水曜日, 10月 15, 2008

貧困


今日は予定通り「貧困」について考えてみた。

「貧困」にもいろいろな意味があって、考えが発散しがちだったんだけど、テーマとしての「貧困」は、あくまで「生きるための最低限の欲求すら充足しない状態」なのだろう。食べられなかったり医療が受けられなかったり。

でも、ふと考えたぐらいでは、「貧困って言われても普段は考えないなぁ」(だからテーマになるわけだけど。)と思う。
そもそも、身の回りではみかけない。稀にニュースで観たり、ホームレス風の人を見かけたときに感じる程度。

うーん、そうか?確信があるのか?
ニュースで観たじゃないか、現金が無いためにネット難民にすらなれず日雇いの仕事にありつけなければ生きていけないと嘆く住所不定の若者。友人の住まいに身を寄せブログすら書いている、けど、「食べるのもやっと、病気は致命的」と言い切る若者。
若者はまだニュース価値があるからメディアに露出する機会も多い。
ニュースにもならない、ニュースになるとすれば若者に襲われた時ぐらいの、いつの間にか日本社会に定着してしまったホームレス。
「おにぎりが食べたい」と、生活保護申請が受け付けられずに餓死した人。。。


実は、興味を持てばいくらでも身の回りに貧困は存在するのかもしれない。
さっき通り過ぎたフラフラと歩くホームレスは、もしかしたら一週間も何も口にしていないかもしれない。
ホームレスが大声を上げて貧困を訴えても、「変な人が騒いでいる」と通り過ぎるだけだろう。
飢餓の国のニュースは、「変な人が騒いでいる」と全く同じ捉えられ方をしていないだろうか。
貧困も行き着けば「声にならない=ニュースにもならない」のだ。


でも、貧困の隣人は、隣人が貧困であることに気づくことが出来るはずだ。
その貧困の隣人も、そこそこ貧困であろう。
貧困の隣人の隣人は、貧困の隣人がそこそこ貧困であることを気づいているはずだ。
貧困の隣人の隣人は、一見貧困には見えないかもしれない。
貧困の隣人の隣人の隣に住むのは僕(あなた)かもしれない。

僕(あなた)ができるのは、隣人に興味(愛情)を持つことぐらいだろう。
でも、それが、一見貧困には見えない隣人の心を動かし、そこそこ貧困である隣人の隣人の心を動かし、貧困を少しずつ和らげる行動を起こすことが出来るかもしれない。

今暮らしている環境を受け入れ、周囲に興味=隣人愛を持つことが鍵なのか!?

ということで、なんだかブログ的に書くのはここまで。
後は一人で考えてみよう。

Blog Action Day 2008 Poverty from Blog Action Day on Vimeo.

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