水曜日, 10月 28, 2009

電気自動車と交通事故ゼロ社会

最近なにかと話題の電気自動車。

産業革命以来の革命という言葉も出てきていて、確かに、T型フォード以降定着・熟成してきた産業構造(大メーカーの大量生産)自体に変革をもたらす可能性は高い。

この話、同じような変革を20年前に経験した。
それはパソコンの話。

80年代初めまで、確かにガレージで作られるハンドメイドパソコンも存在していたものの、主流は"巨大コンピューターメーカー"が作るパソコンだった。
メーカーが研究開発しマーケットに送り出す製品は、メーカー間の仕様の違いもあり、ユーザーからすれば「高品質」ではあったが、「高価」「互換性がない」「周辺機器も少なく高額」で、興味があっても購入には躊躇するような製品だった。
高級機種だと、プリンターまで一式200万円(専用デスク込み)とか、そんな時代だった。

80年代を通じて、ジワジワと広がるガレージパソコン、10年ほど経てついに爆発した。
メーカー製であるにも関わらず思い切った低価格で市場を席巻した"コンパックショック"だったり、メーカー間の互換性の壁を打ち破ることになった"DOS/Vショック"だ。

この革命で、研究開発部門まで持つ巨大メーカーは「組み立てメーカー」に変貌、もしくは撤退し、ガレージパソコンの一部は巨大メーカーに(DELLとか)、そしてメーカー傘下でパーツを作っていたはずの台湾を中心とするパーツメーカーが、それぞれ得意分野で旧来メーカーが太刀打ちできない高い技術と素早い製品化で業界を席巻した。

そして電気自動車。
間違いなく、パソコンの歩んだ道を電気自動車業界も歩もうとしている。

パソコンの革命のキーとなった出来事を思い返してみる。
・価格
・品質
・互換性(周辺機器)
・互換性(ソフトウェア)
もう少し考えるてみると。。。
・将来性

そう。理屈だけじゃなく一人一人がイメージする「将来性」がマーケットを引っ張ったのだと思う。

その将来性、具体的には、
・生活を豊かにする
・使いこなすことはクール
・みんなが使うようになる
・楽しい
・どんどん使いやすくなる
・使わないと取り残される(出世できない!?)

辺りか。

これを電気自動車と比較してみる。

●価格→中国やインドでは既存の技術で安価な電気自動車が作られ販売され始めた。
 80年代のパソコンの場合、「輸入」というパスがあり、オタク達が台湾製パソコンなんかを使い始めたものの、日本語環境に対応していなかったりで環境が整うまではブレークしなかった。
 仮に、この安価な電気自動車を輸入したとしても、道交法などの制約で国内で使用できる環境とは言い難い。

●品質→従来の自動車の車体は金属だったが、熱を発しない電気自動車は強化プラスチックなどで作られる。ということは、安全に関する旧来の品質基準では未だ解らないことも多い。
 パソコンの世界でもDOS/Vパソコンなどで「メーカー保証」が「自己責任」に変化するのに戸惑った時期があった。特に企業などでは、そのソフトの動作を誰が担保するのか、が、議論された。

●互換性(周辺機器)→要するにパーツの流用性のことになるのかな。どの車に乗っていても、どこのガソリンスタンドでも給油できるように、バッテリーの交換がガソリンスタンドで簡単にできるとか、そういう事。(バッテリー交換ステーションと呼ぶらしい)
 旧来の自動車では、そう頻繁にパーツを取り替える、という概念がなかったが、電気自動車ではどうなんだろう。バッテリーだけ考えても、長距離用のバッテリー、普段使い用の軽いバッテリー、ジムカーナ?などモータースポーツ用のモーター、パーツがシンプルで多少の知識があれば組み上げられるという事は、交換用のパーツがよりどりみどりの電気自動車があればパソコンのように「趣味は電気自動車の改造です」というマーケットも大きなものになりそうな気がします。
 中国製のベースに、イタリア製のボディ、日本製のモーターに、アメリカ製のバッテリーとか、、、、ボディも変えられるとしたら、これは楽しいし、買い換えも今に比べれば相当エコ(マダマシレベル)です。

●互換性(ソフト)→これはきっと、充電ステーションやバッテリー交換を軸にした社会インフラなんだろうなぁ。パソコンが標準化によって互換性を高め、一気にマーケットを拡大したように、やはり、標準化ありきだよな。どの車に乗っていてもガソリンスタンドは選ばなくていいように充電ステーションが手軽にどこでも使えるようにならなければいけませんねぇ。ここに注目してバッテリーステーション(バッテリーのリース提供と短時間充電済みバッテリー交換サービス)を普及させようとしているベンチャーのニュースもあった。

※バッテリー交換ステーション、↑に取り組んでる会社の社長はIT系出身(元SAP)の社長。。。

●そして、「将来性」。
これは言うまでもなく、今、爆発待ちの状態。
パソコンの普及が、後のインターネット普及の必要条件となったように、電気自動車の普及は、その後の○○○普及の必要条件となるのだろう。

今は夢物語でしかない、「自動車事故ゼロ社会」なんかも、(制御しやすい)電気モーターで動く、軽い、ということは、外部からのコントロールも考えやすいわけで、ロボットのサッカーのように、交差点では運転者の意思に関わらず危険を回避し停止する仕組みや、高速での自動運転レーンとかも、数十年後には現実味を帯びてくるでしょう。
この辺りは、妄想欲をくすぐられるので、また、別途、妄想してみたいと思います。


●楽しい未来
それにしても、自動車事故が過去の歴史として語られるようになるとしたら、凄い。たとえは悪いが、毎年、日本国内の自動車事故死亡者数は911テロの被害者数を超えるのだ。現在の自動車社会モデルはそんな負の側面、毎年一定の犠牲者を避けられない側面、、を抱えたまま突っ走っているのだ。

T型フォードをきっかけに、今の自動車社会モデルを作ったアメリカ。電気自動車による社会モデルをどこの国が創り上げていくのか、自動車事故ゼロ社会を最初に実現する国はどこになるのだろう。。。


こんなDVDがありました。電気自動車を潰した業界裏話(実話)。トムハンクスなんかが出演。GMが路面電車会社を買収して路面電車を撤去したとか、が描かれているらしい。
うーん。確かに、わけのわからない(経営者が理解できない)新技術に投資するよりも、そのお金で新技術を潰した方が短期的・株主的には良い経営なのだろう。
が、この一件でも、アメリカの社会モデルは終わりを告げつつあることが感じられてなりません。

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