木曜日, 6月 14, 2012

大人の話「初めてのお買い物」




大人の話、と書いたが、実際は未成年の話だ。

僕が15だか16の、まだ、いろーんな意味で背伸びがしたい子供だった時、当時の男子高校生の間で流行った習慣があった。
どの程度流行っていたのか、僕のまわりだけだったのか、それはわからないが、その習慣とはこういうものだ。

「財布にはコンドームを入れておけ」

これが、どんなオマジナイ効果があったのか知らない。
僕はそんな習慣を知った時、意味もわからずに、お財布にコンドームを入れておかなければ、と、半ば強迫観念すら持った。

財布にコンドーム、世間では常識の男の嗜み、らしい。
財布にコンドーム、それがなければ女の子にバカにされる、らしい。
財布にコンドーム、入っていなければ、もう一度中学に戻って坊主頭からやり直しかも。

うーーーー、財布にコンドーム、入ってなーい。

そんな事で大いに悩んだ。
今なら、入れときゃいいだけの話だ。
駅前で配っていることもあるらしいではないか。

が、なにしろその当時は、身の回りにあるわけもなく、既に財布にセットしている(一応、財布に被せてるという意味のセットではない)友人もいたりして、焦っていた。

どうする。財布に入れるのは簡単だ。
問題は、コンドームなる大人の持ち物をどうやって手に入れるかだ。

当時の僕の活動範囲では、明るい家族計画、という自動販売機の存在など知る由もない。
ブツが手に入る唯一の場所は、「薬局」だという知識しかなかった。

明るい家族計画の存在すら知らない僕がだ、ブツを売っている場所を何故知っていたか、それはエロ本だ。
今でも記憶にあるそのシーン。
ハードボイルドなタッチのそのエッチな漫画では、ハードボイルドな男が薬局に立ち寄る。
そして、低い声(と漫画ながらに勝手に想像した)で、「オヤジ、ラバーをくれ」と言うシーンがあったのだ。

なるほど。大人は「ラバー」で通じるのか。
とても言葉にするには忍びない「コンドーム」などとは言わないのだ。
そりゃーそうだ。コンドームなんて恥ずかしくて言えないんだ。
さすが大人。ラバーねぇ。なるほどなるほど。

少年Aには必要十分な情報だ。
いっぱしの男子としての財布、数百円しか入っていない財布だとしても、コンドームは入れられそうだ。
薬局に行って恥ずかしくない「ラバー」という商品を求めれば良いのだ。

僕は、この情報に出会い、それからリサーチを始めた。

街中の薬局という薬局の様子を確認した。
店番を女性がしている薬局はNGだ。
あの劇画では年配の男性同士の会話として「ラバー」が使われている。
伝わらないかもしれない、その上、女性相手にそんなモノを買うなんてありえない!

そして、できる事なら、記憶力が極限まで落ちているお爺さんが、辛うじて店に立っているような薬局がいい。
僕が店を立ち去ったあと、僕が何を買ったかなど覚えられていてはたまらない。
小さい街だ。あの子がねぇ、などと噂されても困る。

慎重にも慎重を重ねたリサーチ期間が二週間ほど続いた。

そして、ついに、店を決めた。
その店は、お爺さんしか店番をしていない。

それからさらに二・三日後、ついに決行の時が来た。
(単にお小遣いが入るまで決行できなかったのだが。)

ガラガラっと引き戸を開け店に入る。
多分、学生服の上にウィンドブレーカーかなんか着ていたのだろうが、あのエロ本の劇画で見たトレンチコートを着たハードボイルドな男になった気分だ。
ズンズンズンッと、そのお爺さんの立つカウンターの前に進む。

「あ、あ、あ、あ、、、、」
いかん。あれほど繰り返し練習した言葉が出ない。
「あ、あ、あ、あ、こんにちは。あ、あ、あの、あの、あのあの」
顔が真っ赤になるのがわかる。まだ涼しい東北の初夏、一気に汗ばむ。

「はい、なんでしょうか」動じない白衣を着たお爺さん。
当たり前だ。動じる理由がない。
トレンチコートどころかサングラスもマスクもしていない、ごく普通の田舎の高校生を前に動じる年寄りはいない。

「あのあのあの、、、、ら、ら、ら、、、ラバーください」

一瞬、お爺さんが怪訝な顔をする。
聞こえなかったのか?そうか、耳が遠いのかもしれない。

僕はボリュームをMAXにした。
「ラバーください!」

お爺さんが驚いて目を見開く。
そして、呆れた顔をして、しっかりした声の調子で、
「あぁ、コンドームね」
と、言い、後ろの棚から取り出した。

劇画のような「あ・うん」の呼吸は無かった。
せっかくの僕の「ラバー」という言葉は、お爺さんの「コンドーム」という言葉に上書きされた。

その後、どうやって買って帰ったのか、全く記憶にない。
どんなパッケージだったかも、それを使ったかどうかすら覚えがない。

とにかく、僕は、翌日から暫くの間、「財布にコンドーム」を入れた、単なるアホな高校生になっていたのでした。

今思い出しても恥ずかしい記憶であった。




火曜日, 6月 12, 2012

大人の話「マグロ」

 

最近、踊るグループのナントカやニュース番組にも出てるらしいアイドルグループのカントカからやたらメールが来る。

他の誰よりもマメに来る。オハヨウからオヤスミまでサポートされるありがたいものだ。

そんなわけで、メール削除の指使いが早くなりすぎて、ウッカリ他のメールも削除してしまうかもしれない。
50絡みのオジサンを釣ろうという、いわゆるフィッシング詐欺メールなのだろうが、まず、そのナントカをよく知らないからなぁ。

オハヨーからオヤスミまで、ご苦労さまです。 

で、今日の話題は釣られたマグロについてである。 

今日、何故か会社の食堂の高級な方(セルフサービスじゃない方)でマグロの解体ショーがあった。

 既に死んでいるとはいえ、気の毒に、70Kgあるというマグロ君("マグロさん"かも)は、見事な包丁さばきにより解体され、スペシャルメニュー?のマグロ丼へと変身を遂げたのだった。 

早めのランチタイムだったので、解体されたマグロとは別のマグロのマグロ丼を堪能し、その後に解体ショーを堪能した。

初めて解体ショーをライブで見たわけだが、彼の人生いやマグロ生、生マグロのマグロの一生、を考えてしまった。 

大海原を休むことなく回流し、ある日、一本釣りされる。
本当は網で、まさに一網打尽だったかもしれないが、ブログに書くべきドラマとしては、やはり一本釣りであろう。
北の海で、ベテランの漁師との戦いに敗れ一本釣りされた、そう思いたい。 

その瞬間、彼は初めて全身を空気に晒し、ニンゲンという奇妙な生き物の姿を目にし、そして、自分の身の上に何が起こったのか、を考える間もなく視界が途絶え思考が停止し息絶えたのだろう。
我々が知っているマグロは、その後の話だ。

僕は、その魚の死体がバラバラにされる様子を見ながら、「マグロに生まれなくてよかった」と、まず思った。
なんだか恥ずかしいし、悔しい気もするし、できることなら命が途切れるその瞬間まで海にいたいと思うだろうと感じた。

でも、「マグロに生まれていたとしたら、そもそも、そんな事は考えもしないだろう」とも思ったりもした。

で、本題は、そんな高尚な身の上話ではない。
下衆な大人の話だ。 

「マグロ」という言葉は、食用の魚以外に、いわゆる床上手でない女性を表現する際にも使われる。
これには何か基準があるわけでもなんでもなく、男性が一方的に、多分、自分の男としてのコンプレックスの裏返し、八つ当たり的に女性を貶めるという背景での言葉かもしれない。 

が、そんな背景は置いといて、マグロが床上手でない表現であれば床下手という意味か。
正確には、多分、「そんな男性の努力により普通ならウッフンな状況のハズにも関わらずマグロのように動かない女性」を指す言葉として男性の間で使われる。 

上手とか下手とか、その点についてはスルーします。
くどいけど、そのテの話をしたいわけじゃない。 
くどいついでに、意外なことに、オジサンの飲み会でもそんな話はしないし、よくよく考えてみたらそういう話題で「マグロ」と口にする人に出会ったことはない。

もしかすると、こういうエロ系のマグロという表現はエロ本でしか見たことがないかも。 
多くの男性の場合、この、「エロ本でしか見たことがない」という言葉や漢字、擬態語などがたくさんある気がする。

が、その話はまた別の機会に で、本題に戻そう。

話したかったのはマグロの話だ。 
確かに、こうやって生活していて、数十キロもの重さがある生き物の死体を目にすることはそうそうない。
稀に牛や豚の工場(屠殺場?)をテレビなどで見かけても、吊り下げられている。 

そうなのだ。横たわる人間相当の大きさのある死体で最も目にするのはマグロなのだ。
数十キロもの死体が横にデーンと横たわっているレアなケースがマグロなのだ。
(注)生だからレアという意味ではない。 

とにかく、レアなケースで唯一目にする機会があるのがマグロなのだ。 

そんなわけで大人なウッフンな表現として「マグロ」が存在するわけだ。
そーゆーのを「死体」というのは抵抗があるから「マグロ」と言っているわけだ。 
「いやぁ、夕べ、飲み屋で意気投合した女の子とさぁ、行くとこまで行っちゃったんだけど、これがマグロでさぁ」
これが、「いやぁ、夕べの女の子、死体でさぁ」では洒落にならない。

というように、本人の技工を確かめるすべはないわけだから、言いたい奴は自分の事は放っといて、相手をマグロだと好き放題言えるわけだ。 

でも、マグロの身になってみたら、それはトロだ。じゃなく、マグロの気持ちになってみたらそれはどうだろう。
大体が、雄マグロかもしれないのだよ。
そこんとこ、わかっているのかなぁ。

ということで、無責任に書いてみたけど、この話は、もうこれ以上続けても何も展開はない。 

今日の教訓。 「どんなときも人をマグロと言うなかれ。それはマグロにも、人にも失礼だ。」
(それに、ほぼ、エロ本専用用語みたいだし。)

 

火曜日, 6月 05, 2012

テレビ、まだ売れる!?


IKEAのテレビコマーシャルを見た。Youtubeで。

 ポイントは「ケーブル隠したよ」「ネットもMP3も楽しめるよ」「周囲の家具と合わせられるよ」といったとこ。 (当面はヨーロッパで販売するようです。) 

いわゆるテレビ(地上波)を見るための何か、解像度だとか色の鮮やかさだとかそんな話は出さない。 それはもう「当たり前」なのだ。

気にしているのはヨドバシの店員と宣伝担当者ぐらいだろう。 
今から「どら焼き」を売り出すときに、衣は、とか、餡が、とか言っても、名だたる老舗に敵うわけがない。 イチゴ餡とか抹茶餡とか、衣が低カロリーとか、そんな辺りで勝負を仕掛けなければ可能性は少ないだろう。

そもそも、イチゴ餡なんかを食べたい客層に「どら焼き」を出すかはわからないが。。 かといって、家具屋さん(IKEA)の視点から見て、今のテレビは満足できるものではない。
配線だらけになり、家具との調和は壊され、その上、ネットも使いやすいとは言いがたい。

だったら自分たちでプロデュースする、というのは当然の結果。 

その昔、音楽業界に気を使いながら「使えない」音楽プレーヤーを大メーカーが販売した時期があった。音楽業界に気を使わない「ダサい」音楽プレーヤーをアジア無名メーカーが販売していた時期があった。

そこに登場したのが音楽業界とシガラミがなく、かつ、確固としたブランドイメージのあるAppleだった。

 テレビは家具屋さんがプロデュースするもの、になるのか、電気屋さんが家具的なテレビをプロデュースするようになるのか、わからない。
でも、売れない、とされるテレビ販売に、大きなチャンスがあるのは間違いない。 

テレビの世界でApple的なモノが登場するのは秒読み段階に入ったのは間違いない。 Apple-TVもGoogle-TVもまだこれからだ。
旧電機メーカー系TVが巻き返すのか、面白いことになりそうだ。 ちなみに、このニュースを知ったのは↓ http://wired.jp/2012/06/04/ikea-tv-uppleva/

木曜日, 5月 10, 2012

1Q84の表紙

1Q84



だいぶ前、1年以上も前に古本屋で手に入れた「1Q84」のハードカバー。
結局、一度も開かないまま、部屋の隅に置いてあった。
ハードカバーは、なかなか持ち歩いて読もう、という気にならないのだ。

以外なものが、そんなハードカバーを読むきっかけを作ってくれた。
今ハマっているTEDだ。

ハードカバーの表紙を作っている人(Chip Kidd)のプレゼン。
そもそも、本の表紙を作っている仕事、という仕事を意識したことがない。
でも、世の中の本全ては、誰かが表紙を作っているのだ。

残念なのは彼は米国英語版の表紙を担当しているということ。
私が持っていた日本語(原語なのに)のハードカバーは、彼のデザインした表紙ではない。
もちろん、日本語版の表紙も、誰かがよくよく考えてのデザインだとは思うし、デキが悪いわけではない。
まぁ、米国英語版の出来が良すぎた感はあるが。

私とは別の観点で電子ブックに批判的なのも好印象だ。

で、1Q84。
うーん、面白かった。アニメ化(実写化ではない)されたら良いかもしれない。
引きこまれただけに、ストーリーの最後は釈然としないものの、読み終えてからもいろいろ考えさせられたり、ちょっと景色が違って見えたりする、という僕自身の変化を考えれば、やはり凄い本だ。

ハードカバーの重さを忘れさせられる本であるのは間違いない。
(最近、単行本化されたみたい。単行本だと4冊にもなる!)


月曜日, 5月 07, 2012

スーパーショット「マッケンジー君」


↑この写真、犬の脳の研究のためにMRIで大人しく検査されるマッケンジー君なんだけど、研究はさておき、この写真そのものが素晴らしくいい。マッケンジー君、素晴らしいよ。

そこらの犬で簡単に撮れるものではないらしい。
MRIは轟音を立てて動くので、耳栓をして、なおかつ、8ヶ月も訓練してようやく検査できるようになったのだそうだ。

研究そのものに興味のある方はこちら↓
「イヌの思考」を脳スキャンで調査 by Wired


日曜日, 5月 06, 2012

うちにある

ヌイグルミ。片方は孫の忘れ物。
好対照。

金曜日, 5月 04, 2012

ムラ社会

国内総崩れの製造業電気関連メーカーにあって、唯一と言っても良い成績の日立。 僕にとって、とてもわかりやすい、「そうそう、そういうこと!」っていう記事があった。

ソースはこちら http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/10914/

「日本人男性の均質的な考え方でガバナンスをやっていたのではだめだ」by日立の会長さん

一流企業の会長さんなので、紳士的に「均質的な考え方」と言っているが、ここは僕が非紳士的に言い換えてみよう。

・仕事ができても個性的な奴は認めない、という考え方
  だって、努めて均質的に振る舞ってきて大○○の重役になった私がアホみたいじゃないか。

・仕事ができてもバカな奴は認めない、という考え方
 上には良い話だけアピールすればいいんだよ。
 会議でマトモな意見なんかしやがって。みんな困ってただろう。会議は意見なんかをする場じゃないんだよ。

ま、そんな感じだろう。

もうひとつ、日立の会長さんは良い事を言っている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」by日立の会長さん
これも下品に言い替えさせてもらう。
・記録的大赤字の年も記録的好業績の年も残業時間は変わらない
ちなみに、ソース元の記事はこのように結ばれている。
「長時間残業が大好きという変な社会。国際標準ではない」と指摘。「外国の人を連れてきて働かせようとするときに困る」

均質的な考え方は、そうやって、個性的な人はもちろん、ハンディキャップを持ってる人、女性や外国の人も排除しやいすわけだ。

そういえば原子力村、というムラもどこまでも学習できずにいるようだ。
でも、普通の会社は、青天井で税金をつぎ込めないので、どこかでムラから脱却しなければならない。
それとも、脱却しないまま中国とかの会社に吸収されるか、なんだろう。

均質的な考え方は、「考えなくていい」という一種の楽チンを産み出す。
でもそれは、考えなくていい、ではなく、考えない人間になるということ。
いい加減に先の大戦での日本を繰り返して欲しくないなぁ。

日曜日, 4月 29, 2012

よかばい

コーヒーも、よかばい。

木曜日, 4月 26, 2012

TEDより

知るべき、というか、忘れずにいるべき、共有すべき話。

木曜日, 4月 19, 2012

とりあえず今年一番の映画(プレゼン含む)

ここのところハマっているTED。
TEDのサイトには日本語翻訳されたものも多数紹介されいていて、ここを見ているだけで何日も過ごせそうなほどだ。
二時間もかけてハリウッド映画を観てガッカリするぐらいなら、10分足らずのTEDを見たほうがよほど面白い。
面白いだけにとどまらず感動するプレゼンも多いのだ。

そんな中で先日テレビで紹介された感動するなプレゼンがこれ。



なぜ、このプレゼンはこれほど感動を呼ぶのだろう。
その理由を考えてみた。

・ムーブメントが実際に起きているところを見せられていること
・説明が平易で判りやすいこと

まず、この2つはプレゼンの出来としても欠かせない理由だろう。
さらに、
・僕の興味範囲にマッチしていること
は当然重要だろう。


まだ見逃せない理由がある。
・ムーブメントのきっかけを起こした一人目を「変わった人」と紹介し、最初に踊りに加わった「二人目こそキー」だと紹介していること。

これは、僕にはリーダーシップの本質は「サポートする側」にこそ存在することを表しているように思えてならない。

一人目の"変人"が必ずしもリーダーシップがあるとは限らない。目立ちたいだけで踊り始めたかもしれない。
そして、「リーダーになっちゃうと変質する」人かもしれない。

一方、キーとなった二人目。
二人目は一人目の賛同者であることは間違いない。
二人目は周囲に楽しさをアピールしている。
二人目は「自分が一人目ではない」事を意に介していない。(だから二人目として踊り始めたのだ)
二人目は一人目がいなければ大人しく座り続けていたとおもわれる。

と、よくもまあ、勝手に解釈できるもんだと我ながら感心したのだけど、まぁ、そんなところだろう。

ピュアな一人目が周囲から冷ややかに見られる中で、「これは実は面白いじゃん」と、後押しする二人目こそが、ムーブメントをリードするのだろう。
二人目は、「人をサポートするリーダーシップ」からスタートしているわけだ。


振り返って日本的な社会(会社)。
ムーブメントは非常に起きにくい文化なのは否めない。
・まず、一人目(変人)が許容されない(されにくい)
・変人を支持する二人目も同様に許容されない(されにくい)

だから変人起点のムーブメントは起きにくい気がする。
結果、ジワジワと湧きでてくるような、自然発生的なムーブメントが多いのではないか?
都市伝説・口裂け女とか、そんなのしか思いつかない。←単に僕の知識がないだけだろうが。。。
少なくとも日本ではWindowsもGoogleもiPodもFacebookも産まれてはいない。

二人目をだいぶ持ち上げたが、もちろん、一人目の存在は重要だ。
一人目は言わば、アイデアマンだ。
他の人にない、時に変人呼ばわりされるほどのユニークな発想と行動。
こーゆー一人目の存在と、その発想を支持し、具現化に惜しみないサポートをする二人目(リーダー)。

こうやってムーブメントは起きていくのだろう。

アイデアマンを拒絶しない、包容力のある社会は素敵だ。

火曜日, 4月 10, 2012

内向的な人、外交的な人

随分前にTED(Technology, Entertainment, Design)サイトで見たプレゼン。
最近、たまたまもう一度見る機会があって、これは「一生もんだな」と思えるようになったプレゼン。
多分、前に見たときは、翻訳テロップが無かったのかいい加減に聞いていたんだろう。字幕って素晴らしい。

このプレゼン、外交的な性質を指して「あの人はリーダーシップがある」という世間一般の評価によって失われるものが多いという話。
そもそも外交的か内向的かという話と、リーダーに相応しいかどうか、は、関係ないのだ。世間(僕も含めて)は誤解しているのだ。

ところが人は、昔ながらのリーダーっぽいリーダーに、押し付けがましいと思いながらも安心感を感じることもある。
また、そんなリーダーは「概ね失敗」という経験も、もう、嫌というほど味わっている。
特に近年は惨憺たる状況だ。

なのに、未だにリーダーっぽいリーダーに安心感を感じているのは、単に、「リーダーっぽくない優秀なリーダー」を見聞きする機会が失われているからだろう。
平和な時代が続き、国や地方組織や企業が安定的拡大を続けた結果、「リーダーっぽくないリーダー」が台頭できる余地は殆どなくなっているように見える。

特に日本では顕著だ。
"国"という単位で考えた場合、政治家や官僚機構は国のリーダーシップの象徴だ。
そして、リーダーに相応しい学歴はもちろん、華々しい経歴や家柄は申し分ない。

しかし、尊敬できない。
子供にオススメの現存する政治家はいないのが現実だ。
※立派な、とか、影響力がある、とか、心の尊敬とは別の次元ではあるだろうが。

そんな事を考えさせるプレゼンなのだ。
と、同時に、自分の生き方や、自分が外交的なのか、外交的に見えるように振舞っているのか、を考えさせるプレゼンなのだ。

そんな世の中の傾向や、それによって失われている社会全体の損失を、とっても優しい言葉で、丁寧に、心に響く言葉で語るプレゼンがこれ。↓



うーん、TEDで、こんな普通っぽい人がプレゼンするのがイイ!

奇跡のチームワークやイノベーションは、そこに関与するすべてのメンバー一人一人がリーダーシップを担って実現する、ということには異論がない。
が、旧来からのリーダーっぽいリーダー達が、旧来のリーダーっぽさでリーダーを担っている限り、奇跡の瞬間は訪れない。

改めてサーバントリーダーシップ、しか答えはないと確信。

外交的な人がリーダーに向かない、という話ではない。
外交的であれ、内向的であれ、リーダーは「どう振る舞えば良いのか」という話だ。
世の中が、この価値観の共有に向かっていると信じたい。

月曜日, 4月 09, 2012

結局おっぱいで選ぶという心理


以前からオーブンレンジが欲しいと思っていた。
オーブン料理をするわけではない。
だけど、今使っている食パンが二枚入る二段式のトースターでは、ピザを小分けにしないと温められないのだ。

トースターで小分けにした八つ切りのピザを、焼く。
ようやく焼けて、取り出して次の小分けにしたピザを入れ、取り出したピザを食べ始める。
取り出したピザを食べ終える。
先ほど交代して入室したピザ第二弾はまだ焼けない。
しばし待つ。一度取り出してみる、が、まだだ。
もう少し待つ。また一度取り出してみる、後少し。
またまた待つ。ようやく焼ける。

これはこれで美味しいのだけど、食事中にインターバルが入るのを何とかしたかったのだ。

何とかしたいとは言え、何年もピザは、小分けにしてインターバルありきで温めていたわけで、まぁ、大した問題ではなかった。
が、いよいよ転勤が決まったので、この機会に、電子レンジを譲ることが出来たのだ。

転勤が決まって、トトトンと引っ越す予定だったのだけど、さあ引越屋さんに連絡を、という段になって、会社の事情でゆーーーっくり、引っ越すことになった。

いやいや、もう電子レンジ譲っちゃったし。
まぁ、なんとかなるか。やっぱりオーブンレンジは新居に越してから買いたいよな。

と、思ったのもつかの間、文明の利器、電子レンジの威力を知ることになる。

まず、冷ご飯を温められない。
もう、ご飯を炊くと、次回はチャーハン。
ご飯を炊く、次回はチャーハン。
いや、二食に一回チャーハンは多すぎる。

勢い、スーパーでお弁当とかを買ってきたりする。
チャーハン対策だ。

だがしかし、このお弁当も温められない。
スーパーのお弁当を冷たいまま食べるのは寂しい。
電子レンジって素晴らしい。と、つくづく思った。

というわけで、ついに、オーブンレンジを買うことにした。

今回は「長く使うであろう」と、逸る気持ちを抑え、まず電気屋さんでカタログを入手した。
最近のオーブンレンジ動向を学んだ。
うむ。どのメーカーも似たりよったりだ。

最近は、「スチーム」がキーワードらしい。
スチームで脂分を落とし焼くことができるそうだ。あるいは、ラップをかけずにご飯を温め直せるらしい。

うーん。ま、それはそれでよいが、僕が欲しいのはピザが一枚スルッと入るやつだ。

それから最近の動向では、オーブンの予熱時間短縮というのもあった。
高級な機種になると、最初はレンジ機能で温めつつ、並行してオーブンの準備をして、しかるべき時間が経過するとオーブンになる、というのもあった。

カタログとは怖いものだ。
この辺りから、僕は目的がわからなくなり始めた。

ピザを温めるなら石窯だろ。
冷ご飯をラップ無しに温められるのも便利だろ。
肉まんをそのまま放り込んで温められるのもいい。

こうして、時短機能とスチーム機能は必須のように思い始めていたのだ。

だがしかーし、持つべきものは主婦の友。
月刊主婦の友、では無い。リアル主婦の友だ。

彼女に相談すると、「どうせオーブンなんて滅多に使わないでしょ」と一蹴。

うむ。たしかに。
スチームも時短も、月に一度もないピザを温める機会には全く不要だ。

いっそ、単機能レンジと単機能トースターでもいいんじゃね、的な事も考えつつ、何日か過ごした。
いや、大人のふりをして何日か、と書いたが、実際は二日間過ごしただけだ。
しかも、そのうち一日は一日中出かけていたので、正味、カタログを貰ってきた翌営業日には電気屋さんを尋ねた。

様々なメーカー、機能、容量、色形、と並ぶ中、お店の方とあーだこーだ30分ほどもかけて、最終的に何をどんな基準で選んだか。

うーむ。結果は「色」でした。

カタログも、値段も(たまたま色が気に入ったのは安価なものだった)、機能も、カタログに起用するタレントも、電気屋さんの商品知識も、何もかもが「色」の前に崩れ去ったのでした。

はぁ。これって、男性が結婚相手を選ぶネタのアメリカンジョークと同じじゃん。

「誰を結婚相手に選ぶか(アメリカンジョーク)」http://www.hide10.com/archives/5817より
ある男が、自分を愛している3人の女の中で誰を結婚相手にするか長いこと考えていた。
そこで彼は3人に5000ドルずつ渡し彼女らがその金をどう使うか見ることにした。
一人目の女は、高価な服と高級な化粧品を買い、最高の美容院に行き、自分を完璧に見せるためにその金を全て使ってこう言った。
「私はあなたをとても愛しているの。だから、あなたが町で一番の美人を妻に持っているとみんなに思ってほしいのよ」
二人目の女は、夫になるかも知れないその男のために新しいスーツやシャツ、車の整備用品を買って、残らず使いきると、こう言った。
「私にとってはあなたが一番大切な人なの。だからお金は全部あなたのために使ったわ」
最後の女は、5000ドルを利殖に回し、倍にして男に返した。
「私はあなたをとても愛しているわ。 お金は、私が浪費をしない、賢い女であることをあなたに分かってもらえるように使ったのよ」
男は考え、3人の中で一番おっぱいの大きい女を妻にした。

↓そのおっぱい。

日曜日, 4月 01, 2012

ガバシツカ(апрель дурака)に注目


まず、宝くじ当たりました!
そして、今、ホットなニュース"カバシツカ"。

いずれ来る来るとは思っていたけど、どうも本当に"来た"らしい。
日本のメディアは静観を続けるのか、あるいは、今夜あたりから報道されるのか興味深い。
Wikileaks辺りが暴露しそうなニュースだったんだけど、老舗新聞のブラウダ(ロシア語:Правда ブラーフダ、英語:Bravda)からの情報。

以下、抜粋

未確認(3/31現在)のガバシツカと名乗る団体(もしくは個人)が、少なくとも数カ国に渡る政府に対し、統治機構の一部を明け渡すように要求している。
この団体は、量子技術によりあらゆる暗号を解読可能にしたと見られており、国連など国際機関を仲介役にして交渉している模様。

関係筋の情報から、このガバシツカと名乗る団体は量子コンピューター技術を10年ほど前に実用化。その後、ネット上を流れる暗号化されたあるゆる情報を瞬時に解読できるようになったという。
同技術を実現した証拠として、RSAなど複数の方式で暗号化された外交文書を解読したもの数千点、オンライン決済会社が認証に使う秘密鍵数百点などが各国政府に要求書とともに送られた模様。

また、交渉の仲介役を務める国際関係機関が、現時点で再強度の暗号化方式である米国軍事システム用の暗号化を施した回答文書をガバシツカに送付したが、数時間後に解読され回答があった模様。
※この際に送付した暗号化文章の解読には、現在のスーパーコンピュータで数万年かかるとされていた。

ガバシツカからの要求書には、量子コンピューターそのものの設計図の一部も添えられており、この設計図を確認した専門家によれば
「既に実現できていると見て間違いない。数分もあれば世界中のコンピューターシステムを事実上無効化できるだろう。」※
だという。
※ほとんどのコンピューターシステムは外部のネットワークに接続されており、接続にあたっては高度な暗号化技術により第三者の不正なアクセスから保護されている、とされているため。

また、露米仏英四カ国の政府の複数の関係者が非公式に語ったことによると、ガバシツカは、各国の軍事防衛機能と外交機能の明け渡しを要求しているという。この統治機能の受け皿として、3ヶ月以内にNPA(Network Partnership Argument)という団体を発足させる、という情報もある。

この内容について、中国共産党首脳筋も同様の要求を受け取っていることを示唆した。

公式の発表はないが、既に、先の四カ国の政府及び関連する軍事、原発などの内部ネットワークを外部ネットワークと遮断した模様で、一部のホームページなど表示されない状態となっている。
この状況は当編集部でも確認できており関係各国各局に遮断の理由などを問い合わせているが現時点で回答はない。

現在、インドにて緊急の関係国首脳会議が開催されるとの噂もあるが確認されていない。
※日本政府については公式・非公式にも事実確認されていないことから、ガバシツカの要求対象国に含まれていない可能性が高いと見られる。政府関連ホームページなどの表示についても通常時と変化はない。(ブラウダ日本駐在編集部注)

===抜粋ここまで===

ガバシツカと名乗る団体は、未だ確認できていないようだ。
しかし一方で、一般には確立されていない研究段階の量子技術を実用レベルで実現していると見られることから、地球外生命体が関わっているのではないか?との憶測まで出ている。

第二次世界大戦の終盤では、イギリスがドイツの解読不可能とされた暗号化装置エニグマの解読をしていた。また、その事実は戦時中はもちろん、戦後も秘密にされてきた。
暗号解読は、「解読できた」事を伏せていることで、メリットとなるのが常識だ。

と考えると、カバシッカが敢えて「解読できる」事を認めているのは興味深い。
既に対峙する世界?に対し、量子コンピューターを持っているという圧倒的強みがそうさせるのか、あるいは、量子コンピューターを稼働させて10年経過していることから、既に、当初のメリット(お金?)は充足して、何らかの次の段階に進もうとしているのかもしれない。

・ロシアの老舗新聞ブラウダが同内容を伝える記事
http://www.pravda.ru/

・量子コンピューター(Wikipediaより)
http://en.wikipedia.org/wiki/Quantum_computer


・(画像不鮮明)ガバシツカの一員とされる人物の映像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Long_Island_fisherman.jpg


・日本における報道
http://www.tokyo-sports.co.jp/



木曜日, 3月 29, 2012

腹タッチ


ネットのなんかで読んだのだけど、肥満は禁欲主義的価値観からすると「人格的欠陥」なのだという。
酷い言われようだ。

そんな人格的欠陥状態の僕が、人生最大の「腹タッチされる人」となっている。

腹タッチされる人とは何か、というと、飲み会などで、やたら腹を触られるのだ。
言い方を変えれば、デブ専におけるセクハラだ。

しかも、老若男女にかかわらずだ。

ちょっと前までは、腹をタッチされることは、まず無かった。
たしかに、ここのところの肥え具合は自分でも見事なものだと思ってはいた。

だからと言って、たかが職場の同僚ぐらいの間柄でそこまでするのか?
と、驚いている。

職場でもたまにあるが、飲み会になると一層と腹タッチは激しくなる。
酔った勢いがあるのか、唐突に近寄ってこられて、「何か話があるのかな」と思っていると、腹タッチだ。

近寄ってくる。
僕は気がついてそちらを向く。
相手は微笑む。
微笑むとほぼ同時に利き手の手のひらを私の腹に当てる。
で、去っていく。

そんな感じ。

これが、性別にかかわらずそんな感じだから困る。
最初こそ、異性にタッチされると「惚れてまうやろー」なんて思ったが、何度も続くと慣れるものだ。

とうとう最近では、人が近寄ってくると、何もしなくても突き出ている腹を更に前に突き出す、という反射が身に付いた。

うーむ。
腹タッチで何か減るわけではないが、腹タッチでお腹が一杯には、残念ながらならない。
腹タッチをどれだけしてもらっても、腹は凹まないのだ。

何が言いたいのかわからなくなってきた。
とにかく、腹タッチは、なかなか気分が良い。

これでいいのか?
これでいいのだ。

ぶうぶう

早口言葉

ミャンマー豆カリー。

月曜日, 3月 19, 2012

Flashairきました

amazonで予約して忘れてたんだけどFlashair届きました。
ここのところ、pogoplugや、この手の「ネットワーク接続機能強化商品」として大いなる期待?をしていたんだけど、やはり、繋がるメリットは試して実感してみることに意味がある。
そういうところに意味を見出さないと、買ってみたものの意外に使わないので後悔することになる。
(Pogoplugは、そういう過程を経てるわけだ。電源外しちゃったし。)

と、心の中の期待の置きどころを成熟させつつ手にしたFlashair、手持ちのデジカメ、SONYのなんだかに装入しました。。。
認識しません。

しかたない。予め、誰かのブログにあったように、ユーティリティでFlashairのファームウェアを更新。
特に、SONY製デジカメでは、そのまんまでは認識しないと言う話がネットに転がっています。

ファームウェアを更新した後に、もう一個のユーティリティでFlashairをフォーマット。

もう一度SONYのなんだかに装入。

うん。認識しました。
認識してしまうとあっけない。
スマホからでもPCからでも無線LANアクセスポイントとして認識します。
接続されたらブラウザで閲覧。

うん。仕様通りの動作。当たり前だのクラッカーだ。
いや、仕様通りだからクラックしてないか。

そんなんで、あーだこーだ、やっての感想。

・無線LANアクセスポイントとして接続するということ
 苦心の末のネットワーク機能です。
 まず、スマホだと無線LAN接続先を切り替えることになる。
 まぁ、そういう使い方を日常的にしてない僕には、ちょっと面倒。
 そう。繋がるということは、人を一歩ズボラにするのです。
 繋がらないときには考えもしない新たな不満が芽生えます。

・デジカメ(のSDカード)にネットワーク越しにアクセスするということ
 これは便利。言う事なし。
 カードアダプター?いらないし、スマホだとメリット少ないけど、タブレットなら大きな画面でいい。はず。

・操作性
 これはまだまだです。
 努力は認めます。多分、現時点ではコレが限界でしょう。
 まぁ、操作自体を楽しむ向きにはいいでしょう。

とまぁ、こんな感じで期待通りのFlashairでした。
操作性は、Flashair経由のアクセスを前提としたブラウジングアプリが出てくれば、改善と言うよりも新しい価値も出てくるかも。
ブラウジングして、選択してPicasaなんかのクラウドに転送して、とか、そういう一繋がりの操作をしたくなる人も多いでしょう。

これでデフォルト利用のSONYのデジカメ君は、嫌々ながらSDカードをお腹に入れる日々になったのでした。
めでたしめでたし。

木曜日, 3月 15, 2012

しょうもないオジサンのランチの会話

今日、ランチで、九州新幹線の故障の話題から発展した、新幹線指定席の二人掛けの席、奥窓側に座った時のあるある。
メモしておこう。

・隣に素敵な女性は座らない。
・隣り通路側に座るのはデカイ人。
・隣り通路側に座ったデカイ人がテーブルにPCやらなんやらたくさん広げる。
・その上、寝てしまう。
・ガラガラに空いてきても、デカイ人が向こうのガラ空きの三人がけに移動なんてしない。
・だったら自分が移動すれば良いのだが、なんだかシャクニ感じられてしまう。
・ようやく三人がけに移動すると、ピンポイントでその席のチケットを持った人が乗り込んでくる。
・さっきまでいた二人掛けの席窓側に戻ろうとすると、デカイ人の荷物が置いてあったりする。
・というような事を考えるので、三人がけの席には移動できない。
・眠り始めた頃、会社から電話がかかってくる。出ようとしてデッキに行くと切れる。

ということで、新幹線最強は到着地まで寝て過ごす、です。間違いない。

土曜日, 3月 10, 2012

定番の面白さ「Goal!」、定番のつまらなさ「Goal2」「Goal3」?



定番の面白さ「Goal!」、定番のつまらなさ「Goal2」「Goal3」

映画(主にDVDだけど)の中に「定番」というジャンルがある。
TSUTAYAにそんなコーナーはないけど、普遍的なストーリーっていうやつ。

一昨年だったか、マイNo.1だった「オーケストラ」なんかも定番だろう。
先の読めないストーリー展開や奇をてらった映像があるわけではなく、悪く言えば「予想通りのストーリー展開と地味な映像」なのだけど、心を動かされた。良かった。

多分、演技、シナリオ、映像、音楽、映画の要素すべてが地味でも高い完成度なら、総合的に感動をもたらして、「良い映画」という評価を得られるのだと思う。

と同じように、「定番でも良作」だったのが「Goal!」だ。

これ、あるのは知ってたけど、手に取ることはなかった。なんとなく内容は想像できるし、そこまでサッカーに入れ込んでいるわけじゃないし、(観て知ったのだが)ベッカムやジダンが出演したからと言って観る気にはならないし、要するに、興味なかったわけだ。

それが、久しぶりに非TSUTAYAの近所のビデオ屋さんに行って、なんとなく、本当になんとなーく借りた。
恐ろしく暇な雨の日曜日の午後、そんなこともある。

そして、観ました。
特に、この映画を観たいっていうモチベーションは無かったから、ワクワクも何もなく、淡々と見始めました。

そして、2時間。
映画の後半では、おもいがけず没頭し、涙し、歓喜している自分がいるのでした。

単に歳で定番に弱くなったのかも知れません。
が、良かったところを忘れないように書いておこう。

・イギリス映画らしい"良い暗さ"があること。
 きっと偏見だと思うけど、ハリウッド映画のようなベターッとした感じの色合いがなくて見やすい。
・良い違和感。ちょっと古臭い価値観を大切にしていること
 ほっとするシナリオです
・迫力あるサッカーシーン
 僕のような素人には充分。「おぉっ」「ヒュー」とか思わず声が出ます。
・自然なヒロイン
 ここに有名女優や友情出演の大女優なんかが当てられてないのが良い。可愛らしいヒロインでした。
・面倒くさくないゲスト出演
 ベッカム他有名選手が登場するんだけど「チラッ」という感じで、まぁ、じゃまにならなかった。
・そして音楽もよい。やっぱりブリティッシュロックだよ。誰の曲かは知らないけど。
 音楽のコダワリは音響にも現れていた。
 音声オプションを見ると、英語/日本語に並んで「英語DTS」というオプションがあります。
 (これ、通常のドルビーデジタルより音声の品質が高い。)

この定番映画が、多分、いい感じでヒットしたのだろう。続編がある。「Goal2」と「Goal3」だ。
これがイケてナイ。2は観たが3はまだ観ていない。2のイケてなさで3を見る気にならないのだ。

2のイケてなさも書いておこう。
・イギリス映画の"良い暗さ"が無くなったこと。
 詳しくはわからないが、予算があると何か変わるのか、とにかく普通の映像になりました。
・良い違和感が無くなった。全く想定通りのシナリオ展開。
 全く違和感がないとつまらないんだなー。
・迫力出し過ぎのサッカーシーン
 ボールがミサイルのように飛んでいく戦隊レンジャーものでも見てるようなシーン。笑うしかありません。
・可愛らしいヒロインは変わらず良かった。
・面倒くさいゲスト出演
 ジダンだのベッカムだの多数出演。
 それほど必要のないシーンで素人の演技バリバリ。
・音楽までイマイチ
 音響のオプションも無くなってますね。ここは予算を削るんだねー。

多分、"2"は緻密なマーケティングの結果を反映させたと思われるので成功したのでしょう。
ということは、"3"では、更にイケてなさ爆裂の映画となっていると思われます。
(と予想しましたが、世間はそこまでマーケティングに踊らされては居なかった模様。
実際は"2"は制作が遅れに遅れどうも興行的にはうまくいかなかったようです。
そして、"3"は日本では劇場公開すら見送られたようです。)

そのうちイケてなさ爆裂映画"3"も見てみるか。

金曜日, 3月 09, 2012

3/11特番はネットで



↑の動画。
3/11に、このドキュメンタリー「僕らはみんな放射能」の"第一話"が配信される。

3/11は、大手メディアがこぞって(テレビ東京を除く)特集番組を組んでいるが、正直、既存メディア、中でも民放のドキュメンタリーで、どこまで真に迫れるのか疑問だ。
画面に映る食卓のジュースにモザイク入れる暇があったら、もっと、真摯に丁寧に、伝えて欲しい。

そんな中、このネット番組は期待できそうだ。
きっと、ジュースにもモザイクが入らないだろうから観てみようかな。

【制作スタッフ】
企画は米国在住の日本人ジャーナリスト
監督はネットビデオ制作の名手と名高い米国人(多分)
編集は映画製作に携わる日本人
同じく編集に英国アカデミー賞受賞経験をもちBBCドキュメンタリー制作なども手がけてきた製作者
撮影クルーとは別に被災地のサーファー兼アクティヴィスト(復興活動家)が地元で長期に撮影

第一話はこちらに公開される。(3/11より)
http://weareallradioactive.com/


多分、というか当然、この番組は3/11以降も見ることが出来るだろう。
で、評価が高ければ続編の公開も期待できそうだ。
ジュースの消し込みなんかしている場合ではない。


※はみ出し
 最近の「テロップだらけ」「スポンサーに気兼ねして飲料はボカす」「とにかくCMを挟み込む」という視聴者完全無視のテレビ番組はいらない。そのテの番組のスポンサーも気がしれない。

木曜日, 3月 08, 2012

パスカルのリーダーシップマネジメント論


【パスカルの名言】
カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
力なき正義は反抗を受ける。
なぜならは、つねに悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。
それゆえ正義と力を結合せねばならない。

  ↓
正義をリーダーシップに置き換える。
  ↓

【パスカルの名言・リーダーシップマネジメント版】
マネージャーが評価しない個々人のリーダーシップは何の成果ももたらさない。
リーダーシップのないマネージャーは地位の力のみで行動しパワハラをも厭わない。
むしろ、マネージャーが評価しない個々人のリーダーシップは潰される。
なぜならば、常に人は保身を考えるから個々人のリーダーシップは弾劾される。
それゆえ、個々人のリーダーシップをマネージャーは評価しなければならない。


なんかの本、多分ドラッカーだったと思う、に書いてあった、たくさんの事例を検証した結果「トップにその気がないとイノベーションは起きない」っていう話とも一致する。

なあんて、こういう言葉にすがりながら、自分の力量のなさの言い訳を考えてるわけだ。
そんな言い訳を与えてくれるパスカルっていうオジサンをWikipediaで調べて驚いた。

禁欲主義を貫き、食欲にかかわらず食事は決まった量しか食べない、性欲なんてトンデモナイ事で生涯独身、絵画などを壁に飾るのも"目を楽しませる"のでダメ、、
そんなの出来っこないじゃんって事はなく、なんと、内側に釘の出たベルトを身につけて、気の緩みを感じたら肘でベルトを突いて、その激痛で我に返る、ようにして生活していたそうだ。

うーん。今で言うなら、それってヘビメタ系の自傷行為だよなぁ。
パスカルさん、なんかトラウマでも抱えていたのかなぁ。


内側から出た腹を抑えるためにベルトを締め、
食欲を解放するためにベルトを緩め*、
ベルトにはそんな意味しか見いだせない、そんな僕も同じ人間なんだよなー。参りました。
*こういうとこに書けない不適切なベルトを緩める行為も含まれます

水曜日, 3月 07, 2012

メモ(忘れないように。今は未だ原始人的な時代)



フェアトレード商品というのがある。
商品の原材料調達で、地球環境に優しい、とか、児童労働に頼らない(当たり前だけど)、とか、そんな商品。

理念としては、環境を含めて倫理的に「大丈夫」な商品がフェアトレード商品なのだろう。
よく、コーヒー専門店などで見かけるやつだ。

そして、そもそもそんな議論にすら上らない商品がある。

その昔、奴隷貿易が盛んだった時代。
奴隷達がどんな扱いを受けて生まれ育った土地から連れられてくるのか、見て見ぬふりをしていた時代があった。

今まさにそんな「見て見ぬふり」を決め込んでいる商品があるのだ。

それは、経済的に小さい国で算出されるウランだ。
※冒頭のyoutubeはドイツ映画。
※※クーリエ・ジャポン2011年6月号
http://courrier.jp/contents/courrier079.html

に詳しい。要約はこちら
http://d.hatena.ne.jp/longtonelongtone/20110427/1303916613


経済的弱小国の労働者は、放射能の危険を知らせられないどころか、長期間の被曝に関して何ら対策もないまま作業に従事させられている。
旱魃被害などで「食べるにも事欠く」国で、原発の燃料は採掘され、ウラン採掘の際に出る放射能に汚染された土砂が乾いた大地を舞っている。
当然、その地域の水も汚染される。

皮肉なことに、経済的弱小国では、は生活用には電気を殆ど使わない。
http://www.comment-niger.org/



ただ、生まれついた場所が貧しい国、という理由だけで、子供たちが放射能まみれの砂が舞う中で暮らしている。
同じ年齢の子供たちがテレビゲームなどで遊ぶ電気の原料が、何も知らずに被曝する子供たちの暮らす社会で作り出されている。

そのうち、経済的強者の国で作られた放射性廃棄物が、経済的弱小国に送り返されそうで怖い。
(知らないだけで、既にそんな事をしてても不思議ではない社会に暮らしているのは間違いない。)

奴隷貿易のような判りやすい「奴隷制度」こそ無くなった。
が、現代も奴隷制度(差別に基づく搾取)は形態を変えて脈々と息づいている。

つくづく、今の社会が近代的、なんてことは全くないと感じる。
経済的強者の国に暮らす僕達は、奴隷の労働力によって栄えた農場主や工場主と何ら変わらない。

原発を推進したエライ人がフクシマ以前に
「結局、(どんな反対があろうとも)お金を出せば原発は受け入れられるんです」(キリッ)
と語った顔が思い出される。

差別は差別される側の尊厳を失うだけでなく、差別している側も尊厳を失う。
いや、差別される側の尊厳は「失わせられる」だけで人間として卑しくはない。
むしろ、自ら進んで尊厳を失う、卑しい生き物は差別する側だろう。
そういう僕も、知らず知らずのうちに卑しさを身につけてしまっている。

現代の人類なんて、まだまだ原始的な時代だということだ。

月曜日, 3月 05, 2012

対話の力(かなり強力)


以前、"対話を体験する"研修を体験したことがある。
一見すると利益相反する課題を抱える二者が、お互いの置かれた立場を理解し話し合うことで、相反する課題とされた事が見事にお互いの協力で解決できる、という研修。

この研修でも「対話」の持つ力を体験できたのだけど、そんなヤワな話ではなく、血で血を洗うような戦いのさなかに対話を始め、数年かけて一致団結できる所までを描いた映画を観た。

「Endgame」という映画。
南アフリカのアパルトヘイト廃止の道筋をつけた「対話」がテーマ。

マンデラが30年にも渡って収監されていた当時、秘密警察まで動員して圧政を続けるボタ政権と黒人の解放を訴えるANC(アフリカ民族会議)との対立は血で血を洗うような状況に陥っていた。
ここまでは、今も世界中あちこちで渦巻く対立の図と何ら変わらない。

出口の見えない、としか思えない中、イギリスの一人の民間人(南アに進出している英国企業の若手社員)マイケル・ヤングが、対立する二者の「対話」を取り持っていく。

誤解を恐れずに言ってみれば※、彼は、南アの安定を望むイギリスの会社のサラリーマンで、やったことは、それぞれの利益代表者間の対話の場をセットしただけだ。
※実際は、利益代表者の選出から自分を含めた関係者の身の安全、会議そのもののコーディネートと、縦横無尽の活躍をする。

そして、その対話は、敵対する二者が、お互いの置かれた状況を理解し、最後にはお互いを尊敬し合う関係へと発展していく。
そして、政権交代と共に訪れるアパルトヘイト廃止。

もちろん、マンデラとデクラークいう稀有なリーダーの存在に負うところも小さくない。
が、ある日突然トップが「相手を信じる」と言っても周りは付いていけない。
場合によっては数年にも渡る「対話」があってこその理解と信頼、そして、対話を通じて得た確信が必要不可欠だ。

その対話があったからこそ、大きな混乱なくアパルトヘイト廃止が実現されたのだろう。

ということで振り返って自分。
家庭を崩壊させないような「対話」を実践しなければならない、のだが、肝心の家庭が無い。
仕方ない。まずは自分との対話を心がけてみよう。か。

※以前観たアパルトヘイトを皮肉ったSF映画「第9地区」。これもエンドゲームと同じ2009年の作品。


金曜日, 2月 24, 2012

着座認証システム

個人的に洋式便器なら人物認証(肛門認証)ができるとは思っていたけど、類似技術に着座認証システムってのがあるそうだ。
「着座認証」でググるとたくさんヒットします。
現実的に必要そうなのは自動車で「所有者かどうかを判断してエンジンをかける」辺りか。
※本質的には必要ではない、んだけどね。

で、身の回りの認証について書き留めておこうと思った。
何年かしたら、このリストはもっと増えているのか。

===今、僕の周辺の認証システム===
家の鍵→その家に住んでいる事を認証
切符(スイカ)→その電車路線に乗り降りできる事を認証

社員証→その会社に出入りしてよい事を認証
入館カード→その建屋に出入りしてよい事を認証
ロッカーの鍵→会社のロッカーを開け閉めしてよい事を認証
机の鍵→会社のデスクの袖机を開け閉めしてよい事を認証

TSUTAYAカード→そのDVDを借りてよい事を認証
キャッシュカード→その口座のお金を引き出してよい事を認証
携帯電話のロック解除→その携帯電話を使ってよい事を認証
現金(日本の)→お店や自販機で何かと交換してよい事を認証

車の鍵→その車のエンジンをかけてよい事を認証
免許証→その車を運転してよい事を認証
ETCカード→ETCレーンを通ってよい事を認証
カーキャリアの鍵→カーキャリアのアタッチメントを取り付けたり取り外したりしてよい事を認証

健康保険証→医療費割引が受けられることを認証
年金手帳→年金受給者であることを認証

仕事のPCのパスワード→そのPCを使ってよい事を認証
ブート(電源投入時)パスワード
HDD暗号化ソフトのパスワード
ログインパスワード
ネットワーク接続パスワード
メールソフトアクセスパスワード
様々なサイト毎のパスワード
特定業務用PCのパスワード→その特定業務に携わってよい事を認証
※会社のPCのパスワードと同じ

自宅のPCの管理者権限用パスワード→そのPCのシステム情報にアクセスしてよい事を認証
自宅のメディアプレーヤーのパスワード→そのプレーヤーの設定を変更してよい事を認証
自宅のHDDレコーダーのパスワード→そのHDDレコーダーに外部機器からアクセスしてよい事を認証
自宅のルーターのパスワード→そのルーターの設定画面にアクセスしてよい事を認証

僕自身(姿形声?など)→?


火曜日, 2月 21, 2012

北九州に来て2年



タイトルとは関係なく、JALの会社更生法適用から2年。

JALが日本を代表する"経営者"稲森さんの元で見事な再生を果たしている。
株式再上場の話題すら出てきている。

就任して7年かけて赤字体質を定着させて10億円近い年俸を稼いでいたCEOの話とは大違いだ。

わずか2年なので当初の論評と合わせて読むと大変興味深い。
"意識改革"周辺の話題は特に興味深い。

●スタート時点
・ネガティブな見方
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/216
・ニュートラルな見方
 就任会見
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1002/02/news021.html
※これは今読むと凄い

●2年後
・フィロソフィーについて
http://president.jp/articles/-/5241
・アプローチ(幹部再生)について
http://media.yucasee.jp/posts/index/5133
・まとめ
http://diamond.jp/search/word/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB

僅か2年でも相当なことを成し遂げられるんだなぁ。
凄いぞJAL。僕自身はANA派なんだけどねー。
ANAも頑張れ!
(飛行機には乗る機会がないけどねー。)

金曜日, 2月 17, 2012

1800年奴隷貿易廃止、2001年エンロン崩壊

『アメイジング・グレイス』(原題: Amazing Grace)を観た。
その翌日、『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』 (Enron: The Smartest Guys in the Room)を観た。

二つの映画の舞台は国も違えば200年もかけ離れた時代なのだけど、どちらも、今この時点でも学ぶべき点が多い映画だ。

例によってあらすじは→
アメイジング・グレイス
エンロン

僅か数年前のドキュメンタリー、エンロン。


ありとあらゆる、会計、経営指標、マスコミ対策、などなどのテクニックを駆使、そのテクニック自体がイノベーションとも言えるほど独創的なのだけど、肝心の実業部門は全くの大赤字。
全てのテクニックは、大赤字を隠すために創りだされたのだ。
要するに「詐欺」だ。

自社や関係会社の社員数万人を失業させ、詐欺と知っていながら関わった"同じ穴のムジナ"「証券会社」「監査法人」「法律事務所」なども事件が解明されるとともに多くがその事業を潰すこととなった。
そして、破綻発覚と時を同じくして経営陣の一人「経理責任者」が自殺(とされている)している。

一番ショックなのが、エンロンがM&Aを繰り返す中、堅実な電力工事事業を手がける会社を買収する話だ。
何十年もその会社で電力工事をする年配の作業員。日々トラックで現場を回って修理に追われている。

その電力工事会社がエンロンに吸収され、ほどなくして、エンロンは破綻する。

数十年、日々マジメにリアルに働いていた作業員。
彼の数十年の年金も積み立てていた退職金も吸収先の見知らぬ会社の不正で消えてしまう。

一方、エンロンの中枢にいた人の多くが破綻の匂いを嗅ぎつけると同時に、高額な退職金と共に会社を去ったり、自社株を売り抜けたり、とにかくケタ違い(数十億円、百億円を超す人も)の資産を築いているのだ。
その高額の収入・資産は、前述の現場の人達が数十年もかけて積み立てたものが含まれている。

一般的には、これは例外的な企業の話、とされている。

しかし、具体的に法を犯していないだけで、数年間の赤字を続けて高額の退職金を得て退任する社長の話なんてゴロゴロ転がっている。
今月退任を発表した名士ハワード・ストリンガーさんは、この7年間の年俸は8億円だったそうだ。
7年で数十億円の収入を得たわけだ。
そんな彼がこの7年間社長を務めたソニーの直近の4年間は赤字だ。昨年は2200億円の赤字だそうだ。

去年話題になったアメリカの自動車業界もそんな感じだった。
倒産寸前なのにプライベートジェットで税金投入をお願いに来ていた。
これはさすがにメディアに叩かれたけど、高額の報酬を返還したというニュースは聞かない。

プロジェクトマネジメントであれば、「与えられたリソース(人・モノ・金)」の制約の中で目的を達せなければならない。
が、社長業には、「前提を覆す(与えられたリソースを削る/増やす、目的を変更する)」権限が与えられ、その上、成果が出なくてクビになっても一生どころか何世代も安泰の報酬が支払われる。

先ほどのエンロンのM&Aに応じた電力工事会社の経営陣は、買収の結果一財産を築いたかもしれない。
悪意はなかったとは思うが、結果、社員の個人的資産をマネーロンダリングして自分の資産にしてしまったわけだ。

暴力で他人に金を出させる。
錯覚を利用して振り込ませる
投資と称して払わせる。

預貯金の管理団体(退職金積立や年金基金とか)ごと吸収して払わせる。

目に見える暴力がないだけ、迂回しているだけで何ら変わらない。
日本の"消えた年金"も構造は同じなんだろう。

。。。
200年前のドキュメンタリー、アメイジング・グレイス


エンロンを観る前日に、たまたま「アメイジング・グレイス」を観ていた。
これは、数百年続いた奴隷貿易廃止に貢献したウィリアム・ウィルバーフォースの半生を描いたものだ。

200年前のイギリス。
当時は正当な経済活動とされていた奴隷貿易を「人道に反する」として、その歴史を転換させた話。

ちなみに、有名な歌「アメイジング・グレイス」は賛美歌のメロディーに奴隷船の船長が自らの罪を悔いて歌詞を付けたものだそうだ。
当時の奴隷船は、長い航海中に拘束された奴隷たちの半分以上が航海中に死んで捨てられる事も少なくなかったという。
女性の奴隷は拘束したまま船員に暴行され、海が荒れると船を軽くする為に弱っている奴隷を捨てる、それが奴隷貿易の現場だったのだ。

。。。

現場を見れば、本質がわかる。
億万長者、の懐に入ったお金が何処からきたのか、がとてもとても重要だ。

今の時代、ましてや先進国で人道に反する社会なんてあり得ないと「無視」するのは簡単だ。
今の常識では、経済弱者と奴隷は違う、と感じるだろう。

でも、お金に魅入られた人達は、経済弱者から更にお金を吸い上げても全く気にしない。
その結果、現場で何が起きているかなど気にしてられない。

これは、奴隷貿易が当たり前だった時代に、奴隷とされた同じ人間を、家畜のように扱ったていた社会と大した差はない。
みんな何が起きているか、知らないふりをしているだけ。

100年か200年後、いや、数百年後かもしれないが、今常識とされるM&Aなど企業活動のあり方そのものが、
「人道に反する活動」
とされるかもしれない。

※人間は自分の置かれた環境次第で、どこまでも残虐になれるという心理テストがある。
 が、一方で、どんな環境にも屈しない人達がいたおかげで、ほんの少しだけ進歩した現代社会があるんだなぁ。
↓この動画はとっても良い

水曜日, 2月 15, 2012

円形脱毛ができる幸福



もう3ヶ月にもなろうか。
突如発生した僕の右側頭部の直径5cmの円形の空白地帯。
どこかしら抜けているようだった頭の中身は外からは分からない。
が、頭の外見の抜けは、ハッキリ分かる。
僕は「あぁ、あの坊主で円形ハゲの人ね」という人物となった。

そもそも、坊主というのがややこしい。
多分、霊験あらたかな宗教関係者と区別するためか、単に面倒なのか、たまに坊主自体もハゲとされる。
関西風では「ハゲ散らかしてんなー」となる。

そうなると、坊主でハゲができると、「ハゲにハゲ」という事だ。
ハゲ散らかしてる上に丸いハゲができる、そういう状況だ。

ま、いずれ50絡みのオジサンの外見の話だ。
しかも、穴が開いたわけではない。
ちゃんと蓋はされている。
いきなり脳みそが見えたりはしていない。

帽子をかぶっていない時、そのポッカリ空いた部分に風が当たると、なんだか穴が開いている様な気分にはなる。
それから、ついつい、直径5cmの部分を指で触ってしまう。
頭皮を直接触るのは気持いいのだ。温かい。
ちなみにスキンヘッドはさらに気持ちいい。手のひら全体で気持いい。

で、この円形脱毛話を、遠く離れている何人かの同僚にメールした。
「河童になっちゃいました。直径5cmの皿出現。」

彼らの返信は、直径5cmぐらいでガタガタ言うもんじゃないよ、的な貫禄の反応だった。
なぜ貫禄の反応なのか?
っていうか、メールの本題にはほとんど食いつかず、「そっち!?」的な反応だったのだ。

"同僚"と書いたが、彼らは大先輩。
多分、僕の7、8歳ぐらい先輩か。

なるほど、確かに彼らには半年?ほど会っていない。
彼らは、この冬の豪雪で、頭部における額(ひたい)占有率が既に50%を超えているのかもしれない。
あるいは、僕にはそんな素振りも見せず、頭頂部円形脱毛症に悩んでいたのかもしれない。

僕としたことがずいぶん失礼なメールを送ったものだ。
触れてはならなかったのかもしれない。

直径5cmなんてまさに"屁の河童"だというのはそういう事だったのが。

そもそも円形脱毛が出来るということは、僕はまだ、その円形が不自然だと認識できる程度の頭髪を保持している、ということだ。
これは、50絡みのオジサンにおける「腹筋50回楽勝ですよ」とか「片手腕立て伏せなら任せてください」とかに通じる快挙なのかもしれない。
これは、僕は手放しで喜んでも良い事かもしれない!。

などと、大先輩方々の頭部を想像しながらニヤニヤしていたのでした。

持つべきものは(こんな失礼な後輩を許してくれる)先輩だな。

※教訓※
髪の話題は神にしかしてはならない。

火曜日, 2月 14, 2012

構造的多忙症候群(わりと深刻)


↑は本文に関係ありません。

昔、いや、大昔、小学生ぐらいかな、の頃の話。
なんだかんだとまぁ、毎日、何かしらの宿題があったように思う。
で、当然ながら宿題自体を忘れていなければ、宿題だけはやっていた。
うん。意外にも宿題をやる子だったな。僕は。

で、夏休みや冬休み。
この時は、大量の宿題を抱える。
当時の小学生全てが大量の宿題を抱えていたのだから、日本が宿題一色になっても良い気もするが、そんなことはなく、毎日毎日、宿題のことは忘れて遊び呆けていた。

大量・長期間、というのは、今日一日サボるには好都合なのだ。

しかも、家の手伝いなんか(当時、うちの実家は自営業で慢性的に人手不足だった)を断る手段としても有効なのが「大量・長期間」の宿題の存在だ。

手伝い要求に対し、
「まだ今日の日記帳を書いてない」
「今日は自由研究の虫取りに行く」
「ドリルが終わっていない」
「図工の宿題で風景画を書きに行く」
「笛の練習」
とかなんとか、金銭を伴わない手伝い要求拒否の手段に宿題を持ち出していた。

結果、夏休み最終日は悲惨なものだった。

日記帳は一日目の途中までしか出来ていない、
自由研究は今にも壊れそうな菓子箱に虫の死体が刺さっているだけ、
ドリルは答えを丸写し、
風景画は絵の具調合に失敗した凄い色の抽象画、
笛の宿題は元々あったのか無かったのか記憶がない、(っていうか笛が見当たらない)
という事態に陥っていた。

最終日にどんなに品質を落としても納品しようという健気な少年だったのだ。
このことからも分かるように、「大量・長期」というのは、僕の手に余る。

夏休みの大量・長期タスク処理を、独りでしっかり出来る人の割合は、多分、10%もいないんじゃないかな。
大抵は、怖い先生、もしくは口やかましい親の協力なくしてやるハズがない。
たまたまうちは、「放任主義」だったので、手伝い要求さえ回避できれば最終日まで深刻な宿題要求は無かった。
で、最終日を迎え、自己責任のもと品質を最低に、生産量を最大に、処理していたわけだ。

今思い返して、夏休みの宿題は「期限」が明確で「持ち越し」ができないからマシなのだと気がついた。
この「持ち越しができない」というのは素晴らしいことなのだ。

通常、夏休み明けに宿題を提出する。
夏休み開ける前に宿題を提出するような子供は僕は知らない。
そんなわけで、夏休み明けに宿題を提出する。

それで、まぁ、出したものは、どれもこれも酷い品質だ。
忘れていたり、忘れたふりをしたりして出せないものも少なからずある。
笛の宿題は、宿題も忘れたなら笛そのものも無くなっていたりする。

そんな滅茶苦茶な状況で、更に、宿題の「持ち越し可」だったら最悪だ。
文部省だったらやりそうで怖い、と思ったが、今の僕は小学校の宿題に苦しめられることはないので、やってくれてもいいよ。

そんな「もちこ歯科」じゃなくて「持ち越し可」の時代がやってきたとする。
大量の夏休み宿題を持ち越す。やらなくても持ち越せるのだから最初の夏休みはハッピーだ。

次の冬休み、前回の夏休みの不合格品に冬休みの宿題が加わる。
雲行きが怪しくなる。

これを小学校一年からやっていたとする。
僕の場合だと、多分、小学六年生の冬休みには、ほぼほぼ過去六年12回分の夏冬休み宿題が残っていたことだろう。

これは、親に言い訳をするまでもなく、家の手伝いどころではない。
家中が過去の宿題の残骸で取っ散らかっているであろう。
12個の自由研究、12個の図画工作、12冊の絵日記、12冊の漢字ドリル、12冊の算数ドリル、、、、、

よかった。
あらためて僕の時代は「持ち越し不可」だったため、そんな事態には至らずに済んだ。
いや、いつの時代も「持ち越し不可」でよかった。文部省、ありがとう。

これからも、小学六年の冬休みは、その時の新しい宿題だけ溜めておけばよい事を祈る。
中学へ宿題を持ち越すことも不要なことを祈る。
いやー、よかった、よかった。

振り返って大人の世界。

ありとあらゆる「管理表」が職場には溢れている。
宿題の管理表は「残件リスト」的なものか。

僕の場合は、幸か不幸か、プロジェクトでの仕事になるので「持ち越し不可」「成績のみ持ち越し」なので、プロジェクトが変わる度に残件リストはリセットされる。
どんなに酷いプロジェクトだったとしても、次のプロジェクトに行く際にはリセットされるのだ。
(成績はリセットされない。あしからず。)

しかし、長く同じ職場で安定成長してきたようなケースだとそうはいかない。
宿題は永遠に「持ち越し可」となる。
しかも、小学生の宿題ではない。大人の話だ。
大人らしく、きちんとリスト化され、定期的に進捗をチェックされる。

数年も同じ職場にいれば、「管理表フォームの限界に合わせて最大件数」のリストが出来上がる。
リストの中で本気で対応するのは優先順位が高いもので、後は「着手済み、今月は進捗なし」となる。
優先順位が高いものに手が取られるので必然的にそうなるわけだ。

面白いのは、何年も「着手済み、進捗なし」の残件が、たまたま担当者が異動したりすると、そのほとんどが消えてなくなることだ。
引き継がれないそれらの残件は、その人がいなくなればなくなる運命なのだ。

だったら移動に関係なくリストを整理すればいい、とはならない。
リストに存在していることで「いつかはやらなければならない」事を忘れずに済むという安心がある。
また、「いつでもやれる」事がリストにあるので、忙しくない状態は未来永劫無いことになる。
これは、担当者にとっても管理者にとっても新たな仕事を断る格好の理由となる。

「この新しい取り組みできないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」

「君のチームでこの取組できないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」

個人、組織に関わらず変化を拒むツールになるわけだ。

かくして、構造的に多忙な状態が出来上がる。
本当に忙しいかどうか、に関係なく、「残件リストで手一杯」なことが証明済みなわけだ。

これを「構造的多忙症候群」と呼ぶ。
だれもそんな風に呼んでいないが僕がそう呼ぶことにした。

はぁ、忙しい忙しい。

火曜日, 2月 07, 2012

ペンギンの集団に豚


先日、身内の結婚式があった。
招待状を直接頂いたので、その際に本人に確認したときも、「いや、できるだけ堅くない会にしたいので平服で」という話だった。

で、先日、行きましたよ。平服で。

で、まぁ、僕には予想外、周囲には予想通りの事態が。

まず最初に通されたのはチャペル。
え?式は聞いてないけど、、、と思いつつ、促されるままチャペルの中へ。

一人だけ平服でチャペルに立つと、なんか僕だけ炊き出しに並んでいるような妙な感じだ。
なぜか、牧師さんの微笑みを見るのが辛い。

儀式を終え、その"会"の会場へ。
南極の氷のように真っ白なテーブルクロスを囲むペンギン(フォーマルなスーツ姿)の皆々様。
そして、なぜか、新郎新婦の真正面、お誕生席に平服の僕。
「平服って言ったじゃーん。僕だけなんでー。ブーブー。」
かろうじて平服がピンクで無かったとはいえ、ペンギンの集団にポツンと豚な状況になった。

そもそも僕の頭の中の"きちんと度ランキング"はこんな感じだ。
会社>普段着
通常はこれしかない。

たまに、本当に滅多に無いのだけど、会社で大切なお客様とお会いする、とか、を考慮すると、
会社(フ)>会社>普段着
だ。
※(フ)はフォーマルの略。ネクタイとスーツと革靴が揃うと"会社(フ)"になる。

これに、ごくたまの結婚式なんかを書き加えると、
フォーマル>会社(フ)>会社>普段着
となる。

"フォーマル"と"会社(フ)"の違いは、ネクタイの色とか、そんな程度だ。
昨今の会社におけるカジュアル化のおかげで、普段着と会社の境界は限りなく縮んだ。
普段着で会社に行ってもバレないのではないか?と、誘惑に駆られる事もよくある。

***
話がそれるが、ここ数年、僕の全ての衣類は縮み続けている。
身体が膨らみ続けているという説もあるがこれはオカシイ。そんな馬鹿な話はない。
何故なら自分の身体が膨らむところを僕は見たことがない。
あるいは、誰か、僕の身体がプーーーーッと膨らむところをみかけたとでも言うのか?

一方、洋服が縮むところは見たことがある。
洗濯機を通過して再登場すれば縮むし、毛糸のセーターなどは毛玉が取れるわけだから、なにかしら質量は減る一方だ。
洋服は縮む一方なのだ。間違いない。

全ての衣類が縮み続けているは、この二つの事実から、正しいのだ。
***

ちょっと興奮してしまった。話を戻そう。
で、今回、"平服"という新たな設定が入ってきた。

僕も何も考えていないわけではない。何はともあれ50絡みのオジサンなのだ。
"平服"という、あまり日常使わない用語を目にして、ちゃんとランキングを考えた。
(そもそも、一直線上のランキングでしか身なりを考えられないのはどうなのだろう。。)

フォーマル>>>>会社>平服・普段着
いやいや、そんな言葉通りの意味で考えるほど浅はかではない。
もうすぐ50歳になろうとしているのだ。

さらによくよくよく熟考して、このように書き換えた。

フォーマル>会社(フ)>平服>会社>普段着

どうだ。完璧だ。


平服だから前日移動に、もう、その格好で移動できる。
新幹線に乗っても、「あの人、平服ね」と思われても「あの人、これから結婚式ね」なんて思われないのだ。

前日には、ほぼ出席する格好で知人に会った。その時も、
「なんか、いつもと違ってきちんとしているじゃん」
という評価だったのだ。

そりゃそうだ。
普段着より二段階もランクが上なのだ。
普段着ならサンダルのところを、きちんと、靴下に加え、防寒靴を履いているのだ。

平服をわきまえた50絡みのオジサンなのだ。

なのにペンギンとぶたになってしまったわけだ。

なぜだ。

そもそも平服ってなんだ?と思いググッてみた。
平服とは「普段着」のことだ。間違っていない。

が、よくよく読み進めると、平服とはいえ「結婚式」なのだとしたら、それなりの平服でなければならないのだそうだ。
紋付袴のところをスーツにする、ぐらいの感覚が一般的らしい。

Q&Aサイト、オールアバウトに全然アバウトではなくはっきり書いてあった。
そんなにはっきり書くなら、オールクリアにサイト名を変えて欲しいところだ。

http://allabout.co.jp/gm/gc/225375/

[AllAboutの抜粋]
親戚や年配の人が多いパーティなら、いくら平服でとはいっても、みんなそれなりの格好をしてくるでしようから、あんまり砕けすぎた服装は禁物。。。中略
反対に、友人はじめ若い世代が多いパーティであれば、少しカジュアルダウンしても大丈夫。男性ならノーネクタイでもよいのでは?


。。。そうだったのか。
要するに、"平服"とは、絶対的な基準があるわけではなくイベント内容や地域、場所などを勘案し、相対的に決まっていくということのようだ。

うーむ。
たしかに、年配の人が少なくなかった。というか、僕が年配なわけだし。

さらにもう一つ気がついた。
どうも僕の普段着がオカシイ、ということだ。
平服、という若干の緊張によって、僕の平服は普通の人の「普段着」になったらしい。

今後は、"平服で"と言われたら、"平服の平服"を考えねばならない。
なんだかバカボンのパパみたいだが、そういうことだ。
「普段着の平服は、平服の平服なのだ。それでイイノダ。」

ということで、普段着がボロ過ぎる点について自覚せよ、と学んだのでした。
なんにせよ、結婚したお二人はお幸せに。

※はみ出し
 昔、やはりカジュアル化の進む職場で、何故か僕が「新卒者向け会社説明」をやるハメになったことがある。
 この時、「スーツ着用のこと」と指示されたのだが、その指示書には、丁寧に、「間違ってもウェットスーツではありませんから」と注意書きがされていた。
 フォーマル関係については、昔から疎いらしい。

木曜日, 2月 02, 2012

「買わないで」という広告

↑はpatagoniaのポスター。ソースはこちら。

ここのところ、「買わないで済ませる快感」をどうやって得られるか、なんて事をぼんやりと考えていた。
買わないで済ませる、と言っても、欲しい気持ちを抑えて、という事ではない。
「欲しいと感じない」ってところ。
そっか、「欲しいと感じない開放感による快感」ってことか。

きっかけになったのは、車。
たまたま、弟から、数年前に亡くなった父の車を譲り受けたのだ。
10年以上前の車とは言え、すこぶる調子が良い。

もうずいぶん前から車に使われる鉄が改良されて錆びにくくなっている。
塗装技術も進んでいる。
昔のように、日に焼けて塗装がくすんだり、ボロボロと零れ落ちるようにサビたり、は、そうそう10年足らずではならないのだそうだ。

自動車メーカーが「耐久年数が倍増しています」とテレビCMでアピールしてもいいだろうに、なんだかなー。

そうやって、父が思い入れていたかどうかは知らないが、父の車を使うようになると、もう、車を買い換える、っていう事に惹かれ無くなったのだ。
譲り受けた時、旧式のカーステレオだけ載せ換えて、"これがベスト"というか、自分の年齢から"これが最後の車"という感じ。

おかげ様で、車のテレビCMも気にならないし、本屋さんで車の雑誌を手に取ることもない、街で高級車を目で追うこともない。
言葉にするのは難しいが、一つのどうでもよいことから解放された感じだ。
(こう書いていると、今まで、車が趣味だったわけでもないのに、どんだけ物欲に囚われていたのか、と、情けない気持ちになる。)

この「開放感」が気持いい。
購入した時の高揚感や嬉しさは手にした瞬間から薄れ始めていくのに対し、購入意欲からの開放感の方はピークこそ無いが永遠に続く快感なのだ。

もう少しわかり易い例としては、食べ物があるだろう。
若いうちは目移りするのも仕方ないが、50年近くも生きていると、
「蕎麦なら△△」とか「カレーなら○○」とか「□□のラーメン」のように、もう、他では代替の利かない食べ物がいくつもある。
※ローストビーフなら××という例が思い浮かばない食生活であった。。。

それのモノ版だ。
食べ物なら時間を空ければ何度でも食べられるかもしれないが、大抵のモノは一つあれば充分だ。

食べ物のお気に入りのようにモノに対しても素直にお気に入り(代替の利かない)を見つけられれば、目移りしない開放感/快感を得ることが出来る。
ヒトに対しても素直にお気に入り(代替の利かない)という価値を高めれば、家庭崩壊や不幸な結婚などといった問題も少なくなるかもしれない。

うーむ。ここに気がつくまでおよそ50年かかった。

ちなみに、この感覚を「嘘だろう」と思う方は、僕に、"父の車を手放すこと"と"換金しないこと"を条件に車の提供を提案して欲しい。
果たして、どれぐらいの価値を感じているのか、が試せるだろう。
意外に、簡単に乗り換えたりして。
(笑)

冒頭のポスターは、去年のクリスマスシーズンにpatagoniaが、環境保護とビジネスの矛盾に自ら切り込んだ、ポスターだ。
patagoniaの創業者は「自分たちの環境保護活動が寄与する以上に環境保護を進められるなら、自分達のビジネスはいつでも止める」ような事を言っているし、売上(利益ではない)の1%を環境保護団体に寄付しているのは有名な話だ。

で、いよいよ、「買わないで」という広告に至ったわけだ。
僕の「売らネット」構想とも合致する。←だからどうした!

「売ってるくせに買わないでは無いだろう」というツッコミはあるかも知れないが、少なくとも、自己矛盾を率直に認める姿勢は"買える"。

水曜日, 2月 01, 2012

"暗号解読"トピックス 「コンピューターの父と暗号」



20数年前、この業界に入った頃に耳に残っている「コンピューターの歴史上の人物」がいる。
その二人が「暗号解読」でも登場し、スーパースター的な活躍をしていた。

・チャールズ・バベッジ(1791-1871)
 "階差機関"という言葉をかろうじて覚えていた、それを作った人。「コンピューターの父」と呼ばれる。
 この人が当時「解読不可能」とされ、ヨーロッパ中で使われていたヴィジュネル暗号を解読し、イギリス政府はそれを秘匿する事で数年間ヨーロッパ中の軍事・外交文書他を解読していた、とされている。

・アラン・チューリング(1912-1954)
 「計算機科学の父」と呼ばれる。バベッジの概念をより具体化した形式化手法を考えた人とされる。
 っていうか、チューリングがコンピューターの父、バベッジがコンピューターの祖父、で良いではないか!?
 その人が第二次世界大戦でドイツが使用していた暗号"エニグマ"を解読していた!とは知らなかった。
 ついでに、彼は同性愛者だったのだそうだ。これまた驚きだ。

 彼がエニグマの解読のために作った「Bombe」という機械は計算を行える機械、コンピューターの原型だったようだが、終戦と共に廃棄されたという。
 暗号周辺では、こうやって、闇に葬り去られる技術やヒーローが多い。

第二次世界大戦時の暗号解読組織(英国政府暗号学校:ブレッチレイ・パーク)の活動が1974年に公開されるまでチューリングの功績は一般に知られていなかったのだそうだ。

僕が20数年前に習った「世界最初のコンピューターはENIAC(エニアック)」は、最近では「世界最初の汎用コンピュータ」と言い換えられている。ENIAC以前に同様のマシンがあったからだ。
・チューリングのBombeを作ったイギリス政府の暗号解読組織が1939年にコロッサスという電子機械を開発していたこと。(秘密裏に戦後廃棄されたらしい)
・あるいは、同年、アイオワ州立大学でアタナソフ・ベリー・コンピューター(ABCマシン)が公開されていたのだ。

ということで、今、「未来を変える本当の技術」は、僕らの目に触れない所で粛々と開発され使われているのかもしれない。
現在ネットで使われている暗号技術が全て無になる、と言われる量子コンピューターなんて、既にあるのかもねー。
※軍事/政治的に、暗号解読は、解読できたことを悟られないようにして解読し続けるらしい。

火曜日, 1月 31, 2012

シネコンでの映画の見方

いつからか映画館はシネコンに変わっていった。
もちろん、今でも昔ながらの映画館もあるにはあるが、そっちはミニシアターと呼ばれるようになり、ミニじゃない方はシネコンとなったようだ。

ちなみに、シネコンとはシネマ・コンプレックスらしい。
映画にコンプレックスを抱く症候群のようにも読めるが、このコンプレックスは、"複合の"とかそんな意味らしい。
マザコン的な症候群系のコンプレックスは"感情複合"が元らしいが、ややこしいったらありゃしない。

シネプレックスという呼び名もあるようなのだけど、シネプレだとマクドナルドをマクドと呼ぶ関西地域限定的な感じもしたりしなかったりするので、とりあえず、シネコンに落ち着いたのだろう。

そんなわけで、僕の映画を観る場所は、「部屋」「ミニシアター」「シネコン」のどれかということになる。

●部屋
部屋に関しては、「観たいものを借りてきて(もしくは購入して)観る」となる。
プラスして、飲食しながら、とか、喫煙しながら、とか、自由気ままである。
観る格好も、限りなくだらしない。たいてい、見終わった後立ち上がると、ポロポロと煎餅のカスやピーナッツなんかが床に散らばるのだ。

犬でも飼っていたら、この瞬間はハッピーアワーになること間違いなしだ。

部屋観("へやかん"ではない、"へやみ")に関しては、観たくないものを借りてしまうはずは無さそうだが、ジャケ借りで失敗することも少なくない。
セクシー系と思ったらホラーだったとか、戦争モノだと思ったらホラーだったとか、恋愛モノだと思ったらホラーだったとか、しかも、そのホラーがたいして怖くない上に笑うこともできないとか、そんなケース。

そんな経験から、最近は、"借りる候補"を携帯メールの下書きに書き留めておいて借りる、というパターンが増えた。
50絡みのオジサンともなると反省を活かすことができるのだ。

●ミニシアター
ミニシアターに関しては、「行ってみて面白そうなのを観る」パターンが多い。
そもそも好みが「非ハリウッド」で、ヨーロッパもの、アジアものだったりするので、意外にも外れは少ない。
打率で言えばシネコン(ハリウッドもの)を圧倒し、イチローをも超えている印象がある。

加えて、ミニシアターの場合は、思いがけず監督の舞台挨拶があったり、10数分上映した所で「映写サイズを間違えたのでもう一度最初から映写します」なんて放映事故?があったり、数人しか居ない客の一人の携帯がピピピーと鳴って、「上映中は切っとけよー」なんて思ってたら「もしもし・・」なんて電話に出ちゃう客(ご老人)がいたり、ハプニングも楽しいものだ。

●シネコン
以前は「観たいのをやってるからシネコンに行って観る」というパターンが多かった。
ところが、満を持してのシネコンにもかかわらず、結果、「それほどでも(CMを見て期待したほどでも)無かった」という、残念な結果が続いた。

映画館で見た映画の人生ワーストも去年記録した。→これ

そんなわけで、仕方ないので新たなシネコン活用方法を考え、実践してみたので報告したい。

●(新)シネコンでの映画の見方
最近は、ハリウッドもの中心の大手の映画はどれを見ても大した差はない気がする。
むしろ、事前の宣伝の効果で、その映画に間違った期待をいだいてしまうことが多い。

だから、事前に何を見ようなどと決めてはいけない。
決めないまま、できることなら、今、何が上映されているのか知らないまま、とりあえずチケット売り場に並ぶ。

並んでも気を抜いてはいけない。「何を見ようか」「どれが面白いか」などと邪念に囚われてはいけない。
できるだけ目を閉じて、行列から聞こえてくる囁きにも耳を貸さず、心を無にしよう。

さて、チケット売り場に並んでいたことすら忘れた頃に自分の番になる。
チケット売り場の係員は、こう言うだろう。「何になさいますか?」

そうしたらおもむろに、「次の上映は?」と尋ねる。
質問に質問を返すのだから怪訝な顔をされることもある。
が、気にすることはない。こちらはチケット売り場の係員のバイトを成立させている立場なのだ。

「いや、今から最初に上映開始になるのは何ですか?」と毅然とした態度で問い返すのだ。

「はぁ、次はAKBナンタラで5分後です」とか言われたら、フィーリングで「その次の上映は?」と尋ねる。
「その次はMr.ビーンナンタラで15分後です」とか言われたら、またまたフィーリングで「更にその次の上映は?」と尋ねる。

係員がややイラっとした表情を見せつつ「その次は○△□×で25分後です」とか言われた辺りで、「じゃ、それ」と応えそのチケットを購入する。
それ以上やると、スケジュールを見て決めてから並んでください、と言われかねないし、社会人としてのモラルも問われてしまうので、まぁ、3つが限界だろう。

理想は、一番最初に上映開始になる映画にする、なんだけど、残念ながら小心者の僕はまだ試していない。
(まんが祭りだったら困るし、そもそも、AKBナンタラは映画なのか未だ謎だ。)

結果、やはり、「ま、面白かった」となる。
期待値0からの「ま、面白かった」なので、同じ物を厳選して見て「がっかり」するよりは良いのではないか。

●まとめ
映画のチケット料金は「従量課金制」にならないのだろうか。
10分150円で良いと思う。200円でも良い。
期待に胸を膨らまして、いざ上映開始、、、その10分後に後悔してもJAROに訴えられないのは悔しい。

金曜日, 1月 27, 2012

大沢富江さんは知っている?


僕は大沢富江(オオサワトミエ:Osawa Tomie)さんという人は知らない。
でも、アメリカにはOSAWATOMIE(オサワトミー、カンザス州)という街がある事を昨日知った。

ただそれだけのことだ。が、ポスターで見かけて驚いた。


大きな地図で見る

木曜日, 1月 26, 2012

"暗号解読"トピックス「ヒエログリフ」


↑ヒエログリフ解読に欠かせなかったロゼッタストーン

「暗号解読」を読み終えました。
いやー。面白かった。少し時間を空けて、もう一度読みたい。


それにしても、著者のサイモン・シンは凄い。
ネットの暗号解説サイトの説明を何回読んでもチンプンカンプンだった。
そんな僕でも、とってもわかりやすい解説に感謝。

著者のシンちゃん、Wikipediaによると彼は僕と同い年。学年は一個上。
イギリスの作家/テレビプロデューサーだという。
※サイモン・シン(Wikipedia)

ベストセラー「フェルマーの最終定理」も、これなら面白いに違いない。
タイトルで拒否らずにこちらも読んでみたい。

解説の巧さにも増して、ストーリーもどんどん引き込まれる展開だった。
史実を追いながら、まるで自分がその時代時代の社会に暮らしているかのような臨場感を与えてくれる。
結果が難解で複雑なモノも、そこに至る人間模様や、取り組んだその人の背景なんかを知ると、面白いように頭に入るというか腹に落ちるんだなぁ。

そんな名作「暗号解読」の中から印象深かったことをメモっておこう。

●エジプトのヒエログリフ
まず、ヒエログリフ。一番印象に残ったのはコレだ。
そもそもこの象形文字は暗号でもなんでもない、当時は普通に使われていた言語・文字だ。
しかし、当時の言語が廃れてしまった結果、誰にも読めなくなってしまったのだ。
言語が廃れる、ということは、その言語で記されたものは「暗号」になるという、考えてみれば当たり前のことに驚いた。

で、さらに興味深かったのは、エジプトのヒエログリフが何百年もの間誰にも解読できていなかったということだ。
長い間「絵文字(表意文字)」として取り扱われ、中には自己流に絵の並びから内容を推測する専門家までいたらしい。
※そんな専門家がいたから正攻法で解読しようとする人もなかなか現れなかったようだ。

話はそれるが、自己流に絵の並びから解読する専門家、という職業が今もあるなら是非応募したい。
「おぉ、これは、"蛇と女"と"壺の中のライオン"を組み合わせた絵文字ですな。この意味するところは、粘着質の女が自分の夫の自由を奪う、という意味じゃ。今も昔も変わらぬよのぅ。」
などと想像力を膨らませ解読して、いや、解読したかのようにみせる仕事も面白そうだ。

そんなこんなで、言語が廃れて数百年後、19世紀になってようやく、天才フランソワ・シャンポリオン(古代エジプト学の父と言われる人)が、アルファベットや平仮名のように「表音文字」だと突き止めた、以降は、正しく翻訳されるようになっていった。

詳しくはこちら(Wikipedia)

ヒエログリフの読み書きを指南するサイト!

↓はシャンポリオンさん。音楽室に貼ってあるポスターとは違います。



ということで、ヒエログリフの下りを思い返してるだけでも、テンションが上がるなぁ。
これからは、やっぱり、何百年、何千年も先まで記録を残したいなら岩に壁画かなぁ。

未来へに託す記録といえば、映画「10万年後の安全」(核廃棄物をフィンランドの山の中地下数百メートルに埋める話。既に穴を掘り始めていて2100年には完成する予定。らしい。)でも、10万年後の社会に「ここは危険物が埋められている」ことを伝える手段が無いと言っていたなぁ。10万年後の人間がいたとして、10万年後に文字や言葉でコミュニケーションしていたら、そのことの方が驚きになるもんなぁ。
映画『100,000年後の安全』

水曜日, 1月 25, 2012

問題:看護師のメモより

メンタルの問題を抱えたため、休職して入院した患者Sさんの周囲は賑やかだ。
家族の付き添いや友人の見舞いはもちろんだが、何しろ、毎日見舞いが絶えない。
毎日入れ代わり立ち代わり職場の同僚や上司らしき人、先週末なんて社長?らしき人まで見舞いに来ていた。
Sさんはもうじき退院する。退院後すぐに職場に復帰するそうだ。
彼の家族から、彼の職場は復帰に向けて準備万端整えていると聞いた。

※※※
さて、ここで問題です。
上記メモにはSさん自身については特に触れていません。
以下、A~EのSさんの記述それぞれについて、どんな職場なのか考えなさい。
参考として、どんな職場なのかを表すキーワード例を以下に示します。

【それぞれのケースでどんな職場を想像しますか?】
A.入院患者Sさんは会社の経営危機を救った後にメンタルで休職したスーパーヒーロー社員
B.入院患者Sさんはトラブルプロジェクトを立て直すきっかけを作った後にメンタルでの問題を抱えたヒーロー社員
C.入院患者Sさんはプロジェクトでの残業がきっかけでメンタルの問題を抱えた社員
D.入院患者Sさんは理由はよくわからないがメンタルの問題を抱えた社員
E.入院患者Sさんは理由はよくわからないがメンタルの問題を抱えた派遣社員

【参考:職場を表すキーワード】
「社員満足度」「管理職満足度」「離職率」「職場外でも尊敬できる/できないマネジメント」
「会社の業績」「会社/事業の未来への持続性」「社会貢献」「社会と人のために」など

※"看護師のメモ"はフィクションだよ。



月曜日, 1月 23, 2012

電子教科書を阻むもの、は多分もう無い

相変わらず電子教科書周辺は騒がしい。
正確には、「電子教科書周辺のお金の匂いに企業が騒がしい」。

次の段階は、「電子教科書周辺の子供の親たちが騒がしい」に進むようだ。
さすが企業のやることは抜かりがない。
戦略的に電子教科書採択への最短距離を着実に進んでいるようだ。

教科書屋さんやiPad屋さん達が「電子教科書にしましょう」では胡散臭さを感じる人もいるのだ。
でも、親たちに言わせれば学校は否応なく採用する。子ども自身は何も知らずに大人に従うのみだ。
親たちに言わせてしまえば、業者は「そうですかぁ。致し方ありません、お売りしましょう。」となる。

親たちに言わせるにはどうするか、こんなニュースがあった。

「電子教科書のほうが教科書より学習効果が高い」

アメリカの教科書出版会社とiPadのAppleが共同で調査し発表したようだ。
そんな結果しか出ないに決まっている。
ここで報じられている「電子教科書」とは、モノは電子教科書だけど中身は「教科向けゲーム」だったのだから。

そして、これからは日本でも同じような調査発表が続くだろう。
これは効果的な戦略だ。「学習効果が高い」と言われて反対する親はそうそういないだろう。

学習効果があろうがなかろうが「漫画で学ぶナントカ」シリーズは教科書にならなかった。
漫画を教科書にしている国があるとは聞かないから、多分、世界共通の常識は、「漫画は教科書にしない」だったのだろう。

これまでの日本の常識は、集団の学習と個々人の遊びには何らかの境界を設けるものだった。
姿勢を正して学ぶ、スタイルだ。

一方、先ほどのニュースにある電子教科書とはゲームだ。
多分、一人でそのゲームに取り組んでも学習効果のある内容なのだろう。
教室で集まってやる必要はそれほど感じられない。

電子書籍もネットも空気のように存在する中で育った子供たちが何を失っていくのか、僕にはよくわからない。
ただ、それが空気のように当たり前に存在するようになると、そんなものは大切にしなくなる、ってうのが人間という事は言える。

ということは、電子教科書がなければ勉強ができない、となる気がしてならない。
同様に、ゲーム化された電子教科書がなければ教えられない、という教師も増えるだろう。

もちろん、専用のゲーム化された教材がなくても学んでいく子供もいるだろう。
だが、全体としてはどうなんだろう。平均としてはどうなんだろう。
つまらなそうな教科に興味を持ち学ぶ能力、という能力は幻想なんだろうか。

なんだかジジ臭くなったな。
でも、そういう事が気になるのだから仕方がない。
結果、充分なテストも何もなしに、わずか数年で子供たちの学ぶ場に導入されるのだろう。
原発よりはリスクが少ない、とでも言うのだろうか。。。

そういう時代だ、といえばそれまでだけど。
あちこちで、「未来の子供たちのために」とか、言わなきゃいいのに。
期待しちゃうじゃん。

※ハミ出し
子供時代を思い返して感じる紙の本の良さ
・情報量や内容に応じて質感が変わること。小説の内容を忘れても量だけ覚えていたりする。
・年月の経過で質感が変わること。兄弟が読んだ、従兄弟から貰った、、、ボロほど価値がある気がする。
・原始的な表現となるため想像力が鍛えられること。ゲームは解くことに夢中になりがち。ビジュアル付きだし。
・物理的な傷(折る、破る、追記する)をつけられること。モノ全体として自分のオリジナルのものになる。
・人にそのまま譲り渡せること。←これがビジネス的著作権的には面白くない
・その本が読まれ年月を経た質感は、その本固有の質感となりコピー出来ない。読んだお気に入りの本を大切な人に譲る、とか、それは本屋さんで買い替えることとは全く意味が違う。
・本の質感自体がその人にとってかけがえの無い大切な記憶となること。本に触れたときに読んだ時の感覚を思い出すとか、あるよね。教科書の表紙のテリテリ具合やザラザラ具合なんて今も覚えている。

日曜日, 1月 22, 2012

タモリ倶楽部 2/2



昨日からの続き。
昨日は、タモクラの良さのうち、
1.レアなテーマを探しだす
2.レアなテーマを高尚な視点と下衆な視点双方から掘り下げる
3.「実」を取る主義の徹底
まで話を進めた。

では続けよう。

4.正直であることの徹底
前述の下ネタに話題が逸れがちなことも含め、基本、正直である。
今回は"飛び出し坊や"の生みの親に収録現場から電話をかけるという、この番組としては思い切ったテを用意したが、電波状況が悪かったらしく、先方に話が伝わりにくいと判断するや否や、そのコーナーは中断となった。

他の番組でも同様の光景を見かけることがあるが、話を取り繕ったり、先方が言おうが言うまいが、番組司会者が予定調和的な話を補完したりするが、タモクラではそれは無い。
「聞こえていなければもういいです」的な締めくくりで電話は切られ、それ自体放送されている。
タモリ倶楽部は生放送では無いが、当然、必要な編集はされているとはいえ、編集で切り刻まれた感がないのだ。

後述するがソラミミのコーナーを務める安斎さんは、タモクラ界では遅刻の常習者で有名だ。今回の梅屋敷での収録では、ソラミミだけでなく本編にも登場したのだが、30分遅刻したらしく、撮影開始時には間に合ったものの「遅刻したお詫び」とももに、番組開始しばらくしてから撮影に加わっていた。

ちなみに、彼の住まいは横浜のはずなので、梅屋敷まで30分とかからないはずである。
それが、30分の遅刻をしたのだから、彼は、集合時間に家を出たということになる。
一般の人であれば外出先から訪れた可能性も否定できないが、この番組収録は日中なので、彼の朝一の仕事であったに違いないのである。

これがごく自然なテレビカメラの先で起きている事だ。他の番組がいかに不自然かということに、今さらながら気が付かされるわけだ。

5.適度な息抜き
一見、本編も緩い雰囲気で緊張感など無いように思えるだろうが、あまりにテーマが突飛なこともあり、息抜きが必要だ。
ごくたまに、手抜きテーマのように誤解されやすいテーマの時など、ある意味、保険的な意味合いも兼ねての「空耳アワー」コーナーがある。

このコーナー。通常の回では、テーマを掘り下げる本編の出演者はタモリ以外に出演しない。だから、どっか別の場所で、かつ、まとめて収録することも可能なわけだが、必ずロケ地で収録する。
ロケ地が外であっても構わない。とにかく、本編の撮影をしている場所もしくはその近辺で収録されている。

こうすることで、本編とは全く関わらない「空耳」というテーマが、本編の匂いを途切らすことなく番組のほぼ中央に据えられるわけなのだ。

「適度な息抜き」とは、そうでなくてはならない。
仕事中の適度な息抜きが居酒屋で酒を飲むというわけにいかないのと同じだ。
仕事場を離れること無く、意識だけが仕事を離れ妄想に浸る、それが適度な息抜きというものなのだ。

6.柔軟な出演者組み合わせにより広範なテーマを料理
この番組のテーマの範囲は、とてつもなく広い。以前「蟻の飼育」というテーマさえあった。
番組では蟻の飼育にハマっている人達を集め、その、魅力を大いに語ってもらう趣旨だった。
あるいは、昆虫が糞をするシーンを観よう、という回もあった。

このように、テーマを深掘りしようにもどう手を付けるのか、そもそも出演者側には、そのテーマに関して「語れるような人」がいない場合もある。

そこで、タモクラでは、出演者のバリエーションを広げる、という方策を取っているのだが、その方策はユニークなものだ。
例えば今回の「飛び出し坊や」であれば、美術的方向性がテーマになるのは歴然としている。なにしろ第一人者がみうらじゅん氏なのだ。
そして、番組お抱えとも言えるアーティストとして安斎氏を据え、番組の中心にタモリ、とくれば、後は司会進行役をどうするか、ということになる。

他の番組であれば、多少アート方面にも明るいタレントを起用するところだが、この番組はなんと言っても空耳アワーを擁する番組だ。
アート方面、、、、、なら、「ホンコン」でしょう。

ということで、ホンコンが司会を務めるのだ。
今回のテーマ掘り下げで、ホンコンが一司会進行に留まらず、テーマに対するスパイス的な役割を果たしたことは言うまでもない。

7.形式化と破壊(イノベーション)
もはや形式美、とも言える番組冒頭での「毎度おなじみ流浪の番組タモリ倶楽部です。今日は・・・」で始まるタモリに、タモリの話を遮る形で共演者たちが加わる、と、ここまでが形式化されているわけだが、共演者たちがどうタモリの話を遮って、今回のテーマを持ってくるか、が見所の一つだ。

共演者達は様々な方法でフレームインしてくるのだ。
タレント(特に若手芸人)にとって、フレームインテクニックを試す貴重な現場となっているのは言うまでもない。

そのうち、番組事態で取り上げることになると思うが、この番組では、通りすがり系:「お、タモリさんじゃないですか」と入ってくるパターンが多い。
他の番組ではあり得ないが、そこで、「さっきから見てたろ」と突っ込むタモリは燻し銀のような輝きを発している。さすがである。

8.番組のオープニングとエンディングの芸術的な舞踊風景
地デジ化で新しく撮り直された(撮り直し自体も番組化された)オープニング、および、エンディングの舞踊する女性の臀部を後ろから撮影したアーティスティックな映像。
何度見ても飽きない。ありがとう。

ということで、もう充分だろう。
タモリ倶楽部は面白い。のだ。

土曜日, 1月 21, 2012

タモリ倶楽部 1/2



は良い。
先週(首都圏でいつかはよくわからないが)の放送などは、典型的な「タモリ倶楽部の良さ」が詰まった放送だった。

先週の放送を例に、その魅力を書き残しておこう。

1.レアなテーマを探しだす
先週のテーマは「飛び出し坊や」だった。
まず、「飛び出し坊や」と聞いても何のことだかわからない。
世間で流行っているか、よりも、深く追求している人がいるかどうか、が重要なのだ。
過去に、もう10年以上エロ漫画雑誌にエロ漫画を投稿し続けるナントカさん(名前は忘れたがその投稿を見たことはある気がした)の作風の変化などを追った回もあった。
今回の飛び出し坊やとはこちら→

この「聞いてもわからないテーマ」を取り上げている番組としては、他に、放送大学の講義がある。放送大学のテーマヒット率(番組を最後まで観ようと思わせる確率)は、1/7ぐらいなのだが、タモリ倶楽部はその数倍2/3ぐらいになるのではないか。

さすがのタモリ倶楽部も、3回に1回程度はテーマを外す場合もあるのだけど、まぁ、それはこれから述べる他の要素で充分にカバーするのだ。残念ながら放送大学の場合は、テーマ以外にカバーする要素がないので、結果、放送大学の番組を観る機会はまずない。

2.レアなテーマを高尚な視点と下衆な視点双方から掘り下げる
番組では、まず、様々な「飛び出し坊や」を分類する。
このテーマの研究者である「みうらじゅん」はかれこれ30年ほど(まだ高校生だったという)写真に記録し続けている。

その飛び出し坊や研究家の第一人者が、ここからが重要なのだが、「自由に」テーマに対して論評するのだ。
時に仏像の伝搬(同氏は仏像に関する研究者としても知られる)との対比をし、時に、その造形から性的な連想を想起させるとの話題まで、実に自由なのだ。

タモリ倶楽部では、共演者についても、発言内容は自由だ。
度々、いわゆる下ネタに話題が逸れているように見えるが、ある説によれば成人男性は17秒に1回性的な想像をするのだというから、この番組自体はとても自然かつ自由に出演者たちが思った通りの発言が許されている稀有な番組なのだ。

自由に発言する番組といえば、朝生(これも奇しくもテレ朝だが)があるが、あちらも自由ではあるものの、まぁ、タモクラの前には大人げないと言わざるを得ない。
そんなわけで、タモクラは観るものの共感を得られないはずがないのだ。

3.「実」を取る主義の徹底
今回の「飛び出し坊や」発祥の地は滋賀県なのだという。
単に垂れ流され続ける普通のテレビ番組であれば、スタッフや出演者が滋賀県に取材し、場合によっては現地ロケや中継を組むところだ。

が、タモリ倶楽部は、そんな無駄な時間は使わない。なにしろ、毎週1テーマを前述の深さでこなし続けるのだ。
表面的な派手さなどタモクラには不要だ。テーマを深堀する「実」が取れれば良いのだ。

ということで、今回は、滋賀出身の番組ADが帰省した際に撮影してきた映像を参考映像として使用していた。番組は、その情報と、みうらじゅん氏の撮り貯めた飛び出し坊やの写真を中心に我々視聴者に必要十分にテーマの深遠さを伝えていた。

ちなみに、番組は京急梅屋敷駅近くの喫茶「琵琶湖」で収録されており、ここまでテーマに対し真摯に向き合い、僅かな隙も許さない番組は、残念ながら他に観たことがない。

話は長くなるので明日に続く。

金曜日, 1月 20, 2012

身近なバグ(でも直せない?)

よく見かけるけど実は誤り→「言われなくても勉強しなさい」と言われて勉強する。
正しい姿→「言われなくても勉強しなさい」と言われたから勉強しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「言われなくても勉強するようになれたらいいねー」

・類似ケース
よく見かけるけど実は誤り→「指示されなくても行動しなさい」と指示されて行動する。
正しい姿→「指示されなくても行動しなさい」と指示されたから行動しない。
あるいは正しいお願いの仕方→「指示されなくても行動できるようになれたらいいねー」

単に言葉のアヤと思っていたけど、そうではない。
「言われなくても・・・」とは、言われない場合に・・・する、なのだから、言われたからやらなくても間違っていないわけだ。我慢して言わなかったら、やったかもしれないけどねぇ。

言われずにやって欲しいことを「言われなくても・・・」と伝えること自体がバグなのだ。

言われた時にこんな言い訳をしたら叱られるだろう。
僕もいい加減50歳も近づいてきて、会社の上司に、こんな口答えはしない。多分、していないと思う。
(汗)
が、でも、厳しく言わせて貰えば、「本気でないから間違った言葉のまま繰り返している」のではないか?


「言わなくても」の真意は「主体的に」なって欲しいのだろうとは思う。
でも、本当に「主体的に」なって欲しいなら、そんなバグのある言葉を発せずに、本人に気づかせなければならない。
本気ならそうするハズだ。

自分で考え気づかせることをせずに声高にバグっている言葉を叫び続けるのは滑稽だ。

なのに、同様にバグに気が付いていない人からの評価は得られてしまう。
口うるさく「言われなくても勉強しなさい」を唱える親御さんを教育委員会とかは教育熱心だと評価するだろう。

でも、肝心の、そうしてもらいたい人達からは支持されない。
「やろうと思ってたのに言うんだもんな」と、感じてしまうのだ。ま、"やろうと思ってた"も嘘なんだけど。

あろうことか、「あれだけ酸っぱく言ったのに、わからん奴らだ」とか、間違いに気づくどころか居直ることもしばしばだ。

だから、これは厄介なバグなのだ。
ということに気が付きました。←今さら何を言う

姉妹品「皆でリーダーシップを発揮しよう」もヨロシク。

※はみ出し
 この週末で読み終える「暗号解読(上下巻) サイモン・シン著」が"超"面白い。
 書いてあることを試したくなって、人生最高桁数手書き計算「十"兆"」の計算をしました。単なるわり算だけど。
 ↓記念写真

木曜日, 1月 19, 2012

これが

カレーラーメン。

水曜日, 1月 18, 2012

国語のテストの時間です

こういうテスト問題があったら皆はなんと回答するのかなぁ。

【国語の問題】
「長く使うのがエコ」に続く文章で最も適切なものを選びなさい。

①「今あるものをを長く使いなさい」
②「これを買いなさい」
③「安くなる特典付きだから急いで買いなさい」

某フォルクスワーゲン社のCMによると、正解は③らしい。
なるほど、多分、道徳的に僕が間違っているのだろう。

そのCMはこちら↓。(CMのくせにブログへの「埋め込み」を許可していない。)
http://youtu.be/4PMtrpzfi1U


これを見た時、思わず笑ってしまった。ウケた。

まず、皮のブーツなんかを映して、"いいものを長く使う。それが本当のエコ"とくる。
ここで僕は「いいこと言うじゃん」と身を乗り出す。

次に、"フォルクスワーゲンにしませんか?今ならエコカー割引10万円。"とくる。
これで僕は「なんでやねん」とテレビに向かってコケツッコミを繰り出す。

そういうCM。

※ハミ出し
 どこに委託しているのかしら無いけど、以前からフォルクスワーゲンのCMって、僕的には残念な感じが多いなぁ。

火曜日, 1月 17, 2012

ワンショット360度撮影卵型デジカメ「TAMAGGO」

以前に、何回かバーチャルリアリティ関連の話題を取り上げたことがあった。
・光を記録するカメラ
・ヘッドマウントディスプレイ
・視聴覚交換器

またまた期待できる機器が発売された。
名前はTAMAGGOと言う。卵型の360度ワンショット撮影機能デジカメだ。

見るのが早い、↓のビデオ、特に1分36秒辺りから、このカメラで撮影した"結果"が疑似体験できる。


うーむ、唸ってしまう。
やはりこうして実際に「こうなりますよ」と見せられるとインパクトがある。
こーゆーデバイスが登場して、次に期待するのは、静止画→動画、であり、この動画をどう再現するかということになる。
それは、間違いなく、ヘッドマウントディスプレイだろう。

視線を向けた方向の景色が見えるわけだ。
ここでようやく没入感は次の次元へと行くわけだ。

(普及には時間がかかるだろうが)
そうなると新たな表現手段を得たことになる。
芸術的センスを持った人にこれを持たせると何をするだろう。
※ここで、海外旅行の体験、とか言うと、それはフィルムカメラが普及し始めた時代にもそうだったらしい。
 当時の映画は、まだ知らぬ珍しい海外の様子をただ写したものだったらしい。
 というより、「映画」なる表現手段が確立されていなかったのだから致し方ない。

うーん、過去の映画を、その世界に入ってみている感覚、だけでも相当面白い気がする。
スターウォーズの世界に没入してシナリオを追っていくのは、小説とも従来の映画とも、もちろん3Dとも全く違うだろう。
なにより、これで、次世代は3D、という芽はなくなるかもしれない。
圧倒的に3Dよりも360度の方がインパクトも没入感も大きいから。

当然、3D×360度だってあるだろう。

うーむ。
やはりメモリーやハードディスクメーカーはまだまだムーアの法則を継続しなくてはならない。
突っ込みどころ満載の乱暴な計算をしてみれば、ワンショットで、普通の写真の縦(上方)×縦(下方)×横×前後で3×3×3×2でも54倍、4×4×4×2だと128倍もの容量になる。
DVD画質で2時間録画で百GB、3Dにすると数百GBというトンデモ容量だ。

ふぅ。眩暈がするのでコンテンツの話しに戻そう。

十年後か二十年後か知らないが、いずれいつか新世代HMDによる360度動画視聴の普及期が来るとしよう。
そのメガネをかければ、上下左右前後何処を見ても、撮影されたその場所の景色が広がるのだ。

黎明期には、歴史が示す通り、海外旅行の体験ビデオとかが流行るのだろう。
そんな時期を過ぎ、いよいよ普及期が到来する。

まず、ヒットするのは、新感覚のホラー映画だ。
後ろを振り向く、というのは、かなり恐怖だ。振り向かないと何が来ているのかわからないし。
振り向くと後ろの景色が見える。何も居ない。いや、正面の主人公は明らかに自分の後ろを見て震えている。
何がいるのか、もう一度振り向く、キャーーーーー、こりゃー間違いなくホラー映画のイノベーションだ!

戦争映画も良いかもしれない。
3D最初のヒット作のあの青いなんかの映画も、3Dの戦闘シーンが話題になった。
うーむ。やはり、ホラーやアクション映画を中心にカナリ面白そうだ。

遠隔地にいる誰かの360度カメラで撮影したライブ映像を見るのも凄そうだ。
真冬に暖房を入れていない部屋で、ハワイのビーチの360度映像に浸るのも興味深い。
僕の脳と身体はどう反応するのか。何をどう見ても常夏の景色の中で、ふるえる自分。いや、暖かく感じるのか?エアコン効き過ぎだー、とか思うのか?


ただ、今のヘッドマウントディスプレイではぜんぜんだめだ。
xメートル先の大インチディスプレイ、ではないのだ。視界全てを遮る映像でなければならない。
どの方向を見てもリアルタイムに映像が切れ間なく切り替わるのだ。

うーん、早く体験したい。
メーカーの技術者の皆様、がんばってください。ヨロピク~♪