月曜日, 1月 24, 2011

二晩ほどかけて、ゆっくり沁みる映画



極度の緊張は、思考能力や感情を停止させることがある。

例えば、最近、と考えてみたけど、初老とも言えるこの年令になると、さすがに簡単には緊張しなくなって、むしろ、緊張感のない生活で、目も口元も体も全体にだらし無くなりさえしている。少なくとも最近は極度の緊張を感じたことは思いつかない。

それでは、話が全く進まないので、今さっきの事は忘れてしまうけど、忘れることのない昔の話を思い出してみよう。

例えば、遠い昔、ピアノの発表会。それも幼少の頃の発表会。
これなんかは、極度の緊張の最たるものだった。
一度など、鼻血を出したこともある。そういう時に限って、衣装は、白いスーツだったりして、周囲からはぴんからトリオとか言われたものだ。
白いスーツに真っ赤なネクタイ、そして、鼻血のシミ。

そういう緊張極まっている時というのは、何かを考えて行動していないのは確かだ。
ロボットのように決められた場所でお辞儀して、決められたコースをギクシャクした足取りでピアノにたどり着き、座り、何も考えずに弾き始めるのだ。
弾き始めに、「どう弾くか」など考えてはいけない。客席にかぼちゃが並んでると思え、とか言うけど、これもダメだ。客席の存在自体を意識に置いてはならない。

「僕はカラクリ人形です。」ぐらいの自己暗示が必要だったのだ。

だから、ピアノなんて、目を瞑って弾けるほどに練習しないといけない。
本来であれば、音楽としての完成度を極めるために練習を積むのだろうけど、当時の僕は、そんな事は思いもつかず、ただ、ソラで弾けるようになる事を目指していたし、それでようやく、自分の記憶に残せない緊張感の中で一曲弾くのだった。
だから、「演奏どうだった?」と聞かれても、「ドキドキした」しか記憶にはないのだ。

そんなだったから、高校生ぐらいから始めたロックバンドでは、ただただ、自分が楽しむ事に徹していたし、バンドの仲間から「練習嫌い」と言われようと、無理に練習することすらせずにいた。
練習は緊張を産むのだ。

なんか、こう書いちゃうと、緊張が良からぬもののように読めちゃうけど、当然、必要な緊張とか、そういうものは理解しているつもり。
ただ、緊張が嫌いだったし、緊張に打ち勝つような強さが無かったのだと思う。


さて、話し戻って、その緊張による思考停止を最近経験した話。
それはチョット前に観た「Frozen River」という映画。

この映画、とても静かに、言ってみればさほど大きな事件があるわけでもなく、淡々とストーリーは進んでいく。登場人物たちも、北九州に住んでいれば目立つかもしれないアメリカ人とアメリカンインディアンだけど、映画の舞台はカナダに接したインディアン居留地のある小さな街で、ごく、普通の人達だ。

なのに、気がつくと登場人物たちの極度の緊張状態を共有していることに気がつく。気がついたときには、その緊張感から逃れることは出来なかった。

多分、数分のラストシーンで、緊張感から解放された、と観終わったときには思っていた。
ただ、ほっとした気持ちと同時に、なにか、引っかかるようなモノを感じて、時々、そのシーンが目に浮かんだりする不思議な感覚があった。
実は、その緊張感は、映画を見終わった後も何日か続いていたのだ。


そして、今日。
観終わって二晩を経た今日、ようやく緊張感から解放されたと実感した。
スッキリした、とは違う、沁みたなぁという感覚。

時間が必要だったのだ。正に、あの映画が描いた日常の小さなドラマが、必要な時間をかけてようやく染み渡ったのだ。

極度の緊張から解放された後、じんわりと数日かけて心に沁みる。

そのじんわり加減は、映画のストーリーと重なる。
映画に描かれたた凍りついた川が、春の訪れとともに、ゆっくりゆっくりとその流れを取り戻すように、映画を観た僕にゆっくりゆっくりと沁みてくるなんて、実はすごい映画なのかもしれない。

ただ、一般に、映画の評価は観終わってすぐの評価であることが多いだろう。そう考えると、なかなか、評判を得るタイプの映画ではないかもしれない。
と、調べてみたら、アカデミー脚本賞にノミネートされていたようだ。
NHKがスポンサーに加わるサンダンス映画祭では、しっかりと、グランプリに輝いている。

なんだ、僕が鈍かっただけか。
沁みただけ良しとしよう。

↓はフローズン・レバーです。

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