といったとこか。

これまで使っていた掃除機は、不精な自分の性格を考え、いわゆるフィルター買い替え不要←洗えるやつ、のモデルだった。
これはとても自分にはマッチしていたようで、なんだかんだと、たまーーーーーーにフィルターをガシガシお風呂場で水洗いして使ってきた。

一方、ガシガシ水洗いする、ということは、掃除機の使用を終えたタイミングでゴミを捨てることになる。
別に、掃除しないときに「掃除は別の日にやるとして、たまには掃除機のゴミを捨ててフィルターを洗うか」ということには、普通はならない。はずだ。少なくとも僕が普通であればそういうことだ。

むろん、僕の家に使用人が何人もいて、執事がいるなら、話は別だ。

「おい、山岡(←執事の苗字イメージ)、明日辺り掃除をする気分になるかもしれぬ、掃除機のフィルターをガシガシと洗っておくよう誰かに言っておいてくれ」
これなら掃除しないときにフィルターを洗う可能性はある。
が、うちには山岡どころか、山田も田岡も鈴木も水上も池田も金子も川田も竹本も、ましてや大塚もいないのだ。

そういうわけで、掃除機のフィルター洗いは掃除の後、ということになる。
そうすると、肝心の気合が入った掃除の日には、僕は超テンションが高いのに掃除機は唸るばかりでやる気なし、ということになるのが常だ。

こうして、フィルター洗い後だけは二人のテンションは高いのだけど、フィルター洗い後のテンションの高い時期が、最初の頃ほど長続きしなくなった。

そして、ある時からグンと吸引力が落ちた。フィルター洗いの効果も無くなった。

分解してみたり、できることはほぼやりつくし、一時は復活したように見えたが、結局、すぐに同じ音だけ立派で吸引サボタージュ状況は変わらず、継続使用を断念したのだ。

二人の蜜月は終わった。
そして、泣く泣く使い慣れた掃除機君は下取りに出され、新たな掃除機君がやってきた。

これだ。


どうだ。見るからにテンション高いぞって顔をしている。
電源を入れると、青い部分が青く光っても不思議はない。(でも、そのような機能はありません。)
ともすると、このまま自走式で掃除してくれると良いのだが、そこは二人で愛を育む仕様となっており、常に私が手を添えてあげないと掃除はしない。なかなか、慎み深いのだ。
ましてや、電源を入れずに部屋の隅に置いておくと、ジッと、私が声をかけるまでジッと待っている。

二人の愛の作業としての掃除。
昼は独り大人しく慎み深く部屋の隅で待っている、
そして、夜にスイッチを入れたともなるとその慎み深さはどこへやら、大胆奔放かつ激しく吸引するのだ。

。。。なんか変な話になってしまった。


もとい、使い始めてすぐに東芝製のこの掃除機の良いところが、実はとてつもなく良いことだとわかった。
もっとアピールしても良いのではないか。
それは、フィルターに普通のティッシュペーパーをセットできるのだ。

掃除しているうちに吸引力が弱くなったと感じたら、ゴミ箱に掃除機のゴミカセットを持っていき、ポチッとスイッチを押すとパコンとカセットが開き、ポトンとティッシュと共にゴミが落下するのだ。

たったこれだけの事なのに、掃除機の使い方が変わるのだ。
どう変わるかというと、例え掃除中であっても、吸引が弱くなった気がしたら、ポチッ・パコン・ポトンとするだけで、快適に掃除が継続できるのだ。

ということは、不精な僕みたいな人間はゴミを溜め込み吸引力をおとしているのだけど、ポパポで済むならしょっちゅうゴミを捨てることになり、そもそも、ゴミを溜め込みすぎてフィルターが詰まるような事自体が少なくなるわけだ。

これに気がついてから、ちょっと、掃除が好きになったかもしれないのでした。

金曜日, 12月 17, 2010

参りました映画「ブロークバック・マウンテン」



雑誌を読まない生活が定着して随分経つ。
雑誌を読まないと、世の中の流行を知る術は、「街に出る」「TVを見る」「上司の発言」ぐらいなものだ。しかも、「街に出る」は結局自分のセンスが問われるわけだし、「TVを見る」は高尚な番組しか見ない

そんなだから、話題作にも関わらず、なんの先入観もなく話題となった映画を観ることがある。
というか、レンタルDVD屋さんは、話題作を目立つ場所に置くので、「話題作」ということは知るところとなるのだけど、どの辺りが話題になっているのか、は、わからずに手に取ることになる。


当然、そういう時は、見始めての数分で「この映画は○系だな」などと思いながら観ていくのだけど、今回は、想定範囲を超えていた。


不意打ちされる、辻斬りにあう、食器棚の陰からゴキブリが~、会議中に思わず熟睡して夢まで見ててイビキをかいた気がして突然目が覚める、とか、そういう類の全くもって想定していない新鮮な驚きと戸惑い。
そういえば、この間の(ホラーと知らずに借りた)ホラー映画もそうだった。
(そして、そう気がついた時に、観るのを中断する事も出来ないのが不思議だ。据え膳食わぬは男の恥、とでも考えているのだろうか。)


タイトルが覚えられそうで覚えられない映画「ブルーマウンテンバック」でも「マウンテンブルーバック」でも「ブルーバックマウンテン」でもなく、「ブロークバック・マウンテン」が、その不意打ち辻斬りおぬし何者映画となった。

ストーリーはググればあちゃこちゃにでていると思うので割愛。

なにしろ、この映画、冒頭から素晴らしい景色の連続だ。
そしてその景色に一体化したカウボーイと羊たちの群れ、もう、「山最高」「カウボーイ最高」「アウトドアライフ最高!」「自然最高!」的な感動を覚えながらストーリーは進んでいくのだ。

この手の冒頭で素晴らしい自然を見せつけられるのは、グラン・ブルー以来かもしれない。なにしろ、景色に大感動するのだ。

だが、グラン・ブルーのように、事は進まない。
いずれ会議は終わるか、誰かの甲高い発言で睡眠を中断させられるか、会議中の睡眠自体を中断させられるか、中段だけに留まらず責められるか、不幸にも、そんな風に世の中も映画も出来ている。

壮大な景色の中で出会う二人のカウボーイ。
少しづつお互いを理解し合い、男の友情が育まれていく時間。
うーん、いいじゃないのー、包みこむ広大な自然がまたいいじゃないのー。


そして、だ。
こともあろうか、その二人が、夜のテントで股間のテントを、あー、なんでそうなるの、コント55号でもそうはならない、いやいや勝手にこの映画はここで流れてるけど知ってて借りたわけではないんです、っていうかとにかく参ってます、いや映像的には美しいんですよ、いや自然が美しい、いやうろたえてるというか、はぁ、参った。

世はダイバーシティとか言われる世の中。
僕自身は、世間一般平均かそれ以上に多様性に対して柔軟な人間だと思っていた。
しかし、会議中の居眠りを中断させられた時の「眠りを妨げられたショック」「居眠りを隠し切れなかったショック」と同様に、そのストーリー展開のショックだけでなく、「案外、僕は多様性の許容度に乏しい人間なのかもしれない」というショックなんかも加わって、とにかく参ったのでした。

自分のダイバーシティ許容度を試せる映画かもしれません。(先入観なく見始められれば)

というわけで、内容の善し悪しは(ショックが大きすぎて)いまだ判断できず。の映画です。

木曜日, 12月 16, 2010

映画 オーケストラ



映画には、定番・鉄板のストーリーにも関わらず、「感動する映画」「感動しない映画」、あるいは「もう一度観たい映画」「二度と観ない映画」「観なきゃよかった映画」が存在する。
要するに「好き」「嫌い」に別れる。

そして、この「好き」「嫌い」の傾向は、結構、その人そのものの傾向も表しているようだ。
最近気がついたのは、タランティーノ派と反タランティーノ派。タランティーノ派ではないのでタランティーノ派が何を良しとしてタランティーノ派的映画を観ているのかわからないが、なにしろ、タランティーノの映画は観る機会がないのが反タランティーノ派だ。
何度も言うが、観たことがないのでタランティーノさんの映画をどうこう評することができないのだけど、結果的に、観てない、もしくは観ても記憶に留まっていないのだから仕方がない。

この事実を指摘したのは、私ではなく、まだ記憶力の衰えていない若者だったが、僕はとても納得した。ちなみに彼も反タランティーノ派で、彼なりのタランティーノ派がどういうものであるか理論も数十分にわたって展開してくれたのだが、残念ながら私の衰えた記憶に残ったのは、タランティーノの映画は素人にはつまんない、だった。
とにかく、あれほどレンタルDVD屋さんでアピールしてくるブルースリー風レオタードに身を包んだ女性の流し目にも、なぜかそそられないのだ。


そんな派閥の一つになるかもしれない「オーケストラ派」。

この映画、例によってストーリーはググッてもらうとして、とにかく、良い。
今年一番涙を流した映画だ。だからと言って、悲しい話ではないし、むしろ、面白おかしく楽しい元気がでる映画だ。ベスト1というわけでもない。
ストーリーが凝っているわけでも、何か特殊な映像効果があるわけでも、すばらしい風景があるわけでもない。

だけど間違いなく名画だ。

題名もストレートだ。
オーケストラが主人公だと容易に想像がつく。
オーケストラという題名で、未開のジャングルに戦士が迷い込み伝説のタイガーと戦う、「おー消すトラ」ではない。

クラシック音楽はちょっと、、、という、クラシック音楽苦手派の方でも大丈夫だ。なぜなら、私がこの映画をDVDで観た後、たまたま映画館でやっていて観に行ったんだけど、一緒に観た連れは、途中、クラシック音楽界に蔓延する眠り病にかかりながらも、最後は感動して涙と鼻水を大量に流していた。


そして、オーケストラ派の多くが属するのが、ヨーロッパ(主にフランス)映画派になる。
無意味にやたら心拍数を上げようとする映像・音響的効果ではなく、あくまで伝えたいのは「気持ち・心」の派閥になる。
やたら長いタイトル「星空に向かって狼は悲しみのメロディーを啼く」みたいな映画ですら、派手なアクションシーンの中でしっかりと心が描かれている。

多分、製作現場では、「心を描く」事が最優先された中で、いろんなアイデアが取捨選択され、映画作品として、とても豊かな作品に仕上がるのだろう。

そういえば、この映画を見たから、そこから一気に、「クラシック音楽関連映画」を借りては見るようになったのだ。
気が付かなかったのだけど、こういう風に、次に見る作品をも左右する作品は、どんだけ凄いか、ということだ。

マーケティング費用と広告費用で膨大な制作費の半分以上を使ってしまう映画会社がアホに見える。し、多分、アホなのだろう。


尊敬するリチャードストールマンは、「もしハリウッドの映画を見ようと思ったら、事前に内容を吟味して、駄作でないとわかってから行くようにしたほうがいいよ」と言っている。全くその通りだ。


何が凄いか、は、僕の力ではどうにも言葉にできないけど、ヨーロッパ映画派、notアバター派、notホラー映画派であれば感動間違いなし。
観ていないのでわからないが、"のだめ派"は駄目かもね~←超先入観

進化例

退化例

水曜日, 12月 15, 2010

NMP-1000P来ました

新旧とも見かけは全く同じ、リモコンも全く同じだから二台一緒に操作可能!?
USBのDVDドライブ認識されます。
で、新チップのおかげで、動きは全般にスムーズになりました。ネット関連も動きは○。なによりネット関連サービス(ニュース系)がだいぶ増えました。
UPnPはうちの東芝RD-E301を認識しフォルダも表示されたけど、再生は出来なかった。要調査。


まだ安定してない部分もありますが、ま、そのうちファーム更新でなんとかなるかな。
で、早速、ファーム更新。と調べたら最新1.1.1Build1012でした。

手持ちのBD(MKV)ソースは○、ISOは×。


という感じ。

ティーバッグの紅茶の作り方



オノ・ヨーコが亡きジョン・レノンとの思い出でジョンが「ティーバッグを入れてからお湯を注ぐと思っていた」という話を語ったことがニュースになっていた。
http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120901000308.html



ほー。僕もずっとそうだと思っていたが、正しくはお湯を注いでから、そのお湯にトポッとティーバッグを落とすのが正しいのだそうだ。

インスタントコーヒーやカップスープ、チキンラーメンだってなんだって先に具や粉を入れ、だから、レアな後乗せ系のモノは、「後乗せだよー」をやたら強調しているわけで、だったら、ティーバッグにも「後入れマーク」を書いていて欲しいものだ。

で、書いておきたいのは「後入れマーク」の話でも「あ、トイレ!まぁ君」の話でもない。こんな話題がニュースになったこと、そのものの話。


今年はジョン・レノン没後30年なのだそうだ。

最近では、昨日のことも直ぐに忘れるというのに、30年前の、あの日の事はよく覚えている。

盛岡ではチラホラ雪が舞っていた。
朝7:00のNHKニュースで知った。
ジョン・レノンの訃報のニュースなのに、何故か映像はLetItBeを唄うポールの姿だった。

あの頃、所謂、スターのおふざけジョークの一つとして、「嘘の訃報を流す」事は"あり得る"事だった。オールナイトニッポンなんて、何度、その手の訃報を流すジョークをやったことか。

僕はその朝、ちょっとマヌケなNHKのニュースを見て、嘘だと思っていた。
スターの気まぐれに付き合わされる国営放送のアナウンサーを気の毒にすら思った。

ちょうど、ジョンの何年か振りのニューアルバムがリリースされたばかりだった。
お葬式の合図にも思えなくもないトライアングル?で始まる曲「Starting Over」がリリースされた後でもあり、ラジオや街のレコード店で耳にすることも多かった。まさしくプロモーションのように思えたのだ。

学校でも、友人とそんな話をして、夜に帰宅して続報を目にしてようやく死んだのだと納得した。

知ってる人でもなければ、1枚か2枚レコードを持ってるぐらいでBeatlesが一番というわけでもない、多分、単なる洋楽(しかもハードロック)好きな高校生でしか無かった僕だったのだけど、まるで、仲良くしてもらっていた親戚の叔父さんが亡くなったような気分になった。

10代のあの頃、人の死を、今以上に理解できていなかったけど、少なくとも、もう、悪いジョークも新曲も生まれないのだけは、とても個人的な損失に感じられたのでした。

その後、お小遣いを叩いてアルバムを手に入れ、イントロの鐘の音を何度も聞くことになったわけだけど、同じアルバムに収録されていたオノ・ヨーコの曲「キス・キス・キス」の悩ましい声「抱いてぇ」にしばらく別の意味で悩まされたのでした。

アンティキティラ島の機械



沈没船から発見された「世界最古の計算機」と言われる計算機がある。
アンティキティラ島の機械だ。

紀元前!に作られた膨大な歯車の複雑な組み合わせ。暦や天体の動きを表すものらしい。

この機械がどう使われてたのか、その凄さが科学的・数学的・天文学的にどうなのか、そんな事は僕にはわからない。
が、とにかく、2000年以上前の、まだ天動説が信じられていた世界で作られた精密な歯車、その歯車達に惹かれる。


発見された機械そのものは、当然、動くわけもなく、そこからレプリカが作られてきたのだけど、やはりそのレプリカがまた美しい。

そして、Legoで作られたAntikythera Mechanismがこれ。




プロジェクトのイメージは、こんな感じ。「自由な歯車」
人それぞれはユニークな歯車。で、全体がうまく動くのは美しい。

火曜日, 12月 14, 2010

小倉弁 ○○してる→○○しとう


ここ小倉では、○○してる、を、○○しとう、と言う。
ブログを書いてる→ブログを書いとう
食べてる→食べとう
買ってる→買っとう
ムフフしてる→ムフフしとう
とっくに行って取ってると言ってる→とっくに行って取っとうと言っとう
みたいな感じだ。

住み始めた当初、"てる"、を、"とう"、と言っているのかと思ったがこれは間違い。
この文法を適用してしまうと、
テルテル坊主→とうとう坊主
西郷輝彦→西郷逃避行
秋の夕日に照る山紅葉→秋の夕日に遠山揉み爺
ヤッテル、ヤッテルゥ!→やっとう、やっとう!(あ、これはアリだ)

逆に、知らないうちに標準語だと思われとう、小倉弁もある。
自民党は、元々、自民テルだったのに、今では、自民党になった。
砂糖も、元々、サテルだったのに、今では砂糖。
菊池も元々佐藤だったのに、今では菊池。
そんな感じだ。

長崎が近いこともあって、外国語にも多大な影響を与えた。
もともとは、Tell me please.と言っていたのに、今では、Talk me please.
トウシューズは、テルシューズだったし、
テレサ・テンさんは、元々は交差点だった

♪わかっとー、わかっとらんとー♪
♪ヘィヘーィ、ヘーィ♪
ショカクヤチトセさんのブルースが聞こえてきそうだ。

そんなだから、今、ここに住んでいて言葉に不自由することはない。
ちゃんと地元の言葉を使わないと、もっともっと書いとうとう。
※たまに、会議とかで地元の言葉に出会うと、「方言使っとう」とあたたかい気持ちになれます。

※※速報「NMP-1000P アマゾンでも取り扱い開始」

金曜日, 12月 10, 2010

カラカレカラ

カラスガレイノカラアゲ

辛いカレーソースとかかけたい。

木曜日, 12月 09, 2010

ゴールデンスランバー観ました


何枚か借りた中に紛れ込んでいた邦画の一枚。
「洋画」のフォルダーに入れてたから、再生してみて、「やたら邦画のCMが多いなぁ」と思ってたら、本編が邦画。
あぁ、確かに借りた気がする。と、大した期待無しに見始めた。

南極料理人だったかな、も、良かった、堺雅人主演の作品。
うーん、彼は好印象。南極料理人も良かった。

例によってあらすじ等は、Wikipediaなどで確認してもらうとして、
なにしろ娯楽として楽しかった。
映画は、こう楽しめ!みたいな映画。

まず、主人公が「普通の男」で、感情移入しやすいのが良い。
首相暗殺犯に仕立てられる、なんて言うと、サスペンスっぽいけど、サスペンス要素もある青春回顧映画かも。

そして、タイトルになっているBeatlesの"Golden Slumber"が、その、普通の人達と大げさな事件の狭間のやるせなさみたいな空気にぴったり合っていた。

映画の中の回想シーンで、大学生の主人公達がGolden Slumberを聞きながらPaul McCartneyのその時の心中を語り合うシーンが合った。
確かに、僕も、10代でBeatlesのLet It Beに出会ったとき、ライナーノーツを読みながら、バラバラになったメンバーがどんな気持ちでこのアルバムを作ったのか思いを馳せたことがあった。
うまく説明できないが、片や既に解散した世界のスーパースター達に対し、何か、他人事には思えない、10代のあの感覚。
あの頃は、やっぱり、純粋だったのかな。

そんな感覚や、「こんな話があったら面白いでしょ」的な、やや無責任なストーリー展開や、観ているうちにそんなほろ苦かった時代の感覚を次々に思い出せる映画でした。

そして、エンディングの斎藤和義の曲も良かった。
っていうか、斎藤和義、知らなかったし。
まだまだまだまだ、たくさん知らない素敵な音楽があるんだと思った。

娯楽映画だから、また観よう、っていうのとは違うけど、心に残って、なんかたくさんの久しぶりの感覚を味わえる、やっぱり素敵な映画だったな。
意外に、一人で深夜に観るのがお勧めかも。

ランチはナンだ

一昨日?だったかにテレビで「ホタテの出汁が効いたモツ鍋で億万長者になったモツ鍋オタクのオジサン」を見た。
ホタテスープとモツ鍋はそんなに旨いのか!

で、夕べ、アルミの容器に入った一人用モツ鍋とチャルメラ一袋を買った。
モツ鍋にチャルメラスープ(と相応の水)を入れ、締めはチャルメラの麺、を試した。
しかも、全行程を撮影して、最高のモツ鍋が超簡単に出来る事実を世界に発信しようとまで考えていた。
理由はわからないが、一大発見確実、と信じていたし、あわよくば何かしら○○長者
になっちゃったりして〜と、仄かな期待さえしていた。

・・・
しょっぱかった。モツの風味は無かった。その上、チャルメラでもなかった。
ただただ、脂っこいしょっぱいキャベツとニラとモツとスープだった。
締めは、義務と責任と化した、しょっぱい麺だった。

億万長者はむろん、世界に発信も不要だった。

気を取り直して、とりあえず、しょっぱくないランチ!

水曜日, 12月 08, 2010

テレビ型携帯電話なら許す



とりあえず、良いことも悪いことも最初に体現するアメリカで、いよいよ「煩いCMの音量を下げる法律」が施行されるのだそうだ。
音量を下げると言っても、音量を普通の番組と同じレベルにする、ということ。
仕方がない、と諦めていた、あの、CMになると音量が上がる現象、というか、放送局がスポンサーに阿って(おもねって)、CMになるとボリュームを大きくしていていた。

この「CMに限ってボリュームを大きくする戦略」で、以前の私の家庭では、一悶着あったのだ。
ニュース番組とか、まぁ、普通にテレビを見ているときは平穏無事なのだが、CMになった途端、音に神経質な家族から、「テレビの音下げてよ」とクレーム。
そう、見るテレビ番組の趣味が全くもって合わない場合、チャンネル戦争を回避したとしても、その後、"CMの度にボリュームを下げる下げない戦争"が勃発するのだ。
ということはだ、テレビ局よ、もう、かれこれ10数年、そんな姑息な手段で、スポンサーの機嫌を取っていたわけだ。


普通に考えれば「当たり前」の状態にするだけの話だ。
この、「当たり前」の状態にするために、何十年もかかり、法律まで必要だったと考えると、本当に人間は賢いのか疑問になる。
よくよくよく考えると、そもそも、CMの時間と番組の時間では、消費するエネルギーが違うはずだ。
エコなスポンサーは、今後、暗く静かなテレビCMを流すべきなのかもしれない。。。なんてなぁ。


なにはともあれ、良いことだ。大歓迎だ。
なんだったら、聞き耳をたてなければ聞こえないぐらい音を小さくして、映像も「ぼーんやり」すると、むしろCMの効果はあがるかもしれない。
「ン?、何のCMだ?、、、聞こえないし見えないし、、、もっと見せてくれ~。。。。」
なわけないか。

そういうスポンサー至上主義、視聴者シランプリ業界だからだろうか。最近のテレビCMにもう一つイラっとすることがある。それは電子音だ。

携帯電話の着信音、バイブ音、そんな感じの音が、地デジ対応した新しいテレビのスピーカーからリアルに鳴り響く。
電子音は方向感が曖昧になるため、必ずしもテレビから鳴ったのかどうか確信しにくいのが、CMを流す側のミソなのだ。

しかも最近は、普通にCMのバックで流れるBGMや効果音に仕込まれている。
その上、いい気になったのかどうかは知らないが、バラエティ番組でもこの電子音をガンガン使い始めているように感じる。

なんとかならないものか。
そもそも携帯電話ですら、一日中ほとんどマナーモードで使っているのに、何で、CMの携帯電話もどき電子音に「ハッ」としなきゃならないのか。本当に迷惑だ。

ググってみると、そんな人は僕だけでないとわかる。
○ドバシカメラ、トイザ○ス、ビック○メラ、○ーリツ、とかが取り沙汰されているようです。

こーゆーのが、アメリカのように法律でないと規制できない、というか、規制しないとヤメラレナイ。
CMの音量や電子音で、そのCMの会社の人だって、当然、「煩い」「耳障り」と感じている人だっているはずなのに、自らはヤメラレナイ。
そして、普通の番組にまで取り入れはじめているTV放送業界。


言ってみれば、こーゆーのは、駅前や繁華街の強引な客引きと基本的な考え方は同じだ。
大声で興味を引かせる。気になる掛け声「ほら、そこの奥さん」とかと同じ。


繁華街の客引きに声をかけられても、「見えません、聞こえません」に徹して通り過ぎるように、この手の輩とのトラブルを避けるには、テレビを見ない。あるいは、録画しておいてCMを見ない。それが一番。
・・・あれ、自己解決しました。

NMP-100P 12/10国内発売へ

というニュース。よしよし。
「H.264圧縮の高精細なビデオファイルや、BD ISOの再生にも対応した。発売日は12月10日。店頭予想価格は35,800円」

価格comにも
「再生可能なファイル形式は、動画がAVI、MPEG/MPG、VCD (ISO、MPG、NRG)、DVD(VOB、IFO、ISO、NRG)、WMV、ASF、TP、TS、TRP、M1V、M2V、M4V、M2P、 M2T、 M2TS、BDMV/BD ISO、MTS、MOV、MP4、RMP4、MKV、MOD、3GP、。画像がJPEG/JPG、BMP、PNG、GIF。音楽がFLAC、APE、 WAV、WMA、AAC、PCM、AC3、MP3、Ogg、M4Aとなる。」
うーん、楽しみ。

amazonはまだ古い。→取り扱い開始した模様

火曜日, 12月 07, 2010

レーザープロジェクター(円錐と四角錐)

レーザープロジェクター、をニュースで見かけた。
LEDではなく、レーザー。

何が違うかというと、「無限焦点」ということで、プロジェクターにつきものの、「ピントを合わせる」必要がないということだ。

だから、どんな場所(凹凸があろうが)に投影しても、ピントが狂うことはない。
斜めの壁やドーム型の壁とかにも、とりあえず、綺麗に映る。
それだけでなく、プロジェクターを持ったまま動いていて壁に投射しても(投影された画像の大きさは変化するけど)ピントがずれることはない。のだそうだ。
こんな感じだ。


今回商品化されたのは、小型であくまでモバイルユースを前提にしたもの。
でも画面を見る限り、明るさが15ルーメンと心もとないわりに、ま、いい感じだ。
一般に超小型プロジェクターは、ケーブルを引っ掛けたりするとすぐ動いてしまうらしい。
そのたびにピントがずれたりするようだけど、そういう事は無くなるわけだ。


レーザーでの映像投影イメージは、きっと、円錐形の金太郎飴みたいな感じなのだろう。どこで切ってもピントのあった同じ絵が出てくる。

レーザープロジェクターでググルと更に次世代の技術がヒットする。
3D投影技術だ。これは、デモを見てる限り凄い。
最初に公開されたスターウォーズのシーン、レイア姫のメッセージを再生するシーンを彷彿させる出来だ。
こんな感じだ。


ひっくり返したピラミッドの中に浮かぶ3D映像。
これを部屋の何処に置けばいいのか、今のテレビやスクリーンのように壁におっつけてしまうのはなんかもったいない。
じゃあ、リビングのど真ん中にドーンと置いても、一日中見てるわけじゃないし。。。

とりあえず、↑の映像にあったように、広い空港ロビーにでも置いといてもらいましょう。

月曜日, 12月 06, 2010

コロコロ スーツケース コロコロ



もう流行りだして大分経つけど、コロコロ式スーツケース(空港なんかでよく見かける引きずって歩くやつ)を持つ、いや、コロコロ引きずる人が本当に多くなった。

かなり小さめのコロコロバッグも最近ではよく見かける。
あれ、自分の前を歩いている人がコロコロしていると邪魔に感じるんだよなぁ。

どう見ても、サイズ的にも、多分、重さ的にも、無理やりコロコロしているようにすら見える。
そういう人に限って、入りきらない荷物用に手提げのバッグ(下手するとこちらのバッグの方が大きかったりする)をコロコロバッグに載っけて二階建てコロコロしている場合も多い。


大きければ「大変ですねぇ」という気持ちになれるし適当に離れて歩くんだけど、あまり小さいと、「足元邪魔だから手に持って歩いてくれ~」となる。前を歩いていた極少二段重ねコロコロバックが急停車なんかすると、急に足元にネズミかなんかが飛び出してきたような状況になる。
そもそも、小さめのコロコロバックほど、柄の部分が長く出来ていて、後ろを歩く人に対して荷物を引きずっている感が伝わりにくいのかもしれない。

大荷物を引きずったり担いだりしていない限り、人の後ろを歩くときは前の人の背中を見て距離感を無意識に把握しているんだろうなぁ。
こんな事を無意識にできる僕ってチョット凄いかも。

あの小さいコロコロに、金塊でも詰まっていれば理解できるんだけど、小さい上に中身も軽いようにしか見えないのだから困る。
(きっと、キャスターがよく出来ていて軽快にコロコロしているようにみえるだけで、金塊か鉛の塊を運ぶためにコロコロしていると信じたい)


とかいう僕は、そこそこ大きいコロコロバッグを持っているけど、長年の耐久テスト張りの使用に耐えかねたのか、コロコロのタイヤゴムが剥がれてしまった。
メーカーに修理を頼んだら「部品がないから新製品に交換」となった。

愛着があっただけに残念だった。

それ以上に、そのアウトドアメーカーが「販売したものは何年経っても修繕に応じる」なーんていう事を売りにしていただけに、まぁ、それは衣料品系に限ってなんだろうな、とは思ったけど、ちょっとガッカリした。

その上、修理をお願いした愛着があったバッグは新製品と交換だということで丁重にお詫びを頂いたものの戻ってこなかったし。(修理のためにメーカー本国アメリカに送られたということだ。この結論まで二ヶ月ほどかかった。)

そんなこんなで、新製品に交換してもらってから、とんと使わなくなった。無理して大荷物を持ち歩かなくなったのだ。

以前は、どれだけ無理していたかというと、旅も三泊を超えるあたりから「どうせ着替えが増える」という理由で、仕事用とは別の普段使いのパソコンや、各種充電器、オフに履き替える靴、読みかけのハードカバー、なんかが増えて、ともすると、コロコロバッグにすら収まらない量の荷物を抱え大移動していたのだ。

これだけ抱えて大移動したところで、旅先で使うものはたかが知れていて、結局は荷物のうち確実に使用するのは着替え、ぐらいなもので、後は、「あれば安心」だったり、もしかすると「こんな時のために買った商品を使わないのはもったいない」なんていう、買ったものは神様です、の結果の大移動だった気もする。

冗談みたいな、充電器は持ってきたけど、肝心なカメラは忘れた、みたいな事もあったり、そもそも、僕にはそんな几帳面なことは満足に出来ない、と改めて認識した。
自慢ではないが、前日食べたお弁当の空箱を翌日、下手すると翌々日とかに今夜はお弁当を作ろかな、なんて時にバッグの中に入れっぱなしだった時もよくあるのだ。

なんであれ、新コロコロバッグになってからは一回ぐらいしか使ってなくて、要するに、コロコロバッグ自体が「こんな時のために買った商品を使わないのはもったいない」対象だったと気がついた。




極少二階建てコロコロしてる人を見かけた時、「そんなちっちゃいバッグは手に持て~」とツッコむのではなく、「コロコロしたかったんだねぇ」と車間距離ならぬ人間距離(ジンカンキョリ)をちょっとおいて、優しい目で見てあげたい。
そのうち、新しいバッグを手に入れたらコロコロ欲は治まるから。

土曜日, 12月 04, 2010

ようやく、

家の前にそびえる銀杏の大木が色付きました。

水曜日, 12月 01, 2010

車内アナウンス


どうにもこうにも、日が短くなって、帰る時間なんてベルピュンでも真っ暗。
残業してなくても真っ暗だ。

サマータイムを検討するなら、ウィンタータイムだってあっていいはずだ。冬は、勤務時間を6時間に短縮すれば・・・・いや、だからってサマータイムの勤務時間が12時間になるのは勘弁。
なかなか思うようにならないことばかりだ。

という事で、他にもちょっとしたトラウマになりそうな事もあり、ここのところ、自転車ではなくモノレール通勤になっている。

会社最寄りのモノレール駅から会社までは10分ほど歩く。
途中に三つぐらい市内バスの停留所がある。
この間みたいに、一個手前の駅なんかで間違って降りたりすると、バス停は10個近くあるかもしれない。

そもそも小倉、というか九州は日本でもずいぶんバス路線が発達している土地なのだそうだ。確かに、小倉でも随分バスをよく見かける。
市内バスはもちろん、高速バスのたぐいもとっても多い。
そして、これまた乗車率もなかなかのように見える。

話を戻して、会社まで歩く途中のバス停での話。
そんな風にバスが多いから、バス停にもバス二台がかち合って止まったりもする。バス停のバス停車スペースが長いのだ。
同じ小倉駅行きが二台並んで止まったりすると、僕なら、どっちに乗るべきか混乱するのだけど、ここら辺の人たちはみんな普通に乗っている。

そもそも、バスが二台同時に来た場合、混んでいる前のバスをパスして後ろのバスは乗せてくれるのだろうか。バスをパスするのは、日本語的にも問題がありそうだし、バスをパスすると、後ろのバスは僕をパスしそうで怖い。

先日の朝も、そんな感じだった。
モノレールを降りてテクテク歩いていると、バス停にバスがちょうど二台止まった。

先頭のバスから車内アナウンスが聞こえる。
酔っ払ってるような、もはや、解読不可能な「らうぅらうららぁうららぅらぁ」みたいなアナウンス。頭の中で何度巻き戻して再生しても理解不能、と、思っていると、後ろのバスからも車内アナウンスが。こちらはずいぶん快活な声で、「おはようございまぁす。小倉駅行きでございまぁっす」。

同じバス会社なのに全く違う雰囲気のアナウンス。
電車なんかだったら、まぁ、だいたい、その路線の雰囲気というか、アナウンススタイルが確立されているのだけど、どうも、まだスタイルの確立までに至っていないようだ。

スタイルの確立までどれぐらいかかるのだろう。
あの酔っ払いスタイルも捨てがたいものだ。

どうせなら、方言を活かした、地域性豊かなアナウンスがいいんだけどな。
随分前に、大阪の電車会社が「車内アナウンスでの関西弁禁止」というニュースを見たことがある。そーゆーの、つまんないよなぁ。

会社脇の

桜並木。

木曜日, 11月 25, 2010

たまには

ランチ情報。

水曜日, 11月 24, 2010

大手貸ビデオ屋さんの狙い


近所の超安貸ビデオ屋さんも、概ね、借りたいものが無くなってきて、最近は通勤途中にある大手貸ビデオ屋さんに行くことが増えた。
その貸ビデオ屋さんでの話。

ここでは、よく、「○本で1000円」セールをやっている。
そうすると、こちらも、「5本で1000円だったら、5本借りちゃう~」となって、ま、とっても素直な消費者として、貸ビデオ屋さんのマーケティング部門かコンサルタントか消費者庁かなんかに表彰してもらいたい、そんな感じ。

で、不正確な記憶なんだけど、確か、以前は、「新作旧作なんでも○本1000円」とか、「旧作○本1000円」だったのが、最近は「新作□本、旧作△本合わせて○本1000円」とか、まぁ、いくつかパターンがあるようだ。

そして、先日のそのビデオ屋さんでの出来事。

もはや大手貸ビデオ屋さんに行ったらデフォルトで○本1000円セール。
今回は、四本らしい。で、太っ腹、全部新作でも良いということらしい。
「ふむふむ。じゃあ、珠玉の四本を選んでやろうじゃないの」と鼻の穴も膨らむ。

貸ビデオ屋さんでの楽しみは「選ぶ楽しみ」だ。
僕の場合は、よくよく考えると、絶対に借りない分野がある。
ここ、北九州に越してきてからは、任侠物が割と目立っていて、パッケージを手にとってみたりまではしたのだけど、結局、借りる気にならない。
あとは、アイドルが出演していることだけがウリのやつも借りないかな。
そして、間違っても借りないのが、「ホラー」だ。
もともとホラーは借りなかったけど、今では神社の中で暮らしている事もあって、そーゆーのは避けたい。避けねばならぬ。


一方で、時間をかけてじっくり棚を見るのが、「ドラマ」だ。中でも、"実話"に弱い。
あとは、その時々のマイブームがあって、戦争ものを見続けることもあるし、やたらタイトルの長いヨーロッパのアナログなアクション系「狼の涙が男達を濡らす。そして、血まみれの羊たちがいなくなった。」みたいな長いタイトルのやつにハマった時期もあった。最近は、クラシック音楽作曲家系にハマっている。

そんな風に、独り、あーだこーだと考えながら珠玉の四本を選び出す。
週末の価値を左右する珠玉の四本だ。

三本決まった。あと一本。
あれこれ探していたけど、ようやく、二本に候補を絞り込んだ。

「今週観るならどっちよ、どの気分よ」とか「明日の天気に似合うのはどっちよ」とか、要するに、どうでもいい事で悩みながら最後の一本を決めるのだ。

結局、ちょっと前のマイブームで見逃していた一本に四本目が決まった。
何か、大仕事を終えた爽快感と若干の疲労感を感じながらレジに進む。

帰って観る頃には忘れるんだけど、今なら、今日のチョイスのポイントを説明できる。が、誰もそんなオジサンの話し相手にはなってくれはしない。

仕方ないので、レジに並ぶ。
会員カードを出し、店員さんからの、ポイントは?との問いに
「貯めといて」
と答える。

若い店員さんはバイトだろうか。いつの間にか、僕は、こういう店のバイトの子達の親の年代になったんだなぁ、などと考えながら、レジのピッピッ音を聞いている。

計四本のレジ打ちが終わったとき、そのバイトらしきレジ打ちの女の子が僕に聞く。まさかの「今日のチョイス、イケてますね。ニコッ。」などとはならない。

「ただいま、当店では"新作四本1000円キャンペーン"をやっておりまして、お持ちいただいた四本のうち二本が新作、二本が旧作となっております。この新作二本だけでXXX円になりますので、新作を二本追加したほうがお得ですがいかがなさいますか?」

僕の思考は彼女の言葉の速さに追いつけない。
若い女の子だと油断していた。実は、キャンペーン内容を説明させたら日本一早口なのではないだろうか。

とにかく整理されずにいた僕の頭の中から捻り出てきた言葉はこうだ。
「えっと、あと二本、新作を追加すればお得なんだね?じゃあ、すぐ二本選んできますね。」

大手貸ビデオ屋さんのマーケティング部か雇われたコンサルの勝利の瞬間だ。
既に選んだ珠玉の四本のうちの二本を選びなおす、という選択肢は僕には考えられなかった。二本追加だ。

しかもだ、なんだかわからないが、一旦レジに並んだ以上、次の二本は超速で探さなければならない使命感みたいなものを感じてしまっている。
僕に残された、この大手貸ビデオ屋さんでの滞在時間はもう残り少ない。と感じてしまうのだ。

そそくさと、新作コーナーに舞い戻る。

こーゆー時の選択は、珠玉の四本の時とは全く違う。
さっきもザーッと見た棚だ。ちょっと気になったヤツがあるじゃないか。選択ハードルを下げれば良いだけだ。

一本はこのイマイチだけど話題作にしよう。
もう一本は、さっき、おもわず手にとってジッと見つめてしまった、内容はよくわかんないけど、きっとミステリー的なやつ。
ジッと見つめたのは、そのパッケージの女優が、普通に洋服を着ているくせに扇情的な感じを受けたからだ。

そうして、僕は四本セールだったのに、計六本を借りて家に帰る。

そんなこんなで、帰って一番最初に観始めたのは、結局、その扇情的な感じのパッケージの映画。
そのDVDをセットしながら、自分ながら笑ってしまう。「結局、これを最初に観るのかよ!」。

ちょっと高揚した気分もありつつ、映画を見始める。
確かにパッケージの写真の美女が出ている。なかなか色っぽい。

そして数分後、その美女が人肉を食べる悪魔に変貌し、僕はDVDを止めることも、その美女が変貌した恐ろしい悪魔のシーンに目をつぶることもできず、ただただ、寝付きの悪い寒い夜を迎えることになったのでした。

「美女に気をつけろ」
その映画のテーマはしっかりと僕の心に刻み込まれました。

火曜日, 11月 23, 2010

QNAP NMP1000後継モデルNMP-1000P


うちのNMP-1000が内蔵電池が切れ日付はいつも2000年、内部HDDの認識は電源投入時の電源二度押し必須、と、息も絶え絶えになりつつある今日この頃。
後継チップでパフォーマンス強化された後継機種NMP-1000Pが発表されています。
12月中旬出荷開始、らしいです。既にNMP-1000P用のアップデート用ファームウェアも発表されているから、ま、出てくるんでしょう。

外見も含め、概ね、おんなじような機能なんだけど、細部は大分見直されたようです。変更点をまとめておきます。
・CPU Sigma Designs SMP8635→SMP8643
・RAM 256M DDR→512MB DDR II
・Flash Memory 64MB→256MB
・S-Video 有り→無くなった
・Digital Audio - Coaxial 有り→無くなった
・Enhanced Audio(High performance Wolfson WM8524 stereo DAC)対応
・eSATA Host対応
・Advanced HD Movie Menu Navigation対応
・Next Generation HD Audio Passthrough対応
・Max Remote Disk Connections 6→32
・Music CD Rip (as WAV files)対応
・Support USB CD/DVD/BD drive for playback of user-authored discs対応!
・Support USB keyboard for text entry対応!
・Auto-rotation of photos based on EXIF対応!
・ネットワークファイル転送速度の大幅な改善

というところ。
キーボードがつながったり、BDドライブを繋げられるのは良いです。
スピードが速いであろうことは手に入れてから確認。

値段は\35,000-ぐらいらしい。
前モデルは\40,000ぐらいで売りだされたから、円高差益還元価格か!?
12月中旬かぁ。

多分、Google TVセットトップボックス(Logitech Revue)が3万円程度で出てくることを考えると、様子見かなぁ。
いずれにせよ、リモコンでメディアファイルを扱える便利さは手放せません。


月曜日, 11月 22, 2010

(サーヴァント)リーダーに求められるスキル


ここのところ、そんな事を考える機会があったのでまとめておこうと思う。

まず、タイトルに括弧書きでサーヴァントとしたのは、体育会系的な「みんなだまって俺についてこい」的なリーダーも少なからず存在するからで、これからまとめる話は、そーゆー体育会系的なノリは対象外です。
っていうか、僕個人としては、体育会系的なノリのリーダーの下で力を発揮した経験はないな。いつも、ソコソコで抑えておこう、みたいな感じになっちゃうことが多いんだけど、世の中の体育会系的なリーダーの元で働いている人達はどんなんなんでしょう。息切れしないのかな。

話し戻ってリーダーに求められるスキル。
これって、言い換えれば、リーダーがどんなだったら「一生付いていこう」と思えるかということだ。

一生・・・、ということは、少なくとも短期のスキルではない。
中長期にわたって効力のあるスキルでなければならない。
例えば、システム開発現場でのプログラムコーディングのスキルとか、変化の激しいテクニカル系技術とかではないのは確かだ。

・・・付いていこう、ということは、そのリーダーは自分の行くべき道を示してくれて、なおかつ、示された道に間違いがない、となんであれ信頼できるということだ。
何かで読んだのだけど、山で遭難したグループが、たまたま見つけた地図を頼りに自力で下山した。でも、その地図は違う山の地図だった。っていう話もある。要するに、地図がなければ行動は抑えられる、という話だ。

で、「一生付いていこう」となるわけだから、その仕事を続ける限り有効な正しい道を示してくれる、が、その意味することになる。

これが、終身雇用の時代なら、仕事をしている限りずっと、と言い切れるのだけど、まぁ、今の時代では、下手すると「転職までの間」ぐらいになってしまうのだから、リーダーの活躍の場は奪われたのかもしれない。


●正しい道を示す
言葉はシンプルだけど、「正しい道を示す」は何か、と考えるとなかなか難しい。こういう時は、「道を示さない」「間違った道を示す」を考えてみるといいかもしれない。

●道を示さない
もしかすると、世の中の大半の「上司」は、このタイプになるかもしれない。
僕の20数年に渡る社会人経験でも半分強がこのタイプだった。
これはある意味、楽な上司、でもあった気がする。
本人自身が道を歩んでいないタイプの人だから、まぁ、登山道の休憩場所でお茶をしながら道行く登山者を見送っているようなもんだ。

●間違った道を示す
感覚的には3割ぐらいだろうか。
いや、まず、ここで言う「間違った」とは、あくまで言われた側の主観になる。どういう事かというと、人はみーんなそれぞれ個人的な理由で仕事をしているのだから、道の示し方は、一人一人別個の道を示す必要があるということ。ゴールだって一人一人違えば、当然、そこに至る道はそれぞれ異ならなければならない。
緩いけど長い坂道をゆっくり登る人もいれば、直角に切り立った岩を一気によじ登る人もいる。
というのに、このタイプの上司たちは自分の主観でゴールと道を指し示し、結果、部下達は付いていかない(消極的サボタージュ)ことになる。

●正しい道を示す 1.0
感覚的には5%か。
ここまでの考察(←なんなんだこの表現は)から、正しい道を示すということは、「一人一人の事情にあわせたゴールとたどり着くための道を示す」ということになる。
「一人一人の事情にあわせた」ということは、このアプローチだとせいぜい数百人までしか掌握できないことになる。でも、現実に、数は少ないけど、数千、数万人の社員に対してリーダーシップを発揮するトップマネジメントも存在する。
これはどう言うことか。

●正しい道を示す 2.0
感覚的には1%ぐらいか?
一人一人の事情にあわせたいが、相手が多過ぎて物理的に困難なケースを考えてみよう。今度は、逆方向から考えれば良い。
「一人一人の事情に合わせる」ということは、結果から見れば、「一人一人が自分の事情に合わせてゴールや道筋を考えられる」ということになる。
うーむ。これは実は凄いことだ。だって、一人一人が自分の事情に合わせて考えたゴールなのに、組織全体としては、きちんと一つのゴールに向かっている状況を作り出すなんて、神業としか言いようがない。

●神業はどうやって成り立つのか
と、書いてみたけど、こう書くと何にも思い浮かばない。
神業の所以を考えてみる。
・相手が多過ぎ。一人一人の事情を聞くことが出来ない。
なるほど。じゃあ神はどうするのか。

●個別に会話は限界がある。ベストではないがベターな方法。
・社員満足度調査など、せめて、大括りで事情を推察する。
・1on1は難しいけど、せめて、1onNで会話する。タウンミーティングや目安箱的な。
・出来る限り末端の現場に顔を出す。顔を出したらついでに声をかける。
・声をかけられたら真摯に応える。

●ベターな方法の効果
書いていて気がついたのは、特に後半の現場に顔を出して何かしらリアクションをするリーダーは、その周囲にいた人の多くが自分も直接会話したような疑似体験したような気持ちになれることだ。
場合によっては、その話を伝え聞いただけでそんな気持ちになれる。
また、似たような経験をした人は、その話を聞いた際に、「そうそう、私もこの間・・・」という風に、もはやリーダーの預かり知らぬところで個々人達がリーダーとの繋がりを感じるようになる。のか。

●語学的に曖昧だが明確な(伝わる)メッセージ
結局、「話を聞く姿勢」が根っこに必要なのは間違いない。
真摯に話を聞くから、みんなが共有できる「ゴール」を示さざるを得なくなるし、みんなが共有できる「道筋」を示すことになる。そして、その「ゴール・道筋」は、きっと、一人一人が自分の事情に合わせて読み替えられる程度の曖昧さがあるのだろうけど、ここで言う曖昧さは、語学的に曖昧だ、という意味で、受け取る側は明確なメッセージとして実感しているに違いない。
「熱意」とかそういう類のものかな。

●厄介なこと
積極的に話を聞く行動を取るリーダーと話を聞く姿勢のないリーダーと、結局、表現するメッセージ内容に大きな違いはない。
どの企業も同じようなメッセージだし、トップが代わっても、まあ、表面的には変わりはない。
そう考えると、メッセージ内容の問題以上に「聞く姿勢」が重要だとわかる。
厄介なのは、"姿勢"なんて曖昧なので、「あなたは聞く姿勢がないからついて行けない」とリーダーに叫んでみても、多分本人的には「それは貴方が聞いていないだけだ」と水掛け論にしかならないだろう。
ま、そういう場合は、大人なんだから大人しく、「普通だな」と思うしかないんだろうな。

●棚ぼたなこと
一方、一人一人が自分の事情に合わせてゴールや道筋を捉えるから、仮に、ちょっとぐらいリーダーの指さした方向が間違っていても、あるいは、リーダーの歩む道が獣道で歩き難かったとしても、まぁ、なんとか前に向かって進んでいくんだろうな。
「一生付いていこう」って思ってたはずなのに、「勝手に前に進む」状態になる。これって、リーダーいなくてもいいじゃん的な状態に見えるけど、その状態が維持されるのは、そんなリーダーがいるからなんだろう。
「する人」から「いる人」になるわけだ。いてもらわなきゃ困る人。


●今日の結論
リーダーに必須のスキルは「人の話を聴く姿勢」。
↑傾聴って言うんだよね~。



土曜日, 11月 20, 2010

今日は

家で残業。
で、やっぱりランチタイムは楽しみなのです。
沖縄スクとチーズのパスタ〜BGM付。

木曜日, 11月 18, 2010

お弁当は

長期休暇中。

日曜日, 11月 14, 2010

枯れ葉舞う秋。

金曜日, 11月 12, 2010

全てのバスが小倉駅に向かうわけではない


最近、就業時間中に別のオフィスに移動することがたまにある。
別のオフィスは、小倉駅前なので、ちょっと前までは通勤でも使う「モノレール」を使って移動していた。

しかし、会社の目の前のバス停からバスに乗れば、モノレールの駅まで10分足らず歩かなくて済む。

最初は誰かと一緒だったと思う。
次は、バスの正面に煌々と光る表示版「小倉駅行き」を確認して利用した。
それから、たくさんの○○系統が通る会社の前のバス停は、実は、ほとんどか「小倉駅行き」だと気がついた。

いつの時期からか、「来たバスに乗る」ようになっていた。

そして先日。夕方、オフィスを移動することがあった。
いつもの通り、バス停に立つ。
向こうの信号でこちらに向かってバスが信号待ちをしている。

「うん。ちょうどいい。あれに乗るぞ。」

バスが来て乗車。
いつものバスと違い、女子高校生で一杯のバスだ。

女子高生満載のバスに乗ったオジサンは、さすがに自意識過剰になることはなくなってきたが、逆に、そそうをして笑いを提供することだけはすまい、と、妙に緊張してつり革をつかんで立った。

●否定
二つほどバス停を過ぎて、大きな交差点を駅方向に向かって左折する。
そろそろ左折、いや、それは右。そう、このバスは左折しないで右折した。

●ポジティブシンキング
違うルートで駅に向かうのか。そんな○○系統もあるのか。
などと考えながら、駅と反対側に向かうバスであたりの景色を見回す。

●現状確認
停車時のアナウンスをよくよく聞く。
慣れない土地というのは、困ったものだ。知らない地名なので、「○○行き」と言われても、それが、駅方向なのかどうか、よくわからない。
ただわかったのは、「駅には着かない」ということだ。

●困惑
僕の頭は久しぶりにフル回転を始める。
どうやって、戻るか、迂回できるのか、いわゆるリカバリープランを立て始める。

まず、見たことも聞いたこともない住宅街で降りた場合、そうそう簡単に反対方向のバスが来るとは思えない。タクシーか。いや、そんな勿体無いことはしたくない。

●再度、現状確認
よぉく景色を見る。
どうも、モノレール路線に時々近づいては離れ、概ね並行に走っているではないか。

よし、モノレールの駅に近い辺りで降りよう。

●決断
そして、「次は、○○一丁目」とのアナウンス。
「よし。一丁目ならモノレールの駅も近いに違いない」
根拠のない理屈を胸に、「降ります」ボタンを押す。が、既に誰かが押していた。

●ポジティブシンキング
その○○一丁目からモノレールの駅まで、結局、20分近く歩いただろうか。
住宅街の外れの通り、「お、今度、来てみよう」的な店は皆無で、「この辺りに来ても何も無い」という、それはそれで有意義な情報をゲット。

そうやって、20分程度でたどり着くオフィスへの道のりを、一時間余りかけて辿り着いた夕方なのでした。
今日のぶらり一人旅、メデタシめでたし。

木曜日, 11月 11, 2010

効率的な抗議への対処の仕方


以前書いた気がするが、多分、一生忘れられない見事な喧嘩を目撃したことがある。
そのシーンとは、まず相手に言いたいことを言わせ、ジワジワと顔を近づけていく。
相手が一通り話し終えたり近づいた顔に怯んだ瞬間に「お前、口臭いんだよ」の一言でケリを付けたのだ。

もう十数年も前の話なのに、未だに忘れられずにいるほど、このシーンは衝撃だった。
なにしろ、何をどう考えても、ケリが付いた理由を説明できない。
とにかく、通常の大人であれば、がーーーっと文句を言った直後に口臭を指摘されると、もう、何も言えなくなることは容易に想像出来る。

この衝撃の事実は、その時もそうだったけど、喧嘩慣れした、ややアウトロー的なジャージの似合う人にしかできないと思ってた。
しかし、形を変えて身近にも同じ手法が存在することに気がついた。

ただ、これには、条件がある。
口臭作戦も「普通の人 VS ちょっとイカツイ人」でこそ成り立つ。
普通の人がイカツイ人に「口が臭いですよ」なんて言った日には、負けるどころか命も危ないかもしれない。
同じように、身近にある手法も「立場が上の人 VS 立場が下の人」でなければならない。
自分の部下や立場が弱い取引先相手に有効な方法だ。

部下が言い回しを考えつつも上司に対する抗議をしている。
上司はただ、部下が一通り話すまで待つ。
そして一言。「言葉の使い方が間違っている」。
後は、部下が必死に理由を説明しても「私には理解出来ない」や「あなたの言葉の使い方はおかしい」と言い続けるのだ。
重要なことは、抗議の内容そのものに触れないことだ。議論をしてはならないのだ。

こうなると部下の選択肢は、「キレる」もしくは「諦める」しかなくなる。
どちらに転んでも、抗議は全く伝わらないのだ。完敗だ。

この二つのケースを考えて、ようやく、口臭作戦の理由がわかった。
口臭作戦がとても効果的な理由は、「話を聞かない」事だ。
抗議する側は話を聞いてもらえない限り勝ち目はないのだ。

そもそも抗議するということは、下から上への行為だ。
上司が部下を呼んで同じように文句を言うのは、抗議ではなく説教だ。
説教は聞かざるをえない。なぜなら、聞いていないと思われたら最後、聞いていないことに対する説教が始まるからだ。

裁判所の決定を不服として控訴したようなケースも抗議だ。
そして、そういう場合も、多くのケースで、条件を満たさないとか、そういう理由で門前払いとなる。
これは喧嘩の常套手段だったのだ。話を聞かなければ議論にはならない。一方的に結果を決められるわけだ。

十数年間の口臭作戦マジックのカラクリがようやくわかってスッキリしました。

水曜日, 11月 10, 2010

お弁当は

お休み中。ランチタイムに休み無し。

火曜日, 11月 09, 2010

不自由な仕事で寿命が縮まる話

ストレスが寿命を左右する、というのは何となくわかったつもりになっていた。
でも、「上位マネジメントの、主に責任範囲が大きいことが理由のストレス」と「作業員の主に指示に従うしか無い自由がない状態のストレス」のどちらが寿命を縮めるか、と言われれば、もう、ワカラナイ。

この辺りのストレスを統計的に調査した結果、のニュースがあった。
http://wiredvision.jp/news/201011/2010110923.html

このニュースによると、自由度の方がより大切だ、ということだ。
仕事を選べなかったり、仕事内容が個人の裁量の余地がないケースでは、責任はあるけど本人の自由度の高い仕事の人よりも寿命が短いようだ。

いけ好かないマネージャーの方が、自由度が高いため長生きするのだ。

その昔、とはいっても、ほんのウン十年前まで、仕事というのは「役得」が付いているのが当たり前だった。と思う。
今から20年以上前、僕が20才頃の事だ。流行り始めのファミレスでは、バイトに入ると一食100円かなんかで食べられたし、そもそも、その店に行けば、いつでも従業員割引(チケットとかいらない)で半額だった。

あるいは、新聞配達をした頃は、業界紙まで含めて、じゃんじゃん新聞を読めたし、日雇いの引越のバイトならチップが貰えたり、要するに、「責任もないし単純作業だけど役得もある」のが作業系の仕事だった。
こういう環境の場合、さきほどのニュースにあるような作業員が抱えるストレスも大分軽減されていたのではないだろうか。

そう考えると、最も寿命を縮めそうな仕事はなんだろう。
製造ラインに配置され、黙々とパンを袋詰めするような仕事とか、そんな辺りだろうか。
給与も抑制され、その上、寿命を縮めていると思うと、単純作業を賃金の安い海外に委託するのは、なんだか、お金で寿命を買っているようにすら思える。

自由は大切な事なのだと再認識させられたニュースなのでした。

月曜日, 11月 08, 2010

冬です。

紅葉はまだこれからだけど。

チーモンチョーチュー


おすすめです。

金曜日, 11月 05, 2010

新規ビジネス「annonymousデータ共有サービス」



オフラインによる知の共有

↑の写真を見て、思いついたビジネス。
(元のデータはこちら。)

このUSBの先に、何テラバイト、いや、テラの次、何ペタバイトものハードディスクドライブを繋いでおいて、放置するサービス。
街のあちこちにUSB接続口はあって、通りがかりの人達が、思い思いにデータを置いてったり、データを取ってったり出来るサービス。

USB経由のウィルスとかも心配なら、接続後に参照できるのはフォルダ以下の階層のみにすれば(ドライブのルートは書き込み不可にしておく)良いし、容量問題は、古いデータから消していくとか、まぁ、なんとかなるでしょう。
ディスクが壊れるたらそれでオシマイ。データの保証も内容も何も無い、あるのは、古いデータが消えていくことと、一度に書き込めるデータ容量(ファイルサイズ)に通常差し支えないレベルの制限があるぐらいでいい。
あとは接続時間かな。一人一回5分まで。とかね。

このサービスがあれば、僕は、絶対に使ってみたいと思うし、ネットワーク時代だからこそ、本当の意味で「匿名性」が保たれたサービスはもはや時代の要求とも言える気がします。

通りがかりの人達が、オフライン環境に捨てていくデータがどんなものなのか、単純に興味があるなぁ。
ある人は、自分の詩を置いてったり、ある人は自分の絵を置いてったり、もちろんウィルスとかも置いてく人もいるだろうし、そんなのは、「ご自由にお持ちください」コーナーなのだから、自己責任。


このサービス、多分、著作権的には大問題にされるかなぁ。
それがちょっと、楽しみだったりしているのは僕だけなのだろうか。

電源の問題さえ解決すれば、なんだったら、コインロッカーでサービスインできるかも。自販機にUSB差込口を作るのもいい。

とりあえず、うちの玄関にUSBケーブルをぶら下げておいたらどうなんだろ。
うーん、誰も使わない。。。
でも、↑の写真が壁からコネクタ、っていうのは、使いにくそうにも思えたけど、よく考えれば合理的。だって、ケーブルだと、接触不良や、ケーブルを切られたりの心配もあるから。壁から離れて使いたかったら、自分でケーブル持ってきなさい、ってことだね。

簡単な話

ランチは大事。

木曜日, 11月 04, 2010

難しい話


気をつけてはいても僕は人に「話が分かり難い」と指摘されることがままある。難しい、だったり、意味不明、だったり、あるいはチンプンカンプンだったり。


難しい話、とはどういうものか、考えてみた。

「言葉や単語がわからない」
「日本語として分かり難い」
「話し始めと終わりで言っていることが違う」
「結論はわかるけど経緯がわからない話」
「喩えが分かり難い」
「主語が不明」
「経緯はわかるけど結論がわからない、結論がない」
「気持ちを話しているのはわかるけど共感できない」
そんなとこか。

例外としては、
「あなたが嫌いだから何を話して貰っても理解出来ない」
みたいなケースもある。←こうやって、話を分かり難くするのが悪い癖だ。

話を戻そう。

・言葉や単語がわからない
 若い時は、むしろ"格好イイ"とさえ思っていたことすらあった。
 一番最初に難しいは格好イイと思わせられたのが、"Rock'n On"だ。
 渋谷陽一に憧れすら抱き、好きな音楽を聴いて、ライナーノーツを書いて、雑誌を作って、時には大スターと対談する、そんな人生に憧れた。ミーハーだったわけだ。
 メタファーとか、アンチテーゼとか、を内心ドキドキしながら自分の口からその言葉が出てくる事自体に酔った。
 こういう時は、眉間に皺を寄せるのが相場となっている。だから山崎努にも憧れていた。
 大人になると、職場の先輩の物言いを真似るようになった。わりと最近まで、その傾向は続いていたように思う。

・日本語として分かり難い
 これが一番厄介だ。今、こうして日本語を書いていても、後で読むと、自分でも意味不明じゃん、と気がつくことが多い。そういう文章は、大概、直すのも厄介だ。
 僕の傾向は、ダラダラと長い文章になりがち。そんな文章ほどやけに分離手術に手間がかかったりするのだ。そして、ようやく分離手術成功、となった途端に、自分の言いたかったこととは違うような感じを受けたりする事も多い。かと言って、分けないと自分が何を言いたかったのかも分からなくなったりして。。。
 もはや、此処は何処?、私は誰?、みたいな感じにすらなるのだ。
 たまに、この分離手術をやってみたら、自分の考えがまとまったりすることもあったりする。
 こんな時は、スッキリして一人ほくそ笑んだりもする。

・話し始めと終わりで言っていることが違う
 こういう人にたまに出会う。どのぐらい違うかというと、話し始めは「今日は寒い」だったのに、最後には「今日は暖かい」になるぐらい違う。その時々の感覚にとっても正直なだけなのかもしれない。
 通常は、他愛ない話なのでスルーすればよいのだけど、仕事だとそうもいかない。で、僕の場合は、こういう人と仕事するときには、ホワイトボードに書き出すようにしている。
 この手の人、意外に憎めない人がおおい気がするなぁ。

・結論はわかるけど経緯がわからない
 これは男性に多いのではないかな。少なくとも僕はその傾向が強い。
 家庭を持っていた時分、家族との話はこの傾向に陥りがちだった気もする。要するに、話を早く終えたいわけだ。イライラしながらこのモードに陥っていたことも多かった。
 このパターンは誰もなんにも得しないです。

・経緯はわかるけど結論がわからない、結論がない
 一方こちらは女性に多いのではないか。
 先ほどと逆に、僕にとって経緯を上手に伝えるのは苦手で、時系列に話すにも、どうしても話しながら整理しようとしてるうちに時系列がアベコベになったりもする。
 最近何かで読んだのだけど、どうも男性脳(左脳型)は、考えながら話す事自体が苦手なのだそうだ。一旦、頭の中で整理してから言葉にするのが男性脳の特徴だということだ。
 逆に、女性脳(右脳型)で好意を感じている相手の話なんかになると、その冗長な話が楽しく感じられるのだから、全く男ってものは勝手なものだ。

・喩えが分かり難い
 喩えは難しい。でも、"スベった"状態が分かりやすいので自分が喩えを使うのも他人が使うのも好きだな。
 職場でよく見かける喩えがゴルフ。この手の例を交えた話になるとイキイキとして話す人も少なくない。
 確かに、本人的には、ヤヤコシイ話がピッタリはまる喩えを思いつくと、なんだか嬉しくなるし、誰かに話したくなる。まるでオヤジギャグのようなものだ。
 そうか。オジサンの喩え好きはダジャレ好きに通じるものなのだなぁ。

・主語が不明
 これもついついやってしまう。
 主語を省略して話し始めてしまうのだ。これは悪い癖みたいなものかもしれない。何度か指摘してあげると直ることもある気がする。
 とはいえ、外国語ならともかく、自国語(日本語)を話すときに、SVOだのSVOOだの前置詞だの考えないからなぁ。指摘されない間は気にせずにいよう。

・気持ちを話しているのはわかるけど共感できない
 あくまで、気持ちはわかるけど、ではなく、気持ちを話しているのはわかるというレベル。
 例.警官に呼び止められてウキウキしたから写メ撮っちゃった。
 そんな感じか。
 でも、この手の話の場合、「何故」がたくさん生まれるので、むしろ、その話をしている人に興味を持つ場合もある。敢えて話の掴みに使うこともあるかもしれない。

・その他
 死語的なものを使われると、話の内容よりもそちらに気が向いてしまう。(汗)
 ←これも昭和な香りがする表現らしい。最近では"笑"は、"w"が普通なのだと何かで読んだ。

・こんなケースも
 とても正しい日本語・意味内容・使い方で、むしろ、分かり難いケース。
 天然の人にありがちかな。
 例えば、二人で話しているときに、「動物は何が好き?」と訊ねたら「僕が好きなのは犬かな」と期待するところに、「動物は食べ物が好きです」と返すようなケース。
 さんまのからくりTVを見ていると、こういう人達に僕らは癒されているのだなぁ、と、思ったりもする。

という事で、この文章自体が何の結論もない文章なのだったりしたりしなかったり。結論もないまま終えるのでした。笑

日曜日, 10月 31, 2010

びっくりドンキー

北海道の会社だけど、大元は岩手・盛岡のワインとハンバーグのレストラン・ベル。
今では全国何処にいても青春の味を楽しめるのはいい(悔しいが当時の味は生きている)けど、なんか寂しい気もします。ベルで十勝ワインを飲んだのが初お外飲酒だったかも。

土曜日, 10月 30, 2010

博多で

醤油ラーメン。超珍しいのです。

金曜日, 10月 29, 2010

僕はラジオ←今週末のオススメ映画情報


清志郎が唄った「僕のトランジスタラジオ」も良かったけど、先日観た映画「僕はラジオ」はこれまた良かった。そして、実話です。

舞台はサウスカロライナの田舎の高校。
いつも高校の周りを一人でぐるぐる徘徊している知的障害を持ったラジオというあだ名の黒人青年が主人公。

彼に真の正義を教えられ、彼に一人ではないことを教えるフットボールのコーチを務める学校教師。
徘徊しているときには「言葉が話せない」と思われていたラジオが、フットボールチームとの交流に始まり、ラジオはいつしか、地域へも溶け込んでいき、学校にとっても、地域にとっても、なくてはならない大切な存在となっていく過程を描いた作品。

ハートフルストーリー、などと紹介されることが多いみたいだけど、僕が感じたのはもっと骨太の「正義のゆくえ」的なストーリー。
確かに、一般的に見れば、とっても小さい「正義」の話なのかもしれないけど、そんな小さい正義であっても、通そうとすればなかなか大変、いや、普通の情熱ではとても無理な社会。でも、正義だからこそ、諦めずにいれば、必ず通る、とも思わせてくれるストーリー。

そして、この話が映画化されるきっかけになったのは、Sports Illustratedのコラムに紹介されたのがきっかけらしい。その後、ニュースに取り上げられ、ドラマ化され、映画化されたという。

小さい正義を守り、感銘し、人に教えたくなるのは、もしかしたら人間に備わった「正義」なのかもしれない。


そして、お母さん仕込みのラジオの選曲が最高。
映画全体を通して、R&Bの名曲の数々がラジオから流れてきます。

静かな夜に、大切な人と温かい紅茶を飲みながら観たい映画でした。

赤魚

のランチ。

木曜日, 10月 28, 2010

社食

スリランカカレー。
僕にはスリランカのイメージが黒い人しか無い事に気がついた。

火曜日, 10月 26, 2010

定番)目で見るのではなく心で観るのです




先週末、「七人の侍」を初めて観た。
不明瞭な音声と侍言葉と百姓たちのずうずう弁に日本語字幕付きで観た。モノクロだ。

見始めてやめようかと一瞬思った。
言葉も聞き取りにくいし、映像も荒いし、ただ、物珍しさはあった。
しばらくするとストーリーに引き込まれ、今はもうどこにも無いであろう日本の田園風景や草花の映像そのものにも引き込まれた。

面白い感覚だと思ったのは、モノクロで表現される美しさだ。
最初は引いたカメラの画面、遠くの景色を写しているシーンが、妙な間があるように感じた。モノクロの風景をジッと見なくてはならないと感じる"間"だった。
しかし、その"間"が、遠くの山々や草花、農村の風景を心に留める為に必要な"間"だと気がついた。

モノクロだから、当然、色は無い。
しかし、人工物は前提となる知識がなければ色を想像するのは厄介だけれど、自然のものは心のフィルターで色を重ねることができる。

見慣れてくると自然に心のなかで色を重ね、結局、今、こうしていても数々の美しいシーンを思い出せる。これは自分でも驚きだ。これが黒澤マジックなのか。


冒頭のYoutubeの動画、もう一本が、最近ではテレビなんかでも紹介されるようになった写真「Small planet」の動画版。
リアルな世界を特殊なフィルターで加工することでミニチュアのように映しだす。

このフィルターを通して、正に今の世界を映しだされたとき、自分が何か神にでもなったような気分で、なのに、ミニチュアフィギュアのように見える人間ひとりひとりがいとおしく感じる不思議な気持ちにさせられる。
それは動画になっても変わらなかった。

3Dも目新しさでは凄いけど、あえての2Dや1D(←本!?)、いや、表現形式に関わらず自分の目を通して、そこにあるものを感じられるといいよなぁ。

ちなみに、黒澤映画「七人の侍」、名作・古典と言われるが観たことがない人のほうが多いんじゃないかと思う。
この映画、と、短く説明しようと考えたけど、どうにも一言では言い表せない。あまりに色々なテーマがスマートに詰まった娯楽映画だった。
きっと、こういう映画を「観る人それぞれに感動を与える映画」というんだと思う。

心の目を訓練するにもオススメです。

一日中、

会議。なのにお腹がすいた。

月曜日, 10月 25, 2010

朝は決断力を高める


↑タイトルにも本文にも関係ないけど、すごーい人がいるもんだ。
今の3Dテレビにはあまり興味ないけど、このレベルなら欲しいと思うだろうな。
そして、スゴイ人は説明がうまい。と、思った。

==ここから下が本文==

朝は決断力を高めるのだそうだ。
いや、正確には、睡眠後に決断力の質が高まる、のだそうだ。
睡眠により、様々な記憶や無駄な記憶が整理されることで、睡眠直後は雑念に囚われずに判断できるからなのだという。

確かに、FRISKのCMのイメージのように、意識的に何かに集中しようとしても良い結論は得られず、むしろ「(集中のストレスからFRISKで逃れたような)ふとした時」に良い結論に辿りつくことは多い。

そんな今日の朝。
とても不思議な出来事に出会った。

今朝は雨ということもあって、モノレールで出勤した。

モノレールを降りていつも通りに改札を抜ける。
何の違和感もなく、改札の先を右に折れ、隣のビルへの外階段へと通じる通路を歩いて行く。

いつも、そのビルのエスカレーターを目指していくのだけど、エスカレーターの向きがいつもと違う。いや、ビルがない。いきなり外につながるエスカレーターだ。いつもと違う。

その場に立ちすくんだ。

隣のビルを通過してしまったのかと後ろを振り返る。
いや、やはり、イキナリ駅からエスカレーターで外階段へと通じている。

あぁ、左右を間違ったのか、と、一旦、改札まで引き返す。

改札前で回れ右、もう一度改札を出た方向に向き直す。

いや、左右はあっている。
一瞬、今朝の季節外れの蒸し暑さの中で、嫌な冷や汗を感じる。

ビルの工事?と、もう一度、今行ったばかりの通路の先を覗き込む。
いつもの風景のようでもあり、何か違うようでもあり。。。。

そしてようやく気がついた。
一駅手前で降りた、ということに。

雑念のない私は直ぐに決断した。
雨の中、会社の方向に向かってズンズンと早歩きを始めた。
季節外れの大汗をかいて会社始業ギリギリに到着したのは言うまでもない。