火曜日, 3月 01, 2011

イノベーションは起きない(その時がくれば起きる)



イノベーションは何故困難なのだろう。
いや、意図的に起こそうとすると困難に思える事が多いのに、実際に「起きる」ときは、何故起きたかもわからないようなのがイノベーションなのかもしれない。

チュニジアのジャスミン革命は、野菜売りの青年の落胆と抗議の焼身自殺がきっかけで起きた。
決して、何ヶ月も周到に準備されていたわけではない。
もちろん、Facebookだとか、理由は様々あるだろうが、「Facebookがあるから革命だ!」というわけじゃなかった。理由は結果論でしかない。

一方で、変革だ変革だ、と、シツコイほどに言われているのに、何にも変わらず、あまりに耳に慣れ過ぎて、もはや元々の意味すら怪しくなってきている事もある。っていうか、世の中に多過ぎ。
最近では多くの企業で、「イノベーションカンパニー」だとか「イノベーションフューチャー」だとか、むしろ、イノベーションを唄わない企業の方が少ないほどだ。

なのに、イノベーションの成功事例は少ない。
星の数程あるチャレンジの中で、成功するのは、ほんのわずかだ。
そうして、チャレンジに失敗して、あるいはチャレンジすらできずに市場から去っていく会社も多い。

看板こそ昔のまま、あるいは、看板だけは昔のロゴに戻したりして、実態はどっか別の資本で、看板だけが残っているような話もよく聞く。
少なくともイノベーションに成功した話よりは、よく耳にする。

だから、最近考えているのは、「イノベーションに成功する」事ではなく、「イノベーションの芽を摘まないために何をしてはならないか」っていうこと。
きっと、イノベーションは、起こすものではなく、自然発生的に起きるべくして起きるものなのだ。
ただ、起きないのは、イノベーションを起こさないような、イノベーションを否定するような行動が世の中に溢れているから、なのかも、というように考え始めている。

そもそも、イノベーションはパラドックスなのだ。
中東の長期独裁政治だって、新進気鋭のベンチャー企業だって、始めはイノベーションに満ちていた。
それが、たかだか数年で、そのイノベーションの中心にいた組織や人々がイノベーションを継続できないばかりか、新たなイノベーションを潰す側にまわるのだ。

ノリエガは、今、自分に歯向かってくる若者たちを見て、自分の若かったころを思い出すことはないのだ。

小さい会社、大きい会社、腐敗した官僚、官僚組織、国家、どんなものであれ、イノベーションは起きるときに起き、起きない時には起きない。
これだけ、考え方も方法論も事例も揃っているのに、だ。

自分を振り返ってみてどうか。
人生の中にイノベーションがあったか。そして、それは、起こそうとして起きたのか?
イノベーション的な事はあることはあった。
が、やはり、起こしたとは感じられない。起きた、としか言いようがない。

そうして、この問いは、禅問答になっていく。
出来ることをするしかない。その先に変革が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
来なくても諦めてはならないし、諦めなければ、いつか来るかもしれない。

人生とは歩きつづけること、みたいな話だ。

なんだかなぁ。←阿藤快 風に

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