火曜日, 2月 14, 2012

構造的多忙症候群(わりと深刻)


↑は本文に関係ありません。

昔、いや、大昔、小学生ぐらいかな、の頃の話。
なんだかんだとまぁ、毎日、何かしらの宿題があったように思う。
で、当然ながら宿題自体を忘れていなければ、宿題だけはやっていた。
うん。意外にも宿題をやる子だったな。僕は。

で、夏休みや冬休み。
この時は、大量の宿題を抱える。
当時の小学生全てが大量の宿題を抱えていたのだから、日本が宿題一色になっても良い気もするが、そんなことはなく、毎日毎日、宿題のことは忘れて遊び呆けていた。

大量・長期間、というのは、今日一日サボるには好都合なのだ。

しかも、家の手伝いなんか(当時、うちの実家は自営業で慢性的に人手不足だった)を断る手段としても有効なのが「大量・長期間」の宿題の存在だ。

手伝い要求に対し、
「まだ今日の日記帳を書いてない」
「今日は自由研究の虫取りに行く」
「ドリルが終わっていない」
「図工の宿題で風景画を書きに行く」
「笛の練習」
とかなんとか、金銭を伴わない手伝い要求拒否の手段に宿題を持ち出していた。

結果、夏休み最終日は悲惨なものだった。

日記帳は一日目の途中までしか出来ていない、
自由研究は今にも壊れそうな菓子箱に虫の死体が刺さっているだけ、
ドリルは答えを丸写し、
風景画は絵の具調合に失敗した凄い色の抽象画、
笛の宿題は元々あったのか無かったのか記憶がない、(っていうか笛が見当たらない)
という事態に陥っていた。

最終日にどんなに品質を落としても納品しようという健気な少年だったのだ。
このことからも分かるように、「大量・長期」というのは、僕の手に余る。

夏休みの大量・長期タスク処理を、独りでしっかり出来る人の割合は、多分、10%もいないんじゃないかな。
大抵は、怖い先生、もしくは口やかましい親の協力なくしてやるハズがない。
たまたまうちは、「放任主義」だったので、手伝い要求さえ回避できれば最終日まで深刻な宿題要求は無かった。
で、最終日を迎え、自己責任のもと品質を最低に、生産量を最大に、処理していたわけだ。

今思い返して、夏休みの宿題は「期限」が明確で「持ち越し」ができないからマシなのだと気がついた。
この「持ち越しができない」というのは素晴らしいことなのだ。

通常、夏休み明けに宿題を提出する。
夏休み開ける前に宿題を提出するような子供は僕は知らない。
そんなわけで、夏休み明けに宿題を提出する。

それで、まぁ、出したものは、どれもこれも酷い品質だ。
忘れていたり、忘れたふりをしたりして出せないものも少なからずある。
笛の宿題は、宿題も忘れたなら笛そのものも無くなっていたりする。

そんな滅茶苦茶な状況で、更に、宿題の「持ち越し可」だったら最悪だ。
文部省だったらやりそうで怖い、と思ったが、今の僕は小学校の宿題に苦しめられることはないので、やってくれてもいいよ。

そんな「もちこ歯科」じゃなくて「持ち越し可」の時代がやってきたとする。
大量の夏休み宿題を持ち越す。やらなくても持ち越せるのだから最初の夏休みはハッピーだ。

次の冬休み、前回の夏休みの不合格品に冬休みの宿題が加わる。
雲行きが怪しくなる。

これを小学校一年からやっていたとする。
僕の場合だと、多分、小学六年生の冬休みには、ほぼほぼ過去六年12回分の夏冬休み宿題が残っていたことだろう。

これは、親に言い訳をするまでもなく、家の手伝いどころではない。
家中が過去の宿題の残骸で取っ散らかっているであろう。
12個の自由研究、12個の図画工作、12冊の絵日記、12冊の漢字ドリル、12冊の算数ドリル、、、、、

よかった。
あらためて僕の時代は「持ち越し不可」だったため、そんな事態には至らずに済んだ。
いや、いつの時代も「持ち越し不可」でよかった。文部省、ありがとう。

これからも、小学六年の冬休みは、その時の新しい宿題だけ溜めておけばよい事を祈る。
中学へ宿題を持ち越すことも不要なことを祈る。
いやー、よかった、よかった。

振り返って大人の世界。

ありとあらゆる「管理表」が職場には溢れている。
宿題の管理表は「残件リスト」的なものか。

僕の場合は、幸か不幸か、プロジェクトでの仕事になるので「持ち越し不可」「成績のみ持ち越し」なので、プロジェクトが変わる度に残件リストはリセットされる。
どんなに酷いプロジェクトだったとしても、次のプロジェクトに行く際にはリセットされるのだ。
(成績はリセットされない。あしからず。)

しかし、長く同じ職場で安定成長してきたようなケースだとそうはいかない。
宿題は永遠に「持ち越し可」となる。
しかも、小学生の宿題ではない。大人の話だ。
大人らしく、きちんとリスト化され、定期的に進捗をチェックされる。

数年も同じ職場にいれば、「管理表フォームの限界に合わせて最大件数」のリストが出来上がる。
リストの中で本気で対応するのは優先順位が高いもので、後は「着手済み、今月は進捗なし」となる。
優先順位が高いものに手が取られるので必然的にそうなるわけだ。

面白いのは、何年も「着手済み、進捗なし」の残件が、たまたま担当者が異動したりすると、そのほとんどが消えてなくなることだ。
引き継がれないそれらの残件は、その人がいなくなればなくなる運命なのだ。

だったら移動に関係なくリストを整理すればいい、とはならない。
リストに存在していることで「いつかはやらなければならない」事を忘れずに済むという安心がある。
また、「いつでもやれる」事がリストにあるので、忙しくない状態は未来永劫無いことになる。
これは、担当者にとっても管理者にとっても新たな仕事を断る格好の理由となる。

「この新しい取り組みできないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」

「君のチームでこの取組できないかな?」
「出来るわけありませんよ。残件リスト見てくださいよ。」

個人、組織に関わらず変化を拒むツールになるわけだ。

かくして、構造的に多忙な状態が出来上がる。
本当に忙しいかどうか、に関係なく、「残件リストで手一杯」なことが証明済みなわけだ。

これを「構造的多忙症候群」と呼ぶ。
だれもそんな風に呼んでいないが僕がそう呼ぶことにした。

はぁ、忙しい忙しい。

0 件のコメント: