水曜日, 9月 22, 2010

宇宙スケールの明日



確か、レオナルド・ダ・ヴィンチが言ったと思うのだけど、「いずれ地球は海で覆いつくされるのだ」という話。
確かに、地球という宇宙から見れば小さな箱庭の中で、陸は風化するのみ。
そして、風化を超えるほどの新たな陸地は通常の想像では登場し得ない。
何があるかは誰にもわからないとはいえ、いずれ全ての陸地は体積比で圧倒する海に消える、というのは(余りに遠い未来で想像もつかないが)納得出来る。

質量保存の法則→陸地は風化するとその全てもしくは一部が海に溶ける→新しい陸地と風化のスピードでは風化のスピードが速い→陸地の体積よりも海の体積の方が大きい→陸地は海に吸収される
一方で、「地球の歴史を一年とすると」によると、宇宙スケールで考えれば、いずれ地球上の水は拡散し、海は無くなるのだという。
※地球の歴史を一年とすると、12月31日の16:20に人類が誕生したのだそうだ。朝ごはんもランチもオヤツも食べそびれた。もう夕飯時じゃーん。


話変わって、プロプライエタリなのは分かっているのだけど、グーグルの漢字変換を使っている。便利なのだ。
日々、検索される文字列を変換候補として表示するシステム。これが案外、他のどのかな漢字変換よりも上手に変換してくれる。
さっき入力したレオナルド・ダ・ヴィンチだって、「レオナルド」で、もう「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を予測して候補として表示してくれる。
「たべほ」と入力すると「食べ放題」「食べホ」と何故か「食べ放題酔龍」が表示されるのだ。そんな有名店があるのか。。。しかも横浜中華街。もしかしてグーグルに広告料払うと変換候補に表示される?


とにかく、圧倒的な情報量は、当初は良く出来た(と思われた)、考え抜かれたロジックを凌駕するのだ。
この考えたでいけば、言語の壁もいずれ無くなるのかもしれない。


しかも二つのパターンで言語の壁は消えていく。
(あくまでウン万年とかの話ですよ。僕には英語すらコンプレックスなんだから。)

一つ目は、少数民族の言語のように、廃れる言語があっても新しい言語はそうそう生まれない。ということは、言語というものは、減っていくだけの運命にあるということだ。次のスーパー翻訳機が出来た後は減らずに済ませられるかもしれないけど、それまでは使用者が少なければ衰退するだろうなぁ。


そしてもう一つはスーパー翻訳機。圧倒的な情報量がロジックを駆逐するパターン。
翻訳前の文章と翻訳後の文章の組み合わせをどんどん蓄積していけば、何十年か何百年か何千年後に、ヒトが翻訳した自然な翻訳文をデータベース化してしまえば、まぁ、必ず似たような文章がヒットして、その訳文も同じようにヒットするはずだ。

もちろん、言語は生き物で、どんどん変化していく事もわかるけど、とはいえ、その勢いを超えるペースで訳文も増えていればいつかは追いつくはずだ。


この「時間のスケールを極大化して情報量でロジックを凌駕する」遊びは面白い。
他にも、(以前紹介した)自動作曲ソフトウェアが、長い時をかけて、音楽として成立する音の組み合わせ全てを作りきってしまう、なら、音階の連なりとしての音楽の独自性なんてのはあまり意味はなくなり、むしろ、その音階の連なりをどういう風に表現するか、が、人間のユニークさになっていくだろう。音痴なんかは、人間にしかできない技で、いつかその未来には神妙な心持ちで音痴に耳を済ませ、聴き終えた(終わりが分かり難いのも音痴の特徴だったりする)瞬間に「ブラボー」と叫んでいるのかもしれない。

いやいや、音楽として認識出来る音階の連なり、の、音楽として認識出来るという部分だって長大な時間を経れば変化していくことが考えられる。
今は雑音にしか思えない音階や、不協和音や、半音と半音の間の音を使った音楽も、未来の人間社会では受け入れられているかもしれない。
現に、明治時代のヒトが、えっと、パヒュームじゃなくてパフュームとか聞いたら、音楽には聞こえないかもしれない。(←昭和の僕ですらパヒュームとか打ち込んじゃうし。。。)

他にも、小説のように「妄想」を表現したものもそうだ。音階の連なりと違って、妄想については、時代のスケールをいくら極大化してもその表現を受け入れる人間の文化の変化の方が早いだろう。どうひっくり返っても前述の翻訳のようにはならない。文化の変化は極大化した時間のスケールでは追いかけることが出来ないのだ。

絵などの芸術作品はどうだろう。
ある「○○風」が確立されては模倣され壊され、音階の連なりに相当する「○○を絵で表現する」事自体は、もはや絵に描かれていないモノなど無い。○○風までは、単なるパターンなのだから既に画像編集ソフトでも写真をピカソ風にするとか、はコンピューターで簡単にできるだろう。

が、「どういう風に表現するか」は、前述の音楽と同じで予測不能だ。おそらく何億年先も新しいユニークな表現が登場していることだろう。
その時代時代の文化を背景に、何をキャンバスにして描いているのか、どんな絵筆を握っているかは想像もつかない。眼球をキャンバスに分子レーザーでその人にしか見えない絵を描く、とか。


秋の夜長にそんな事を考えていて気がついた。

ヒトがヒトである原点は、「変化を起こす」ことなのだ。
今でこそ洋服を着て、言葉を話し、プライバシーという概念で動物の本能的な行動の一部を隠匿し、まるで、神様か何かのような取り澄ました社会生活を(一部の人々は)送っているが、人類の歴史から見れば、せいぜいこの数千年の話だ。いずれ大晦日の夕方以降の話なのだ。

それ以前は、動物園で見るゴリラや猿といくらも違わない生活を送っていたのだ。いや、正に地球という限られた庭の上で、人間以外の様々の動物と一緒に弱肉強食・食の連鎖の中でバランスを取ってある意味美しく、正しく存在していたわけだ。


キューブリックが映画A.I.で描いた数万年後の地球は、氷に閉ざされ、もはや人間は物理的な形態を失い、精神的な存在(肉体はどこか安全な所に存在しているのかもしれないが)になっていた。
変化に対応するとは、そういう事だ。肉体は変化への対応に限界値があるが、精神はどんな環境変化でも消失しない。

精神的な存在としてのヒト。
それはそれで便利そうだし、あまり、悪いことが出来なさそうだし、いいことづくめに思えるのだけど、一つ残念なことがある。
それは、食べる楽しみ(排泄する手間も含めて、)が無くなることだ。

いやはや、精神的な存在になってしまった時代に生まれなくて良かった。
今日も明日も明後日も、美味しくご飯を食べましょう。(毎朝スッキリしましょう。)

0 件のコメント: